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「怨霊の意味って何?」「有名な怨霊は誰?」「御霊信仰ってどんな信仰?」わかりやすく解説!

怨霊って何?生霊と違うの?

平安時代の有名な怨霊は?

御霊信仰って何?御霊信仰の有名な神社とは?

 

このページに来てくれた方は、そんな疑問を持っているかもしれません。

怨霊とは、激しい怨み(うらみ)をもって非業の死を遂げた人の霊魂(霊)のことです。

平安時代の代表的な怨霊は早良親王菅原道真平将門崇徳上皇で、いずれも、非業の死を遂げています。

 

こうした怨霊を祀り、鎮めるために始まったのが御霊信仰でした。

彼らを鎮めるため各地に神社が建てられます。

 

今回は、早良親王菅原道真平将門崇徳上皇など怨霊とされた人々や、怨霊を祀る御霊信仰についてまとめます。

 

平安時代に興味がある方は、こちらの記事もどうぞ!

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怨霊とは何か(生霊と死霊)

怨霊とは、激しい怨み(うらみ)をもって非業の死を遂げた人の霊魂(霊)のこと。

怨霊は、生きている人に禍をもたらすと考えられてきました。

 

日本を含む東アジア世界では、人間の肉体と霊魂は別々に存在すると考えられます。

それを表す言葉が「魂魄」です。魂は精神的なものを、魄は肉体的なものをあらわしました。

 

ちなみに、生きているときに魂が肉体を離れ、なんらかの祟りを成す場合は「生霊」とよばれます。

 

一番わかりやすいのは、『源氏物語』に登場する六条御息所でしょうね。

主人公である光源氏に対する強い想いと、光源氏とかかわる女性に対する激しい嫉妬・憎悪から、夜な夜な魂だけが肉体を抜け出し、相手の女性にたたりを成しました

 

今回扱うのは、怨霊の中でも亡くなった人の魂である「死霊」の怨霊です。

 

 

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平安時代の怨霊たち

平安時代より以前から、無念の思いを抱いて亡くなった人は現世の人々にたたりを成すという考え方があり、「怨霊」とされた人は結構います。

今回は、歴史上著名な4人の怨霊について紹介します。

 

早良親王

早良親王奈良時代末期に、光仁天皇の皇子として生まれました。

早良親王桓武天皇と同じ高野新笠の子です。

 

天武天皇の血筋が優先された奈良時代天智天皇系である早良親王や父である白壁王は、皇位継承の確立が低いと考えられていました。

 

しかし、称徳天皇が子供のいない状態で亡くなると、天武天皇の血筋が絶えてしまいました。

そのため、朝廷の重臣たちは白壁王を光仁天皇として迎えることにしました。

 

これにより、早良親王は兄である山部親王についで、高い皇位継承権をもつことになります。

 

光仁天皇が亡くなり、山部親王桓武天皇として即位しました。

このとき、早良親王は皇太弟にたてられます。

 

早良親王の命運が暗転したのは785年。

長岡京建設の責任者だった藤原種継暗殺事件連座し、早良親王は幽閉されてしまいます。

桓武天皇早良親王淡路国に流すと決定します。

 

身に覚えがない罪だったため、早良親王は抗議の断食をしました。

早良親王は流される途中、河内国高瀬橋の付近でこの世を恨みつつ亡くなりました。

 

その後、桓武天皇の近親者に不審死が相次ぎます。

それだけではなく、都では疫病が流行し、洪水が発生するなど天変地異が続きました。

桓武天皇や朝廷は早良親王が怨霊となったと考え、早良親王の霊を鎮めるため「崇道天皇」の称号を追贈しました。

 

菅原道真

菅原道真平安時代初期の学者・貴族です。

宇多天皇に仕え、宇多天皇が行った寛平の治を支えました。

 

道真にスポットライトが当たるきっかけとなったのは、阿衡の紛議です。

即位したての宇多天皇重臣である藤原基経を関白に任じるとき、勅書の中に「宜しく阿衡を以って卿の任とせよ」との一文がありました。

 

基経はある学者から「阿衡」は名誉職である、実験がないと告げられれ、「それならば出仕の必要はない」として政治をボイコットしてしまいます。

 

このとき、基経に書簡を送り朝廷に出仕するよう諫めたのが菅原道真でした。

以来、道真は宇多天皇の側近として重用されるようになります。

 

菅原家は代々、学者の家柄でした。

しかし、高位高官に登る家柄ではなかったため、道真の出世を快く思わない貴族がいたとしても不思議はありません。

 

宇多天皇が引退し、天皇の位を息子の醍醐天皇に譲ると、道真は右大臣に昇進しました。

道真は醍醐天皇に引退を申し出ますが、醍醐天皇はこれを却下しました。

 

事態の変化は突然でした。

901年、醍醐天皇は道真が宇多天皇を惑わしたとして、突如、太宰府への流罪が決定。道真の子たちも流刑とされます。

 

これは、左大臣藤原時平による陰謀とも、父以来の重臣である菅原道真を排除したがっていた醍醐天皇の意向とも伝えられますが、真偽は定かではありません。

太宰府に流された道真は、903年、失意の中でなくなります。こののち、朝廷では異変が相次ぎました。

 

908年、道真の弟子で道真の無罪を醍醐天皇に訴えようとした宇多天皇を阻んだ藤原菅根が死去します。

死因は落雷でした。

 

909年、道真左遷の首謀者と考えられた藤原時平が39歳の若さで病死。

910年から連年、洪水や大火などの災害が京都を襲います。

さらに、913年には道真の後任として右大臣となった源光が死去します。

その後も、洪水や水ぼうそう渇水、洪水、せきの病などあらゆる災害が京都を襲いました。

 

極めつけは930年に起きた出来事。

この時、宮中の清涼殿では醍醐天皇臨席のもと、朝廷の会議(朝議)が行われていました。

議題は雨乞いの儀式を行うべきか否かです。

昼過ぎ、愛宕山の方から黒雲がわき平安京を覆います。

そして、清涼殿に落雷が落ちました。

 

大納言藤原清貫は衣服を焼かれ死亡。

右中弁内蔵頭の平希世は顔を焼かれ、ほどなく亡くなりました。

死の穢れを徹底的に排除しているはずの宮中で死者が出たことは、宮中を大混乱させます。

 

醍醐天皇は清涼殿から避難したものの、その時のショックがもとで3か月後に死去します。

 

これらの事件は、怨霊となった道真が雷神の姿となり雷を操っておこしたと考えられました。

恐れおののいた朝廷は947年に北野天満宮を創建し、道真を神として祀ります。

菅原道真が祀られるようになったいきさつについて、本格的に知りたい方にはこちらがおすすめ。

 

平将門の怨霊伝説

平将門平安時代中期の武将です。

関東で朝廷が送り込んでくる国司たちの非道に抵抗し、関東で独立国を築き上げようとしました。

平将門はみずから「新皇」と称し、独自の関東政府を樹立しようとはかったのです。

 

朝廷は「将門を討ち取ったら貴族にする」という破格のお触れを出して、将門討伐軍を募りました。

結局、将門は940年に討伐軍との戦い敗れ、討ち取られてしまいました。

ここまでなら、歴史上、しばしばみられる反乱と討伐の物語。

しかし、ここからが将門の怨霊の本領発揮なのです。

 

討ち取られた将門の首は京都に運ばれ、七条河原町でさらし首にされました。

しかし、その首がいつまでたっても腐らない。

そればかりか、何か月も目を見開いていたとか、歯ぎしりをしていたとか、怪異譚が続きました。

 

そして、ついには首が関東に向けて飛び去ります。

将門の首は、故郷の下総国(千葉県の一部)にたどり着いたとも、途中で力尽き落下したともいいます。

落下したとされる場所には将門の首塚がつくられました。

 

もっとも有名な首塚は東京にある将門塚。

東京都千代田区大手町にある将門の首を祀ったとされる首塚のことです。

 

関東大震災後、東京の再開発が進められていた時に首塚周辺に大蔵省の仮庁舎を建てようとしました。

その後、時の大蔵大臣の不審死などが将門の祟りと恐れられ、大蔵省仮庁舎を取り壊しています。

 

また、第二次世界大戦後にGHQ首塚周辺を整地しようとしたところ事故が相次いだことから、区画整理事業を中止したといったことが伝えられています。

平将門が生きた時代を含む平安時代前期の歴史の流れを知りたいならこのシリーズがおすすめです。

崇徳上皇 

崇徳上皇平安時代末期の人物で、朝廷の最高権力者である「治天の君」の座を後白河天皇と争いました。

保元の乱で敗れた崇徳上皇は、四国の讃岐(香川県)に配流されます。

 

配流された崇徳上皇は、権力争いからすっかり離れ、仏教を深く信仰。

当時の流行であった浄土の教えに帰依し極楽往生を願いました。

 

崇徳上皇は、極楽往生するため五部大蔵経の筆写をおこないます。

崇徳上皇は五部大蔵経を京都の寺院に納めてほしいと贈りましたが、後白河上皇崇徳上皇の呪詛が込められているのではないかと疑い、写経を送り返します。

 

このことに怒った崇徳上皇は「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」と本当の呪詛を写経に書き込みました。

 

崇徳上皇の呪詛が効いたかのように、12世紀後半は動乱の時代となります。

後白河上皇の近縁者が相次いで亡くなり、平清盛後白河上皇を幽閉するなどそれまでの社会秩序が大きく乱れました。

 

あまりに凶事が多くなったので、それらは崇徳上皇の祟りではないかと疑われます。

後白河上皇は1184年に崇徳上皇を朝敵とした処分を撤回。崇徳院の称号を追贈しました。 

 

御霊信仰とは

日本において、祟りを成す強大な存在にたいしては、一つの遇し方がありました。

それが、神として祀ること。

神として祀ることで、怨霊から守り神に変えようとしたのでしょう。

そうすることで、怨霊を御霊にして、味方につけようとします

 

日本国の大魔縁となり、天皇家を没落させると宣言した崇徳上皇は、神として祀られることで四国の守護神となりました。

平将門は、首塚神田明神で祀られ関東の守護神となります。

 

菅原道真に至っては、雷神を統べる天神、かつ学問の神となって全国各地に天満宮が建てられるようになりました。

 

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怨霊となった人物たちとかかわり深い神社

怨霊となった人物たちは、崇道神社や北野天満宮神田明神白峯神宮に神として祀られます。

 

崇道神社

早良親王を祀った神社は、京都市左京区上高野にある崇道神社です。

社伝によれば、神社は早良親王の霊を鎮めるため貞観年間(9世紀半ば)に創建されました。

境内からは小野妹子の子である小野毛人墓誌が見つかり、国宝に指定されます。

 

もともと、この神社の敷地は小野氏にゆかりがある土地だったので、神社が建てられる前に小野氏の墓があったからでしょう。

崇道神社をはじめとする「いわく」がついた神社は京都にたくさんあります。

北野天満宮

北野天満宮京都市上京区にたてられました。

道真の怨霊を鎮めるため建てられた北野天満宮では菅原道真と子の菅原高視が祀られています。

 

987年、一条天皇は勅旨を派遣し「北野天満宮天神」の称号を贈りました。

北野天満宮室町幕府の崇敬も受けましたが、室町時代後期の戦乱で焼け落ち、一時衰退します。

 

1587年、豊臣秀吉北野天満宮の境内で「北野の大茶会(北野大茶湯)を開催。その後、1607年に現在の社殿が造営されました。

江戸時代以降、道真は怨霊・雷神としてというより、学問の神として祀られるようになります。

神田明神

神田明神は、大己貴命少彦名命とともに平将門を祀った神社です。

平将門の乱が静まっても、関東の人々の心には将門を崇敬する気持ちがあったようで、人々の信仰の対象となりました。

 

14世紀初頭に疫病が流行した時、これは将門の祟りだということになり、将門への供養が実行され、1309年に神田明神で祀られるようになりました。

 

江戸時代初期、神田明神は現在地に移転し、江戸総鎮守として江戸の人々に信仰されます。

関東大震災で焼失後、1934年に鉄筋コンクリート製で再建されます。

東京大空襲でも奇跡的に焼失を免れました。

 

明治時代に、将門は祭神から外されましたが、戦後に神田明神の祭神として復活します。

 

白峯神宮

京都市上京区にある白峯神社は、明治時代に創建された神社で都を追放された崇徳上皇を祀っています。

 

崇徳上皇を祀ったのは明治天皇です。

もともとは、明治天皇の父である孝明天皇崇徳上皇の御霊を京都に迎えようとしていたのを、明治天皇が実行したものですね。

 

皇室にとって、崇徳上皇の存在は没後800年たっても注意を払う対象でした。

1964年、昭和天皇香川県坂出市にある崇徳天皇陵に勅旨を派遣し、式年祭を執り行わせます。

崇徳上皇の呪詛が現実のものとならないよう、怨霊を鎮めたかったのでしょうね。

 

まとめ

早良親王菅原道真平将門崇徳上皇。いずれも非業の死を遂げた人々には、生きている人々を呪詛するしかるべき理由があったのでしょう。

 

しかし、彼らに祟られていると思った人たちは、それぞれに心当たりがあったのかもしれません。何かの不幸があれば、自分のかつての所業を思い出したのかもしれません。願わくば、怨霊に祟られない人生を歩みたいものですね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

「朝鮮王朝って何?」「朝鮮王朝の身分制度とは?」「代表的な国王は?」ドラマをもっと楽しむための朝鮮王朝の基本知識!

朝鮮王朝とは?

朝鮮王朝の身分制度はどうなっているの?

朝鮮王朝の有名な国王は?

 

このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。

朝鮮王朝は1392年に李成桂を始祖とし、500年以上にわたって朝鮮半島を支配しました。

 

朝鮮半島の支配階級は「両班(ヤンバン)」と呼ばれています。

儒教を身に着けた士林とよばれる人々が中心となり政治を動かしました。

 

近年、日本でも多くの韓国歴史ドラマが放映されるようになりました。

 

李成桂を主人公とした『大風水』

世宗を主人公にした『世宗大王

中宗が登場する『チャングムの誓い』

正祖を主人公にした『イ・サン』などがその代表です。

 

同じ王朝を舞台としている歴史ドラマならば、共通項がたくさんあるはず。

階級や社会制度、思想など同じ時代の「お約束」をしっかり理解すれば、もっと韓国の歴史ドラマを楽しめること間違いなし!

 

今回は、朝鮮王朝の基礎知識である建国事情や思想・文化、身分制度、国王が登場する代表的なドラマなどについてまとめます。

 

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/370014">TECHD</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

朝鮮王朝の建国

朝鮮王朝を開いた李成桂は、それまで朝鮮半島を支配してきた高麗王朝の武人です。

高麗王朝は中国を支配していた元との戦いに敗れ、元に服属していました。

 

14世紀後半、高麗国内では元に従うべきか、新しく中国に起こりつつあった明と手を結ぶべきか国論が割れます。

 

同じころ、朝鮮半島は日本から攻め込んでくる倭寇によって沿岸部を荒らされていました。

高麗王朝には倭寇を防ぐ力はなく、沿岸部は倭寇の成すがままにされ荒廃します。

倭寇討伐で実績を上げ、高麗王朝で人望を集めたのが李成桂でした。

 

李成桂は高麗政府の命令で国境付近の明軍を攻撃するよう命じられます。

軍を率いた李成桂は、水位が増していた鴨緑江(国境の川)の渡河を断念。

軍を都に返し、そのままクーデタを起こして政治の実権を握りました

 

1392年、李成桂は高麗最後の王から王位を譲り受け、国王に即位します。

これが、朝鮮王朝の始まりです。

 

 

朝鮮王朝時代の思想・文化

朝鮮王朝は儒教を中心とした国づくりをおこないます。

これは、初代国王李成桂が崇儒廃仏の政策をとったからですね。

 

李成桂が仏教を弾圧した理由は、前の王朝である高麗が仏教を厚く信仰していたことがあります。

人心を一新するためにも、新しい価値観として儒教、特に朱子学を重視したのでしょう。

 

朝鮮王朝の支配階級である両班は、朱子学的な教養を身に着けることが必須でした。

4代国王世宗(セジョン)の時代、韓国独自の文字であるハングルのもととなる訓民正音がつくられました

 

しかし、朝鮮王朝時代は漢字が重んじられ、ハングルが公文書に用いられることはありません。

 

朝鮮王朝時代、民間教育は不振だったので、ハングルはあまり普及しませんでした。

ハングルが普及するのは日本による植民地化以後のことです。

これは、意外ですね。

朝鮮王朝時代の身分制度

朝鮮王朝時代には、大きく分けて4つの身分が存在していました。

配者階級である両班(ヤンバン)

おもに地方行政を担った専門職である中人(チユンイン)

一般的な平民である常人(サンイン)

奴隷など常人如何に位置付けられた賎人の4つです。

 

両班は高麗王朝以来の支配階級。

文官である文班と武官である武班の二つに分けられました。

そのうち、両班は官僚というより、支配階級全体をさすようになります。

 

中国では官吏登用試験の科挙が行われていました。

朝鮮王朝でも、中国王朝と同じく科挙が実施されます。

科挙で合格した人々は中央政府の官僚として国王に仕えました

 

科挙で合格し、中央政府で大きな力を握った人々を士林(知識人の集団)といいます。

士林は、王族や保守派官僚を強く批判することもあったため、たびたび弾圧されました。

韓国の歴史ドラマの中でも、しばしばそういう場面に出くわします。

また、士林の中でも主導権争いが絶えませんでした(党争)

 

朝鮮王朝に官僚として勤める役人たちは、服の色などによって位を見分けることができます。

もっとも高位に位置付けられているのが赤い服の官僚たち。

正三品堂上官以上の高級官僚が赤い服を着ています。

赤い服の役人=偉いと思って間違いないですね。

 

次に位置付けられているのが青い服の官僚たち。

正三品堂下官から従六品までの中堅官僚たちが青い服です。

正七品から従九品までが緑の服。下級官僚が身に着ける服の色が緑でした。

 

宮中に仕える女官たちも服の色で階級がわかりました。

高い位から順に、薄紫の上着に藍色のスカートの尚宮

淡い赤の上着に藍色のスカートの尚儀

薄いピンクの上着に青いスカートの見習い女官

といった具合に、一目で見分けることができました。

 

ちなみに、朝鮮王朝では工業があまり発達していなかったため、染め物の技術も未発達だったようです。

そのため、美しい色合いで染められた服は中国からの輸入品の布で織られていました。

赤の官服のように、色鮮やかなものは高位高官しか着られなかったのも当然のことですね。

 

事大主義に代表される朝鮮王朝の対外姿勢

 

事大主義とは小(朝鮮)が大(中国王朝)に仕えるという外交方針の事

明王朝が存続している間は明に、清が明にとってかわると清に従うことで国の安全を保ちました。

朝鮮王朝は中国皇帝からの使節を迎えるための施設「慕華館」を建設。

皇帝の使者を手厚くもてなしました。

それに対し、日本に対してはそれぞれの時代の状況や支配者によって対応が異なりました。

室町時代倭寇がしきりに侵入してきたときには倭寇の根拠地とみなした対馬朝鮮軍が襲撃したこともありました。

豊臣秀吉が明を攻めるために協力せよといってきたときには拒否。

明軍とともに豊臣軍と戦っています。

江戸幕府が成立すると、対馬の宗氏を仲立ちとして対等な関係を結びます。

朝鮮からは朝鮮通信使が江戸に派遣されるなど、江戸時代を通じて交流を持ちます。

 

まとめ

李成桂に始まる朝鮮王朝は500年もの長きにわたって朝鮮半島に君臨した王朝でした。

朝鮮王朝では儒教が重視され、両班とよばれる階級が支配者層となります。

朝鮮王朝の官僚たちはランクによって着る服の色が決まっていました。

特に、赤い服を着ている官僚は高級官僚ですよ。

 

朝鮮王朝にとって最も重要な国は中国(明や清)中国からの使者は最上級のもてなしをされました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 

 

「ベトナムってどんな国?」「ベトナムの歴史やベトナム戦争について知りたい!」「コーヒーやフォーなどベトナムの美味しいものが知りたい!」

ベトナムってどんな国?

近代ベトナムの歴史やベトナム戦争とは?

コーヒーやフォーなどベトナムの食べ物とは?

 

このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。

ベトナムは東南アジアの国の一つで、20世紀前半はフランスの植民地でした。

一時、日本が支配しますが、太平洋戦争後にフランスが植民地支配を復活させます。

 

しかし、フランスの植民地支配に対しホー・チ・ミンらは独立運動を展開しました。

フランスが撤退後、ベトナムは南北に分けられますがベトナム戦争の結果、南北ベトナムが統一し現在に至ります。

 

統一後、ベトナム社会主義国でありながら独自の経済路線をとり急成長を遂げます。

時差が少ないこともあって、日本企業はベトナム積極的に進出しました。

 

ベトナムはとても食べ物がおいしい国で、フォー生春巻きなど日本人になじみがあるベトナム料理もありますよ。

 

今回は、ハノイを首都とするベトナムについてわかりやすく解説します。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/2099507">ベトカラTV</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

 

ベトナムの地理

ベトナムは南北1,650キロメートルに広がる南北に細長い国です。

 

ベトナム北部の中心都市は首都のハノイ

ベトナム北部を流れる紅河は、ハノイを含む広い平野を作り上げます。

人口のおよそ7割は紅河のデルタ地帯に集まっています。

 

ベトナム南部の中心都市はホーチミン

かつては、サイゴンとよばれました。

南部を流れるのは東南アジア屈指の大河であるメコン川です。

 

ベトナムは熱帯の気候のため、高温多湿。

とはいえ、赤道直下ではないので雨季と乾季があるサバナ気候です。

ベトナム観光を楽しむのであれば、乾季の冬が良いかもしれません。

 

近代ベトナムの歴史

ベトナムが現在の領土になったのは19世紀です。

19世紀にできた阮朝はシャム(タイ)に亡命していた阮福瑛がフランス人宣教師ピニョーの支援を受けて建国した国でした。

そのため、建国当初からフランスとのかかわりが深い国だったといえます。

 

19世紀の中ごろ、イギリスやフランスは東南アジアや中国に積極的に進出。

各地を植民地にしていきました。フランスはベトナムに目を付けます。

 

フランスのナポレオン3世ベトナムに兵を派遣しベトナム南部を征服。

ナポレオン3世が戦争に負けて退位した後も、フランス共和国政府はベトナムに圧力をかけ続け、ベトナムを植民地にしてしまいました(フランス領インドシナ)。

 

第二次世界大戦中、フランス領インドシナは日本に占領されます。

戦争に負けた日本がベトナムから撤退すると、フランスはベトナムの支配を強化しようとしました。

 

そのフランスに反発したのがベトナム独立を目指していたホー・チ・ミンです。

ホーチミンソ連や中国の支援を受けてフランスとインドシナ戦争を戦いました。

 

ベトナム軍はすぐれた装備を持つフランス軍を徐々に追い詰め、ディエン=ビエン=フーの戦いフランス軍に決定的な勝利を収めます。

 

1954年に結ばれたジュネーヴ休戦協定では北部にホーチミン率いるベトナム民主共和国、南部にアメリカが支援するベトナムが成立しました。

それからも、北ベトナム南ベトナムの対立関係が続きます。

 

1965年、アメリカは南ベトナムを支援するため本格的に介入し、ベトナム戦争が始まります。

ベトナム戦争においても、ベトナム人は粘り強く超大国アメリカと戦い続けました。

 

1973年、多くの犠牲に耐えられなくなったアメリカはベトナムから撤退し、ベトナム戦争が終わります。

その2年後、北ベトナム軍は南ベトナムの首都サイゴンを陥落させ、ベトナム戦争が終わりました

サイゴンは建国の父の名をとって、ホーチミンと改められます。

 

1990年代以降、急成長を遂げたベトナム経済

1980年代、ソ連をはじめとする社会主義国では経済がうまくいかなくなってきました。

ソ連ペレストロイカという経済改革が行われ、中国で改革開放政策が行われていたころ、ベトナムでは「ドイ=モイ」政策が行われます。

 

ドイ=モイ政策は、社会主義の枠の中で食糧の増産や消費物資の生産拡大、輸出の拡大などを狙った政策です。

ドイ=モイ政策を打ち出した経済学者のグエン・スアン・オアイン氏は、日本で経済学を学んだ人物ですね。

 

ドイ=モイ政策は、最初暴走します。

改革のスピードが予想以上に早かったため、ベトナム人自身が大混乱してしまったのです。

このあたりは、エリツィン政権時代のロシアと似ているかもしれません。

 

政府はインフレを抑えるため金利を引き上げ、世の中に出回っていたお札を回収。公共事業を減らすことでお札の流通量を減らしました。

その効果が表れ、徐々に物価が下がり、混乱は治まっていきます。

 

1990年以降、ベトナムは外国資本を積極的に受け入れ、経済発展をはかりました。

ベトナムの武器は安い労働力です。

欧米などの資本主義国では、安く製品をつくることができるベトナムに積極的に進出する動きが目立つようになります。

 

特にベトナムに進出してきたのは衣料品をつくる工場でした。

人件費が安いベトナムでは、欧米よりも安く服をつくることができたからです。

 

農業の面では、嗜好品のコーヒーに注目が集まりました。

コーヒーは熱帯、中でもサバナ気候を好む傾向があります。

世界で一番生産量が多いのはブラジルですが、ベトナムはそれに次ぐ第二位まで生産量が伸びたこともあります

日本ではマイナーですが、世界的に高く評価され生産量を伸ばしてきました。

コーヒーの代表的品種であるアラビカ種とロブスタ種をブレンドしたこちらのコーヒーは、複数の豆を使ったことで深い味わいを醸し出しています。

個人的にはちょっと苦みが強く感じましたが、朝の目覚めにちょうどいい感じでした。

頭をすっきりさせたい方にオススメですね。

 

ベトナム人は、日本にも数多くやってきています。

その多くは技能実習生や留学生として来日し、学びながら働いています。

ベトナムを代表する食べ物

 

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ベトナムといえば、やっぱり「生春巻き」が欠かせません。

定番中の定番といってもいいですよね!?エビやハーブがまかれているのがよく見かけます。

醤油系のソースを絡めるのが個人的には好きです。

 

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ベトナムは日本と同じく米文化圏の国。ある意味、日本よりも徹底しています。

ベトナムで麺といえば、米で作った「フォー」が当たり前。

あっさりとしたスープは白湯を思わせます。

レモングラスなどのハーブを入れて、香り豊かな麺として味わうのもおすすめ!

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個人的に好きなのはソフトシェルクラブという小さなカニの丸ごと揚げ

唐が柔らかいので、丸ごと食べられます。エビの唐揚げを食べているのに似た感覚ですが、一番口にあった食べ物ですよ。

 

他にも、たくさん日本人の口にあいそうなベトナム料理があります。

日本国内でベトナム料理を扱っている店なら、日本人好みにアレンジしてくれているかもしれませんね。

新型コロナウイルスの脅威が去ったら、ぜひ、食べに行きたいです!

さいごに

ベトナムは、第二次世界大戦ベトナム戦争を乗り越えて経済成長を遂げてきました。

1990年代のアジア通貨危機リーマンショックなどの経済危機を乗り越えて力強く成長している国です。

今回のコロナショックを乗り越えた暁には、豊富な資源と優秀な人材をもつベトナムの急成長はさらに加速するかもしれません。

今後もベトナムの成長に注目したいと考えています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

「太原雪斎ってどんな人?」「桶狭間の戦いのときどうしていた?」「太原雪斎と徳川家康の関係は?」わかりやすく解説!

太原雪斎ってどんな人?

桶狭間の戦いのときはどうしていたの?

太原雪斎徳川家康の関係は?

 

この記事をご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。

太原雪斎は今川家の軍師で主に今川義元に仕えました。

今川義元武田信玄北条氏康と結んだ「甲相駿三国同盟」の立役者としても知られています。

 

太原雪斎は今川家の勢力拡大に力を尽くしましたが1555年に亡くなりました。

したがって、桶狭間の戦いのときはこの世にいません。

また、今川家で人質として幼少期を過ごした徳川家康の先生役を務めたという説もあります。

 

今回は今川家の軍師として今川家の最盛期を築き上げた太原雪斎の功績についてまとめます。

 

 

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太原雪斎の生い立ち

太原雪斎は庵原城城主、庵原政盛の子として生まれました。

庵原氏は駿河国の有力豪族で現在の静岡市清水区周辺を治めていた豪族です。

今川氏の譜代の重臣として仕えていました。

 

雪斎が生まれたのは1496年。

応仁の乱後、室町幕府の力が衰え全国各地で下剋上が起こり始めていた時期です。

雪斎は9歳のころに富士の善得寺に入寺しました。

14歳の時に栴岳承芳(のちの今川義元)とともに上洛

建仁寺妙心寺といった臨済宗名刹で修業したのち、善得寺に戻ります。

 

当主氏輝の急死で動揺する今川家

雪斎が若いころ、駿河守護大名今川家は不安定な状態でした。

主語大名について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

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北条早雲によって擁立された今川氏親が1526年に死去すると、嫡男の氏輝が今川家を相続します。

家督相続時、氏輝は14歳だったため母の寿桂尼が後見人として氏輝を補佐しました。

氏輝が家督を継いでから10年後、氏輝は子供を残さないまま23歳の若さで亡くなります。

同日、弟の彦五郎も突然死を遂げました。

兄弟の同日の死は異例のことで、疫病、毒殺、暗殺などの疑念が持たれますね。

 

花倉の乱に勝利した義元が今川家を相続

氏輝と彦五郎の死によって、今川家の家督相続候補は二人に絞られます。

一人は氏輝の同母弟で寿桂尼の子である栴岳承芳

もう一人は、氏輝の異母弟で今川氏の重臣である福島氏の娘の子である玄広恵探でした。

 

氏輝を支え、実質的に今川家を動かしていた寿桂尼は雪斎と相談し、善得寺にいた栴岳承芳を後継者にしようとします

これに真っ向から反対したのが福島氏の支援を受けた玄広恵探でした。

両者は今川家の家督をめぐって武力衝突します(花倉の乱)。

 

玄広恵探に味方する者たちは駿府の今川館を襲撃しましたが、守りが固く攻め落とせません。

逆に、義元方は玄広恵探派の城を次々と攻め落とします。

 

1536年6月10日、玄広恵探が立てこもった花倉城が陥落し、花倉の乱終結

今川義元家督を相続し、太原雪斎が義元を補佐することになりました。

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今川家の軍師として活躍した太原雪斎

今川義元家督を相続することで、太原雪斎は名実ともに今川家の軍師として活躍することになりました。

雪斎は、今川家に降りかかる様々な事態を冷静に処理。

今川家の力を強化することに専念します。 

河東の乱を収め、北条氏から駿河東部を奪還

雪斎は今川氏親時代から悪化していた甲斐の武田信虎との関係を改善。

信虎の娘を義元の正室に迎えることで同盟関係を結びました。

 

今川家と武田家の同盟は、武田家と争っていた北条家との関係悪化を招きます。

1537年、相模を支配していた北条氏綱富士川以東の地域である駿河東部(河東)に攻め込み、占領してしまいました。

 

北条氏綱遠江の井伊氏(井伊直虎で有名になりましたね)などと手を結び、東西から今川家に圧力をかけます。

 

拙速な対応はまずいと考えた雪斎は北条家との直接対決を引き延ばしつつ、武田家や武蔵の扇谷上杉家などを動かし、北条家の挟み撃ちを狙います。

 

ところが、北条氏綱は扇谷上杉氏で当主が急死したチャンスを利用し、河越城を奪取。挟み撃ちを事実上、崩壊させてしまいました。

北条氏綱の死後、北条氏康が北条氏の家督を相続します。

 

1545年、関東で反北条連合軍が結成され河越城が数万の大軍によって包囲されます。

今川義元武田晴信とともに河東に攻め込み、北条方に圧力をかけました。

 

北条氏康太原雪斎を交えて今川家と北条家の和睦を推進。

河東を今川家に返還することで和睦を成立させました。

後方の憂いを絶った北条氏康河越城の戦いに全力で挑み、数倍の反北条連合軍を撃破しました。

三河攻めと小豆坂の戦い

 1546年、尾張戦国大名織田信秀三河に侵攻。

西三河を治めていた松平広忠今川義元に援軍を要請してきました。

義元は太原雪斎に兵を預け三河に派遣します。

雪斎は小豆坂の戦い織田信秀に勝利し、織田家三河浸透を食い止めました。

 

1549年、雪斎は三河安祥城を攻略し、織田信秀庶子織田信広を捕まえます。

雪斎は信広と松平広忠の子で、本来は今川家に人質として差し出される予定だった竹千代(のちの徳川家康)の交換を信秀に持ちかけました。

その結果、信広と竹千代の人質交換が成立し、竹千代は駿府に送られます。

 

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雪斎の外交力のたまもの「甲相駿三国同盟

河東の乱後、北条氏とは和睦が成立していましたが国境が不安定であることに変わりはありませんでした。

雪斎は同盟者の武田晴信、関係が微妙な北条氏康に今川・武田・北条三国の同盟を持ち掛けます

この同盟は三者にとって大きなメリットがありました。

武田家は背後の北条・今川と手を結ぶことで信濃や越後での戦いに専念できます。

同様に、北条氏康は北関東や房総半島の反北条勢力との戦いを有利に進めることができます。

 

もちろん、今川家にとっても戦力を西に集中できるというメリットがありました。

 

今川・武田・北条の同盟は「甲相駿三国同盟」とも呼ばれ、戦国時代にもっともよく機能した同盟として知られます

軍師としての太原雪斎の能力がいかんなく発揮された同盟でしたね。

 

太原雪斎の死と死因

今川家の軍師として政治・経済・外交で活躍する傍ら、太原雪斎は禅僧としても活動しています。

京都から高僧を招き今川氏の本拠である駿府臨済寺を建てたのも禅僧としての活動の一環でした。

 

ありとあらゆる面で今川家の柱石として活躍した太原雪斎は1555年に駿河長慶寺で亡くなりました

特に何かの事故に遭ったという記述はなく、老衰または病死と考えられます。

 

もし、雪斎の寿命があと10年伸びていたら桶狭間の戦いで義元が討ち取られることなく、今川家には全く別の将来があったかもしれません。 

 

まとめ

今川家は太原雪斎の文字通りの大活躍で一気に飛躍することができました。

戦争や外交だけではなく、国内政治や宗教政策でも活躍した太原雪斎は戦国時代屈指の軍師といえるでしょう。

 

しかし、あまりに優秀な人物がいると、他の人材は育ちにくくなるのかもしれません。

武田家の歴史書甲陽軍鑑』では山本勘助が「今川家の事、悉皆坊主(雪斎)なくてはならぬ家」と雪斎の力の大きさを強調。

 

人質だった徳川家康は「義元は雪斎和尚とのみ議して国政を執り行ひし故、家老の威権軽ろし。故に雪斎亡き後は、国政整はざりき」と評します。

大過ぎる人物がいると、皆、その人に頼ってしまうのかもしれませんね。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。 

 

「地租改正って何?」「明治時代の税制はどうなっていたの?」わかりやすく解説!

地租改正って何?

江戸時代から続く税はどうなったの?

明治時代の税金について知りたい

 

この記事をご覧の方はそのようなことをお考えかもしれません。

地租改正とは、土地の所有者に地券を発行し、地券で定められた地価の3%を現金で納税させる仕組みです。

 

政府は地租を主な財源とし、江戸時代から続く様々な雑税をいったん廃止。

その上で、煙草税や醤油税、酒税などを制定し全国民から幅広く徴税しようとしました。

こうして集められた税の多くは軍備拡張などに使われました。

 

今回は、地租だけでなくあまり知られていない明治時代の税金についてまとめてみます。

今と昔の税の違いについて知りたい方は是非読んでください!

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また、明治時代に行われた財政政策として有名な松方財政について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/2605460">hana+choco</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

 

 

明治政府が地租改正を行った目的は?

明治政府が地租改正をおこなった目的は、「現金」を手に入れるためでした。

 

1868年から1869年の戊辰戦争に勝利した明治新政府は、新しい国づくりを進めようとしました。

そんな明治政府にとって一番の課題は財源。

とにかく、明治政府はお金がなかったんです。

 

明治新政府太政官札や民部省札を発行して何とかやりくりしようとしますが、なにせ、できたばかりの明治新政府に信用なんかこれっぽちもありません

お札は紙切れ同然になってしまうかもしれませんでした。

明治政府は新たな財源を見つけ、日本各地から税を集める必要に迫られます。

 

そこで彼らが考えたのが、年貢を現金でおさめさせるということでした。

地租改正以前の土地制度について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

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地租改正の目的は、年貢を米ではなく「現金」でおさめさせるということです。

そのために、明治新政府は土地に価格(地価)を設定。

土地の所有者に地価の3%を現金でおさめさせる「地租」という税金をかけました

このころ、日本には諸外国のような工業が発達していなかったので、農民たちから税をとるのがもっとも効果的だったからですね。

 

これ以後、日本政府にとって地租は重要な財源となりました。

地租は政府の収入の70~80%にも及びます

地租改正について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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江戸時代から続く「雑税」をいったん廃止!

江戸時代、日本の税金は職業によって大きなばらつきがありました

もともと、江戸幕府は土地を持っている農民(本百姓)から年貢をとることを財源としていました。

そのため、町に住む町人は農民と比べると比較的税負担が軽かったのです。

 

時代劇で、よく貧しい人々が長屋に集まって暮らしている様子が描かれますよね。

あの人たちの大半は、周辺の農村から江戸に流れてきた人たちでした。

 

人口が増え、持っている土地だけでは養えなくなった人々や、自然災害などで田畑を失った人々は、そのままでは生活再建もままなりません。

そのため、日銭を得られて税負担も軽い都市に流入するようになったのです。

 

幕府は有力な商人たちに利権や特権を認め、その見返りにお金を上納させる運上・冥加をもらっていました。

運上や冥加は臨時に課されることもあり、安定した財源とはいいにくいものです。

 

江戸時代中期の田沼意次の時代に、商業中心の改革が進められましたが、これは江戸時代としては例外中の例外。

享保の改革寛政の改革天保の改革はいずれも農業の再生による財政再建を目指すものでした。

 

また、江戸時代は幕府のほかに藩があり、藩の領域は日本全国の4分の3に達していました。

藩ごとの税の仕組みや考え方が違うため、明治維新直後はそれぞれの藩の昔のやり方を継続します。

 

1875年、明治新政府は1,500以上にも上っていた雑税をいったん廃止しました。

これ以後、税金は国におさめる国税と地方に納める地方税が明確になります。

 

 

1875年以降に新しく作られた税金

雑税廃止後、地租以外の様々な税金が課されました。

今回は煙草税、酒税、醤油税、非常特別税について取り上げます。

煙草税(1875)

煙草は代表的な嗜好品の一つです。

明治時代の煙草税は煙草営業税と製造煙草税に分かれていました。

煙草営業税が年額10円、製造煙草税が年額5円と定められます。

 

日清戦争による戦費調達のため、大蔵省は煙草税を増税しました。

煙草税を確実に徴収するため、明治時代後半に煙草は専売制度が敷かれます。

古来、専売制度は国が税を集めるのに非常に都合がよい仕組みでした。

酒税(1875)

酒税は煙草税と並び、国の財政を支えた税金でした。

文字通り、酒類に課される税金ですが、明治32年(1899)には地租を抜いて国税第一位となります。

近代的な醸造が普及したことで酒の生産量が増加したことも酒税の増加につながりました。

 

同時に、酒税から逃れる密造酒も盛んに作られ、明治時代以降、さまざまな密造酒がつくられ、当局が摘発します。

密造種の製造業者と当局の摘発はイタチごっこの楊で、なかなか決着がつきません。

醤油税(1885)

今の日本ではちょっと考えにくいですが、戦前はけっこうピンポイントな課税がありました。

わかりやすい例として醤油税があります。

 

醤油は江戸時代から課税の対象とみなされました。

醤油を生産・販売する商人は株仲間を組織し、幕府に冥加金を納めています。

 

1875年の雑税廃止で醤油関連の税金はいったん廃止となりました。

しかし、日本が東アジアで覇権を争うようになると、戦争のためにお金が必要となります。

そこで、醤油税が復活したというわけなんですね。

 

1897年に営業税ができると、周税の相当部分が営業税に吸収され、醤油税の税収は全歳入の2%以下にまで落ち込みます。

 

非常特別税(1904)

明治維新以降、日本が行った戦争の中で最も苦しかったのは日露戦争でした。

日露戦争で使った戦費は国家予算の6倍以上。

とてつもない出費に対応するため、政府は「非常特別税」を課しました。

 

地租や営業税、所得税、酒税(酒造税)など各種の税を引き上げ、かつ、相続税、塩の専売、煙草の専売などで税を上乗せします。

 

最初は、戦争終結後に元の税率に戻すはずでしたが、なんだかんだで1913年まで継続。しかも、そのころには増税分をちゃっかり元の税に組み込んでから廃止しました。

なので、事実上、増税は継続したといってもよいでしょう。

一度上がった税金は、なかなか下がらないもののようです。

まとめ

今回は地租改正や地租以外の税金についてまとめました。

現代よりも工業が発達していなかった明治時代は農民から徴収する地租に依存していました。

 

江戸時代に数多くあった各地の税はいったん廃止されます。

しかし、軍備拡張などによりお金が必要だった明治政府は煙草税や醤油税、酒税など様々な税を設け国民から広く税金を集めました。 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

『平家物語』「木曽の最期」はどんな話?木曽義仲ってどんな人?義仲と今井四郎兼平、巴御前の関係とは?

木曽義仲ってどんな人?

"木曽の最期”はどんな内容?

木曽義仲と今井四郎、巴御前の関係は?

 

この記事をご覧の方はそんな疑問を持っているかもしれません。

木曽義仲は通称で、本名は源義仲といいます。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の従兄弟で、以仁王の令旨に応じて挙兵します。

 

木曽義仲倶利伽羅峠の戦いで牛の角に松明をつけて平氏軍を驚かし、10万の平氏軍を蹴散らしました。

しかし、後白河法皇との関係が悪化したことで同じ源氏の源義経の軍と戦い敗北します。

 

敗北を悟った木曽義仲は愛妾の巴御前を逃がすと、忠臣今井四郎とともに最後の戦いをします。

それを描いたのが『平家物語』の「木曽の最期」でした。

 

平家物語には平清盛源頼朝源義経後白河法皇などなかなか強烈なキャラクターが沢山登場します。

今回紹介する「木曽殿」こと、木曽義仲源義仲)もなかなかに印象深いキャラクターなんです。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場しますよ。

 

平家物語に興味がある方はこちらの記事もどうぞ!

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今回は、木曽義仲のわかりやすい解説と『平家物語』「木曽の最期」の原文、現代語訳(意訳)を紹介します。

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木曽義仲巴御前

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「木曽殿」こと、木曽義仲とは

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木曽義仲源義仲

出典:源義仲 - Wikipedia

平家物語』では、「朝日(旭)将軍」などとも記される木曽義仲はどのような人物だったのでしょうか。

義仲の生い立ち、挙兵から倶利伽羅峠の戦い、入京後の動き、京都からの敗走など義仲の生涯について見てみましょう。

木曽義仲の生い立ちと挙兵

今回の主人公は木曽義仲

木曽義仲河内源氏の流れを汲む人物で、源頼朝義経のいとこにあたります。

源義賢(頼朝の父、義朝の弟)の次男として生まれましたが、義賢が兄義朝に討たれたため、義仲は信濃南部木曽谷に逃がされました。

 

1180年、平氏の専横に不満を持っていた後白河法皇の皇子以仁王が挙兵。

全国各地の武将に平氏打倒の令旨(以仁王の令旨)を発しました。令旨を受け取った反平氏の有力者は次々と挙兵します。

関東では源頼朝が挙兵し、信濃では木曽義仲が挙兵しました。

 

平家の攻勢と倶利伽羅峠の戦いでの大逆転

1181年、義仲は新潟方面に進出。

1182年に以仁王の遺児である北陸宮を保護し、ともに京都に向かいます。

 

一方、平氏平維盛を大将とする10万の大軍を北陸に派遣しました。

平氏の軍勢は越前・加賀と制圧し、北陸道を東へと向かいます。

このとき、今井兼平義仲四天王の一人で、巴御前の兄)が平氏軍の先鋒に奇襲攻撃を仕掛け、後退させることに成功しました。

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倶利伽羅峠の戦い

出典:倶利伽羅峠の戦い - Wikipedia

平氏軍は体勢を立て直すため、加賀に引き上げようとします。

平氏軍が加賀と越中の境目にある倶利伽羅峠で野営していたとき、平氏の陣営に夜襲を仕掛けました。

奇襲攻撃に動揺した平氏軍は大混乱。算を乱して壊走し、無数の武者が谷底に転落したと言います。

 

倶利伽羅峠の戦いに勝利した木曽義仲は、勢いに乗って北陸道を京都に向けて駆け上りました。

主力を失った平氏は京都の防衛を断念し、西国へと逃れます(平氏都落ち)。

 

義仲の入京 

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後白河法皇

出典:後白河天皇 - Wikipedia

平氏都落ちにより空白地となった京都に義仲軍が入京しました。

後白河法皇平氏追討の手柄を、一番は頼朝、二番は義仲、三番は義仲とともに行動した源行家と決め、官職を与えます。

 

また、義仲は京都の治安維持を命じられます

しかし、これがなかなかの難事でした。

というのも、このころは養和の大飢饉の真っ只中で食糧不足。

おまけに、義仲率いる大軍が京都にいるため、食料が行き渡りません。

 

あまつさえ、義仲軍による京都周辺での略奪が発生。

さらには、安徳天皇平氏に連れ去られたため、新天皇を決めるという時も、義仲は血筋の順序を無視して、北陸宮の即位を主張し、後白河法皇の不興を買いました

 

その結果、後白河法皇と義仲の対立は決定的なものとなります。

1184年、木曽義仲後白河法皇が住んでいた法住寺を襲撃

法住寺を護衛していた官軍を打ち破り、後白河法皇後鳥羽天皇を捕えました。

義仲の敗北と巴御前との別れ

義仲が法住寺を襲撃したころ、頼朝は弟の範頼と義経に兵を預け京都に向かわせていました。

頼朝軍の接近を知った義仲は、朝廷に迫り自分を征夷大将軍に任命させます。

しかし、その程度で頼朝軍の進撃が止まるわけはありません。

 

義仲は京都を守るため、宇治川を防衛線として範頼・義経軍を迎え撃ちました。

義仲は、法住寺襲撃などこれまでの行動で京都周辺の武士たちの支持を失っていたため、迎撃に参加した兵力は限られたものでした。

結局、宇治川の戦いで敗北してしまいました。

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巴御前

出典:静御前 - Wikipedia

宇治川の戦いで敗れた義仲は、今まで付き従っていた巴御前に「最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と命じ戦線を離脱させます。

 

ちなみに、巴御前は妻ではなく、義仲の妾で、義仲を支えた女武将

倶利伽羅峠の戦いでも武将の一人として描かれていますよ。

 

義仲と今井兼平以下、わずかの供が粟津まで逃れました。

この粟津の戦いの終幕こそ、「木曽の最期」として描かれている場面ですね。

 

 

原文と現代語訳

 

今井四郎、木曾殿、主従二騎になつて、のたまひけるは、

「日ごろは何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや。」

 

今井四郎(今井兼平)と木曽殿だけの主従二騎になって、木曽殿が今井四郎に、

「日ごろはなんとも思わぬ鎧が、卿は重くなったことだ」とおっしゃった。

 

今井四郎申しけるは、

「御身もいまだ疲れさせたまはず。御馬も弱り候はず。

何によつてか一領の御着背長を重うは思し召し候ふべき。

それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそ、さは思し召し候へ。兼平一人候ふとも、余の武者千騎と思し召せ。

矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津の松原と申す。

あの松の中で御自害候へ。」

 

木曽殿の言葉を聞いた今井四郎は、

「(殿の)体も、馬もまだ弱っていません。

どうして鎧一領を重いとお思いになるのでしょう。

その理由は、味方に軍勢がいなく臆病になっているからでしょう。

兼平一人でも、千人の武者がいるとお思いになってください。

矢を七つ八ついただければ、しばらく防ぎ矢をして時間を稼ぎます。

あそこに見えるのは粟津の松原といいます。あの中で御自害下さい」と木曽殿に言いました。

 

とて、打つて行くほどに、また新手の武者五十騎ばかり出で来たり。

「君はあの松原へ入らせたまへ。兼平はこの敵防き候はん。」

 

そういって、馬を走らせていると新手の武者が五十騎ばかり迫ってきました。

今井は木曽殿に「君(木曽殿)は、あの松原にお入り下さい。兼平が敵を防ぎます」といいました。

 

と申しければ、木曾殿のたまひけるは、

「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり。

所々で討たれんよりも、一所でこそ討死をもせめ。」

とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、

 

木曽殿は、「義仲は都でどうにでもなるつもりだったが、ここまで逃れてきたのはお前と一緒に死のうと思ったからだ。

別々の場所で死ぬより、ここで一緒に討ち死にしよう」

といって、馬を並べて敵に向かおうとしたので、

 

今井四郎、馬より飛び降り、主の馬の口に取りついて申しけるは、

 

「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵にて候ふなり。

御身は疲れさせたまひて候ふ。

続く勢は候はず。敵に押し隔てられ、言ふかひなき人の郎等に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、

 

『さばかり日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる。』

 

なんど申さんことこそ口惜しう候へ。

ただあの松原へ入らせたまへ。」

 

と申しければ、木曾、

「さらば。」

とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ。

 

今井四郎が馬から飛び降り、木曽殿の馬の口をとらえていうには、

 

「武士というものは、どんなに高名となっても、最期のときに不覚をとれば後々まで名誉に傷をつけてしまう。

あなた様はお疲れで、いずれは敵に押し倒されて討ち取られてしまうでしょう。

名もない人の家来に討ち取られ、

 

『日本国中にこんなにも名を知られた木曽殿を、俺の家来が討ち取った』

 

などといわれるのはなんとも悔しいこと。

だから、あの松原へお入り下さい(そして、自害なさってください)』

 

それを聞いた木曽殿は

「そうであるならば」

といって粟津の松原に入っていきました。

 

今井四郎只一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙踏ん張り立ち上がり、大音声あげて名乗りけるは

 

「日頃は音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。

木曽殿の御乳母子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。

さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。

兼平討つて見参に入れよ。」

 

今井四郎がただ一騎で迫ってくる五十騎の中に攻め込み、鎧を踏ん張って立ち上がり、大声で名乗るには、

 

「日ごろ噂は聞いているだろう、今日は実際に見て見よ。

木曽殿の乳母子の今井四郎兼平、三十三歳が参上したぞ。

そういうものがいると鎌倉殿(源頼朝)もご存知であろう。

兼平を討って、頼朝に首を見せてみよ」

 

とて、射残したる八筋の矢を、差し詰め引き詰め散々に射る。

死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。

その後、打ち物抜いてあれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面を合はする者ぞなき。

分捕りあまたしたりけり。

 

「ただ、射取れや。」

 

とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。

 

そういって、射残した八本の矢を次々と射た。

生死はわからないが、八騎を射落とす。

その後、刀を抜いてあちらこちらを走り回って多くの敵兵の命を奪いました。

 

「とにかく矢で射倒せ」

 

と命じ、雨のように矢を降らせましたが鎧が良かったので貫通しません。

 

木曽殿は只一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日入相ばかりのことなるに、薄氷張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。

 

あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。

今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲(かぶと)を、三浦の石田次郎為久、追つ掛つて、よつ引いて、ひやうふつと射る。

 

痛手なれば、真っ向を馬の頭に当てて俯し給へる処に、石田が郎等二人落ち合うて、遂に木曽殿の首をば取つてんげり。

 

木曽殿はただ一騎で粟津の松原に駆け込みましたが、一月二十日ころで薄氷が張った深田にそれと知らず馬を入れてしまい、馬は頭も見えないくらい沈んでしまいました。

 

馬の腹をけっても馬を鞭打っても、馬は動きません。

今井の行方が気がかりで仰ぎ見たとき、かぶとの正面の内側をめがけて、三浦の石田次郎為久が矢を引き絞り、ひゅっと矢を射ました。

 

重傷となる一撃だったので、兜の鉢の正面を乗っていた馬の頭に押し当ててうつむいていたところ、石田次郎為久の家来二人がやってきて、木曽殿を首を取ってしまいました。

 

太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて

 

「この日頃、日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」

 

と名乗りければ、今井四郎、軍しけるがこれを聞き、

 

「今は誰を庇はんとてか軍をもすべき。これを見給へ東国の殿原。日本一の剛の者の自害する手本。」

 

とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。

さてこそ粟津の軍はなかりけれ。

 

討ち取った木曽殿の首を太刀の先に貫き通し、高く掲げて大声で

 

「このところ、日本国で有名な木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取った!」

と名乗りを上げました。

 

それを聞いた今井は、戦いの最中だったが

 

「木曽殿が討ち取られた今、誰をかばうために戦うのか。これをごらんあれ!東国の武士達よ、日本一のつわものが自害する手本だ!」

 

といって、太刀の先を口に入れ、馬からさかさまに落ちて自害しました。

こうして、粟津の戦いは終わりました。

 

まとめ

一度は天下に名の知られた木曽義仲でしたが、上洛後は力を維持できず、最期は鎌倉方に追い詰められ討ち取られてしまいます。

義仲を最期まで守った勇者今井兼平は、太刀をくわえて自らを貫かせるという壮絶な最期を遂げます。

 

この部分だけでも名場面なのですが、木曽義仲の生涯を知ってからこの部分を読むと、最も味わい深いものとなりますよ。 

 

今回は取り上げませんでしたが、『平家物語』の義仲主従の絆は、日本人の心の琴線に触れるものではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

「イェニチェリとは?」「イェニチェリは、いつ廃止された?」デウシルメ制度で徴兵されたオスマン帝国の最強部隊について解説!

イェニチェリとは?

イェニチェリはいつ廃止されたの?

なぜ、スプーンや鍋がイェニチェリのシンボルになった?

 

この記事をご覧の方はそんな疑問を持っているかもしれません。

イェニチェリはオスマン帝国の常備歩兵軍団です。

デウシルメとよばれる特殊な徴兵制度で編成されました。

彼らは銃火器や大砲で武装し、強い火力で周辺諸国の軍を圧倒しました。

 

彼らが奏でる軍楽「メフテル」はイェニチェリやオスマン帝国軍に力を与え、他国軍には恐怖をもたらしました。

メフテルの衝撃はモーツァルトが「トルコ行進曲」を作曲するきっかけともなります。

 

スルタン直属で距離が近かったイェニチェリは、スルタンともに食事することが許されました

そのため、食事で使うスプーンや鍋が彼らのシンボルとなります。

 

強大な力を誇ったイェニチェリでしたが、世襲化が進むことにより徐々に腐敗。

改革の抵抗勢力となって19世紀に廃止されました。

 

今回はイェニチェリとは何か、イェニチェリの歴史、イェニチェリの軍楽であるメフテルについてまとめます。

 

なお、トルコについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ! 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

  

写真AC トプカプ宮殿



イェニチェリとは

イェニチェリは、14世紀から19世紀にかけて存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団です。

トルコ語で「イェニ」はあたらしい、「チェリ」は歩兵といういみですね。

 

イェニチェリ登場以前、オスマン帝国軍の主力は弓を扱うことに長けたトルコ人騎兵でした。

それに対し、イェニチェリは歩兵です。

 

騎兵に対して不利な歩兵が、どうして騎兵に取って代わったのでしょうか。

それは、イェニチェリが銃で武装する火力重視の部隊だったからです。

イェニチェリはスルタン(オスマン帝国の皇帝)直属部隊として、各地で勇名を馳せます。

  イェニチェリの歴史

スルタン直属の歩兵として、オスマン帝国の中核を担うイェニチェリ。

イェニチェリがたどった歴史についてみてみましょう。

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引用:イェニチェリ - Wikipedia

デウシルメ制でイェニチェリを編成

 

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ムラト1世

引用:ムラト1世 - Wikipedia

イェニチェリが始めて編成されたのは14世紀のムラト1世の時代だとされます。

戦いで捕虜としたキリスト教徒を奴隷兵として編成したのがイェニチェリのはじめでした。

 

その後、キリスト教徒の子弟を重用し、イスラム教に改宗させて兵士などととして使うデウシルメ制度が出来ることで、イェニチェリは安定的に兵士を増やすことが出来ました。

 

セリム1世・スレイマン1世の勝利に貢献したイェニチェリ

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セリム1世

引用:セリム1世 - Wikipedia

1514年、スルタン・セリム1世は、イスラムシーア派サファヴィー朝の軍団と戦います。

このチャルディラーンの戦いサファヴィー朝の騎馬軍団とセリム1世率いるイェニチェリの戦いでもありました。

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イェニチェリの火力で勝利したチャルディラーンの戦い

 引用:チャルディラーンの戦い - Wikipedia

イェニチェリは鉄砲の火力でサファヴィー朝の騎兵を圧倒します。

信長の長篠の戦いの半世紀以上前に、似た戦いがあったのは驚きですね。

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レイマン1世

引用:スレイマン1世 - Wikipedia

レイマン1世がスルタンとなると、さらに領土を拡大。

レイマン1世のいる頃、イェニチェリが必ず付き従いました。

イェニチェリは鉄砲だけではなく、大砲や攻城兵器も備えた強大な部隊だったので、スレイマン1世の領土拡大に大きな貢献をします。

 

イェニチェリの世襲化と腐敗

レイマン1世の時代から、イェニチェリの性格が変化したといわれます。

それまで、デウシルメ制度で出身母体から切り離されていたイェニチェリ。

しかし、レイマン1世のころからイスラム教徒がイェニチェリになる例が増え、イェニチェリの地位を子孫に伝えることが増えました

 

17世紀以降、イェニチェリの軍紀は乱れ、政府の人事への介入や地方での横暴な振る舞いにより人々を困らせる存在となります。

 

18世紀後半、イェニチェリの戦闘能力は同じ時代のヨーロッパ列強と比べ明らかに時代遅れとなっていました。

セリム3世がイェニチェリに代わる軍隊を作ろうとしましたが、イェニチェリの反対で失敗に終わります。

 

イェニチェリたちは主君であるスルタンとともに食事をする権利を与えられていました。

 

スルタンがイェニチェリたちに与える俸給や待遇に不満があると、スープ用の大鍋をひっくり返して不満の意を表すことができます。

それだけ、特権的な手段となっていたことがわかる話ですね。

 

イェニチェリの廃止とムハンマド常勝軍の設置

軍事的な強さを失い、改革の抵抗勢力となっていたイェニチェリはスルタンにとって厄介な存在でしかありませんでした。

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イェニチェリを廃止したマフムト2世

引用:マフムト2世 - Wikipedia

19世紀、スルタン・マフムト2世はイェニチェリの廃止を決意します。

マフムト2世は、イェニチェリ廃止の前に、イスラム法学者ウラマー)の支持を取り付けていました。

 

1826年、マフムト2世はイェニチェリを集め、解散を宣告します。

イェニチェリたちは大鍋をひっくり返し、不服従の意思を示しました。

 

マフムト2世は、事前に呼び寄せていた砲兵隊にイェニチェリを攻撃させます。

4,000名以上のイェニチェリが殺害され、イェニチェリは解散させられました

 

400年以上の歴史を持つイェニチェリが滅亡した瞬間でもありますね。

イェニチェリ解散後、スルタン直属のムハンマド常勝軍がオスマン帝国の軍事力を担いました。

 

イェニチェリが奏でるメフテル(軍楽)

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引用:イェニチェリ - Wikipedia

ところで、イェニチェリといえば音楽隊が有名です。

イェニチェリたちが奏でる軍楽をメフテル、軍楽隊をメフテルハーネといいました。

 

メフテルの中でも有名な曲が『ジェッディン・デテン』ですね。

この曲は、日本のテレビドラマ『阿修羅のごとく』のオープニングに使われました。

 

向田邦子原作の小説をテレビドラマ化したものですが、ジェッディン・デテンを使ったオープニングが非常に印象的でした。

中外製薬グロンサンのCMにもなりました。

 

ある種のおどろおどろしさを感じさせるメフテルは、攻撃する側のトルコ軍の士気を高め、守るヨーロッパ勢を恐れさせたことでしょう。

 

モーツァルトがメフテルをまねて『トルコ行進曲』を作曲したそうですが、インスピレーションを刺激されてもふしぎではありませんね。

まとめ

イェニチェリとは、オスマン帝国のスルタン直属部隊です。

銃火器武装した歩兵軍団で強い火力を持ち、周辺諸国の軍を圧倒しました。

彼らは赤い軍装に身を包み、ヨーロッパ諸国を震え上がらせます。

 

しかし、オスマン帝国の最盛期を築いた精鋭たちも、月日の経過とともにただの特権集団へと変化。

オスマン帝国内の抵抗勢力となってしまいました。

 

盛者必衰とはよく言いますが、長期にわたって最強であり続けるということは非常に困難なことだと感じました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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