「白村江の戦いってどんな戦いだろう?」
「白村江の読み方は?」
「白村江の戦いの背景、原因、影響はなんだろう?」
このぺーしをご覧の皆さんはこうした疑問を持っているのかもしれません。
白村江の戦いは663年におきた倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍の戦闘のことです。
戦いの結果は唐・新羅連合軍の圧勝に終わりました。
戦闘終了後、倭国は唐・新羅連合軍の侵入に備え、国の守りを固めます。
今回は、白村江の戦いの背景や原因、内容、影響などについてわかりやすく解説します。
この記事で分かること
・戦いの勝者は唐・新羅連合軍
・敗戦後、中大兄皇子は各地の防衛施設を整備し、唐・新羅連合軍の来襲に備えた
・戦いの後、新羅は朝鮮半島から唐を追い出して朝鮮半島を統一した
白村江の戦いとは
どんな戦い?
白村江の戦いは、倭国と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍との間に起きた戦闘です。
朝鮮半島南東部の新羅は超大国である唐と連合を組み、朝鮮半島南西部にあった百済を滅ぼします。
一方、百済の残存勢力は倭国(日本)に人質として出されていた百済王子を奉じて百済復興運動を展開します。
そして、百済復興軍は倭国の大王である斉明天皇に援軍を要請します。
これに斉明天皇が応じたことで倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍が現在の錦江河口付近にあたる白村江で激突します。
「白村江」の読み方や位置は?
両軍が戦った白村江は、日本では「はくすきのえ」または「はくそんこう」とよばれました。
正確な位置は不明ですが錦江という川の河口と考えられています。錦江は百済にとって重要な水上交通路でした。
錦江は百済の都が置かれていた公州の外港にあたる場所で非常に重要な拠点です。
百済復興軍が援軍である倭国の軍勢を都の海の入り口である錦江に呼び寄せたとしても全く不思議ではありません。
倭国の援軍派遣を知った唐と新羅の軍がこの地で待ち構えるのは戦術上当然といってもよいでしょう。
白村江の戦いの背景にあった隋唐帝国の出現
581年、中国北部を治めていた北周から支配権を奪った楊堅は隋を建国します。
隋は589年に南朝の陳を滅ぼし中国を統一しました。
後漢滅亡以来、370年続いた中国の分裂時代がこれで終わります。
これにより、東アジアに巨大な統一国家が生まれました。
隋が滅んだ後は、唐が高句麗攻撃を続けました。
超大国である隋や唐が出現したことで朝鮮半島情勢は大きく動き出します。
戦いの原因は友好国百済の滅亡
白村江の戦いが起きるおよそ20年前の642年、百済の義慈王は大挙して新羅に攻め込み、40余の城を攻め落とします。
国家滅亡の危機に瀕した新羅は超大国である唐に援軍を求めました。
唐は新羅の求めに応じて13万もの援軍を派遣します。
唐が援軍を派遣した理由は、百済が唐と敵対関係にある高句麗を支援していたからです。
頑強に抵抗する高句麗を滅ぼすため、背後で支援する百済を叩くのが唐の狙いでした。
唐の援軍派遣により形成は一気に逆転し、百済は唐の救援軍に対し有効な反撃をすることができず、都の泗沘が攻め落とされます。
白村江の戦いの経緯
百済復興運動の始まり
唐の主力部隊が百済領から撤退すると、百済の有力者である鬼室福信らが反乱を起こしました。
彼らの軍を百済復興軍とよびます。
百済復興軍は復興の旗頭として、倭国に人質として出されていた百済王子の扶余豊璋の帰国を倭国に求めます。
倭国としては、長年の友好国である百済が滅ぶことで大陸から情報や文物を入手できなくなることを懸念しました。
また、この戦いを機に朝鮮半島での勢力拡大をもくろむ意図があったのかもしれません。
白村江の戦いのとき、天皇はいなかった?
大王である斉明天皇は阿倍比羅夫らを朝鮮半島に派遣すると決定します。
それだけではなく、天皇自ら筑紫の朝倉宮に移り戦争に備えました。
しかし、戦いが始まる前の661年に、斉明天皇は朝倉宮で死去します。
斉明天皇の死後、皇太子の中大兄皇子は皇太子の身分のまま天皇代理として朝廷を指揮し、朝鮮半島への派兵を続行します。
つまり、白村江の戦いのときに、最高権力者であるはずの天皇(大王)はいなかったことになります。
とはいえ、斉明天皇の時代から実質的に国務を司っていた中大兄皇子が健在だったので戦争を行ううえで支障はなかったのでしょう。
ちなみに、天皇のかわりに皇太子の身分のまま政治を行うことを称制といいます。
白村江の戦い前の動き
661年から662年にかけて、倭国は百済に対し援軍を派遣します。
これを知った唐はすぐさま水軍を派遣し、新羅軍と共同で倭・百済連合軍に対処します。
唐軍の狙いは、水陸両面から一気に併進することで倭・百済連合軍を逃さず壊滅させることにありました。
そして、両軍合わせて10万以上となる大規模な戦いが展開されます。
白村江の戦いはいつ始まった?
白村江の戦いが始まったのは663年です。
錦江河口に集結した唐・新羅連合軍に対し、倭国・百済連合軍はとくに明確な作戦をたてずに突撃を開始します。
その結果は悲惨なものでした。
唐軍の大型船に対し、倭国の軍船が小さかったこともありますが、作戦計画がない状態での無秩序な戦闘で倭国・百済連合軍は多くの死者を出します。
戦いの結果、百済復興軍は潰滅し、生き残った百済の貴族たちは倭国に亡命します。
これで百済は完全に滅亡しました。
白村江の戦いのその後
日本で防衛体制が整備された
白村江の戦いが、倭国・百済連合軍の大敗に終わった時、次に心配されたのが唐・新羅連合軍が倭国に攻めてくることでした。
朝廷のトップである中大兄皇子は矢継ぎ早に防衛策を指示します。
まず、九州北部にある朝廷の拠点の太宰府防衛のため、水城とよばれる土塁が築かれました。
全長1キロ、高さ14メートルに及ぶ土塁です。
さらに、朝鮮式山城である大野城を築城させます。
朝鮮式山城の築城では亡命してきた百済貴族が技術指導を行いました。
加えて、九州北部を防衛する防人の配置を決定し兵力をあつめます。
そして、各地にのろし台を置いていつでも唐・新羅連合軍が攻めてきてもいいようにし、都も飛鳥より内陸にあたる琵琶湖沿岸の大津に移すなど万全の態勢を整えました。
新羅が朝鮮半島を統一した
666年、唐は高句麗への侵攻を再開します。
百済という援軍を失った高句麗は唐と新羅の挟み撃ちを支えきれず、ついに滅亡してしまいました。
高句麗の生き残りは靺鞨の人々とともに中国東北地方に渤海国を建国します。
百済と高句麗を滅ぼした唐は、それらの領土や新羅を直接支配しようと考えます。
一方、新羅は朝鮮半島から唐の勢力を追い出すことを画策します。
670年から676年にかけて、新羅は唐と軍事的な衝突を繰り返し、旧百済領や旧高句麗領の一部を自領に取り込みます。
唐は新羅討伐を考えましたが、周辺諸国との戦争が激しくなったため新羅討伐を断念します。
まとめ
白村江の戦いは、唐・新羅連合軍と倭国・百済連合軍の戦いでした。
戦いの結果は唐・新羅連合軍の勝利です。
大敗を喫した倭国は自国の防衛を固めました。
その一方、朝鮮半島では新羅が唐の勢力を追い出し半島統一を成し遂げます。
この記事を見て、白村江の戦いの内容や、原因、背景、影響などについて「そうだったのか」と思っていただけると幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。