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「北畠顕家は美少年?」「北畠親房や北畠顕家は何をした人?」「青森の浪岡御所との関係は?」わかりやすく解説!

北畠氏とは?

北畠親房や顕家は何をしたの?

北畠顕家は美少年?

青森の”浪岡御所”って何?

 

この記事をご覧の方はそんな疑問を持っているかもしれません。

北畠氏は村上源氏に連なる公家で、摂関家清華家に次ぐ家格でした。

鎌倉時代末期に後醍醐天皇が挙兵すると北畠親房やその子の顕家が活躍し、歴史に名を残します。

 

その後、彼らの子孫は伊勢国国司として戦国時代まで勢力を維持します。

また、北畠氏に連なると称する浪岡北畠氏は津軽の浪岡を拠点として存続します。

この浪岡北畠氏は「浪岡御所」とよばれ北奥羽でその名を知られました。

 

今回は、北畠氏とはどんな一族か、北畠親房や顕家は何をしたのか、北畠顕家は美少年だったのか、浪岡御所とは何かなどについてまとめます。

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北畠氏の家紋(笹竜胆)

引用:北畠家 - Wikipedia

北畠氏とは

北畠氏は大臣家の家格を持つ公家の中院家の庶流で、村上源氏久我流の血筋です。

大臣家は、摂関家清華家に次ぐ家格の公家で、内大臣や右大臣まで任官することができる家柄でした。

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北畠氏が仕えた後醍醐天皇

引用:後醍醐天皇 - Wikipedia

 

鎌倉時代末期、後醍醐天皇が反鎌倉幕府の兵をあげると、北畠親房後醍醐天皇に従い、建武の新政を支えます。

親房の子の北畠顕家は、奥羽の兵を率いて足利尊氏と戦い勝利するなど、武勇に優れた人物として歴史に名を残しました。

 

また、親房の三男北畠顕能は伊勢の国司に任じられます。

以後、北畠氏は伊勢国に本拠地を移しました(伊勢国司北畠氏)

室町時代も、伊勢国司として中勢・南勢地区で強い力を維持します。

 

南北朝の合一後、北朝が約束を守らず南朝の子孫が天皇位に就けないことに反発した北畠氏は室町幕府と戦いました。

1428年には北朝の子孫が皇位に就き続けることに反発し、小倉宮を奉じて反乱を起こします。

 

室町幕府は大軍を伊勢に向かわせ、北畠氏を破りましたが、中勢・南勢での北畠氏勢力を滅ぼすことまではできませんでした。

室町時代後期になると、幕府は北畠氏に伊勢守護の職を与えて懐柔します。

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伊勢国司北畠氏の本拠地だった霧山城址

引用:霧山城 - Wikipedia

 

室町時代後期の北畠氏当主となった晴具伊勢国だけではなく隣国の志摩国大和国にも勢力を拡大し、北畠氏を戦国大名化することに成功します。

 

伊勢国の北畠氏とは別に、北畠顕家の子孫を称する人々が青森県の浪岡(現は青森市の一部)を支配しました。

彼らは 「浪岡御所」として別格に扱われ津軽で独自の地位を確立します。

   

南北朝時代に活躍した北畠親房北畠顕家

神皇正統記』を著した北畠親房

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北畠親房

引用:北畠親房 - Wikipedia

 

北畠親房鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて活躍した人物です。

後醍醐天皇から厚く信頼された人物で、南朝の柱石として活動しました。

子の顕家や新田義貞楠木正成などが戦死すると南朝の総司令官的な役割も担います。

 

親房は南伊勢や関東で勢力を伸ばし、北朝・足利幕府の打倒に力を尽くします。

しかし、北朝の優勢を覆すことはできず、北朝に吉野を制圧されると後村上天皇とともに賀名生(あのう)に落ち延びます。

 

親房は多忙を極める中、『神皇正統記』を著しました。

この本は神々の時代から後村上天皇の即位までを描いています。

本を書いたのは南朝の正当性を訴えるためだったのか、それとも別の目的があったのかは定かでありません。

足利尊氏に勝利した”美少年武将”北畠顕家

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北畠顕家

引用:北畠顕家 - Wikipedia

 

北畠顕家は親房の子で、南朝の主力武将として活躍した人物です。

北畠顕家肖像画を見ると、目元が涼やかで噂にたがわぬ美少年だったことがわかります。

とはいえ、彼はただイケメンだったのではありません。若年ながら文武両道で優れた活躍をしました。

 

顕家は1318年に生まれました。

12歳になると、顕家は参議の職に任じられます。

摂関家以外でこの年齢で参議になるのは異例のことでした。

建武の親政がはじまると、顕家は鎮守府大将軍に任じられた義良親王とともに東北地方に向かいます

 

東北に下った顕家は現地の武将たちを結集させ、南朝の軍団を編成することに成功します。

後醍醐天皇に歯向かった足利尊氏が京都に攻め込むと、これを防ぐため東北地方の武士たちを率いて西へと向かいます。

顕家軍は鎌倉や美濃で足利方に勝利します。

 

しかし、顕家は形勢を立て直した足利方に追い詰められます。

そして石津の戦いに敗れ、戦死しました。戦死した時、まだ21歳でした。

 

「浪岡御所」とよばれた浪岡北畠氏

浪岡北畠氏の始まり

浪岡北畠氏は南北朝時代に京都から奥羽に下った北畠氏の一派とされます。

江戸時代以降に書かれた系図や由緒書きでは北畠顕家の子孫とされました。

江戸時代初期に徳川光圀の命で編纂された『大日本史』では、北畠顕家の弟の顕信が浪岡北畠氏の始祖とされます。

 「浪岡御所」の勢力拡大

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浪岡御所が置かれた浪岡城址

引用:浪岡城 - Wikipedia

15世紀後半、浪岡北畠氏は浪岡城を拠点とし津軽外ヶ浜や田舎郡を支配しました。

北畠氏が公家の家柄だったため、「浪岡御所」と呼ばれるようになります。

浪岡御所が置かれた浪岡城は、東西1200メートル、南北600メートルの敷地を持ちます。

発掘調査により、敷地内には8つの館があったことがわかりました。

 

16世紀中ごろ、浪岡北畠氏の当主(具永具統具運)が京都に使者を派遣し、従五位下の位階を賜っています。

中には従四位下左近衛中将まで登った者もいました。

こうしたことから、浪岡御所は朝廷から「貴族」と認識されていたことがわかります。

浪岡北畠氏の滅亡

1562年、浪岡氏の内部で「川原御所の乱」とよばれる内紛が起きます。

一族内で家督や主導権をめぐっておきた争いでしたが、この混乱で有力家臣が浪岡御所を去ったといいます。

乱の終息後も、浪岡御所は安定せず、衰退の一途をたどりました。

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浪岡御所を滅ぼした津軽為信

引用:津軽為信 - Wikipedia

 

1570年代になると、南部氏の配下だった大浦為信(のちの津軽為信)が津軽地方で勢力を急拡大させます。

1571年、津軽為信は南部氏の津軽代官南部高信を滅ぼし津軽統一の戦いを開始します。

そして、1578年に津軽為信は浪岡城を奇襲攻撃で攻め落としました。

これにより、浪岡御所は滅亡します。

 

まとめ

北畠氏は後醍醐天皇に従い、南朝方として戦った名門貴族です。

北畠親房北畠顕家南朝の有力武将として北朝と戦い続けました。

文武両道に秀でた美少年の北畠顕家は惜しくも21歳で戦死してしまいます。

生き残った親房は『神皇正統記』を書きました。

 

また、東北地方には北畠顕家の子孫を称する「浪岡御所」があり、津軽為信に滅ぼされるまで、津軽地方で一定の勢力を持ち続けました。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

   

「高橋財政とは何か?」「高橋是清ってどんな人?」「昭和初期の経済危機とは?」わかりやすく解説!

高橋財政とは?

高橋是清ってどんな人?

昭和初期の経済危機とは?

 

このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。

高橋財政とは、高橋是清が昭和恐慌や農業恐慌から日本経済を立ち直らせるために行った財政政策のことです。

 

1920年代の日本経済は震災恐慌や金融恐慌のため非常に不安定でした。

これを一気に悪化させたのが世界恐慌です。

恐慌の影響をまともに食らった日本は昭和恐慌や農業恐慌に陥ります。

 

この危機的状態を脱するため大蔵大臣に起用されたのが高橋是清でした。

高橋は金輸出の再禁止と大胆な金融緩和、公共事業や軍需産業への公的資金投入などにより日本経済をV字回復させます。

 

今回は高橋財政や高橋是清がどんなひとか、昭和初期の経済危機などについてまとめます。

 

ちなみに、高橋財政と真逆の緊縮財政政策で有名なのが明治時代の松方財政でした。

松方財政について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

 

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高橋是清ってどんな人?

高橋是清のすごいところ その1 どん底の環境で英語を習得

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高橋是清1854年仙台藩に生まれました。

若いころ、横浜のヘボン塾で学び1867年にアメリカに留学します。

 

ところが、藩から出された留学費用はアメリカ人貿易商人に着服され、奴隷契約ともいえる年季奉公の契約書にサイン。

オークランドのブラウン家でブドウ園などの労働者としてこき使われました。この間、高橋は英語の読み書きを習得します。

 

1868年に帰国した高橋は、森有礼にすすめられ、文部省に入省。

持ち前の英語力を生かして英語教師としても働きました。

 

1878年、廃坑寸前だった共立学校の校長に就任。

共立学校を大学予備門受験生のための受験予備校として整備しました。

共立学校は、のちの開成中学校・高等学校のもととなります

 

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』にも、高橋はしばしば登場します。

主人公秋山真之正岡子規は高橋の教え子でした。

高橋是清のすごいところ その2 無一文から復活して日銀副総裁になる

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日本銀行本店

引用:日本銀行 - Wikipedia

1889年、高橋はペルーの鉱山事業に投資するため農商務省を退職します。

しかし、この鉱山事業は既に廃坑となっていたため、高橋は投資資金の全てを失い無一文になってしまいました。

 

進退窮まった高橋をスカウトしたのが川田小一郎でした。

川田は三菱の創業者岩崎弥太郎の補佐役として、常に三菱の先頭に立ってきた人物です。

1889年には薩摩の有力者松方正義の推薦で日本銀行総裁となっていました。

 

日本銀行に入行した高橋は、日本銀行本館の建設事務主任となり建設を成功させます

その後、九州全域を統括する西部支店の初代支店長となりました。

 

1904年に日露戦争が始まった時、高橋は日本銀行の副総裁でした。

高橋は戦費調達のためイギリスのロンドンにわたります。

投資家たちが、ロシアより国力が劣る日本の敗北を予想して日本国債の買い入れに慎重になる中、高橋は日本には支払い能力があり、戦争にも勝利できると熱弁をふるいました。

 

高橋はロシアのロマノフ朝によるユダヤ人迫害(ポグロム)に強い反感を持つユダヤ人資本家ジェイコブ・シフを味方につけ、彼の人脈によって戦費を調達します。

日本は高橋がかき集めたお金で日露戦争を戦ったといってもいいくらいでした。

高橋是清のすごいところ その3 金融恐慌を鎮めた

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1910年代、立憲政友会に入党した高橋は第一次山本内閣や原敬内閣で大蔵大臣を経験。

原の暗殺後は内閣総理大臣も務めました。

 

1927年、金融恐慌が発生すると日本銀行総裁井上準之助とタッグを組み、3週間のモラトリアム(支払い猶予令)を発令

裏が白い片面だけの200円札を大量に印刷し銀行に配ることで預金者を安心させ、取り付け騒ぎ(預金者が銀行に殺到してお金を引き出そうとするパニック行動)を鎮静化させます。

 

財政のプロとして名声を確立し、その外見や功績・実績から七転び八起きする「ダルマさん」にたとえられた高橋が、再び財政の世界で活躍したのが1931年におきた昭和恐慌の時でした。

 

日本を襲った空前の不景気「昭和恐慌」と「農村恐慌」とは

日本を襲った昭和恐慌とは 

1920年代、日本は相次ぐ恐慌に苦しめられていました。

恐慌とは、生産の急低下や物価の暴落、支払い不能や破産などを引き起こす資本主義経済の混乱状況のこととされます。

恐慌になるとたくさんの会社がつぶれ、世の中に失業者があふれます。

 

好景気・不景気について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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株価の大暴落で混乱するニューヨークのウォール街

引用:世界恐慌 - Wikipedia

 

1923年の震災恐慌や1927年の金融恐慌により、日本経済は大きなダメージを負っていました。

それにとどめを刺すように起こったのが1929年の世界恐慌です。

アメリカの株価大暴落を引き金におきた世界恐慌は、1年余りの期間をかけて日本に大きな影響を与えました

 

浜口内閣の大蔵大臣井上準之助は、金の輸出を認める金解禁政策をとり、国の支出を減らす緊縮財政政策をとります。

 

世界恐慌のパニックから自国の金を守るため、各国が金解禁をとりやめ金の輸出禁止を行う中、日本は金解禁を継続

そのため、金と交換できる日本円の価値は急上昇し、極端な円高となります。

さらに、外国人を中心に円と金の交換が行われ、大量の金が海外に流出しました。

 

世界中で貿易が激減する中、輸出産業を中心に日本企業が次々と倒産

世の中に失業者があふれました。これを、昭和恐慌といいます。

農村でおきた農村恐慌とは 

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生糸を紡ぐ女性

引用:絹 - Wikipedia

昭和恐慌は農村にも波及しました。

当時、日本の主力輸出品は生糸でした。アメリカは生糸の最大輸入国でしたが、世界恐慌のせいで生糸のアメリカ向け輸出が激減

農家は現金収入が確保できなくなりました。

 

追い打ちをかけるように起きたのが豊作貧乏と飢饉です。

1930年、米が豊作だったため米価が急落

生糸価格の暴落とあわせて、農家の収入を大きく減らす原因となりました。

 

1931年になると、一転して東北や北海道で大凶作

東北地方を中心に農家の娘の身売りや欠食児童の出現など、悲惨な状況となりました。

これを農村恐慌といいます。日本は昭和恐慌と農村恐慌により、お先真っ暗ない状態となってしまいました。

 

日本を不況から脱出させ、先進国で最も早く景気を回復させた高橋財政

赤字国債を財源とする紙幣の大量発行で景気対策を実行 

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1931年、第二次若槻内閣が満州事変の収拾に失敗し総辞職すると、立憲政友会犬養毅が内閣を組閣しました。

犬養は昭和恐慌を抑えるため、高橋是清に4度目の大蔵大臣就任を要請します。

高橋は犬養内閣、斉藤内閣、岡田内閣の大蔵大臣として事態の収拾にあたりました

 

高橋は就任直後から大胆な手に出ます。

まず、金の輸出は即座に再禁止

ついで、日本銀行の協力を得て軍事予算を増額します。

さらに、時局匡救事業として景気対策を目的とした大規模な公共事業を実施しました。

高橋は財源として赤字国債を発行します。

 

恐慌の時、政府が支出を増やして仕事を作り出すことで不景気を脱するべきだとする考え方はイギリスの経済学者ケインズらが主張していた政策です。

高橋は、ケインズ的な財政支出の拡大で混乱する日本経済を立て直しました。

その結果、日本は列強の中で最も早くデフレを乗り越え景気回復を果たします

 

高橋財政の限界 

高橋財政は副作用を伴うものでした。

紙幣の大量発行はインフレにつながりかねません。

また、財政支出を減らすことは軍拡を求める陸海軍との対立の火種となります。

インフレを抑制したい高橋は過大な軍事費増加要求を拒否しました。

昭和恐慌の痛手から回復した以上、なるべく早く経済政策を通常に戻すべきと考えたからでした。

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二・二六事件の決起部隊

引用:二・二六事件 - Wikipedia

 

ところが、さらなる軍事予算獲得を目指していた軍部は高橋の支出削減策に猛反発します。

なかでも、青年将校たちの反発は強いものでした。

そのため、1936年の二・二六事件で高橋は青年将校らの標的となり暗殺されてしまいました

まとめ

高橋是清は外国留学が少ない時代にアメリカで生きた英語を学びました。

彼が学んだものは英語のとどまらず、欧米の考え方にも及んでいたのでしょう。

留学で得た知識をもとで、何度も苦境から立ち上がる高橋の姿は「ダルマ」に例えられました。

 

高橋が手腕を発揮したのは経済政策です。

日本中が取り付け騒ぎに揺れた金融恐慌や世界恐慌の余波で日本が混乱した昭和恐慌、農村恐慌を見事な指導力で乗り切っています。

しかし、その彼ですら台頭する軍の力を抑え込むことができず殺されてしまいます。

 

新型コロナウイルスの影響で世界各国は大規模な金融緩和に踏み切りました。

それは、高橋が直面した昭和恐慌直後の状態に似ています。

金融緩和を止めるとき、どんな副作用がでるのか今後も注視するべきではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

「[鴨長明ってどんな人?」「『方丈記』ってどんな本?」「”養和の大飢饉”原文や現代語訳が知りたい!」わかりやすく解説!

鴨長明ってどんな人?

方丈記』ってどんな本?

養和の大飢饉の原文や現代語訳を知りたい!

 

このページをご覧の方はそのようなことを知りたいとお考えかもしれません。

鴨長明平安時代末期の人物です。

賀茂神社に連なる神職の家に生まれましたが、一族内の出世競争に敗れ、神職として出世する道を絶たれました。

 

出世をあきらめて出家した鴨長明隠居先である「方丈」で書いた随筆が『方丈記です。

方丈記』には記録文学としての側面があります。

今回取り上げる「養和の大飢饉」も実際に起きた出来事を鴨長明が記録したものでした。

 

今回は鴨長明がどんな人か、『方丈記』とはどんな本なのか、「養和の大飢饉」の原文や現代語訳はどうなっているのかなどについてわかりやすくまとめます。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/815470">かいくう</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

鴨長明とは

随筆『方丈記の著者である鴨長明

彼が生まれたのは平安時代末期の院政期のこと。

鴨という名字からわかるように、鴨長明は加茂神社の禰宜の家に生まれました

鴨長明下鴨神社賀茂御祖神社)の禰宜の座に就こうとしましたが、一族内の競争に敗れ、禰宜になることはできませんでした。

 

といっても、鴨長明が無能だったからではありません。

俊恵門下で和歌の腕を磨き、中原有安から琵琶の極意を習うなど一流の教養を身に着けていました。

 

しかし、教養と、会社や組織で上り詰める才能は別物です。

如何に、典雅な振る舞いができる教養人でも、社内闘争に必ず勝てるわけではないのです。

社内闘争に敗れ、神職としての出世に見切りをつけた長明は、近江国大岡寺で出家。京都の東山や大原、日野などで隠遁生活に入りました。

 

方丈記』とは

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鴨長明の直筆と伝えられる『方丈記』の大福寺本

引用:方丈記 - Wikipedia

 

方丈記』は、鴨長明が日野山のふもとに隠遁していた時に住んでいた一丈四方の建物(方丈)で書いた随筆です。

方丈記』は漢字と仮名が混じった和漢混交文で書かれた日記ですね。

古典の中では比較的読みやすい文章だと思います。

 

方丈記』でもっとも有名なのは冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」ではないでしょうか。

 

方丈記』は、災害記録文学としての側面を持ちます。

1177年に京都でおきた安元の大火や1180年の治承の竜巻、1185年の元暦の地震などが記録されています。

今回紹介する「養和の大飢饉」も、鴨長明によって記録された災害でした。

養和の大飢饉とは

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養和の飢饉、もしくは、養和の大飢饉は1181におきた飢饉です。

飢饉とは、自然災害や戦争などにより人々が飢え苦しむこと。

養和の大飢饉の原因は、干ばつや洪水などにより農作物が実らないという自然災害でした。

 

被害の中心地域は西日本でした。

無数の餓死者が発生したため、街中には遺体が放置され疫病が蔓延します。

朝廷は加持祈祷を行い、飢餓が収まるよう願いましたが一向に効果が現れません。

 

あまりに使者が増えすぎ、丁寧な供養ができない状況となったため、仁和寺の僧隆暁は人々の額に阿弥陀仏の「阿」を書いて仏と結縁させて葬りました。

この時、源氏と平氏が戦う治承寿永の乱の真っ最中でしたが、飢饉のあまりのひどさに戦いが中断されたほどです。 

平安末期の平氏政権や『平家物語』について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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原文と現代語訳

また養和のころとか、久しくなりて覚えず。

二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。

あるいは春・夏日照り、あるいは秋、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごとくならず。

 

養和年間のころだったでしょうか、ずっと前なのであまり覚えていませんが、二年くらい世の中が飢饉に見舞われてあきれるほどひどいことがありました。

ある春や夏は日照りに、秋は大風・洪水などよくないことが続き、食料となる穀物(五穀)が全く実りません。

 

むなしく春かへし、夏植うる営みありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。

これによりて、国々の民、あるひは地を捨てて境を出で、あるひは家を忘れて山に住む。

さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらさらそのしるしなし。

 

無駄に春に耕し、夏に田植えをしても、秋に刈り取り冬に蓄えるということがない。

このため、諸国の人々は土地を捨て、国境を越え、家を放棄し山に住むなどしました。

様々な加持祈祷をしましたが、全く効果がありません。

 

京のならひ、何わざにつけても、みな、もとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。

念じわびつつ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。

たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。

乞食、道のほとりに多く、憂へ悲しむ声耳に満てり。

 

京の都の習わしで、なにかにつけ地方からくる産物を頼っていたのに、そういった物資が何も京都に入ってこないので、体裁を取り繕うことができるでしょうか(いや、できない)。

我慢できずに様々な財物を捨てるようにして(食べ物と交換しようと)しますが、まったく目をくれる人がいません。

交換してくれる人でも、財物より食べ物の価値が高いとしました。

乞食が道のそばに数多くいて、(彼らの)憂い悲しむ声があちこちで充満しています。

 

前の年、かくの如くからうじて暮れぬ。

明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまにあとかたなし。

世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。

はてには、笠うち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。

かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。

築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。

取り捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。

いはんや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。

 

前の年は、このようにして過ぎていき年が暮れました。

来年は立ち直るだろうと思っていたら疫病の流行が加わり、以前の生活の跡形もありません。

世の中の人々が皆、飢えて死んでしまったので、日にちが立つごとに困窮するありさまは、水の少ないところで苦しむ魚のたとえがぴったりだ。

ついには、笠をつけ、足を包むような身なりの良い格好の人ですら物乞いをして歩きます。

つらい目に遭って呆けたような状態の人が、歩くかと思えば倒れ伏してしまう。

築地塀の傍らや道のそばで餓死しているものの数は数え切れません。

道路に散在する遺体の取り扱い方法もわからないので、遺体から発する臭気が街の中に満ち、遺体が腐敗して変化する様子は目も当てられないことが多かった。

まして、(普段は往来がみられる)河原などで馬や車が行きかう様子など全く見られない。

 

あやしき賤、山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。

一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。

あやしき事は、薪の中に、赤き丹つき、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋ぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物具を破り取りて、割り砕けるなりけり。

濁悪世にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。

 

身分の卑しい者たちや山に住む者たちも力尽きたので、山から薪を持ってくるものがいなくなり、頼りにするものがない人々は自分の家を壊して市場で薪として売っています。

一人がもってきた薪の代金は、一日の食費にすらならなかったということです。

不思議なことは、薪の中に赤い丹(寺院仏閣の建物などに使われる赤い塗料)や箔などがついた木があったこと。

そのことについて尋ねると、どうしようもなくなった人々が古寺に入り、仏を盗み、寺の建物や仏具を壊して割くだいた(薪として売っていた)とのこと。

汚れや罪悪の世(濁悪世)に生まれてしまったため、このような情けない有様を見てしまった。

 

またいとあはれなることも侍りき。

去りがたき妻・夫持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。

その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食ひ物をも彼に譲るによりてなり。

されば、親子あるものは定まれることにて、親ぞ先立ちける。

また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳を吸ひつつ、臥せるなどもありけり。

 

また、とてもしみじみと感じ入ることもありました。

離れられない妻や夫を持ったものは、その愛情が強く深いものが必ず先に死んでしまいます。

その理由は、自分のことは後回しにして相手を思いやり、自分の食べ物も相手に与えてしまうからでした。

親子の場合、親が先に死にました。母親が死んでいることを知らずに、あどけない子供が母親の乳を吸って横になっていることもありました。

 

仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬることを悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。

人数を知らんとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、道のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。

いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。

いかにいはんや、七道諸国をや。

 

仁和寺の隆暁法印という人は、このように数え切れないほどの人々が死んでいることを悲しみ、死者の首が見えるごとに、死者の額に「阿」の字を書いて阿弥陀仏と縁を結ぶ(結縁)をさせました。

死者の総数を知ろうと、四・五月に数えてみたところ、京都の内、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の道端にあった(死者の)頭の数は42,300余に登りました。

ましてや、その前後に死んだ者も多く、河原、白河、西の京やもろもろの辺境地域まで加えると死者の数は際限がない。

まして、畿内以外の諸国を加えると(さらに際限が亡くなるでしょう)。

 

さいごに

現代と異なり、医療が未発達で食料給付などのセーフティーネットが不十分だった平安時代末期、飢饉が発生すれば多くの人が餓死してしまったことでしょう。

飢餓はしばしば疫病を引き起こします。

飢餓で抵抗力を失った人々は、感染症の格好の餌食となったことでしょう。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

「晩年の劉邦について知りたい!」「韓信や蕭何、張良らはどうなった?」

劉邦の晩年はどうなったの?

劉邦の天下取りに貢献した韓信や蕭何、張良のその後は?

 

この記事をご覧の方はそんな疑問を持っている持っているかもしれません。

晩年の劉邦はともに戦った仲間たちを次々と粛清しました。

その代表が韓信です。

その一方、蕭何張良は粛清を免れることができました。

 

今回は晩年の劉邦の様子と韓信、蕭何、張良のその後についてまとめます。

 

高祖劉邦の天下統一について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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劉邦の皇帝即位と論功行賞

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皇帝となった劉邦

引用:劉邦 - Wikipedia

垓下の戦いで勝利した劉邦は、紀元前202年に漢の皇帝として即位します(漢の高祖)。皇帝となった劉邦は、それまで従ってきた家臣たちに褒美を与えました。

 

劉邦は、もっとも功績がある家臣は蕭何であるとして、丞相の地位はそのままに領地を与えます。劉邦は、項羽との戦争を常に支え続けた蕭何を第一の功臣と考えたからでした。

 

次に、軍師張良は3万戸の領地を与えるといわれましたが固辞し、劉邦と初めて出会った街である留を領地とします。張良は、もしかしたら劉邦の変化を予測していたのかもしれません。

 

項羽との戦いで総司令官となった韓信は生まれ故郷の楚の王に、彭越は梁の王に、英布は淮南の王に、それぞれ封じられました。

彼ら三人は戦争に強く、劉邦の勝利に大いに貢献したからです。 

 

劉邦に粛清された彭越・英布・韓信

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論功行賞で大きな領地を得た彭越・英布・韓信。彼らは王となりましたが、その最期はいずれも悲惨なものでした。

梁王彭越の最期

彭越はもともと漁師で、始皇帝死後の混乱の中盗賊の親分となり自立していました。

項羽が覇王となり論功行賞を行ったとき、項羽から領地をもらえなかった彭越は猛反発。

項羽の領地をゲリラ的に襲撃し、項羽軍の補給路を脅かしました。

 

劉邦は彭越に、項羽との戦いに勝利した梁の地を与えると約束。

彭越は項羽軍の背後を襲撃し続け、劉邦の勝利に貢献。約束通り梁王となりました

 

皇帝即位後、劉邦は彭越に北方の反乱軍討伐のため出兵するよう命じました。

彭越がこれに応じなかったため、劉邦は彭越を捕え梁王の地位をはく奪します。

彭越は一般庶民とされ、辺境に流されることになりました。

 

ところが、劉邦の妻である呂后は、彭越は危険人物であるとして劉邦に粛清を強く進言。劉邦は妻に押し切られて彭越を処刑しました。

ちなみに呂后は中国三大悪女の一人に数え上げられています。非常に気の強い女性で劉邦も押されがちでした。

 

処刑後、彭越の遺体は塩漬け・切断され、諸侯に配られました

見せしめのつもりだったのでしょうが、「明日は我が身」と考えたものもいたことでしょう。

淮南王英布の謀反

英布は楚に生まれた人物。

若いころに刑罰として入れ墨を施されました。

そのため、入れ墨が入れられた布という意味で黥布ともよばれます

 

項羽が楚軍を率いて秦と戦うと、英布は副将として活躍しました。

英布は、降伏した秦兵20万を生き埋めにせよとの項羽の命令を実行するなど、項羽の忠実な臣下として働きます。

 

項羽が覇王となると、英布は九江王とされました。

項羽と劉邦が戦うようになると、項羽は英布にも出兵を命じますが、英布は様々な理由をつけて出兵を拒否。

そればかりか、劉邦に味方して項羽と戦います。

 

しかし、戦いは項羽の勝利に終わり英布は劉邦のもとに逃亡しました。

残された家族は項羽の命令で皆殺しにされます。

劉邦が皇帝に即位すると、英布は淮南王とされました。

 

彭越の敗死後、彭越の肉が諸侯に配られます。

淮南王英布のもとにも、彭越の肉が届けられました。

英布は「明日は我が身」とおもったのでしょう。

ひそかに反乱を企てます。

 

家臣の密告により反乱計画がバレてしまった英布は追い詰められ反乱を起こしました。

はじめは、周辺の軍と戦い勝利するなど勢いがありました。

そのため、劉邦は自ら出陣し英布と対決します。

 

劉邦が反乱を起こした理由を尋ねると、英布は「皇帝になりたかったからだ」と答えたといいます。

劉邦と英布の戦いはとても激しく、総大将の劉邦に矢が当たり負傷するほどでした。

戦いは劉邦の勝利に終わり、敗れた英布は逃亡中に殺されてしまいます

 

名将韓信の最期

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劉邦に恐れられた韓信

引用:韓信 - Wikipedia

韓信劉邦の天下統一に最も功績があった将軍です。

韓信について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

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もともと、項羽のもとにいましたが項羽が自分の作戦をとりあげてくれないので愛想をつかして劉邦に寝返ります。

 

劉邦は蕭何の進言もあって韓信を全面的に信用。

投降者だったにもかかわらず、漢軍の総司令官に抜擢しました。

韓信劉邦の期待に応え続け、関中や中原での戦いで連戦連勝します。

 

項羽との最終決戦となった垓下の戦いでも、韓信は漢軍の総司令官となり、項羽を追い詰め、自害させました。

 

韓信は垓下の戦いの直前、征服した斉の地で王を名乗りました

劉邦は、韓信の行動に怒りを感じましたが、軍師張良の進言で韓信の斉王就任を了承します。

このあたりから、劉邦韓信の力を削ぐ必要が出てくると思ったのかもしれませんね。

 

劉邦の皇帝即位後、項羽の配下にいた鍾離眜をかくまったことから劉邦に疑われるようになります。

追い詰められた韓信は鍾離眜に自害を勧めました。

鍾離眜は、次はあなたの番だという予言を残し自ら首をはねます。

 

それでも、劉邦の疑いは完全に解けず、領地の多くを没収され淮陰侯に降格されてしまいました。

 

紀元前196年、韓信は反逆をたくらみます。

しかし、事前に察知した蕭何の策略により韓信は捕らえられ、処刑されてしまいました

韓信は謀反人とされ、一族皆殺しとなってしまったのです。

 

粛清を免れた蕭何と張良

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多くの功臣が粛清される中、蕭何や張良は粛清を免れました。

彼らはどうやって粛清の嵐から身を守ったのでしょうか。

自ら評判を落とし、粛清を免れた蕭何

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蕭何

引用:蕭何 - Wikipedia

劉邦項羽と戦っていたころ、蕭何劉邦の領地で政治を預かり、劉邦が必要とする兵士や物資を前線に送っていました。

劉邦からすれば、とても頼もしい重臣であると同時に、非常に恐ろしい存在でした

 

蕭何が裏切った場合、劉邦は100%、項羽に負けてしまいます。

劉邦に疑いの目で見られていることを知った蕭何は、戦争に参加できる一族の男を全て戦場に送ります

また、自分の資産も戦争のために国庫に提供しました。

 

戦争が終わり、劉邦が皇帝となると、蕭何は評価されると同時に、強い疑いの目で見られていることを悟ります。

後に、彭越や英布、韓信が反乱を起こすと、蕭何も反乱を起こすのではないかと劉邦が心配しました。

 

そこで、蕭何はわざと私利私欲を追求した悪政をおこないます

具体的には、田畑を買いあさったり、わいろを受け取ったりしました。

 

そのせいで、一時的に牢屋に入れられることはありましたが、粛清されることはありません。

蕭何は自分が清廉潔白で、民衆からも慕われていて、皇帝よりも権威があるように見えてしまうと、粛清の対象となると考えたのでしょう

 

大きな領地を持たず、劉邦の警戒心を解いた張良

 

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張良

引用:張良 - Wikipedia

張良は「はかりごとを本営の中でめぐらして、勝利を千里の外で決したのは、子房の功績である。」と劉邦に称された謀臣です。

項羽軍を垓下に追い詰めた時、包囲軍に楚の歌を歌わせ項羽軍の戦意を削いだ(四面楚歌)のは張良の策でした。

 

劉邦は、自分が即位できたのは張良の策略があってこそと思っていたので大きな領地を与えて報いようとしました。

しかし、張良はその申し出を断り、自分と劉邦が出会った留の町一つだけで満足します。

 

張良は古今の書物に通じた人物でした。中国の歴史において、強すぎる力を持った家臣は主君によって粛清されるということを学んでいたのでしょう。

 

春秋時代范蠡のように、粛清される前に身を引いたと考えるべきでしょうね。

范蠡について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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まとめ

狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶとは、范蠡が残した言葉です。

同じ言葉を、王から侯に降格された韓信が述べたといいます。

 

韓信は有能すぎる臣下が、主君にとって危険な存在であり、粛清の対象となることを、身をもって感じたのでしょう。

出処進退は今も昔もとても難しい問題だと実感させられますね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

「鎌倉時代の農業や商業について知りたい!」「宋銭が日本に与えた影響とは?」わかりやすく解説!

鎌倉時代の農業について知りたい!

鎌倉時代の商業について知りたい!

宋銭が日本に与えた影響とは?

 

この記事をご覧の方はそんなことをお考えかもしれません。

鎌倉時代二毛作や肥料・鉄製農具の使用により農業生産が盛んになった時代でした。

 

人々は余った農作物を定期市に持ち込み自分が欲しい品物と交換します。

定期市で活躍したのが平清盛が持ち込んだ宋銭でした。

すると、銭の価値が高まり銭の貸し借りに利子をつける「借上」という高利貸しまで出現します。

 

鎌倉時代全体の流れや人物について知りたいかたはこちらの記事もどうぞ!

 

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今回は鎌倉時代の農業、商業、宋銭が与えた影響などについてまとめます。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/1900649">もちち</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

鎌倉時代の農業

平安時代末期の源平合戦治承・寿永の乱)が終わると、地方の支配者となった武士は自分たちの領地(所領)を積極的に開拓します。

新しい農法や肥料が取り入れられることで、以前よりも多くの農作物を収穫することができるようになりました。

二毛作の広がり

二毛作とは、同じ土地で一年の間に2種類の異なる作物を栽培すること。

鎌倉時代の中期に畿内から西日本一帯で広まりました。

 

一回目に育てる作物を表作、二回目に育てる作物を裏作といいます。

鎌倉時代、表作の作物はだいたい米でした。

裏作は麦です。

これまで、冬は農地が遊んでいる状態だったのですが、二毛作により冬の小麦生産が行われることで収穫量がアップします。

新しい肥料の使用 

鎌倉時代には、農地に肥料を与えて農作物の生育をよくすることが行われました。

代表的な肥料は、刈敷と草木灰です。

刈敷は、山野の草や木の葉を田畑に敷き詰める肥料

草木灰は、草木を燃やした灰を田畑にまく肥料です。

 

肥料を使うことでこれまで自然任せだった農業生産を人がコントロールしやすくなりました。

もちろん、生産性はアップします。 

牛馬耕

ラクターなどの農業機械がない時代、田畑を耕すのは人間の仕事でした。

しかし、人力では作業効率も悪いです。

そこであみ出されたのが牛馬耕ですね。

 

牛や馬に犂や鍬をつけて田畑を耕させます

〇〇馬力というのは、馬が荷物を引っ張るときのパワーをあらわします。

昔から、牛や馬は人間のかわりに、重たいものを引っ張ってくれていたわけです。

 

牛や馬を飼うことができるということは、それだけ、昔に比べて大規模な農業ができるほど余裕が出てきたともいえるんです。

鉄製農具の使用

鉄製農具が広く普及したのも鎌倉時代の特徴です。

鉄製農具自体は古墳時代から存在していました。

しかし、古代になればなるほど鉄は貴重品。

そう簡単に、みんなが使えるものではりませんでした。

 

それまで主流だった木製の鍬や鋤、鎌などにかわり鉄製の農具がメインになることで、作業はかなりはかどるようになったでしょう。

 

鎌倉時代の商業

商業とは、モノやサービスの売り買いを行うことで人々を結び付ける仕事です。

鎌倉時代定期市宋銭の利用により、商業が発達した時代でした。

貨幣経済が発展すると、お金の貸し借りだけで生計を立てる高利貸しも出現。

年貢も米などの現物だけではなく、銭でおさめることが増えました。

定期市の出現

鎌倉時代、農業生産力がアップすると人々は自分達が食べるもの以上の生産物を手にするようになりました(余剰生産物)。

農作物は、黙ってほったらかしにしていると腐ってしまいます。

それならば、他のものと交換したほうがいいですよね。

 

そこで人々は「定期市」にモノを持ち込み、交換を始めました。

交換で大活躍したのが、平清盛が持ち込んだ宋銭です。

銭は、物々交換よりも簡単に取引を成立させてくれます。 

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人々が集まりやすい交通の便利なところに定期市は作られました

高校の日本史の教科書で岡山県の市場(備前国福岡荘)を描いた『一遍上人絵伝』が扱われますが、絵巻の中には米や魚だけではなく、販売用の壺や甕が描かれていますよ。

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定期市などで得た「現金」を、人々は甕などに入れて地中に埋めることがありました。

元祖「タンス預金」といってもいい、壺・甕貯金ですね。

北海道函館近郊の銭亀沢地区では、鎌倉時代から室町時代までの間に埋められた「甕貯金」が発掘されました。

だから、銭亀(甕)沢という名がついたといいます。

 

基本的に、定期市が開かれたのは交通の便が良い街道沿いや人々が多く集まる寺社の門前でした。

定期市に参加している商人たちは、寺社と結びつき、自分たちだけで商売する独占権を得ます

それが、「座」(同業者組合)の始まりだといってよいでしょう。

 

年貢の銭納と高利貸しの出現

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市場が発達し、銭でいろいろなものが買えるようになると、荘園領主や武士たちは年貢として銭を欲しがるようになりました。

これを、年貢の銭納といいます。

 

農民たちは荘園領主や地頭(武士)に農作物で税を納めます。

荘園領主や地頭たちは市場で農作物を売却し、現金をゲットしました。

この現象は、日本だけではなくヨーロッパでも起きていますよ。

 

鎌倉時代には、お金を高い利子をつけて貸し付ける「借上」という高利貸しが現れます。

利子率は取引によってさまざまだったようですが、年利300%以上という高利も珍しくなかったといいます。

 

鎌倉時代の末期、幕府に仕える武士たち(御家人)の多くが財政難となり、借金で苦しみましたが、その原因の一つが現金欲しさに高利貸しから借り入れしたことです。

今も昔も、お金にまつわる苦労は絶えないということでしょう。

 

まとめ

鎌倉時代は農業生産力が飛躍的にアップした時代でした。

それまでの時代よりもたくさんの農作物を手にした人々は、農作物とほかの品物を交換しようとします。

その交換の場となったのが定期市でした。

 

定期市ではスムーズに取引するため宋銭を使います。

平清盛が持ち込んだ大量の宋銭は鎌倉時代の経済を物々交換から貨幣系経済に移行させるのに役立ちます。

  

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

「ブラックスワンとは?」「ホワイトナイトって何?」色にまつわる経済用語をわかりやすく解説!

ブラックスワンとは?

ホワイトナイトって何?

ほかにも色の名前がついた経済用語はあるの?

 

この記事をご覧の方はそんな疑問を持っているかもしれません。

ブラックスワンとは低確率だが起きると影響が大きいことがらで、ホワイトナイトは買収された企業を助ける企業のことです。

 

ほかにも、ブルーオーシャングレイリノグリーンスワンなど経済用語には色がつくものが多くみられます。

 

今回は色にまつわる経済用語についてわかりやすく解説します。 

 

 

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ブラックスワンとグリーンスワン

ブラックスワンとは

スワン(swan)というのは、英語でハクチョウを意味する言葉。

文字通り、ハクチョウは白い鳥です。

北半球ではそれが常識でした。

 

17世紀末、大航海時代によりヨーロッパの人々がオーストラリアなどの南半球に到達すると、それまで見たことがない「黒い」ハクチョウが存在していました。

現在、これらの黒いハクチョウは、コクチョウと呼ばれていますが、いないはずの「黒いハクチョウ」の出現により、当時の人々はとても強い衝撃を受けます。

 

経済の世界でブラックスワンという場合、事前に予想不可能で、発生したときに衝撃が大きい出来事をさします。

確率論や従来の知識・経験などで計り知れない予想不可能な事態というのは、低確率ですが発生します。

 

リーマンショックイギリスのEU離脱トランプ大統領の当選などが代表的な例とされてきましたが、今後は、新型コロナウイルスの登場ブラックスワンの代表例として語られるのではないでしょうか。

グリーンスワン

一方、グリーンスワン(緑のハクチョウ)とは何でしょうか。

グリーンは環境を意味する言葉で、環境が原因で予測不可能なことが起きることをさす言葉です。

ブラックスワンの環境版といった意味で近年使われるようになった言葉です。

 

例えば、低炭素社会への移行が政府の政策などにより急速に起きた時、二酸化炭素排出量が多い車や火力発電の企業が大幅なコストアップ、あるいは倒産に追い込まれるかもしれません。

投資家たちは、そうした会社の株や社債などを投げ売りしてしまうかもしれません

 

グリーンスワンはブラックスワンに比べると、長期的な視点で経済を捉えていると思います。

ポスト新型コロナウイルス時、投資家たちは再び環境問題に向き合わざるを得ないでしょう。

実際、バイデン政権が成立することが確実になると環境関連銘柄が大きく値上がりました

 

灰色のサイ(グレイリノ)

灰色のサイ(gray rhino)とは、高い確率で発生することが予想されるのに、普段は重要視されず見過ごされがちなことをさす言葉。

 

サイは草食で、鈍重なため「おとなしくて無害」と思われがちな動物です。

しかし、ひとたびサイが怒ると暴走特急のような勢いで周囲の物を薙ぎ払い、敵を攻撃します。

 

いつもはおとなしくて地味(だからgray)なのに、暴れだしたら手を付けられないサイの特徴から名づけられた経済用語ですね。

 

例えば、各国政府や自治体がおこなっている借金(国債や先進国で多く見られる少子高齢化、グリーンスワンでも取り上げた環境問題なども灰色のサイではないでしょうか。

 

人間というのは、どうしても長期的なものは後回しにしがちです。

しかし、そういった後回しの要素こそ、表面化した時に経済的ダメージが大きいものとなります。 

ブルーオーシャン戦略

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21世紀の初め、チャン・キムレネ・モボルニュは『BLUE OCEAN STRATEGY』を著しました。

 

この中で、彼らは競争の激しい業界を「レッドオーシャン」、つまり、日々の戦いで傷つき、血で染まった海と表現します。

競争の激しいレッドオーシャンでの戦いを避け、未開拓領域である「ブルーオーシャン」で事業を行い、会社を成長させるべきだと説きました。

 

よく例として出されるのは、サーカス業界の「シルク・ドゥ・ソレイユ」です。

サーカス産業は来場者の減少や娯楽の多様化などにより売り上げが右肩下がりの斜陽産業でした。

 

シルク・ドゥ・ソレイユは、動物を使った曲芸をなくし、人間が演じる芸に集中。大道芸やオペラ、ロックの要素を取り入れ、「魅せる」ショーとして人々に新しいサーカスを提案しました。

 

とはいえ、ブルーオーシャンであってもブラックスワンが出現すると大打撃を受けかねません。

シルク・ドゥ・ソレイユは、新型コロナウイルスの影響で90%の従業員を解雇し何とか生き残りを図っていますが、うまくいくかは不透明です。

 

残念ながら、シルク・ドゥ・ソレイユは2020年6月に破産を申請しました。

現在は従業員をいったん解雇し、一から再生するチャンスを狙っています。

エンターテイメントは、人々の心にゆとりや希望をもたらすと思うので、ぜひ、復活してほしいと思いますね。

 

ホワイトナイト

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引用:騎士 - Wikipedia

ホワイトナイト(白い騎士)は、敵対的買収を仕掛けられた企業を支援し、友好的な買収または合併をする企業のこと

白馬の騎士=正義の味方、自分たちを救ってくれる救い主という発想から生まれた言葉なのでしょう。

 

かつて、日本では敵対的買収は活発ではありませんでした。

しかし、2000年代以降、大規模な敵対的買収案件が見られるようになります。

 

株式会社は、発行している株数の過半数を制することで、その会社を「保有」することが可能です。

ある企業を強引にでも手に入れたいと考えた場合、その企業の株を買って経営権を得るのは悪いことでも何でもありません。

近年では大戸屋の買収がこれにあたります。

 

買収される側が買収に同意しない場合、買いたいと思う会社が「株式公開買い付け(TOB)などを使って無理やり会社の株を手に入れようとすることがあります。

買われる側の経営陣が同意していないことから、「敵対的買収」と呼ばれてしまうんですね。

 

2001年の村上ファンドによる昭栄株の公開買い付けやライブドアによるニッポン放送株の大量取得、アメリカの投資ファンドであるスティールパートナーズが行った明星食品の買収などが敵対的買収とみなされました。

 

明星食品の場合、日清食品ホワイトナイトとして登場し、スティールパートナーズ以上の金額で明星食品を買収しました。

まとめ

経済にまつわるカタカナ語はたくさんあります。

グローバル経済が当たり前である現在、もっともっとカタカナ語は増え続けるでしょう。

 

新型コロナウイルスの影響が収まった後、新しい「グローバルスタンダード(世界標準)」が作られるのではないかという憶測が流れる中、いままでの経済用語を見直すのもよいのではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

「黄金の茶室とは?」「秀吉はどうやって黄金を集めた?」「豊臣政権の経済基盤とは?」わかりやすく解説!

黄金の茶室って何?

秀吉はどうやって黄金を集めたの?

豊臣政権の経済基盤について知りたい!

 

この記事をご覧の方はそのようにお考えかもしれません。

黄金の茶室は秀吉がつくらせた組み立て式の茶室です。

室内の随所に黄金をちりばめた豪華な茶室だったので、黄金の茶室とよばれました。

 

秀吉がこれだけの金を集めることができたのはこれまでの戦国大名にはない全国支配の仕組みを整えたからです。

全国の重要都市や金銀山を自分のものにすることで、これだけ豪華な茶室を作ることができました。

 

今回は豊臣秀吉がつくった黄金の茶室や、彼の経済基盤などについてまとめます。

 

 

 

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秀吉がつくった黄金の茶室とは?

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引用:黄金の茶室 - Wikipedia

豊臣秀吉は天下統一を成し遂げると、日本全国の富を自分に集中させました。

その象徴となったのが「黄金の茶室」です。

 

黄金の茶室は畳三畳ほどのもので、室内の随所に金を使った豪華絢爛たるものでした。

しかも組み立て式のため、移動させることが可能です。

実際、秀吉はこの茶室を正親町天皇の住む御所や北野の大茶会の会場にもちこみ、自分の権勢を示しました。

 

部屋のしつらえのありとあらゆるところに黄金を用いた茶室はまばゆいばかりの光を放っていたことでしょう。

秀吉はこれほどの金をどのようにして手に入れたのでしょうか。

豊臣秀吉の財政基盤

秀吉政権の財源を三つに分けて考えてみましょう。 

全国各地に設置された直轄領(蔵入地)

一つ目は、約200万石の直轄地です。秀吉は近畿地方を中心に、全国各地に直轄領を作りました。

直轄領は、経済的に重要な場所にピンポイントでおかれます

 

例えば、九州でいえば貿易の中心地である博多が直轄領でした。

また、島津氏の領国内の直轄地である加治木や佐竹氏の領国内の直轄地である那珂湊も国内経済の重要地点です。 

金銀山の直轄

 

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秀吉がつくらせた天正大判

引用:天正大判 - Wikipedia

二つ目は全国各地の金山・銀山などからの収入です。

秀吉は佐渡金山生野銀山石見銀山などの重要な鉱山を直轄地に組み入れました。

 

戦国時代の日本は空前のゴールド・シルバーラッシュ。

各地の鉱山から取り出された金銀は戦国大名の軍資金となっていました。

 

秀吉は、天下統一後に金銀山を差し押さえ、自分のものとします

黄金王というのはたとえ話ではなく、本当に秀吉が大量の金を持っていたから就いたあだ名なんですね。

 

秀吉は直轄金銀山から得た金銀で貨幣を作らせます。

もっとも有名なのは天正大判でしょう。

天正大判は金73.84%、銀26.16%でつくられた大型の金貨幣

いつも使うお金というより、金の延べ棒に近い感覚だったでしょうね。

 

秀吉がつくらせた天正大判は全部で15万枚近く

現存しているものは多くないので、金としての価値に加え、骨とう品としての価値も加算されますよ。

 

重要都市の直轄と豪商の利用

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秀吉の茶道となった豪商、千利休

引用:千利休 - Wikipedia

三つ目は重要都市の直轄と豪商の利用です。

博多や加治木、那珂湊のほかに大坂、京都、堺、伏見、長崎などが秀吉の直轄領となりました。

これらの都市から吸い上げられる税も秀吉政権の重要な財源です。

 

これらの町に住む豪商たちは秀吉政権と密接な関係を持ちました。

その代表が千利休小西隆佐島井宗室神屋宗湛です。

豪商たちは豊臣政権に資金提供する見返りに、商売上の自由や特権を認められました。

 

秀吉を支えた石田三成ら官僚たち

足軽の子から成りあがった豊臣秀吉

先祖代々の家臣を持たなかった秀吉は、優秀な人物に片っ端から声をかけてスカウトしました。

 

秀吉がスカウトした人材は2つのグループに分けられます。

一つは、賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍に代表される子飼いの武将たち。

加藤清正福島正成などの若手武将たちですね。

 

もう一つのグループは、秀吉が北近江を所領としていた時にスカウトした官僚・武人の集団です。

その代表はなんといっても石田三成でしょう。

 

石田三成らは武将というよりは官僚として秀吉の天下統一に活躍します。

三成の能力がいかんなく発揮されたのは秀吉の九州征伐の時でした。

 

1587年に始まった秀吉の九州征伐は非常に短期間で終結します。

その原動力となったのが、石田三成ら優秀な官僚たちでした。

彼らは、大軍を動員・輸送するにあたって緻密に計算。

現場が動きやすいように物資を動かしました

三成たちの力は秀吉が勢力を拡大するにつれ、重要なものとなります。

 

まとめ

秀吉が作り上げた黄金の茶室は人々の目を開かせるほどの絢爛豪華なものでした。

秀吉がこれほど豪華な茶室を作ることができたのは、強大な経済基盤を持っていたからです。

経済上の重要地点や金銀山を支配することができた秀吉だったからこそ、黄金の茶室を作ることができたのでしょう。

 

豊臣政権が作り上げたシステムは、次の江戸幕府にも引き継がれます。

太閤検地や金銀山の直轄などは、幕府にとっても重要な政策だったからです。

黄金王秀吉が蓄えた金銀財宝は、豊臣氏滅亡後、行方が分かっていません。

 

徳川幕府によって接収されたのか。

大坂の役で豊臣秀頼淀殿が使い切ってしまったのか。

大坂落城前に別な場所に移されて「埋蔵金」となったのか。

非常に興味深い謎です。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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