「浅井氏とはどんな一族?」
「浅井長政とはどんな人物?」
「信長は、なぜお市を浅井長政に嫁がせたのか?」
といった疑問を持っているかもしれません。
なぜ、信長は浅井氏を同盟者として選んだのでしょうか。
そこには、浅井氏の支配する北近江の重要性や、勇将浅井長政の存在があったのではないでしょうか。
今回は、浅井氏とはどんな一族か、浅井長政をはじめとする浅井三代とは人々か、信長がお市を浅井長政に嫁がせた理由などについてまとめます。
浅井氏の血筋
浅井氏は北近江の国人領主でした。国人領主とは、地域を支配する地方領主のことですね。
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浅井氏は古代の豪族物部氏の末裔を名乗っていました。
浅井氏の祖となった浅井重政が藤原氏の一員です正親町三条家の御落胤だったとする説もあります。
室町時代には、北近江を支配した京極氏の中堅家臣だったようです。
北近江を支配した京極氏は、一時、南近江を支配した六角氏を凌ぐ勢いとなりましたが、家督争いなどで衰退します。
京極氏が衰退すると北近江では浅井氏などの国人たちの力が強まりました。
朝倉氏と浅井氏の関係
朝倉氏は越前を支配する戦国大名です。
応仁の乱のころに朝倉孝景が現れ、守護の斯波氏との戦いに勝利し、越前の支配権を手にしました。
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浅井氏の勢力基盤を築いた浅井亮政は朝倉氏の援助を受けることで周辺勢力との戦いに勝利します。
彼の跡を継いだ久政は亮政の方針を引き継ぎ、朝倉氏との同盟関係を尊重します。
浅井長政は織田信長の妹であるお市を迎えることで新興勢力の織田氏との同盟に踏み切りました。
そのときも、朝倉氏との同盟は維持されます。
浅井氏からすれば、織田信長が朝倉を攻めないというのが同盟締結の条件だったからでしょう。
しかし、信長は浅井の思惑を無視するかのように朝倉攻めを強行します。
窮地に立たされた浅井長政は旧来からの同盟関係を優先し、朝倉を攻めている織田軍を背後から強襲しました。
それだけ、浅井氏にとって朝倉との同盟は優先度が高いことだったのです。
浅井三代とは
浅井氏飛躍の土台を作った浅井亮政
浅井亮政は1491年に浅井氏庶流の家に生まれました。
年代は定かではありませんが、のちに本家の娘と結婚し、浅井本家を相続します。
亮政が当主だったころ、北近江は京極氏の支配下にありました。
京極高清の長男京極高延ではなく、弟の高吉に家督を継がせようとします。
このため、京極氏内部でお家騒動が起きました。
亮政は高延を支持し、高清と高吉を尾張へ追放しました。
京極高清を追放後、北近江では京極氏よりも浅井亮政をはじめとする国人たちが政治の主導権を握りました。
北近江で浅井氏の勢力が強まると、南近江の六角氏との対立が激しくなります。
六角氏は京極氏の本家筋にあたる家で、北近江にも影響力を持っていました。
亮政は北近江の国人たちをまとめ、六角氏や復権をはかる京極氏と対決します。
亮政は六角氏や京極氏に対抗するため、越前の朝倉氏と同盟を結びました。
朝倉氏からすれば、越前から京都に向かう重要な場所を治める浅井氏を味方につけたかったのでしょう。
1542年、浅井亮政は亡くなりました。
京極氏や六角氏との対立関係は次代の当主浅井久政に引き継がれます。
六角氏の攻勢にさらされ苦戦する浅井久政
引用:浅井久政 - Wikipedia
浅井久政は父の亮政や子の長政に比べて地味な印象が強い人物です。
1526年、久政は浅井亮政の子として生まれました。
1542年に父の死によって家督を相続します。
久政が家督を継いだ時、浅井氏は主家の京極氏と対立関係にありました。
その上、南近江の六角氏にも押し込まれ、久政は六角氏に従うことを余儀なくされます。
亮政に比べると武勇の点で見劣りする久政に対し、家臣たちは不満を募らせました。
引用:浅井長政 - Wikipedia
久政が六角氏に服従していた1545年、六角氏の本拠地である観音寺城の城下町で浅井長政は生まれました。
長政が生まれたころ、浅井氏は多くの領土を六角氏に奪われ亮政時代の勢いを失っていました。
浅井氏の家臣たちは弱腰の久政を見限り、嫡子の長政に期待をかけます。
1559年、久政の弱腰に不満を持っていた家臣たちは長政を擁立し久政を引退に追い込みます。
このとき、長政はまだ14歳でした。家督を相続した長政は、政略結婚で六角氏家臣の平井氏から迎えていた妻を実家に送り返し、六角氏側の国人領主を調略して寝返らせました。
このことを知った六角承禎は直ちに浅井領に出兵しました。
両軍は野良田(のらだ)で激突しました。
六角軍は25,000、対する浅井軍は11,000と兵力では六角軍が有利です。
序盤は数的に有利な六角軍が優勢でした。
ところが、序盤戦の優勢に気を緩めていた六角軍に対し、浅井長政は果敢に切り込み戦をしかけ六角軍を総崩れさせます。
さらに、1563年におきた観音寺騒動によって六角氏が衰退すると浅井氏の江北支配が決定的になりました。
若いうちから頭角を現し、浅井氏の勢力を拡大させた浅井長政の才覚に織田信長も注目したのではないでしょうか。
浅井氏が支配した北近江
浅井氏が支配した北近江とはどのような土地だったのでしょうか。
北近江の特徴と、浅井氏の居城である巨大山城、小谷城についてまとめます。
北近江の特徴とは?
引用:滋賀県 - Wikipedia
北近江とは、文字通り近江国の北半分で、伊香郡、浅井郡、坂田郡の3郡からなります。
江北・湖北とも呼ばれる地域で、現在は滋賀県長浜市、米原市、彦根市の一部となっています。
室町時代、近江国の守護は佐々木流源氏が治めていました。
南半分は佐々木流源氏の嫡流六角氏が、北半分は佐々木源氏庶流の京極氏が支配します。
近江国は琵琶湖を中心とし、京都と北陸地方、東海地方をつなぐ交通の要衝です。
そのため、たびたび戦乱の舞台となり近江を支配することは天下統一にとって必須の条件でした。
浅井長政との戦いに勝利した織田信長は、近江国の南東部に安土城を築き天下に号令しました。
信長が近江を重要視していたことがよくわかります。
浅井氏の居城、小谷城とは?
小谷城は浅井氏の本拠地である浅井郡にあった山城です。
大規模で堅牢な山城として知られました。
小谷城は小谷山一帯に複数の郭をもつ巨大山城です。
籠城時に当主が立て籠もる本丸をはじめ、京極丸や小丸、大嶽城、福寿丸、山崎丸など多数の郭で小谷山の尾根を守っていました。
本丸を攻め落とそうとすれば、正面のいくつもの郭を突破しなければなりません。
側面から回り込むにも、向かい側の尾根には福寿丸や山崎丸があって侵入を阻止されます。
背後から攻めようとすれば大嶽城が立ちはだかりました。
複数の郭を持ち、尾根全体を要塞化した山城を攻め落とすのは並大抵の苦労ではありません。
小谷城はまさに鉄壁のディフェンスを誇る山城だったのです。
引用:織田信長 - Wikipedia
桶狭間の戦いで今川義元を打ち取った織田信長は、1565年に尾張を統一します。
1567年には美濃稲葉山城を陥落させ、尾張・美濃の二カ国を手中に収めました。
足利義昭を保護した織田信長は上洛の大義名分を手に入れます。
この時、信長は北近江の浅井氏と同盟し、南近江の六角氏を攻撃しました。
信長は同盟の証として妹のお市を浅井長政に嫁がせます。
しかし、信長は浅井氏の同盟者である朝倉氏を攻めたため、織田・浅井の同盟は破綻してしまいました。
信長と浅井氏の関係についてみてみましょう。
引用:お市の方 - Wikipedia
美濃から京都に行くためには、北近江を通らなければなりません。
信長は北近江の浅井長政と同盟を結び、上洛時の背後の安全を確保します。
この時、同盟の証として織田家から輿入れしたのが信長の妹であるお市の方でした。
尾張にいたころのお市の方については、資料が不足しているためよくわかっていません。
浅井長政に輿入れした年も1567年説と1568年説があるくらいです。
信長からすれば、浅井氏に自分の妹を嫁がせることは、人質を出しているともいえます。
濃尾二カ国を支配する信長が、格下ともいえる浅井長政に妹を嫁がせたのは、短期間で勢力を拡大した長政の才覚を買っていたからではないでしょうか。
浅井長政とお市は仲睦まじい夫婦だったと伝えられます。
彼らの間に生まれたのがのちに浅井三姉妹とも呼ばれた、茶々、お初、お江です。
茶々はのちに豊臣秀吉の側室となり、淀君とよばれます。
お初は京極家へ、お江は徳川秀忠に嫁ぎます。
お江と秀忠の間に生まれた娘が天皇家に嫁いだため、浅井氏の血が天皇家に入りました。
信長の朝倉攻めと同盟の破綻
引用:金ヶ崎城 - Wikipedia
足利義昭を擁して上洛した織田信長は、畿内や諸国の大名に上洛するよう促しました。
しかし、越前の朝倉義景は信長の上洛要求を拒否します。
そのため、信長は1570年に朝倉攻めを開始しました。
浅井氏にとって朝倉氏は亮政のころからの盟友です。
浅井長政の父、浅井久政は朝倉との同盟を守るため、織田家と戦うべきと主張しました。
長政は妻の実家と戦うことをためらったことでしょう。
しかし、次々と新しいことを行い、将軍をはじめとする旧勢力と争う信長は長政の目にどう映ったでしょうか。
おそらくは、秩序を乱す恐ろしい人物と思ったのではないでしょうか。
浅井長政は恐ろしい信長を倒すには、一撃で仕留めなければならないと考えたでしょう。
信長軍が浅井領を通過し、朝倉領の越前金ヶ崎まで攻め込んだ時、突如として浅井軍は信長軍の背後をふさぎます。
前門の虎、後門の狼の例え通り、信長は浅井・朝倉連合軍に包囲され危機に陥りました。
それを知った信長の行動は浅井長政の予想を超える速さでした。
主力部隊を置き去りにしたまま、少数の家臣だけを連れて琵琶湖西岸を駆け抜け、京都に戻ったのです。
千載一遇のチャンスを逃した浅井長政は、信長による怒涛の反撃にさらされることになります。
浅井氏の滅亡
引用:姉川の戦い - Wikipedia
金ヶ崎の戦いから2か月後の1570年6月、信長は浅井長政を打つべく北近江に進軍しました。
織田信長・徳川家康連合軍は浅井・朝倉連合軍と姉川の地で激突しました。
この戦いで浅井軍の士気は非常に高く、浅井長政自ら軍を率いて織田信長の本陣を目指します。
合戦場付近には「血原」や「血川」といった地名が残され、姉川の戦いの激しさを物語っています。
序盤は浅井・朝倉軍が優位でした。
しかし、徳川軍が朝倉軍を横撃し、横山城を包囲していた織田軍が増援に駆け付けると、浅井・朝倉連合軍は劣勢となり退却しました。
姉川の戦いのあと、すぐに浅井氏が滅んだわけではありません。
信長と完全に敵対した浅井長政は朝倉義景だけではなく、足利義昭や比叡山延暦寺、甲斐の武田信玄などと手を組み信長包囲網に参加します。
信長は足利義昭を京都から追放し室町幕府を滅ぼしました。
さらに、浅井・朝倉と手を組んだ比叡山延暦寺を焼打ちします。
こうして、信長は浅井・朝倉に味方する勢力を各個撃破しました。
その一方、羽柴秀吉に命じて浅井氏配下の武将たちを調略で寝返らせます。
浅井長政は小谷城の向かい側にある虎御前山城にいた羽柴秀吉を攻撃しますが、撃退されてしまいました。
1573年、信長は浅井氏の本拠地である小谷城に総攻撃をかけます。
朝倉義景は2万の兵を率いて救援に駆け付けましたが、朝倉軍から寝返りが相次いだため総崩れとなり撤退。
織田軍はその勢いで朝倉氏の本拠地一乗谷を攻め落とし、朝倉氏を滅ぼしました。
小谷城は2か月近くの籠城戦に耐えました。
しかし、1573年9月1日、浅井長政は自刃し小谷城は陥落します。
陥落直前、浅井長政は嫡子の万福丸を逃がし、お市と3人の娘を織田方に預けました。
戦後、万福丸は探し出され処刑されます。
しかし、徳川秀忠と結婚したお江の娘は皇室に嫁ぎ、浅井氏の血が皇室に入ることになりました。
まとめ
浅井氏は北近江の国人領主でしたが、浅井亮政の時代に力をつけ、主家の京極家を凌ぐようになります。
浅井久政の時代は六角氏に従いましたが、浅井長政が六角氏から独立し浅井氏は戦国大名として成長します。
北近江の重要性を知り、浅井長政の才覚に着目した織田信長は妹のお市を嫁がせ、浅井長政と同盟結びます。
しかし、信長が朝倉氏を攻めると浅井長政は同盟を破棄し、信長と敵対します。
その後、姉川の戦いなどで敗れ、信長包囲網が失敗に終わることで浅井氏は徐々に追い詰められます。
そして、1573年9月1日に小谷城が陥落し浅井氏は滅亡しました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。