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「漁夫の利の意味とは?」「漁夫の利の由来とは?」「漁夫の利の使い方が知りたい!」わかりやすく解説!

漁夫の利って何て読むの?

漁夫の利の意味とは?

漁夫の利の使い方が知りたい!

 

このページをご覧の皆さんはそのようなことをお考えかもしれません。

漁夫の利とは、「ぎょふのり」とよみます。

意味は

両者が争っているのにつけ込んで、第三者が利益を横取りすることのたとえ。

出典:漁夫の利とは - コトバンク

です。

漁夫の利の由来となったのは『戦国策』という本に書かれている物語でした。

今回は漁夫の利の意味や由来、使い方などについてわかりやすく解説します。

 

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漁夫の利の由来 

「漁夫の利」の時代の中国

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戦国の七雄

古代の中国は周という国でした。

周の力が弱まると各地を支配していた有力者が王を名乗ります。

あちこちで戦いが起き、小さな国は大きな国に飲み込まれ、最終的に7つの国が成立。

これを、戦国の七雄といいます。

 

7つの国は互いに争っていましたが、時に手を結び、時に戦うなど流動的な関係でした。

時代が進むにしたがって、七つの国のうち秦が強大になります。

他の六国は秦の様子を伺いつつ、互いに戦いあって領土を取り合うようになります。

 

秦について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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漁夫の利の時代、秦の次に強い国は趙でした。

趙は秦に対抗するためにより弱い燕を攻めようとしていました。

なんとか趙の攻撃を避けたい燕は蘇代という人物を送り込みます。

 

蘇代のミッションは趙の攻撃を中止させるというとても困難なものでした。

果たして、彼はどうやって趙の王である恵文王を説得したのでしょうか。

 

漁夫の利のあらすじと書き下し文

恵文王は蘇代の目的を正確に見抜いています。

と同時に、説得を断り燕に攻め込む気満々でした。

 

正面から和平を求めても応じない。

蘇代もこのことを理解しています。

そこで、彼はある物語を話し始めました。

蘇代、燕の爲に惠王に謂ひて曰はく、
「今者臣來りて(国境の)易水を過ぐ。
蚌(貝)正に出でて曝す。
而して鷸(鳥)其の肉に啄む。
蚌合して其の喙を箝む。
鷸曰はく、
『今日雨ふらず、明日雨ふらずんば、即ち死蚌有らん』と。
蚌も亦鷸に謂ひて曰はく、
『今日出ださず、明日出ださずんば、即ち死鷸有らん』と。
両者相舎つるを肯ぜず。
漁者得て之を并せ擒らふ。

蘇代は、恵文王に自分が見てきた話として次のように言うのです。

 

私が国境の川を渡った時にみたものです。

川沿いで貝が大きく口を開けていると、その肉を食べようと鳥がくちばしを突っ込みます。

食べられたくない貝は口を閉ざしてしまいました。

 

鳥「今日雨が降らないで、明日も降らなければお前は干からびて死んでしまうぞ」

貝「俺が今日くちばしを離さず、明日もくちばしをはなさなければ、食べ物を食べられず、お前は死んでしまうぞ」

 

互いに全く譲りません。

そこに通りかかった漁師が「これはいい。二つとも捕まえよう」と両方をとらえてしまいました。

 

そして、蘇代は続けます。

今まさに、趙は燕に攻め込もうとしています。燕と趙が争えば民は疲弊し、国力が落ちるでしょう。

すると強国の秦が漁師のように趙と燕を滅ぼしてしまうかもしれません。そのことをよくお考え下さい。

 

趙の恵文王は「わかった」といって、燕を攻めるのをやめたといいます。 

 

なぜ、恵文王は遠征を中止したのか?

恵文王は蘇代の言いたいことを即座に理解したのでしょう。

 

とかく、争っている両者は周りのことが見えなくなりがちです。

目の前にある争いに勝つことだけを考えてしまいがちなのです。

しかし、引いた視点で見てみると争いの最中にほかのだれかに利益を独占されることもあるでしょう。

 

目の前の争いにこだわるのは何も王たちだけではありません。私たち一般人も同じです。

そんな時に、「ちょっとまてよ。こんなに争って果たして利益があるかな」と踏みとどまることはとても大事なことです。

 

もちろん、倫理的に争いはよくないと判断し戦わないというのが良いのでしょうけれど、人はそこまで達観した生き物ではないと思います。

自分の利害がかかわると我を忘れてしまいがちです。

 

かつて、フランスとドイツは領土をめぐってたびたび争いました。

互いの首都を占領しあうような激しい戦争も経験しました。

ところが、現在の両国は経済的にも強い結びつきを持っており、正面切って軍事力で争うようなことはなくなりました。

アメリカというより強大な「漁師」に漁夫の利を占められてはかなわないからでしょう。

 

ビジネスの用語でいう「WIN-WIN」の関係をつくることで、争いは止み、第三者に漁夫の利を占められることを避けられるのではないでしょうか。

蘇代の説得法

漢文で、誰かが何かのたとえ話をしているときは大抵、相手を説得しようとしているときです。

当時の説得は命がけ。失敗すれば命はありませんでした。

 

戦う気満々の恵文王に「争いは悪いことだから止めよう」といっても聞く耳を持たなかったでしょう。

だから、関係のなさそうな「漁夫の利」のたとえ話で説得を試みたのです。

 

王の目の前で王の行動や政策を否定するというリスクを回避するためにたとえ話を用いたのです。

「直接言っても聞かないなぁ」という相手に対して、違う角度から説得を試みるのは現代でも有効ではないでしょうか。

 

古代中国のことわざ、故事成語などに興味がある方はこちらの記事もどうぞ!

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漁夫の利の使い方

漁夫の利は、争う二人と得する一人という構図で成り立っています。

しかも、話の元ネタが外交なので、国同士の対立などによく使われます。

 

例文1

「インドとパキスタンが争っていたので、中国が漁夫の利を占めた」

 

外交以外では、こういう使い方もできます。

 

例文2

「ボクと兄がお菓子を取り合ってけんかしている間に、妹がお菓子を食べた。ボクと兄は妹に漁夫の利を得られてしまった」

例文3

「A社とB社が価格競争をしているうちにC社が同じ分野の新製品を開発。シェアを一気に伸ばし漁夫の利を得た」

 

 目先の争いに目を奪われ、より大きな利益を取られないよう注意しましょう。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

清少納言の教養の高さが際立つ『枕草子』「雪のいと高う降りたるを(香炉峰の雪)」とは?わかりやすく解説!

 

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枕草子』ってどんな内容?

教科書に出てくる「雪のいと高う降りたるを」ってどんな話?

香炉峰の雪の読み方は?

 

このページをご覧になった方は、そんな疑問を持っているかもしれません。「香炉峰の雪」は「こうろほうのゆき」と読みます。この文章は、清少納言の随筆『枕草子』の一節です。宮中で中宮定子の女房として仕えていた清少納言が宮廷での出来事をまとめたのが『枕草子』でした。

 

なかでも「香炉峰の雪」は中宮定子と清少納言の深い結びつきや、この二人ならではのやり取りが記された部分です。今回は、「香炉峰の雪」についてわかりやすく解説します。

 

なお、清少納言や古典の関連記事はこちらです。興味がありましたら、ぜひご覧ください!

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「雪のいと高う降りたるを」の登場人物紹介

中宮定子(ていし・さだこ)

中宮とは天皇の后の称号の一つで、皇后とほぼ同格です。定子一条天皇中宮でした。当時、一条天皇には藤原道隆の娘である中宮定子と藤原道長の娘である中宮彰子(しょうし)の2人が藤原氏から嫁いでいました。

 

定子と彰子、どちらに一条天皇の子供が生まれるかは彼女らの父である道隆・道長の将来を決定する重要事項。そのため、彼らはそばに仕える女房として優秀な女性を送り込み、定子・彰子をバックアップさせました

 

定子は非常に聡明で、日本語も漢文もどちらも優秀だったといいます。その理由は、母親が和歌や漢文に通じた女性だったからでした。しかも、非常に明るい性格の女性だったといわれます。一条天皇との仲も良好だったようです。

 

女房 清少納言

有名な歌人だった清原元輔の娘。清原家の娘なので「清」がつきます。少納言の由来は不明です。加えて、彼女の本名もわかっていません。ペンネーム清少納言さんという感じなのでしょう。

 

981年に陸奥守の橘則光と結婚し、子供を生みますが間もなく離婚。『枕草子』の内容からわかるように非常に博学な才女でした。定子に仕えていたころ、非常にもてたようで多くの和歌のやり取りが残されています。

 

定子がなくなったあとは宮中を退き、再婚相手のもとで暮らしたといいます。『枕草子』を書いたのは彼女が宮中を去ってからでした。

斬新な視点で描く清少納言のフィクションです。

ちょっと変わった清少納言の物語を読みたい方におすすめです。

 

「雪のいと高う降りたるを(香炉峰の雪)」あらすじ

敬語をややショートカットしつつ、あらすじだけを抜き出してみましょう。

 

ある、雪がたくさん降った朝。いつもと違い御格子(木で組んだ枠。窓ガラスの役割を果たしました)を下げて、火鉢に火を起こして(ストーブがないので、温まるための唯一の道具、これは寒かったでしょうね)、女房同士でいろいろな話をしていると。

 

定子「少納言よ。香炉峰の雪はどうなっているのでしょう」とお尋ねになりました。

 

清少納言は何も言わず、御格子を上げさせ(窓を開けさせる感じ)、御簾(カーテンのようなもの。偉い人は、カーテンに囲まれて過ごし、簡単には姿を現しませんでした。)を高く上げさせました。

 

すると中宮定子はお笑いになりました。

 

周りの女房達は「香炉峰の雪のことは知っていますし、和歌を詠むときの題材に使うことはありますが、(御簾をあげさせようとは)思いもよりませんでした。清少納言さん、あなたはさすがに中宮様にお仕えするだけありますね。」といったという。

香炉峰の雪」は当時の宮廷人の常識

平安時代の宮廷につかえる人はとても高い教養を求められました。

 

和歌を詠むための基本知識、過去の和歌集の名言、有名な漢文などは知っていて当たり前だったのです。ですから、その場にいた女房達も香炉峰の雪」が白居易の詩の一部であることはわかっていたのです。しかし、定子がなぜ、「香炉峰の雪、いかならむ」といったかまではすぐにわかりませんでした。

 

清少納言は、「これはいかに」などと問い返すようなことはせず、黙って御簾を上げます。清少納言は、漢詩の一節が「香炉峰の雪は簾(すだれ)を上げてみる」とあることから、定子が「雪が見たいから、すだれを上げて頂戴」と言ったのだと解釈して行動に移したのです。

 

香炉峰の雪については女房ならば知っていて当たり前の基礎知識。しかし、その基礎知識をすぐに応用して行動に移すのはなかなかできることではありません。この話を単なる清少納言の自慢話ととらえるのはちょっともったいない気がします。

 

だからこそ、女房たちは

さることは知り、歌などにさへ歌へど、思いこそ寄らざりつれ。

なほ、この宮の人には、さべきなめり。

清少納言を教養深い中宮定子の女房としてしかるべき人物だとほめたたえたのです。

 

香炉峰の雪は簾(すだれ)をかかげて見る」は白居易漢詩

香炉峰の雪」は白居易が読んだ漢詩の一節です。白居易漢詩をまとめた『白氏文集(はくしもんじゅう)』は平安貴族にとって必須の教養となっていました。

遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだて)て聞き、

香炉峰の雪は簾をかかげて見る

(遺愛寺の鐘は枕を傾けて聞き、香炉峰の雪は簾をはねあげて眺める)

引用:『白氏文集』

遺愛寺とは、中国南部の江州(江西省九江市)にある寺で、香炉峰は遺愛寺がある山のことでした。左遷された白居易が知人のいない地方の山奥で自分を見つめなおしながら読んだ漢詩です。

まとめ

明鏡国語辞典では教養を次のように定義しています。

学問や知識を身につけることによって得られる心の豊かさや物事への理解力。また、社会人として必要な文化に関する広い知識。カルチャー

誰かとコミュニケーションをとるとき、相手が理解しやすいように話すには教養が必要不可欠です。相手にとって身近なものに例えたり、表現を工夫する必要があるからです。多くの教養を身に着けている人は、話の引き出しが多いです。

 

ただ単に知識ばかりが多くても意味はありません。知っている知識をいかに多く活用するかが大事なのです。

 

中学校までに習う知識は、実社会でも使うものが多いのです。たとえば、天気。季節風の方向や地形を頭に入れることで局地的な天気を予想することができます。冬・日本海側・北西に山がなく開け地形。この条件がそろえば、雪の多い地域となります。

 

東海地方でも中央高地に雪を阻まれる静岡県と北西方向に高い山が少なく、強い季節風が吹けば雪が舞う名古屋周辺ではおのずと生活スタイルも異なるでしょう。

 

清少納言の「雪のいと高う降りたるを」は、彼女の自慢話というよりも教養の引き出しを持つことの大事さを物語っているのではないでしょうか

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

「毛利元就ってどんな人?」「国人領主の毛利元就はどうやって下剋上した?」わかりやすく解説!

毛利元就ってどんな人?

国人領主の元就はどうやって下剋上したの?

 

このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。

毛利元就は中国地方の安芸国広島県)の国人領主でした。

国人領主に過ぎなかった毛利元就は、尼子氏や大内氏のはざまで苦悩します。

しかし、婚姻政策や周辺の国人領主たちとの連携、巧みな外交で次第に勢力を拡大し、尼子・大内の二大勢力を凌ぐ力を手にしました。

 

今日は毛利元就が、いかにして「下請け」状態を脱して安芸一国、ひいては中国地方の覇者に上り詰めたかを紹介します。

 

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安芸の国人領主毛利元就

安芸国は現在の広島県のことで、毛利家は広島県中部の吉田郡山城を本拠地とする国人領主でした。

そのころ中国地方では山陽を支配する大内氏と山陰を支配する尼子氏がしのぎを削っていました。

安芸国は両勢力がぶつかり合う激戦地。

そのため、毛利氏もあるときは大内方に、またある時は尼子方にと時と場合によって従う相手をかえつつ生き残ってきました。

 

大内氏も、尼子氏も、相手と戦うときには安芸国国人領主に出兵を命じます。

どちらの側に建とうと、毛利からすれば「手伝い戦」つまり、下請けなのです。

勝ったところで、多少の領地の増減はあれども顎で使われることに変わりはなかったのですから。

 

当時の尼子家当主は謀将として名高い尼子経久

彼は、幼少の当主が亡くなり混乱する毛利家で当主の叔父である元就が跡を継ぐことを阻もうとします。

元就の知略を恐れたのでしょうか。

しかし、この妨害工作は失敗し、かえって元就を尼子から大内へと鞍替えさせてしまうのです。

国人について知りたい方はこちらの記事もどうぞ! 

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成長する毛利家

このままでは、いつまでたっても大勢力の下請けから抜け出せない。

そう考えた元就は安芸国を統一して自立するチャンスをうかがいます。

 

例えば、次男の元春を吉川家に、三男の隆元を小早川家に、それぞれ養子に出して毛利家と縁続きにしました。

また、熊谷家・宍戸家といった有力な国人とも連携し着実に勢力を拡大します。

ちなみに、元就が3人の子供たちに与えた教訓が三本の矢の教訓です。

山陰を抑える吉川元春、山陽を抑える小早川隆景、毛利本家を継ぐ毛利隆元の3人に一致団結して家を守るよう伝えた教えですね。

 

元就の勢力拡大を尼子が見過ごすはずはありません。

3万もの大軍を派遣して、毛利氏の本拠地吉田郡山城を攻め立てます。

しかし、元就は大内氏の援軍を得てこれを撃退。

その後、安芸最大のライバルである武田氏を大内氏とともに滅ぼし、安芸での優位を確立していきました。

月山富田城攻防戦

1542年、大内義隆は尼子家との雌雄を決するため、尼子氏の本拠である出雲国月山富田城を攻めました。

大内氏の要請により元就も出陣します。

ところが、尼子氏は大内氏をあえて本拠地である出雲まで引き付け、伸びきった大内の補給線を寸断。

そのうえで、吉川興経を寝返らせて大内方を散々に打ち破ります。

 

この戦いで元就は、大内氏の言いなりでは以前と何も変わらないと考えたのでしょう。

また、この戦いの後、石見銀山を尼子氏に奪い返された大内氏は以前の勢いを失いつつありました。

再び尼子氏が勢力を拡大する前に、大内氏から独立するチャンスが訪れたのです。

お家騒動で衰退する大内氏

月山富田城攻防戦で敗北した大内義隆は戦いや政治よりも文化に強い関心を示しました。

これを苦い顔で見つめる男がいます。

大内氏の大番頭、陶晴賢です。

あたかも、新規事業の失敗でやる気をなくした若社長を重役筆頭の専務がやきもきしながら見守っているという感じでしょうか。

 

文化に傾倒する義隆は相良武任らを重用。

反対に陶晴賢らは排除されます。我慢の限界に達した陶らは主君義隆を殺害。大友氏から迎えた大内義長を主君としました。

 

一方元就はこの混乱に乗じて安芸にあった大内方の拠点を手に入れさらに支配力を増していました。

全権を掌握した陶晴賢は元就に対して安芸の支配権返上を要求。

これを拒否したことから両者の対立は決定的となりました。

厳島の戦い

国内を安定させ、反対派を黙らせてから陶晴賢は本格的な毛利討伐を考えます。

一方の毛利元就は瀬戸内海の要衝、厳島神社を拠点に陶軍を迎え撃とうとします。

 

ついに、陶晴賢は2万とも3万ともいわれる大軍を動かし、毛利元就の討伐を図ります。

元就は厳島を死守する構えを見せ陶軍と必死の戦いを繰り広げます。

実は、この姿勢こそが陶晴賢をおびき寄せる罠でした。

 

陶軍はなかなか落ちない厳島の宮尾城を一気に攻め落とすべく全軍を厳島に上陸させんす。

これが、元就が狙っていた瞬間でした。

いかに大軍でも狭い厳島では身動きがとりにくく数の有利を活かせません。

4~5千たらずの兵しか動員できない元就としては厳島での決戦にかけるしかありませんでした。 

 

その日の厳島周辺は悪天候

籠城するとばかり思っていた陶軍は油断していたのかもしれません。

警備の手薄な厳島神社の裏手から侵入した毛利軍は陶軍を奇襲。

混乱のさなかに総大将陶晴賢を討ち取りました。

 

毛利の勝因

資金力・人材で圧倒的有利な大企業にとって価格競争はお手の物。

生産効率を上げて安く大量に作られた品物に対して、多くの中小企業は太刀打ちすることすらできません。

 

しかし、中小企業が自分の強みを生かした商品を独自に生産し、しかも、大量生産しにくいものであったとき、大企業の有利は生かせません。

元就の凄さは自分の有利な土俵に陶晴賢を引きずり込んだことにあるでしょう。

 

毛利元就の場合はその他大勢といってもよい国人領主から安芸一国、ひいては中国地方の覇者に昇りつめました。

大国の手伝い戦から脱するために彼は自分の存在価値を高め、大内・尼子と有利な取引を実現します。

自分だけの優位、中小企業ならば自社だけの強みを持つと大国・大企業に左右されなくなります。

 

元就の場合はそれにとどまらず、かつての大国である大内や尼子を飲み込んでしまいました。

そこまで行けないにしても、いつまでも「手伝い戦」で満足していると消耗してしまうと気づいた彼の行動は今の世界でも十分参考になると思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

芸術家?サイコパス? 『宇治拾遺物語』に描かれた狂気の絵師「絵仏師良秀」とは!?

絵仏師良秀ってどんな話?

主人公の良秀はどんな人?

宇治拾遺物語』って何?

芥川龍之介の『地獄変』との違いは?

 

このページをご覧の皆さんは、そのような疑問を持っているかもしれません。

 

絵仏師良秀(りょうしゅう)」は、鎌倉時代初期の13世紀前半に成立した説話物語集の中に収録されているお話です。

 

この物語に登場する良秀は、仏の絵を描く「絵仏師」です。

自分の家が火事で焼け、妻子がまだ家の中にいるのに、その有様を見て笑う「あさましき」絵師の物語です。

 

良秀は、なぜ、自分の家が焼け妻子が犠牲になろうとしているのに助けもせず、しかも、笑いながら家が燃える様子を見ていたのでしょうか。

そこには、芸術のためにすべてを差し出しても悔いることのない狂気がありました。

 

今回は、「絵仏師良秀」の内容や、主人公「良秀」のキャラクター、この話が収められた『宇治拾遺物語』、芥川龍之介の『地獄変』などについて解説します。 

 

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「絵仏師良秀」のあらすじ 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Fud%C5%8D_My%C5%8D%C5%8D.jpg


昔々、絵仏師良秀という人物がいました。

隣の家が出火し、風にのった火が自分の家に降りかかってきたので、大通りに逃げ出します。

 

家にはまだ、書きかけの作品や妻子が取り残されていました。

それなのに、良秀は自分が逃げ延びたのを幸いに萌えるわが家の前突っ立っています。

 

人々は「大変なことだ」と良秀を見舞いますが、良秀は何も答えません。

そればかりか、焼ける我が家を見ながら時々笑っていたといいます。

 

良秀は「ああ、なんと得をしたことだ。いままで、悪く書いていたものだ」といいます。

 

まわりの人間は良秀に「なぜこんな(妻子を救おうともせず)立ち尽くしているのだ。驚き呆れたことだ。物の怪でもとりついたのか」といいました。

 

すると、良秀は

「なぜ、物の怪などが取り付いている。そんなものはとりついていない。

今まで、不動明王の炎を悪く書いていたのだ。

今、(自分の家の火災を)見てみると、(物が燃えるというのは)こういうことなのだと納得した。

これがわかったことこそもうけものだ。

絵の世界で生きていくなら、仏様さえ上手に描くことができれば100軒でも1000軒でも家を建てることができる

お前たちは能がないから、家が焼ける程度のことで大騒ぎするのだ。」

といいました。

 

そののち、良秀が書いた不動明王は「よぢり不動」とよばれ、今に至るまで人々に愛でられている。

 

「絵仏師良秀」の人物像 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/487070">しばいぬだいすき</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

良秀を理解するためには、彼が生きた時代の芸術について知る必要があります。

良秀が生きた時代は芸術といえば神仏に関わるものでした。

実際の歴史でいうと、鎌倉時代まで、芸術は寺社の中で花開きます。

 

良秀が、「この世界で生きていくなら、仏様さえ上手に書けばよい」と言い切っているのは、芸術にお金を出すのが寺社であり、彼らの要求を満たせば仕事に困ることがないからです。

 

良秀が火事の後に描いたのは「よぢり不動」とよばれる不動明王です。

不動明王は仏教を守る仏の一人で、剣や縄を持って仏敵に立ち向かう姿で描かれます。

不動明王は炎に包まれた姿で描かれるのが通例でした。

 

良秀は火災から逃れた後で、炎を間近に見ることで炎の描き方を悟ったのでしょう。

そのためには、家が燃えても妻子が取り残されて焼かれようとも構わなかったわけです。

 

現代風に言えば「サイコパス」となるのかもしれませんね。

ただ、それだけ芸術に関するこだわりが強かったことを示しています。

その意味では規格外の人物であり、まさに「あさましき」絵師だったのでしょう。

 

ちなみに、古語では「あさまし」は良い意味にも使われます。良秀は、良くも悪くも「あさまし」だったと思います。 

 

 「絵仏師良秀」が治められている『宇治拾遺物語』とは!? 

宇治拾遺物語』は13世紀に成立した説話文学で、『今昔物語』とならぶ傑作とされます。

遠い外国の出来事や身の回りの出来事などを題材としています。

 

宇治拾遺物語』の冒頭では、『宇治大納言物語』をもとに、後世の人が手を加えて成立したと書かれていますが、実際のところ定かではありません。

 

宇治拾遺物語』の物語は2種類(分け方によっては3種類)に大別できます。

 

一つ目は仏教説話

釈迦の伝記や僧侶たちの行状を題材とし、仏教の教えを語るもので仏門に入る発心や往生などについて物語が多いです。

 

二つ目は世俗説話

一般庶民や貴族社会に語り広められた珍しい話題を、その場に居合わせた人が目撃談として語るものです。

「絵仏師良秀」は、まさに世俗説話の典型ですね。

世俗説話から民間伝承を分離すれば、三つ目の区分ができます。

わらしべ長者」や「雀の恩返し」は民間伝承に入ります。

 

「絵仏師良秀」に触発された芥川龍之介の『地獄変 

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1918年、大正時代に活躍した作家の芥川龍之介は『地獄変』という短編小説を発表します。

芥川は「絵仏師良秀」をもとに独自の話を創作します。

地獄変』は『大阪毎日新聞』や『東京日日新聞』に連載されました。

 

地獄変』は時代設定を平安時代とし、主人公の絵仏師良秀を醜悪な猿のような容姿の人物としました。

そして、良秀は恥知らずの高慢な性格だと設定されます。

 

良秀には美しく性格の良い娘がいました。

貴族(堀川の大殿)の屋敷に奉公に出ていましたが、良秀はこれを快く思わず、しきりに、娘を返してくれと堀川の大殿に言上します。

 

ある時、堀川の大殿は良秀に「地獄変」の絵を描くよう命じます。

地獄変」とは地獄を描いた絵のことです。

実際に見たことがない絵は描けないと良秀は頭を悩ませました。

 

良秀は絵を完成させるため、弟子を鎖で縛り上げ、ミミズクに弟子を襲わせるなど地獄の様子を再現させるなどして絵をおおむね完成させます。

 

最後の仕上げの段階で、牛車にのった女が炎に包まれ死ぬ様子を描きたいと考えた良秀は堀川の大殿に、その様子を見たいと訴えました。

 

堀川の大殿が用意したのは良秀の娘でした。

良秀の娘は縛られ、牛車に入れられ焼かれてしまいます。

その様子を見た良秀はただただ娘が焼かれる様子を眺めました

 

その後、良秀は「地獄変」の絵を書き上げ堀川の大殿に献上しますが、献上の翌日に自殺してしまいます。

 

宇治拾遺物語』とはだいぶ異なりますが、共通しているのは芸術のためには何でも犠牲にするという芸術至上の精神ではないでしょうか。 

さいごに 

「絵仏師良秀」は鎌倉時代初期に書かれた『宇治拾遺物語』に収録されている説話の一つです。

自分の家が燃え、妻子が焼かれていても動じることなく、炎の描き方を会得して悦にいる姿はまさに狂気の絵師です。

この作品に魅力を感じて書かれたのが芥川龍之介の『地獄変』でした。

両作品とも短編ですので、ぜひ、読んで比較してみてはいかがでしょうか。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 

 

「人間万事塞翁が馬ってどう読むの?」「塞翁が馬の由来やエピソードは?」「山中教授と塞翁が馬の関連は?」わかりやすく解説!

人間万事塞翁が馬って何て読むの?どんな意味?

人間万事塞翁が馬の由来やエピソードとは?

山中教授と人間万事塞翁が馬の関連とは?

 

このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。

人間万事塞翁が馬とは、『淮南子』という本に記された中国の故事です。

この言葉の意味は、

一見、不運に思えたことが幸運につながったり、その逆だったりすることのたとえ。幸運か不運かは容易に判断しがたい、ということ。

出典:『淮南子

引用:人間万事塞翁が馬とは - コトバンク

 

2012年にノーベル生理学賞を受賞した京都大学山中伸弥教授は、著書『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』の中で、この「人間万事塞翁が馬」を自分が好きな言葉として紹介しています。

 

今回は「人間万事塞翁が馬」の読み方や意味、由来、エピソード、山中教授や芦田愛菜さんのお話についてまとめます。

 

 

人間万事塞翁が馬」の読み方

人間万事塞翁が馬」は次の二通りの読み方がよく知られています。

①「にんげんばんじさいおうがうま

②「じんかんばんじさいおうがうま

 

二通りの読みがあるのは、「にんげん」と「じんかん」に意味の違いがあるからです。

「にんげん」は、人そのものを指す言葉。

「じんかん」は、世間・世の中を指す言葉です。

 

現在は、人間の人生において何が起きるかわからないという意味から「にんげんばんじさいおうがうま」の読みを採用することが多いようです。

故事の内容から考えると、人の一生で何が起きるかわからないという内容の方がしっくりくるからでしょう。

ただ、「じんかん」と読んで世の中は何が起きるかわからないと読み解いても意味は通じます。

だから、二通りの読みがあるのではないでしょうか。

 

ちなみに、今回の記事を書くため引用した『精選版 日本国語大辞典』では、「にんげん」を採用しています。 

人間万事塞翁が馬」の由来

淮南子』とは

淮南子』は前漢武帝の時代に、地方領主の一人だった淮南王劉安が学者たちに命じて編纂させた思想書です。

淮南子』は「えなんじ」と読みます。

 

淮南子』に収録された話は、道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家などの思想にもとづく話が書かれています。

人間万事塞翁が馬」もそうした話の一つで、「人間訓」という項目の一つとして収録されました。

人間万事塞翁が馬」の故事の内容

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万里の長城の一部「嘉峪関(かよくかん)」

引用:嘉峪関 - Wikipedia

 

昔々、中国の北の端、遊牧民との国境沿いに老人が住んでいました。

砦(塞)の近くに住んでいたことから「塞翁」と呼ばれていました。

 

ある時、塞翁が飼っていた馬のうち一頭が牧場から逃げ出しました。

人々は「災難だったね。」と慰めると塞翁は「いや、これがどんな良いことにつながるわからないよ」といいました。

 

しばらくして、逃げた馬は北の草原から大勢の優秀な仲間を引き連れて帰ってきました。

周囲の人は「すごいラッキーだね!」と口々に言いましたが、塞翁は「いや、これがどんな悪いことにつながるかわからない」といいました。

 

しばらくして、塞翁の息子が連れてきた馬にまたがったところ落馬してしまい大けがを負いました。

塞翁はこれも良いことにつながるかもしれないと周囲に言いました。

 

それから間もなく、突如として遊牧民が国境を越えて攻め込んできました。

塞翁の集落の人々も兵士として動員されましたがほとんどが戦死してしまいました。

塞翁の息子はケガをしていたので徴兵を免れ生き残ることができました。

人生は吉凶・禍福が予測できない。これが塞翁が馬の教訓でした。

「塞翁が馬」の背景にあった中国と遊牧民の関り

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中国大陸の北方には遊牧民たちがいて、彼らは馬に乗ることが巧みで戦いが上手でした。

騎馬軍団のスピードは歩兵とは段違い。数では中国軍が優勢でもスピードに勝る遊牧民に勝つのは至難の業でした。

 

キングダムで有名な秦の始皇帝

彼は、遊牧民とたびたび戦うだけではなく彼らが中国に攻め込めないよう、壁を作ることにしました。

それが万里の長城です。

 

あれだけ長大な建造物を作ったのは、それだけ中国にとって遊牧民族の攻撃が脅威だったからです。

実際、遼や金、元、清といった遊牧民・半遊牧民が長城を越えて中国を支配することもありました。

それだけ、遊牧民は強力だったのです。

 

芦田愛菜さんが紹介!山中教授と「人生万事塞翁が馬」の関りとは?

2017年5月22日、TBS系列で放送された「一番だけが知っている」の中で、芦田愛菜さんが最も感動した本を紹介していました。

彼女は読書家としても知られています。

2019年に彼女が出した『まなの本棚』は、読書の手引きとしてとても面白かったです。

彼女の読書愛やお勧めの本などが掲載されており、読書感想文で困っている小中学生がいたらお勧めしたいなと思いました。

さて、その彼女が最も感動した本として紹介したのは山中伸弥教授の自伝『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』です。

このなかで、山中教授は人間万事塞翁が馬の故事を引用し、簡単なあらすじを紹介しながら、自分の研修医時代のエピソードを語っています。

医学部卒業後、山中教授は研修として働き始めます。

その病院は最新設備が整っており、良い施設で研修できると喜びました。

しかし、そこで彼を待っていたのは過酷な研修医生活でした。

研修医時代、山中教授は指導医から「ジャマナカ」とよばれました。

手術に時間がかかり、手術の邪魔ばかりするという意味でつけられたあだ名です。

研修の2年間、彼は本名を呼ばれず「ジャマナカ」といわれ続けました。

整形外科の臨床医として壁にぶつかったことで彼は研究者の道に進むことができたと語っています。

もし、彼が壁にぶち当たっていなかったら、ノーベル賞を取る研究者になっていなかったでしょう。

人生何が起きるかわからないという良い例かもしれません。

 

さいごに

これは、自分自身の人生を考えてみても当てはまるように思います。

例えば仕事をやめて転職した時。辞めるときは「これからどうしよう」と不安になりますが、新しい仕事との出会いで価値観が大きく変わり視野が広がることもあるでしょう。

ちょっとしたことで小金を手にし、そのお金を人に貸してしまうことで人間関係にひびが入ったこともありました。

まさに、人生はどうなるかわからないものです。

良いことが起こっても舞い上がらず、悪いことが起こっても落ち込みすぎない。

なかなか難しいですが、心したいものです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

「世界恐慌って何?」「世界恐慌の背景や原因は?」「その後の世界はどうなったの?」わかりやすく解説!

世界恐慌って何?

世界恐慌の背景や原因とは?

世界恐慌後、世界はどうなったの?

 

このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。

世界恐慌とは、アメリカでの株価大暴落をきっかけにおきた世界規模の不況のことです。

影響はアメリカにとどまらず、ヨーロッパ、そして日本にも大きな爪痕を残しました。

 

世界恐慌に対応するため、アメリカは大規模な工業事業を連発するニューディール政策を発動しました。

また、イギリスやフランスは自国の植民地から他国の製品を締め出し、自国企業を守るブロック経済を展開します。

 

その一方、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツや植民地が英米に比べて小さい日本・イタリアではファシズムが台頭しました。

 

今回は世界恐慌とは何か、世界恐慌の原因、世界恐慌後の世界の動きなどについてまとめます。

 

世界恐慌の背景 「黄金の20年代

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1920年代、アメリカは空前の繁栄の中にいました。

 

第一次世界大戦の勝利と大量生産・大量消費の発展により、空前の好景気でした。

物を作れば、片っ端から売れるといってもいいくらいです。仕事がたくさんあり、街には活気がみなぎっていました。

株価は空前の高値を付け、靴磨きの少年まで株に投資していたといいます。

 

当時の共和党の大統領たち(ハーディングクーリッジ)は富裕層向けの減税を実施し、お金持ちがたくさんお金を使うことで景気を良くしようと考えていました。

余ったお金はアメリカから世界各地に移動し、各国に投資されました。

 

また、クーリッジ大統領の時代には移民の制限も行われています。

これらの状況は、トランプ政権にも似た側面がありますね。

 

 

1929年 世界恐慌の発生

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永遠に続くかに思われた好景気は、突然終わりを告げます。

きっかけは、イギリスの金利が上昇したことでした。

景気が良くなり、お金がたくさん出回るようになるとモノの値段が上がってしまいます。それがインフレです。

 

日本銀行アメリカの中央銀行にあたる連邦準備制度理事会FRB)はお札が増えすぎてインフレになりすぎないよう、お金を管理する責任があります。

 

お金が増えすぎると中央銀行

「やばい、お金増えすぎた!利子を高くしてお金を借りにくくしよう!」

と考えて金利をあげます。

 

すると株を買っている人たちは

「お金が借りにくいと企業はお金を集めにくく、成長しにくくなる。企業の力が弱くなりそうだから、株は売ってしまおう」

と考えて株を売ります。

 

金利が上がるとほとんどの場合、株価が下がるのはこのためです。

(ほんとうは、もっと詳しい説明が必要なのですがあえて雑に書いています)

 

アメリカにお金を置いておくよりイギリスにお金を預けたほうが利子が高くなる、そう考えた投資家たちはアメリカの株を売り始めました。

 

株価の下落に勢いがつくと、皆、自分だけは助かろうと必死に株を売ります。

結果、どんどん株が落ちていきます。

株価はわずか1週間で半額にまで下落しました。

 

投資家たちはパニックに陥り、世界各地に投資していたお金を引き上げて損失を埋めようとしたのです。こうして、恐慌は世界に広がりました。

 

1930年代 保護貿易と自国中心主義

 

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世界恐慌が始まると多くの会社が倒産して失業者が街にあふれました。

失業した人はお金がないので、失業者が増加するとモノが売れなくなります。

モノが売れないと給料は上がりませんし、会社がつぶれるかもしれません。

その結果、さらに失業者が増えていきました。

好景気や不景気について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

世界各国は失業者に仕事を与えるために様々な政策を実行しました。

アメリカやドイツでは公共事業をたくさん行いました。

 

中学校の頃にならったアメリカのニューディール政策ヒトラーが実施した高速道路(アウトバーン)建設は国が仕事を作るやり方です。

日本でも、平成不況の時に公共事業をたくさんやりました。

 

イギリスやフランスは自分の国や植民地に外国製品を入れないよう、関税高くしました。

これをブロック経済といいます。

 

国内市場が大きいアメリカや植民地が大きいイギリスやフランスは外国を排除することで自国の経済立て直しをしようとしました。

 

一方、ドイツや日本、イタリアは植民地が小さく自国の経済もそれほど大きくありません。

これらの国は「世界の再分割」を要求しアメリカやイギリス・フランスと対立します。

 

世界恐慌後の経済不況で日本が実施したのが高橋財政です。

高橋財政について知りたい方はこちらの記事もどうぞ! 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

 

まとめ

90年前と全く同じことが起きるとは思いませんが、歴史は形を変えて、アレンジを加えて繰り返します。

科学技術が進歩しても、人間という生き物の本質が変わらないからかもしれません。

 

最近のアメリカと中国の対立は、互いに「自国優先」を掲げているからこそ退くに引けないという面があると思います。

 

しかし、ある程度のところで妥協しなければ90年前のように戦争になってしまう可能性もあります。

そうなれば、一般の日本人にとっても「他人事」では済まなくなります。

 

ニュースや世の中の動きを「他人事」だと思わず、関心をもって注目するべきでしょう。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

「日本の税の歴史ってどうなっているの?」「地租や酒税とは?」「シャウプ税制や消費税について知りたい!」わかりやすく解説します!

日本の税の歴史ってどうなっているの?

地租や酒税ってどんな税?

シャウプ税制や消費税など戦後の税について知りたい!

 

このページをご覧の皆さんはそのようなことをお考えかもしれません。

近代化を進めたい明治政府は、様々な理由をつけて税を取ろうとします。

 

まだ、日本が農業国家だった明治時代前半、政府の収入は地租に頼っていました。

他の産業が発達すると、酒税など税の種類が多様化しました。

そのため、戦前は複雑な間接税中心の税制となります。

 

税のシステムが一変したのはGHQの顧問としてやってきたシャウプによる改革、いわゆる「シャウプ勧告」によってです。

これにより、日本の税制は直接税中心のものとなりました。

また、税の不公平感をなくすため、高所得者ほど納税率が高まる累進課税もこの時導入されます。

 

しかし、財源の不足などから平成に入ると消費税が創設され、3%、5%、8%、10%と税率が上がります。

 

今回は明治時代以後の税の歴史について、わかりやすく解説します。

 

 

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明治時代の地租

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江戸幕府を倒した明治新政府は財源の確保に苦労していました。

当時の日本は欧米からはるかに遅れた発展途上国で産業を発展させ、軍事力を強めるためにたくさんのお金が必要だったからです。

 

ところが、江戸時代の税は現物。

米をおさめることが納税の中心でした。

現物は毎年取れ高が異なるので税収が安定しません。

しかも、現金と異なり現物の値段は変化します。

これでは、予算を立てて国を運用することができません。

 

もし、皆さんの給料が米などで支払われ、現金にするためには米屋さんなどで米を引き取ってもらわなければならないとしたらどうでしょう?

ものすごく不便ですよね。

明治政府も「不便だなぁ。直接現金をgetできないかなぁ」と悩んだわけです。

それでつくられた税金が「地租」です。

 

小中学校で暗記させられませんでしたか?

土地の所有者は地価の3%を地租として現金で支払わなければならない」。

あれです。

あれは、農民から現金をgetするために政府が決めたルールなんです。

 

こうして、安定した現金を手に入れた明治政府は「殖産興業」という産業を盛んにする政策を実施します。

農民から得られた現金をもとに海外から人材を招き、お雇い外国人を日本に呼び寄せました。

北海道大学に招かれたクラークもその一人です。

 

明治時代~大正時代の酒税

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税金を取られるのは誰しも嫌なことでしょう。

しかし、日々の生活に必要なものにかけられる税金は嫌でも納めなければなりません。

その代表例が酒税でした。

 

お酒を飲まない人にとってはともかく、飲む人にとってはなかなか懐に厳しい税金です。

戦前は酒税の割合が非常に高かったことで知られています。

1899年には、なんと、税金の中で最も大きな割合となっていました。

 

娯楽が少ない時代、一般の人々にとって酒はとても重要なストレス発散の手段でした。

酒にかける税は確実に徴収できる貴重な財源だったのです。

 

ちなみに、現在の酒税は減少の一途をたどっています。

最近では若者の酒離れなどといわれていますが、今と昔は大分状況が違うようです。

まあ、手っ取り早く取れるところからとるというのは今も昔も変わりませんが(笑)

 

その後も、戦争などで戦費が必要になるたびに「醤油税」「砂糖税」などといった特定の品物に課税するなどの新税がつくられ、税の仕組みが複雑になっていきました。

 

昭和時代 シャウプ税制

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第二次世界大戦後、日本はGHQの占領統治下に置かれました。

あのマッカーサーの時代です。

GHQは日本の税制改革を行うため、アメリカ本国から専門家集団を呼び寄せました。

た。その代表がシャウプです。

シャウプは「今(戦前)の税金の仕組みは複雑すぎ。もっと簡単にしようぜ!」と主張します。

「収入に応じて税金をかけ、儲かっている人ほど多くの税を払うようにすればいいじゃん。貧乏な人は税の負担を軽くしよう」とも考えました。

この考え方を「累進課税」といいます。

現在の最高所得税率は年収4000万円以上で、45%。

仮想通貨で「億り人」になっても、半分近くは所得税で持っていかれます。

(住民税を入れると55%)

たまに、ネット上でこのことを知らなかった人が税の支払いで大変な目にあったという体験談がでています。

「億り人」になる機会があれば気を付けましょう(笑)

ただ、このやり方にも弱点はあります。

お金持ちからすれば、日本よりも所得税の安い国に逃げ出したくなりますよね。

特定の富裕層だけから税を取る仕組みは限界があるのです。

 

平成時代 消費税の導入

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昭和のころにも消費税導入の議論はありました。

中曽根内閣時代に提示された「売上税」です。

しかし、これは自民党内部からも反発を受けて実現しないまま廃案に終わりました。

 

1989年(平成元年)、竹下内閣はついに消費税導入に踏み切ります。

税率は売上税よりも低い3%。

しかし、国民の反発は強いものがありました。

結局、竹下内閣の支持率は低迷。

リクルート事件の疑惑もあって総辞職に追い込まれます。

竹下登DAIGOさんのおじいさんとしても知られていますよね。

 

その後も橋本内閣時代に5%

野田内閣時代に8%増税が繰り返されました。

増税のたびに駆け込み需要と消費不振も繰り返されました。

 

さて、今回行われる2019年の消費税の場合はどうでしょうか。

駆け込み需要と消費不振は今回もおそらく起こるでしょう。問題はそのあとです。

増税の結果、日本が良くなるとみんなが思えば消費不振の影響も最小限にとどまるかもしれません。これが一番難しいところですね。

 

日露戦争当時、日本国民は多額の臨時増税と多数の戦死者に必死に耐えました。

ところが、戦後のポーツマス条約で賠償金をとることができず生活の苦しみは改善されませんでした。

怒った国民が日比谷焼打ち事件を起こしたのも有名な話です。

戦争には勝ったものの、景気が回復するまでに20年かかりました。

 

今回、そうならないためにも政府には増税後の未来予想図の提示を期待したいものですね。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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