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『枕草子』「中納言参りたまひて」登場人物の人物像やあらすじ、敬語などの文法事項についてわかりやすく解説

中納言参りたまひての登場人物は?

中納言参りたまひてのあらすじは?

中納言参りたまひてに出てくる敬語とは?

 

この記事を見てくださっている方は、このような疑問を持っているかもしれません。「中納言参りたまひて」は清少納言の随筆『枕草子』の102段に収められているお話です。

 

この話には関白藤原道隆の子の「中納言藤原隆家彼の姉である中宮定子、定子の女房の一人である清少納言の3人が登場します。

 

あるとき、中納言隆家が定子の部屋を訪れて扇の骨を自慢します。そのときに、清少納言が機知に富む返しをしたというのがこのお話でした。

 

今回は、「中納言参りたまひて」の登場人物の人物像や話に出てくる扇の古典常識、最高敬語をはじめとする注意すべき文法事項についてまとめます。

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中納言参りたまひて」の登場人物と人物像

中納言藤原隆家

文中に出てくる中納言藤原隆家のことです。彼は時の関白藤原道隆の子でした。

 

兄は内大臣藤原伊周、妹は一条天皇中宮となった定子です。彼の一家のことを「中関白家(なかのかんぱくけ)」といいます。

 

隆家は979年に誕生しました。そして、一条天皇時代の989年に元服し11歳で従五位下侍従に任じられ貴族の一員となりました。

 

その後、父道隆の手によりどんどん位階を引き上げられ、995年には中納言に任じられます。このとき、彼は16歳の若者で、明るい未来が待っているように思われました。

 

しかし、彼が中納言になって間もなく、父道隆が亡くなります。このことは中関白家の人々に暗い影を落としました。

 

996年、伊周と隆家は伊周の女性問題に端を発して花山法皇と対立し、こともあろうに花山法皇を襲撃し、法皇の着物の袖に矢を打ち込んでしまいました。

 

花山天皇の退位のいきさつについて知りたい方はこちらをどうぞ!

 

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この事件を最大限利用したのが彼らのライバルだった藤原道長です。

 

これらの事件の責任を追及された伊周は太宰府に、隆家は出雲にそれぞれ左遷されてしまいました。

 

この中納言参りたまひて」は、若き日の隆家の屈託ない様子を描いた貴重な記録で隆家の人物像をうかがい知ることができるエピソードです。

 

また、隆家は激しい性格でしたが、一本気で政敵である道長にも評価されたといいます。

 

後年、大宰府に勤務した時は善政を施し、北方の異民族が九州を攻撃した刀伊の入寇では現地の武士を指揮し撃退に成功しています。

 

宮中での出世はかないませんでしたが、剛毅な一生を送った人物でした。

中宮定子

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枕草子』の挿絵に出てくる中宮定子

中宮定子は隆家の姉で、一条天皇の后です。清少納言にとって直接の上司にあたる女性で、『枕草子』もしばしば登場します。母譲りの漢文の素養や文学に関する深い教養があったようです。

 

定子の漢文の素養に関してはこちらの記事をご覧ください

 

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999年、定子は一条天皇の皇子を身ごもります。しかし、後ろ盾となるべき父の道隆はすでに亡くなっていました。

 

彼女を支えるべき兄の伊周と弟の隆家花山法皇襲撃事件を引き起こし、定子を頼って彼女が宿下がりしていた二条宮に逃げ込みます

 

定子は兄と弟をかくまいました。しかし、一条天皇検非違使に二条宮の捜査を命じたため庇いきれなくなります。

 

この捜査で隆家が逮捕されました。兄の伊周は逃亡後、捕まります。捕縛された二人は、結局、左遷されてしまいました。

 

仲の良かった兄たちが左遷された後、定子は自らはさみを手に取って髪を切り、出家してしまいました。

 

枕草子』の記述や、その後の生き方から定子のつつましやかで優しい人物像が伺われます。

 

その後、一条天皇が兄弟の罪を許したので、定子は再び宮中に入ります。そして1001年、媄子内親王を出産した直後に亡くなりました

 

清少納言

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清少納言は966年に生まれました。主人である定子とは24歳差です。

 

彼女の父は『後撰和歌集』の選者で梨壺の五人の一人に挙げられる歌人清原元輔でした。その後、橘則光藤原棟世らと結婚します。

 

彼女が宮中に出仕したのは993年頃のことで、一条天皇中宮となっていた定子に仕える女房の一人として採用されます

 

彼女が華やかな宮中での生活を書き記したのが『枕草子なのです。ただ、『枕草子』は全てが事実ではなく多分にフィクションを含んでいるとの指摘もありますので、読み手は注意が必要です。

 

清少納言についてはこちらの記事でも触れています。 

kiboriguma.hatenadiary.jp

1001年に中宮定子が亡くなった後、清少納言は女房を辞めて宮中を去ったと考えられています。

 

清少納言の人物像としては才気煥発という言葉がふさわしいように思いますが、同時に、宮中での敵も多かったかもしれません。

 

周囲の人々(定子付きの他の女官たち)

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官職を持ち、宮中に使える女性たちのことを女官といいます。

 

尚侍、典侍掌侍などの高位の女官から、雑事をつかさどる一般の女官まで、宮中には様々な女性が働いていました。清少納言もそうした女官の一人です。

 

作中に出てくる中宮定子は天皇の后という極めて高貴な身分の女性でした。彼女の身の回りの世話をする侍女たちは清少納言だけではありません。

 

しかも、一定水準以上の教養の持ち主が選抜されていました。

   

中納言参りたまひて」のあらすじ

ある日、中納言藤原隆家中宮定子のもとを訪れました。彼は、姉である定子に扇を献上します。そして、こんな話をしました。

 

隆家「私は素晴らしい骨を見つけました。これにふさわしい紙を張り付け、扇として献上したいのですが、ありきたりの紙を張ることなどできません。(だから、ふさわしい紙を)探してるのです。」

 

定子「(その骨は)どんなものですか?」

 

隆家「すべてが素晴らしい骨です。人々は「今まで全く見たことがない骨のようすです」と申しています。(私も)本当にこれだけの骨は見たことがありません。と声高におっしゃいました。

 

それを聞いた清少納言が隆家にいいます。

 

清少納言「それでは、扇の(骨)ではなく、くらげの(骨)のようですね」

 

隆家「(それはいい言葉だと思ったので)これは、隆家が言ったことにしてしまおう」

そういって、お笑いになりました。

 

なんだか自慢話のようで、書かないでおこうと主思ったのですが、周囲の人たち(女房達)「一つも書き漏らしてはいけない」などというので、書かないわけにはいかなくなったので書き記します。

 

中納言参りたまひて」の面白さとは?

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この話の「面白さ」は、楽しいという意味の面白さ(funny)ではなく、教養があるという点の面白さ(interesting)です。では、誰の教養なのでしょうか?それは、筆者である清少納言の教養です。

 

文中で隆家は扇の骨を「見たことがないほど素晴らしい」とほめちぎりました。

 

それを清少納言は、「見たことがない」→「存在しない」と連想し、そんな見たことがない骨なら、クラゲの骨のようですねと返したわけです。

 

しかも、そのことを隆家が褒めて、「自分のセリフにする」といいました。清少納言としては自分の機知を褒められ、とてもうれしかったのでしょう。

 

しかし、そのことをストレートに日記に書くと自慢話といわれます。だからさいごに「皆が書けっていったから」という言い訳を書いたわけです。

平安貴族のマストアイテムだった扇

扇は平安時代初期に生まれました。宮中に出入りする貴族たちにとって、扇は欠かすことができないマストアイテムです。扇には夏用の蝙蝠扇と冬用の檜扇があります。

夏の蝙蝠扇

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夏に使う扇は蝙蝠扇とよばれました。蝙蝠はコウモリのこと。開いた形が翼を広げたコウモリの形に似ていることからそのように呼ばれました。

 

骨に紙を貼るものですが、紙は扇の表面に貼られ、裏側には骨が露出していました。

 

文中で隆家はいい骨を手に入れたが、それに見合う(紙)がないといっていることから、彼が作ろうとしていたのは蝙蝠扇だと考えられます。

 

冬の檜扇

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檜扇は木製でつくられた扇のことです。特に女性の檜扇を袙扇(あこめおうぎ)とよびます。

 

檜の薄板を重ね合わせ、要の留め具に和紙を用いたものでした。貴族たちにとって檜扇は正装の一部でとても重要なものです。

 

檜扇は要を持たず、広げるときには要の少し上を持つのが作法とされました。

 

顔を見せないのが当たり前の平安女性にとって、檜扇は顔を隠すちょうどよいアイテムとなったでしょう。

 

扇についてはこちらの記事がとても参考になりました。気になる方は、こちらもご覧ください。

扇子の老舗・宮脇賣扇庵|京扇子|京都 六角富小路

   

係り結びの法則

係り結びは「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」の係助詞(係り)が文中に登場すると文末(結び)が終止形以外の形に変化する法則のことです。

 

これは古文に使われる表現の一つで、強調や疑問をあらわします。

 

私たちは文章を書くとき、「!」や「?」を用いることで強調や疑問を表現することができます。

 

しかし、平安時代にこれらの記号は存在しませんでした。そこで用いられたのが係り結びです。

 

現代文で「!」にあたるのは、「ぞ」「なむ」「こそ」、「?」にあたるのは「や」「か」です。

 

これらの言葉が入ると、文末が変化します。「ぞ」「なむ」「や」「か」は文末が連体形に、「こそ」は已然形に変化するのです。

 

このお話だと「隆家こそいみじき骨は得てはべれ」の「こそ」が係助詞、「はべれ」は「はべる」の已然形です。

 

「隆家が!素晴らし骨を手に入れた」と自分こそが素晴らしい骨を手に入れたということを強調したいがための表現なのです。

 

姉に対して「見てみて!」と珍しい骨を持ってきて、褒めてもらいたいかのような隆家の振る舞いはなんともほほえましい限りですね。

 

最高ランクの人にしか使われない「二重敬語(最高敬語)」

 

敬語には尊敬語、謙譲語、丁寧語があります。そのうち、尊敬語は相手の言動に対して尊敬の気持ちを込めて使います

 

通常、一つの動作に対し敬語は一つですが、とても偉い人に対しては二重に敬語を使います。これが二重敬語、または最高敬語です。

 

(定子が隆家に)「いかようにかある」と問ひ聞こえさせたまへば、の部分で問うという定子の行動に対し、筆者の清少納言が「聞こゆ」と「させたまふ」という2つの敬語を重ねています

 

これは、定子が天皇の后(中宮)なので、最高の敬意を払う必要があるからです。

 

この文に限らず、「中納言参りたまひて」はやたらに敬語が出てきます。

 

しかも、主語がことごとく省略されているので非常にわかりにくいです。

 

ただ、清少納言の立場からすれば定子も隆家も自分の目上にあたる人たちなので、彼らの行動すべてに敬語をつける必要がありました。

 

大まかに言って、本文を書いている清少納言中宮定子や中納言隆家の行動すべてに尊敬語を用い、清少納言自身の行動には謙譲語を用いているといってよいでしょう。

 

まとめ

 

今回は『枕草子』に収録されている「中納言参りたまひて」をとりあげました。

 

学校で教材にされることが多く、敬語問題の定番としても出題されることから古典初心者を大いに悩ませる章段です。

 

ただ、登場人物や扇についての基礎知識、最低限の敬語の知識があれば内容は難しくありません。

 

この記事を読んで、登場人物や話に出てくる扇の古典常識、最高敬語をはじめとする注意すべき文法事項について「わかった!」と思っていただけたら幸いです。

 

百人一首の名歌「しのぶれど」。意味や作者、天徳内裏歌合での対決とは?コナンやちはやふるにも登場!

 

しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで

 

この歌はどういう意味だろう?

この歌と、恋すてふ の歌とのかかわりは?

しのぶれど という名のバラがあるって本当?

 

このページに来てくれた方は、そんな疑問を持っているかもしれません。

 

「しのぶれど」の歌は『拾遺和歌集』や『百人一首』に収められた名歌です。

 

歌の出来が素晴らしく、この歌が披露された歌会でもう一つの名歌と優劣を競ったエピソードをもちます。

 

今回は「しのぶれど」の歌の作者や歌の意味、「恋すてふ」の歌と競い合った天徳内裏歌合、「しのぶれど」の歌が登場する『名探偵コナン』や『ちはやふる』など現代の作品、「しのぶれど」という名のバラについてまとめます。

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しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで

 「しのぶれど」の歌の意味

 

まず、「しのぶ」は我慢する、こらえるといった意味です。「しのぶれど」で、我慢していたけれどという意味になります。

 

次に「色」は、表情や感情といった意味です。末尾に詠嘆の「けり」がついていることから、「顔に気持ちがでてしまったのだなあぁ」という意味になります。

 

では、「色」に出てしまったのは何か?それは、「我が恋」、自分の恋心です。しかも、「ものや思ふ」、何か(誰か)を思っているのですか?と「人の問」われてしまいまで。

 

もうこうなると、恋心がバレバレで他人に見えて、しかも聞かれてしまっているということになります。

 

まとめると、我慢してきた恋心でしたが、顔に出てしまっていたのだなぁ。ほかの人に「だれか好きな人でもいるの?」と聞かれてしまうくらいに

 

となります。学生時代にそんな経験をした人は多いかもしれませんね。

 

作者は平兼盛

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「しのぶれど」の作者である平兼盛

作者の平兼盛三十六歌仙の一人に選ばれるほどの和歌の名手です。

 

彼は光孝天皇のひ孫にあたり、後撰和歌集』時代の代表的な歌人でした。

 

出世競争では報われず、かろうじて貴族とよべる「従五位下上」にとどまりました。

 

彼の歌は後撰和歌集拾遺和歌集『後拾遺和歌集などに数多く採用されました。

 

兼盛の歌風は、比較的わかりやすく素直だと評されます。そのため、平安時代の古典に疎い現代人にとっても共感しやすいのかもしれません。

 

「しのぶれど」と「つつめども」の違い

 この「しのぶれど」の歌には、初句が「つつめども」となっているものがあります。それは、鎌倉時代中期に書かれた『沙石集』です。

 

この中にある平兼盛壬生忠見が歌の優劣を競った「天徳内裏歌合」の記事で、兼盛の歌が「つつめども」と紹介されています。

 

「つつめども」も「しのぶれど」も、周囲に見えないように隠すという点では同じ意味になります。よって、どちらであっても意味に大差はありません。

 

ただ、勅撰和歌集である『拾遺和歌集』は1006年前後の成立とされていることから、もともとの歌は「しのぶれど」と考えるのが自然でしょう。

 

 

 披露されたのは「天徳内裏歌合」

 「しのぶれど」の歌が披露されたのは、村上天皇の時代にあたる天徳4年(960年)の「天徳内裏歌合」の時でした。

 

村上天皇を始め、上流貴族が勢ぞろいした豪華な歌会で、壬生忠見が詠んだ「恋すてふ」の歌と一騎打ちを演じます。

 天徳内裏歌合とは

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天徳内裏歌合が催された清涼殿

 天徳内裏歌合は、宇多天皇時代の「寛平后宮歌合」、鎌倉時代初期の「六百番歌合」などともに有名な歌会です。

 

披露される歌のお題は一か月前に告示され、歌人たちは歌合当日まで推敲を重ねました。

 

全部で20番の勝負で、勝敗の判定は判者である左大臣藤原実頼が決します。

 

補佐役には大納言の源高明がつきました。歌人たちは左右両陣営に分けられ、それぞれの歌を披露します。

 

ちなみに、右方の講師(歌を詠む人)は小説『陰陽師』で有名になった源博雅です。

 

左右両陣営には応援の女房達が割り振られ、左方は赤、右方は青をベースとした衣装で聞かざるなど、非常にきらびやかな演出がなされます。

 

こうして、村上天皇臨席のもと、天徳内裏歌合がスタートしました。

 

しのぶれど(つつめども)」VS「恋すてふ

 

歌合は、それぞれの歌を交互に披露して行われます。そして、優れている方を判者が決定して次の歌に進みました。

 

勝敗が決することもあれば、持といって引き分けになることもあります。歌合はどんどんすすみ、ついに最後の20番目の勝負となりました。

 

左方の講師は壬生忠見の歌を詠みます。

 

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

 

恋すてふ、というのは恋しているというのはという意味です。まだきは、もうすでにという意味です。

 

ですから、(あなたに)恋しているという私の名前が、すでに知られてしまった(噂になってしまった)なぁという訳になります。

 

人知れずこそは、人が知らないようにという意味で、思いそめは想い初め、つまり想い始めたばかりという意味になります。

 

ということで、人に知られないように、(あなたのことを)想い始めたばかりなのにという訳になります。

 

奇しくも、「しのぶれど」の歌と同じように秘めていた恋心があらわになった瞬間を詠んだ和歌となりました。

 

どちらの歌がよいか、左大臣実頼は判定がつかず、引き分けにしようとします。

 

ところが、村上天皇が納得しません。実頼はなんとしても勝負をつけるしかなくなりました。 

 

勝ったのは「しのぶれど」の歌

実頼が勝敗をつけかねていると、大納言の源高明がアドバイスします。

 

帝(村上天皇)がしのぶれどの歌を口ずさんでいる」と教えてくれたのです。これで意を決した実頼は、右方を勝者と認定します。

 

こうして、歌合では「しのぶれど」が勝利しました。

 

敗れた壬生忠見は激しく落胆します。そして食が細くなり、ついには死んでしまったといいます。

 

『沙石集』では「歌ゆゑに命を失ふ事」というタイトルをつけ、天徳内裏歌合と壬生忠見の死のエピソードを紹介しました。 

「しのぶれど」が登場する作品

名探偵コナンから紅の恋歌


 

 から紅の恋歌」は、2017年に上映された名探偵コナンシリーズの映画です。劇場版第21作にあたるこの作品は、関西圏を舞台としています。

 

作中には「しのぶれど」の歌のほかに、

 

在原業平の「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」や

 

崇徳上皇の「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

 

など百人一首の他の歌も登場します。

 

和歌を題材にしたミステリーはいろいろな作品に登場しますが、メジャーなアニメ作品に登場するとまた趣が異なる気がします。

 

ネタバレを延々と書くのは無粋なので、詳しい内容は同作品をご覧になってお楽しみください。 

小説 『ちはやふる』 中学生編(3) 

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ちはやふる』は末次由紀作の少女漫画です。2020年の段階で全45巻で、競技カルタをテーマとしています。

 

タイトルの『ちはやふる』は、崇徳上皇の歌の「ちはやぶる」に由来します。

 

漫画では描かれなかった中学時代を小説化したこの作品では、主人公綾瀬千早(あやせちはや)のライバルとして登場する若宮詩揚(わかみやしのぶ)について描かれています。

 

彼女の名のもととなったのが「しのぶれど」の和歌でした。

 

そのため、彼女をメインにした章段の名は「詩揚の章 しのぶれど色に出でにけり」となっています。

 

かるた以外に興味がない彼女と、転校生笹原美稀、主人公の幼馴染の真島太一(ましまたいち)の中学生時代を描いた作品です。興味がある方は、ぜひ読んでみてください。 

「しのぶれど」の名を持つバラ 


 

 「しのぶれど」は、あまり見かけることがない藤色のバラです。

 

兼盛の歌から名を取られたこのバラは、2006年に生み出された新しいバラです。

 

華やかなイメージが強いバラですが、この「しのぶれど」は周囲に調和するとても奥ゆかしいバラです。

 

見た目は奥ゆかしいですが、香りが強く「恋」を隠し切れない歌のように、芳香を周囲に放ちます。庭があったら植えてみたいと思わせるバラですね。

 

まとめ

今回は百人一首に登場する「しのぶれど」の和歌について紹介しました。

 

この歌は、内に秘めた恋心を詠んだ名歌です。天徳内裏歌合では、同じく恋心を詠んだ壬生忠見の「恋すてふ」の歌と激しいつばぜり合いを演じました。

 

また、この歌は現代の作品にも影響を与えています。名探偵コナンや『ちはやふる』には「しのぶれど」の歌にちなんだエピソードが登場します。

 

千年たってもリバイバルされるとは詠んだ平兼盛も思わなかったでしょうね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

   

傍若無人の語源となり、秦王政(後の始皇帝)暗殺を試みた荊軻とは?

このページを訪れた人は、

 

荊軻(けいか)って誰?

どうやって始皇帝を暗殺しようとしたのか?

傍若無人荊軻は関係があるの?

 

このページを訪れた人は、そういった疑問を持っているかもしれません。

 

荊軻は古代中国の戦国時代に生きた「刺客」、つまり暗殺者です。燕の太子丹の依頼を受けた荊軻は燕に亡命していた秦の将軍樊於期(はんおき)の首を持参して秦王政(のちの始皇帝)に謁見し、暗殺を試み失敗しました。

 

なぜ、燕の太子丹は荊軻始皇帝暗殺を依頼したのでしょうか?また、荊軻とはいったいどんな人物だったのでしょうか?そして、どうやって荊軻は警固が厳重を極めた秦王政に近づき、暗殺の一歩手前まで追い詰めたのでしょうか?

 

今回は、始皇帝をあと一歩のところまで追い詰めた荊軻についてまとめます。

 

古代中国史に興味がある方はこちらの記事もどうぞ!

 

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 荊軻とは

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史記』の著者、司馬遷

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荊軻について詳しく書き記したのは『史記』の編纂者である司馬遷です。司馬遷は、荊軻をはじめ戦国時代の著名な暗殺者5人をとりあげ「刺客列伝」を書きました荊軻の経歴はこの「刺客列伝」の内容によります。

 

荊軻は現在の河南省の一部にあたる衛の国に生まれました。衛は歴史の古い国でしたが国力は弱く、荊軻の時代には韓や魏の属国状態となっていました。

 

「刺客列伝」によると荊軻は若いころから読書と酒を好み、諸国を放浪して遊説術を学んだといいます。放浪の旅から戻った荊軻は衛の君主に謁見しましたが、衛の君主は荊軻の策を採用しませんでした。

 

祖国の官僚になることをあきらめた荊軻は街中で酒を飲みつつ、様々な人物と交わりました。酒が入ればケンカ沙汰になりやすいのは古今東西の常です。荊軻は剣術論や博打などについてケンカになりかけますが、そのたびに争いを避けます

 

荊軻とケンカした者たちは荊軻のことを臆病者とそしりましたが、荊軻としては些細なケンカで命をかけるような真似をしたくなかったのでしょう。

 

荊軻の行動が語源となった「傍若無人」とは

 各地を放浪した荊軻は中国北東部の国である燕にたどり着きました。燕は現在の北京周辺を支配する国です。そこで荊軻高漸離(こうぜんり)という人物と親しくなりました。高漸離は筑とよばれる弦楽器の名手です。

 

荊軻は燕の街の中で高漸離と酒を飲んでは筑の演奏でともに歌い、ときに大声で泣いたといいます。その様子はまるで周囲に人がいないかのようでした

 

「傍らに人無きが若し」司馬遷は記しています。このエピソードから、他人のことなどまるで気にかけず、遊び騒いで勝手にふるまうことを「傍若無人というようになりました。

荊軻が生きた古代中国の春秋・戦国時代

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春秋時代の中国

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覇者が諸国をリードした春秋時代

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春秋時代の覇者の一人、斉の桓公

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古代の中国は「殷」や「周」とよばれた国を中心に緩やかにまとまっていました。紀元前770年に周が異民族に敗れ都を東に移すと周の権威が一気に衰えます。

 

かわって力をつけたのが各地を支配する諸侯たちでした。諸侯たちのうち、リーダー格の人物を覇者といいます。こうして周王にかわって覇者が諸国をリードする春秋時代が始まりました。かの有名な孔子春秋時代の人物です。

実力主義の戦国時代に台頭した戦国の七雄

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戦国の七雄の地図

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春秋時代は血筋が重んじられ、周の王を尊ぶ尊王攘夷の考えが強い時代でした。しかし、戦乱が続くと血筋よりも実力が重視されるようになります。

 

紀元前453年、春秋時代の有力諸侯だった晋では有力家臣である韓氏、魏氏、趙氏の力が強まり、晋を三分割して支配しました。こうして、強いものが上にのしあがり、弱い主君や弱い国を凌ぐ下剋上の風潮が世の中を支配する戦国時代が始まります。

 

最終的に、七つの国が大国として成立しました。これを戦国の七雄といいます。戦国の七雄とは、北東部の燕、山東半島の斉、晋の北部の趙、晋の中部の魏、晋の南部の韓、長江流域の楚、西方の異民族を抑えた秦の七国です。

 

 

秦の強大化

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秦を強大化させた商鞅

戦国の七雄の中で、圧倒的な力を持ったのが西方の秦でした。秦の支配する地域は中国全体から言えば西の辺境です。なぜ、秦が力を強めたのでしょうか。

 

秦の国力を飛躍的に高めたのは商鞅という人物です。商鞅は法を中心とする法治国家として秦を再編します。商鞅は厳しい法律を課す一方、身分が低くても功績をあげれば出世できる仕組みを整えます。商鞅の改革により秦は国王の権力が非常に強い国となりました。

 

秦王政による六国征服

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始皇帝(秦王政)

引用:

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紀元前247年、秦の国で13歳の若き王が即位しました。のちに始皇帝と呼ばれる嬴政(えいせい)です。母親の趙姫に寵愛された嫪毐(ろうあい)が起こした反乱を鎮圧すると、宰相の呂不韋を退け自ら政治をおこないます。

秦王政は李斯をはじめとする秦の国以外の出身者を積極的に登用することで国力を強めました。国力を強めた秦は周辺諸国を次々と併合します。荊軻が滞在していた燕は、秦の侵攻を避けるため太子の丹を人質として差し出します

秦王政の暗殺計画

 

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始皇帝墓所ちかくに埋められていた兵馬俑

引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/Xian_museum.jpg/1280px-Xian_museum.jpg

太子丹の秦国脱出

人質として秦の都咸陽に滞在していた丹は、かつて趙国に人質に出されたことがあり、その時に秦王政と面識がありました。その時のよしみでよく扱ってくれるだろうと期待していましたが、丹の期待は裏切られてしまいます。

 

秦王政に冷たくあしらわれた太子丹は秦国を脱出して燕に帰ってしまいました。このままでは、秦に攻められると考えた太子丹は重臣に秦の打倒を相談します。しかし、重臣は秦にはかなわないから抵抗すべきでないと説きます。進退に窮した太子丹は大いに悩みました。

 

燕と秦の間にあった趙が秦に攻められ滅亡すると、秦は燕をたびたび攻めました。国力では秦にかなわない燕は滅亡の危機に瀕します

 

秦王暗殺計画の準備

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匕首のイラスト

引用:フリー画像(イラストAC)
 

追い詰められた太子丹は、燕の有力者田光に秦王政の暗殺を相談します。田光は最適な人物がいるとして荊軻を推挙しました。この時、太子丹は「くれぐれもご内密に」と田光に余計な念押しをしたため、疑われていると感じた田光はこの話を荊軻に伝えた後で自害します。

 

荊軻から田光の最期を聞いた太子丹は、荊軻に正式に秦王政の暗殺を依頼します。この時、太子丹は荊軻のために大金を出して暗殺用の匕首を入手します。その匕首に毒を塗って死刑囚を試し切りしたところ、全員が毒によって死にました。

 

荊軻は、用心深い性格の秦王政に近づくための方法を考えます。そして、秦王があってもよいと思えるほどの魅力ある手土産を2つ用意しようと考えます。

 

一つは、燕でもっとも豊かな督亢(とくこう)の地を献上すること。もう一つは燕に亡命してきた樊於期(はんおき)将軍の首です。太子丹にそれを告げると、自分を頼ってきた樊於期の首を差し出せないという答えでした。

 

そこで、荊軻は樊於期のところの行き、樊於期に事情を説明します。樊於期は秦に残してきた一族は秦王によって皆殺しにされたため、その恨みを晴らすためならばと自害して荊軻に首を差し出しました。

荊軻の旅立ち

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横山大観作「風蕭々兮易水寒」

引用:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/390141
 

荊軻は秦王暗殺のパートナーとして古くからの友人を呼んでいました。しかし、その友人がなかなか到着しません。すると、太子丹がなかなか出発しようとしない荊軻に対し、怖気づいてしまったのではないかと疑い始めました。

 

やむなく、荊軻は太子丹がつけた秦舞陽を供として秦に向けて旅立ちました。太子丹らは荊軻を易水まで見送ります。この時、見送りの人々は荊軻が生きて還れないと考えていたため喪服である白装束で経過を見送ります

 

この時、荊軻は「易水歌」とのちによばれる別れの詩を詠じます

 

風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず

 

風が物寂しく吹き、易水の水は冷たい。覚悟を持った壮士(勇ましい男)は、一度去ったら(仕事を成し遂げるまで)二度と戻らない。

 

 

秦王政と荊軻の対決と荊軻の死

 

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秦王政を殺害しようと追いかける荊軻

引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d3/Jingkeciqinwang.png

荊軻は秦舞陽をともなって秦の都咸陽にたどり着きます。督亢の地図と樊於期の首を持参した燕の使者がやってきたことを知った秦王政は大いに喜び謁見を許します。

 

秦王政の宮殿に入ると、秦舞陽がガタガタと震えだしてしまいました。不審に思った秦の廷臣が「なぜ、震えている」と尋ねます。すると、荊軻は「田舎者ゆえ、天子の前で恐れおののいているからです」と平然と答えて疑いをかわしました。

 

秦王政のすぐ近くまでやってきた荊軻は、督亢の地図を少しずつ開きます。そして、地図が開き終わると、あの毒を塗った匕首が現れました。荊軻は秦王政の袖をつかんで、一突きにしようとします

 

しかし、秦王政の袖が引きちぎられ、かろうじて秦王政は匕首をかわしました。逃げる秦王、追う荊軻。二人は謁見のまで追いかけっこをします。

 

護衛の兵士たちは武器を持ったまま謁見の場に上がることを許されていなかったので、誰一人荊軻を阻む者はいません。秦王政は長剣を帯びていましたが、慌てていてうまく抜くことができません。

 

その時、侍医の夏無且(かむしょ)が薬箱を荊軻に投げつけました。それに荊軻がひるんだすきに、秦王政が剣を背負って抜くことに成功します。秦王政はすぐに荊軻を斬りつけました。

 

足を斬られもはやこれまでと思った荊軻匕首を秦王政に投げつけます。しかし、これも外れてしまいました。逆上した秦王政は荊軻が動かなくなっても剣で荊軻を斬りつけ続けました

燕の滅亡と高漸離による始皇帝暗殺未遂

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始皇帝について記録した『史記』の「始皇帝本紀」

引用:

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8b/Qin_first_emperor_annals.JPG/1280px-Qin_first_emperor_annals.JPG

事件後、激怒した秦王政は直ちに燕に秦軍を差し向けます。紀元前226年、秦は燕の首都薊(けい)を攻め落とします。

 

事件の首謀者である太子丹は燕王によって殺され、燕王はその首で秦王政の許しを請おうとしました。しかし、秦王政は攻撃の手を緩めず、紀元前222年に燕は完全に滅ぼされました

 

荊軻の友の高漸離は筑の名手だったので、その腕を惜しんだ始皇帝に召し出されます。その際、始皇帝は高漸離の目をつぶして危害を加えられないようにしました。

 

目をつぶされた高漸離は友の敵を討つ機会を執拗に狙います。そして、演奏中に鉛を仕込んだ筑で始皇帝の暗殺を試みました。しかし、目が見えなかったこともあり暗殺は失敗。高漸離は始皇帝の部下に殺されてしまいます。

 

 

まとめ

 荊軻は戦国時代の人で、燕の太子丹の依頼により秦王政(のちの始皇帝)の暗殺をはかりました。太子丹が暗殺を依頼した理由は、秦の強大化で燕が滅ぼされると考えたからです。

 

荊軻は毒を仕込んだ匕首を献上品の地図に隠して秦王政に接近します。間近で地図を開き、秦王政を毒の匕首で一突きにしようとしました。しかし、間一髪のところで暗殺は失敗し、荊軻は殺されてしまいました。

 

たった一本の匕首で、中国最強の王、秦王政に立ち向かった「壮士」荊軻の存在は、司馬遷が書いた『史記』の「刺客列伝」によって今に伝えられています。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

『平家物語』「敦盛の最期」の登場人物や心情、物語の意味をわかりやすく解説!

「敦盛の最期の意味が知りたい」

「敦盛の最期の登場人物は?」

平敦盛や熊谷次郎直実の心情について知りたい」

 

このページを見ている人はそんな疑問を解決したいのではないでしょうか。「敦盛の最期」は平家物語の一部です。登場するのは美貌の青年武将平敦盛と坂東武熊谷次郎直実です。

 

そこで、今回は「敦盛の最期」の登場人物や源平合戦の全体像、「敦盛の最期」が起きる一の谷の戦い、「敦盛の最期」の意訳や戦後の熊谷直実などについてまとめます。

 

この記事で分かること

 

  • 登場人物二人のプロフィール
  • 源平合戦全体の中で、一の谷の戦いがいつ起きたのか
  • 一の谷の戦いでの「敦盛の最期」の位置づけ
  • 「敦盛の最期」の意訳
  • 戦いが終わった後の熊谷次郎直実
  • 信長と敦盛の関り

 

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「敦盛の最期」の登場人物二人

敦盛の最期は、平家の公達「平敦盛」と、義経軍の一員として参戦した東国武士「熊谷次郎直実」の二人です。

 

平家の美しい公達「平敦盛

 

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%95%A6%E7%9B%9B

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平敦盛は、平氏の棟梁である平清盛の弟である平経盛の子。つまり、清盛の甥にあたる人物です。

 

清盛が天下の政治を担っていたころ、平時忠(清盛の妻の弟)は「平家にあらずんば人にあらず」と言い切りました。それだけ、平氏に権力が集まると、平氏一門の男子は無条件で位を与えられるようになります。

 

敦盛は、源平合戦のころは官職についていなかったため「無官大夫」とよばれました。しかし、位は従五位下で貴族の一員となっています。

 

敦盛は若くして笛の名手として知られていました。そのため、敦盛は祖父の平忠盛鳥羽上皇から与えられた「小枝(さ枝)」という名の笛を与えられます。この笛が、のちに、討ち取られた若武者が平敦盛であるという証拠となりました。

 

武蔵国の住人、熊谷次郎直実

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F

熊谷次郎直実武蔵国熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)を本拠地とした武士。若いころ、自立して一人前の武士として所領を持ちたいと考えた熊谷は京都で平知盛(清盛の四男)に仕えますが、関東に戻り頼朝の挙兵に参加します。

 

直実は京都に派遣された源範頼源義経軍の一員として平氏討伐戦に参戦しました。直実は、名のある武将を討ち取って手柄を上げ、自分の所領を得ようと躍起になります。

 

源平合戦(治承寿永の乱)の全体像

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1180年の以仁王の令旨から、源平合戦(治承寿永の乱)が始まりました。最初は平氏が優位でしたが、棟梁の平清盛が死んでから、平氏は劣勢となります。

 

倶利伽羅峠の戦い木曽義仲に敗れた平氏安徳天皇を連れて都落ち。西国で再起を期しました。 都にいた後白河法皇は、木曽義仲の扱いに困り源頼朝に義仲討伐を依頼。頼朝の命令で源範頼源義経が上洛し、宇治川の戦い木曽義仲に勝利しました。

 

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その後、範頼・義経軍は平氏を討伐するため西国に向かいます。1184年に平氏軍が守る一の谷を、範頼・義経軍が攻めて起きたのが一の谷の戦いです。敦盛は守備側の一員として、熊谷次郎直実は攻撃側の一員として参戦します。

 

一の谷の戦い

1184年、範頼・義経軍は平氏が守る一の谷を攻めました。東から主力軍を率いる範頼軍が、平知盛平重衡の軍と正面からぶつかります。

 

一方。義経は一の谷を迂回し、山の中の抜け道から一の谷の背後に回り込みます。熊谷次郎直実は、義経率いる別動隊に所属していました。

 

迂回に成功した義経は、平氏軍の背後にそびえたつ断崖「鵯越(ひよどりごえ)」を馬で駆け降りる作戦を決行!襲ってくるはずがない、背後のがけからの急襲に平氏軍は大混乱に陥ります。

 

熊谷次郎直実は、先陣争いを急ぐあまり、敵に包囲され殺されかけますが、何とか生き延びて大将首を探します

 

「敦盛の最期」の意訳

戦いは、源氏の勝利に終わりそうだ。平氏の位の高い武将が助け舟に乗ろうと海岸に行くはず。だれか、討ち取って手柄にできる対象はいないだろうか…

 

そう思いながら熊谷が海岸線で敵を探していると、見るからに「キラキラ」とした軍装の若武者が、海に馬を乗り入れているではないか。

 

戦いは、源氏の勝利に終わりそうだ。平氏の位の高い武将が助け舟に乗ろうと海岸に行くはず。だれか、討ち取って手柄にできる対象はいないだろうか…

 

そう思いながら熊谷が海岸線で敵を探していると、見るからに「キラキラ」とした軍装の若武者が、海に馬を乗り入れているではないか。

 

熊「(逃げている若武者に向かって)、あなたは大将軍のはずなのに、敵に背を見せて恥ずかしくないか!戻ってきて勝負しろ!」と扇で若武者を招きました。

 

すると、挑発に乗ってしまった若武者が馬を返してくる。熊谷はすかさず、若武者に組み付き、あっというまに組み伏せます。首を取ろうと、甲を押しのけてみれば、まだ、十六・七歳くらいの若者だった。

 

その若者は、息子の小次郎と同じくらいの歳で、あまりに「イケメン」だったので、どこに刀を突きさせばよいかわからなくなってしまいました。

 

熊「そもそも、あなた様はどのような方でしょう。助けて差し上げるので、名前を教えてください

 

若「お前は誰だ

 

熊「武蔵国住人、熊谷次郎直実

 

若「(身分が圧倒的に低い)お前には私の正体はしゃべらないぞ。首を取って人に聞け。きっと誰かが知っているはずだ(そのくらい、私は有名だ)。」

 

熊「ああ、なんと素晴らしい大将軍か(命乞いをせず、堂々としているから)。この人を討ち取っても討ち取らなくても、戦いの結果は変わらない。なら、いっそ助けようか

 

そう思って、熊谷が振り返ると、土肥・梶原ら関東側の軍勢が50騎ばかりで迫っていました。

 

熊「助けようと思いましたが、味方の軍が迫っているので、助けることはできません。ほかの人に討ち取られるより、私があなたを討ち取りましょう。

 

若「さっさと、私の首を取れ

 

熊谷は、どうしても首を斬ることができず動揺してしまいましたが、ついには泣く泣く若武者の首を取りました。

 

熊「武士とはなんと残念なことか。武士の家に生まれなければ、こんなことをしなくてもよかったのに

と話した後、さめざめと泣いてしまいました。

 

熊谷次郎直実が敦盛の首を、直垂で包もうとしていると、錦の袋に入れた笛が敦盛の腰に刺さっているのを見つけた。

 

熊「ああ、なんと気の毒なことだ。戦いの最中に音楽の宴を催していたのはこの人たちだったのだ

(中略)

 

戦いの後、熊谷次郎直実は大将の義経に首と笛を見せたところ、周囲の人々で涙しないものはいなかったといいます。

 

 

 戦後の熊谷直実

敦盛を討ち取ったのち、熊谷次郎直実は浄土宗の開祖である法然と出会います。熊谷次郎直実は法然に「後生(死後、どのようにすれば成仏できるか」について尋ねました。

 

法然は「罪の軽い想いに関わらず、ひたすら念仏を唱えるとよい。それ以外に道はない」と説きました。熊谷次郎直実は号泣。その後、熊谷次郎直実は出家し、法然の弟子となり、蓮生と名乗りました。 

 

織田信長が好んだ幸若舞の「敦盛」

 

源平合戦の一幕である、「敦盛の最期」を題材としたのが室町時代に流行した幸若舞です。信長も幸若舞を愛好したことで知られます。

 

信長が好んだのは、出家した直実が心中を語るシーン。原文を引用すればこうなります。

 

此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、たちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる。-『信長公記

 

人生は五十年。生きている人間の一生など夢幻のようだ。一度性を受けて、滅びないものなどあるものか。

 

この一節を舞った後、信長は桶狭間に出陣します。信長にとって、敦盛は一瞬の光輝く生の象徴だったのかもしれません。

 

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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

マンガ『キングダム』の重要人物!名言「奇貨居くべし」を残した「呂不韋」の史実とは!

呂不韋って誰?

奇貨居くべしとはどんな意味?

呂不韋呂布は違うの?

 

この記事を読んでいる方は、そんな疑問を持っているかもしれません。呂不韋は戦国時代末期の秦国の政治家です。商人出身の呂不韋は趙国に人質に出され不遇だった秦の王子「子楚」を支援し、秦王の座に担ぎ上げます。

 

しかし、呂不韋は国王となった秦王政(子楚の子)によって粛清されてしまいました。彼の話は司馬遷の『史記』や原泰久氏が描く『キングダム』で紹介されてました。

 

『キングダム』累計6,400万部を販売した大ベストセラーマンガです。2011年にはテレビアニメ化、2019年には実写映画化とその勢いはとどまるところを知りません。

 

kingdom-the-movie.jp 

kingdom-anime.com

 

『キングダム』の中に登場する人物の中でも、非常に重要な位置を占める呂不韋。もともと、一介の商人に過ぎなかった呂不韋は、秦王政(始皇帝)の父に「投資」することで、秦国の右丞相へとのし上がります。

 

今回は、呂不韋と子楚の出会いや呂不韋の名言「奇貨居くべし」、司馬遷の評価など、呂不韋と『三国志』の英雄呂布との違いなど史実に基づく呂不韋についてまとめます。

 

 

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史記』に描かれた呂不韋と子楚の史実

 

前漢の歴史家司馬遷は、中国史上最も有名な歴史家で、いわば、国史の父といっても過言ではないでしょう。

司馬遷は『史記』の中で、国や帝王の歴史を記す「本紀」だけではなく、司馬遷が「これは!」と思った人物について書く「列伝」などから成り立っています。

その際、司馬遷はどうしてこの人物をとりあげたかということについて、「太史公自序」に記しました。

 

司馬遷

子楚と親しみをむすび、諸侯の士の名のある者を、きそって秦に仕えさせるようにした。ゆえに呂不韋列伝第二十五を作る」(『史記』「太史公自序」)

と述べています。

 

呂不韋と子楚はどのように出会ったのでしょうか。

 

呂不韋が見出した秦の王子「子楚」

 

司馬遷によれば、呂不韋は韓の国の陽翟(ようてき)出身の大商人でした。呂不韋は諸国を移動しながら、安値で買い取ったものを高く売る商売し、千金の富を蓄えます

 

呂不韋が商売で富を得ていたころ、中国で最も力を持つ秦国では、昭王が40年以上にわたって王位にありました。昭王の後継者である太子には、安国君という人物が指名されます。

 

安国君には20人以上の王子がいて、そのうちの何人かは諸国に人質として出されていました。呂不韋が出会ったのは、人質として趙国の都の邯鄲に送り出されていた子楚でした。人質にされていることからわかるように、子楚は王位継承レースから外れた存在です。

 

子楚の母親は安国君の数多くいる側室の一人で、それほど厚い寵愛を得ていたわけではありません。子楚が冷遇され、人質として出されてしまうのも無理のないことでした。

 

「奇貨居くべし」の意味とは?

 

呂不韋は子楚と出会うなり、一目で気に入り「奇貨居くべし」とつぶやいたといいます。奇貨とは、珍しい品物のこと。居くべしとは、手元に置いておくべきだ、という意味ですね。

 

呂不韋は子楚に語りかけます。

「私は、あなた様の門を大きくすることができます」

門を大きくするとは、勢力を強めること。

つまり、あなたの地位を上げることができますよと子楚に告げたのです。

 

しかし、子楚は笑いながら

「まずは、あなたの門を自分で大きくするのが先で、私の門はそのあとで大きくしてもらおう」といいました。

 

すると、呂不韋

「あなたはご存知でいらっしゃらない。私の門はあなた様の門のおかげで大きくなるのです」

 

呂不韋の真意を知った子楚は、呂不韋奥座敷に招き入れ密談を始めました

 

   

呂不韋の工作

呂不韋の分析は以下の通りです。

  • 秦王は高齢で余命はそれほどなく、まもなく安国君が次の王として即位する
  • 安国君は、自分の後継者をまだ決めていない
  • 安国君が寵愛する華陽夫人には子がいない
  • 華陽夫人を味方につけることができれば、子楚が安国君の後継者になることができる

呂不韋は千金の財産のうち、半分を子楚に与えます。呂不韋は、「この500金を使って、有名人との交際を広め評判を高めてください」と子楚に依頼しました。

 

呂不韋と子楚の仲が深まっていたころ、呂不韋の家を訪れた子楚は一人の女性に心を奪われます。彼女の名は趙姫。秦王政(始皇帝)の母親となる女性です。

 

趙姫は、もともと呂不韋の愛人でした。そんなことを知らない子楚は、呂不韋に趙姫が欲しいと頼みます。呂不韋は腹を立てましたが、これまでの投資が無駄になると思い、趙姫を子楚に譲ります。

 

ちなみに、この時すでに趙姫は身ごもっていました。それゆえ、始皇帝呂不韋の子であるという話が出てくるのですね。

 

呂不韋自身は残りの500金で珍奇な財宝を買い、秦国に乗り込みます。呂不韋は、すぐに華陽夫人接触しませんでした。彼が目を付けたのは華陽夫人の姉接触します。

 

呂不韋は500金で買った財宝を華陽夫人の姉に全て献上すると、趙で人質となっている子楚が、日々、安国君や華陽夫人のことを「天」のようにあがめていると伝えました。

 

華陽夫人の姉は、すぐに華陽夫人にこのことを話します。誉め言葉は、直接聞くより、間接的に聞いた方が、効果があるものです。華陽夫人は非常に喜びました。印象を良くしたうえで、呂不韋は本題に入ります。華陽夫人の姉に「忠告」を与えたのです。

 

呂不韋曰く

色を以って人に事える者は、色衰えれば愛弛む

 

色、つまり容姿の美しさで王に仕えている人は、容姿の美しさが衰えると寵愛を失うという意味ですね。これは、華陽夫人が最も心配していることでした。

 

そして、呂不韋は続けます。

 

あなた様(華陽夫人)がこれからも無事に過ごすためには、あなた様を慕っている人物を安国君の後継者に指名すればよい」と。そうすれば、安国君が亡くなっても華陽夫人の地位は安泰だと「助言」したのです。華陽夫人の姉はすぐさま華陽夫人のもとにいき、呂不韋の言葉を伝えました。

 

呂不韋の策は、将来を不安に思っている華陽夫人の心を捉えました。華陽夫人は安国君に、趙で人質になっている子楚を後継者とするよう進言。寵姫の言葉に、安国君は一も二もなく同意しました。

   

子楚を襲った大ピンチ!

 

着々と子楚を王位につける工作が進む中、子楚の命を危うくする事件が起きました。

紀元前257年、秦軍が趙の都邯鄲を包囲したのです。趙は人質である子楚を殺して見せしめにしようとしました。

 

呂不韋は子楚の命が危険にさらされていると判断。子楚を監視していた役人に賄賂を与えて、子楚をただちに邯鄲から脱出させます

 

しかし、子楚の妻となった趙姫や趙姫の子(後の始皇帝)は脱出できません。趙姫らは邯鄲の町に潜伏します。最終的に、趙姫らは生き残ることができました

 

子楚の即位

秦国に逃げ延びた子楚は、華陽夫人の引き立てもあり安国君の太子としての地位を固めます。昭王が亡くなると、安国君が即位(孝文王)し、華陽夫人が后となりました。翌年、孝文王が死去し、太子の子楚が即位します(荘襄王)。

 

子楚の即位を知った趙国は子楚の報復を恐れ、趙姫と子を丁重に秦に送り返しました。子楚は、かつて「お考え通りになった暁には、秦国はあなたと共有しましょう」と呂不韋に述べたといいます。

 

その言葉通り、荘襄王となった子楚は、呂不韋を首相にあたる宰相に取り立てます。呂不韋は先行投資した千金以上の利益を得ることができました。 

 

呂不韋呂布の違う?呂不韋の子孫とは?

呂不韋呂布は同姓ですが、血のつながりがありません。呂不韋は韓や衛といった中原(中国文化の中心地である黄河流域)の出身です。彼の子孫と伝えられているのは『三国志』に登場する呂凱です。

 

呂凱は蜀の丞相である諸葛亮がおこなった南蛮遠征で道案内役として活躍した人物です。諸葛亮が南蛮を去った後、この地の統治を任されましたが、南蛮で発生した反乱で殺害されてしまいました。

 

一方、呂布後漢末期の武将で『三国志』の前半に登場する英雄です。方天画戟という武器で縦横無尽に戦場を駆け回りました。現在の内モンゴル自治区にあたる并州です。呂不韋の子孫である呂凱を見出した諸葛亮より前の世代の人物でした。

 

まとめ

呂不韋は子楚を「奇貨」として見出し、多額の先行投資をつぎ込むことで秦の宰相にまで上り詰めました。

 

先行投資は単なる賭博ではありません。先を見据え、自分が予想する未来が実現する可能性を少しでも高めるべく行動しなければなりません。呂不韋は子楚を王とするために、たとえ愛人でさえも差し出しました。

 

丞相となった呂不韋は、諸国から人を集め『呂氏春秋』を編纂します。この編纂事業は、知識を集めるだけではなく人材を集めるのにもつながりました。ここでも、呂不韋は先行投資を実施しているのです。

 

しかし、呂不韋はどんなに功績を積み重ねても臣下です。優秀な人物が国王となり、呂不韋と対立した時、呂不韋は歴史の表舞台から去らなければなりませんでした。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました

   

『平家物語』「木曽の最期」はどんな話?木曽義仲ってどんな人?義仲と今井四郎兼平、巴御前の関係とは?

木曽義仲ってどんな人?

"木曽の最期”はどんな内容?

木曽義仲と今井四郎、巴御前の関係は?

 

この記事をご覧の方はそんな疑問を持っているかもしれません。

木曽義仲は通称で、本名は源義仲といいます。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の従兄弟で、以仁王の令旨に応じて挙兵します。

 

木曽義仲倶利伽羅峠の戦いで牛の角に松明をつけて平氏軍を驚かし、10万の平氏軍を蹴散らしました。

しかし、後白河法皇との関係が悪化したことで同じ源氏の源義経の軍と戦い敗北します。

 

敗北を悟った木曽義仲は愛妾の巴御前を逃がすと、忠臣今井四郎とともに最後の戦いをします。

それを描いたのが『平家物語』の「木曽の最期」でした。

 

平家物語には平清盛源頼朝源義経後白河法皇などなかなか強烈なキャラクターが沢山登場します。

今回紹介する「木曽殿」こと、木曽義仲源義仲)もなかなかに印象深いキャラクターなんですよ。

 

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今回は、木曽義仲のわかりやすい解説と『平家物語』「木曽の最期」の原文、現代語訳(意訳)を紹介します。

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木曽義仲巴御前

「木曽殿」こと、木曽義仲とは

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木曽義仲源義仲

平家物語』では、「朝日(旭)将軍」などとも記される木曽義仲はどのような人物だったのでしょうか。

義仲の生い立ち、挙兵から倶利伽羅峠の戦い、入京後の動き、京都からの敗走など義仲の生涯について見てみましょう。

木曽義仲の生い立ちと挙兵

今回の主人公は木曽義仲

木曽義仲河内源氏の流れを汲む人物で、源頼朝義経のいとこにあたります。

源義賢(頼朝の父、義朝の弟)の次男として生まれましたが、義賢が兄義朝に討たれたため、義仲は信濃南部木曽谷に逃がされました。

 

1180年、平氏の専横に不満を持っていた後白河法皇の皇子以仁王が挙兵。

全国各地の武将に平氏打倒の令旨(以仁王の令旨)を発しました。令旨を受け取った反平氏の有力者は次々と挙兵します。

関東では源頼朝が挙兵し、信濃では木曽義仲が挙兵しました。

 

平家の攻勢と倶利伽羅峠の戦いでの大逆転

1181年、義仲は新潟方面に進出。

1182年に以仁王の遺児である北陸宮を保護し、ともに京都に向かいます。

 

一方、平氏平維盛を大将とする10万の大軍を北陸に派遣しました。

平氏の軍勢は越前・加賀と制圧し、北陸道を東へと向かいます。

このとき、今井兼平義仲四天王の一人で、巴御前の兄)が平氏軍の先鋒に奇襲攻撃を仕掛け、後退させることに成功しました。

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倶利伽羅峠の戦い

平氏軍は体勢を立て直すため、加賀に引き上げようとします。

平氏軍が加賀と越中の境目にある倶利伽羅峠で野営していたとき、平氏の陣営に夜襲を仕掛けました。

奇襲攻撃に動揺した平氏軍は大混乱。算を乱して壊走し、無数の武者が谷底に転落したと言います。

 

倶利伽羅峠の戦いに勝利した木曽義仲は、勢いに乗って北陸道を京都に向けて駆け上りました。

主力を失った平氏は京都の防衛を断念し、西国へと逃れます(平氏都落ち)。

 

義仲の入京 

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後白河法皇

平氏都落ちにより空白地となった京都に義仲軍が入京しました。

後白河法皇平氏追討の手柄を、一番は頼朝、二番は義仲、三番は義仲とともに行動した源行家と決め、官職を与えます。

 

また、義仲は京都の治安維持を命じられます

しかし、これがなかなかの難事でした。

というのも、このころは養和の大飢饉の真っ只中で食糧不足。

おまけに、義仲率いる大軍が京都にいるため、食料が行き渡りません。

 

あまつさえ、義仲軍による京都周辺での略奪が発生。

さらには、安徳天皇平氏に連れ去られたため、新天皇を決めるという時も、義仲は血筋の順序を無視して、北陸宮の即位を主張し、後白河法皇の不興を買いました

 

その結果、後白河法皇と義仲の対立は決定的なものとなります。

1184年、木曽義仲後白河法皇が住んでいた法住寺を襲撃

法住寺を護衛していた官軍を打ち破り、後白河法皇後鳥羽天皇を捕えました。

義仲の敗北と巴御前との別れ

義仲が法住寺を襲撃したころ、頼朝は弟の範頼と義経に兵を預け京都に向かわせていました。

頼朝軍の接近を知った義仲は、朝廷に迫り自分を征夷大将軍に任命させます。

しかし、その程度で頼朝軍の進撃が止まるわけはありません。

 

義仲は京都を守るため、宇治川を防衛線として範頼・義経軍を迎え撃ちました。

義仲は、法住寺襲撃などこれまでの行動で京都周辺の武士たちの支持を失っていたため、迎撃に参加した兵力は限られたものでした。

結局、宇治川の戦いで敗北してしまいました。

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巴御前

宇治川の戦いで敗れた義仲は、今まで付き従っていた巴御前に「最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と命じ戦線を離脱させます。

 

ちなみに、巴御前は妻ではなく、義仲の妾で、義仲を支えた女武将倶利伽羅峠の戦いでも武将の一人として描かれていますよ。

 

義仲と今井兼平以下、わずかの供が粟津まで逃れました。

この粟津の戦いの終幕こそ、「木曽の最期」として描かれている場面ですね。

 

原文と現代語訳

 

今井四郎、木曾殿、主従二騎になつて、のたまひけるは、

「日ごろは何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや。」

 

今井四郎(今井兼平)と木曽殿だけの主従二騎になって、木曽殿が今井四郎に、

「日ごろはなんとも思わぬ鎧が、卿は重くなったことだ」とおっしゃった。

 

今井四郎申しけるは、

「御身もいまだ疲れさせたまはず。御馬も弱り候はず。

何によつてか一領の御着背長を重うは思し召し候ふべき。

それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそ、さは思し召し候へ。兼平一人候ふとも、余の武者千騎と思し召せ。

矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津の松原と申す。

あの松の中で御自害候へ。」

 

木曽殿の言葉を聞いた今井四郎は、

「(殿の)体も、馬もまだ弱っていません。

どうして鎧一領を重いとお思いになるのでしょう。

その理由は、味方に軍勢がいなく臆病になっているからでしょう。

兼平一人でも、千人の武者がいるとお思いになってください。

矢を七つ八ついただければ、しばらく防ぎ矢をして時間を稼ぎます。

あそこに見えるのは粟津の松原といいます。あの中で御自害下さい」と木曽殿に言いました。

 

とて、打つて行くほどに、また新手の武者五十騎ばかり出で来たり。

「君はあの松原へ入らせたまへ。兼平はこの敵防き候はん。」

 

そういって、馬を走らせていると新手の武者が五十騎ばかり迫ってきました。

今井は木曽殿に「君(木曽殿)は、あの松原にお入り下さい。兼平が敵を防ぎます」といいました。

 

と申しければ、木曾殿のたまひけるは、

「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふためなり。

所々で討たれんよりも、一所でこそ討死をもせめ。」

とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、

 

木曽殿は、「義仲は都でどうにでもなるつもりだったが、ここまで逃れてきたのはお前と一緒に死のうと思ったからだ。

別々の場所で死ぬより、ここで一緒に討ち死にしよう」

といって、馬を並べて敵に向かおうとしたので、

 

今井四郎、馬より飛び降り、主の馬の口に取りついて申しけるは、

 

「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵にて候ふなり。

御身は疲れさせたまひて候ふ。

続く勢は候はず。敵に押し隔てられ、言ふかひなき人の郎等に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、

 

『さばかり日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる。』

 

なんど申さんことこそ口惜しう候へ。

ただあの松原へ入らせたまへ。」

 

と申しければ、木曾、

「さらば。」

とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ。

 

今井四郎が馬から飛び降り、木曽殿の馬の口をとらえていうには、

 

「武士というものは、どんなに高名となっても、最期のときに不覚をとれば後々まで名誉に傷をつけてしまう。

あなた様はお疲れで、いずれは敵に押し倒されて討ち取られてしまうでしょう。

名もない人の家来に討ち取られ、

 

『日本国中にこんなにも名を知られた木曽殿を、俺の家来が討ち取った』

 

などといわれるのはなんとも悔しいこと。

だから、あの松原へお入り下さい(そして、自害なさってください)』

 

それを聞いた木曽殿は

「そうであるならば」

といって粟津の松原に入っていきました。

 

今井四郎只一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙踏ん張り立ち上がり、大音声あげて名乗りけるは

 

「日頃は音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。

木曽殿の御乳母子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。

さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。

兼平討つて見参に入れよ。」

 

今井四郎がただ一騎で迫ってくる五十騎の中に攻め込み、鎧を踏ん張って立ち上がり、大声で名乗るには、

 

「日ごろ噂は聞いているだろう、今日は実際に見て見よ。

木曽殿の乳母子の今井四郎兼平、三十三歳が参上したぞ。

そういうものがいると鎌倉殿(源頼朝)もご存知であろう。

兼平を討って、頼朝に首を見せてみよ」

 

とて、射残したる八筋の矢を、差し詰め引き詰め散々に射る。

死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。

その後、打ち物抜いてあれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面を合はする者ぞなき。

分捕りあまたしたりけり。

 

「ただ、射取れや。」

 

とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。

 

そういって、射残した八本の矢を次々と射た。

生死はわからないが、八騎を射落とす。

その後、刀を抜いてあちらこちらを走り回って多くの敵兵の命を奪いました。

 

「とにかく矢で射倒せ」

 

と命じ、雨のように矢を降らせましたが鎧が良かったので貫通しません。

 

木曽殿は只一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日入相ばかりのことなるに、薄氷張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。

 

あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。

今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲(かぶと)を、三浦の石田次郎為久、追つ掛つて、よつ引いて、ひやうふつと射る。

 

痛手なれば、真っ向を馬の頭に当てて俯し給へる処に、石田が郎等二人落ち合うて、遂に木曽殿の首をば取つてんげり。

 

木曽殿はただ一騎で粟津の松原に駆け込みましたが、一月二十日ころで薄氷が張った深田にそれと知らず馬を入れてしまい、馬は頭も見えないくらい沈んでしまいました。

 

馬の腹をけっても馬を鞭打っても、馬は動きません。

今井の行方が気がかりで仰ぎ見たとき、かぶとの正面の内側をめがけて、三浦の石田次郎為久が矢を引き絞り、ひゅっと矢を射ました。

 

重傷となる一撃だったので、兜の鉢の正面を乗っていた馬の頭に押し当ててうつむいていたところ、石田次郎為久の家来二人がやってきて、木曽殿を首を取ってしまいました。

 

太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて

 

「この日頃、日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」

 

と名乗りければ、今井四郎、軍しけるがこれを聞き、

 

「今は誰を庇はんとてか軍をもすべき。これを見給へ東国の殿原。日本一の剛の者の自害する手本。」

 

とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。

さてこそ粟津の軍はなかりけれ。

 

討ち取った木曽殿の首を太刀の先に貫き通し、高く掲げて大声で

 

「このところ、日本国で有名な木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取った!」

と名乗りを上げました。

 

それを聞いた今井は、戦いの最中だったが

 

「木曽殿が討ち取られた今、誰をかばうために戦うのか。これをごらんあれ!東国の武士達よ、日本一のつわものが自害する手本だ!」

 

といって、太刀の先を口に入れ、馬からさかさまに落ちて自害しました。

こうして、粟津の戦いは終わりました。

 

より詳しい内容や定期試験の出題傾向などが知りたい方にはこちらの参考書がおすすめです。

 

まとめ

 

一度は天下に名の知られた木曽義仲でしたが、上洛後は力を維持できず、最期は鎌倉方に追い詰められ討ち取られてしまいます。義仲を最期まで守った勇者今井兼平は、太刀をくわえて自らを貫かせるという壮絶な最期を遂げます。

 

この部分だけでも名場面なのですが、木曽義仲の生涯を知ってからこの部分を読むと、最も味わい深いものとなりますよ。 

 

今回は取り上げませんでしたが、『平家物語』の義仲主従の絆は、日本人の心の琴線に触れるものではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

鴨長明が書いた『方丈記』に残された「養和の大飢饉」の記録とは 原文と現代語訳も掲載

鴨長明ってどんな人?

方丈記』ってどんな本?

養和の大飢饉の原文や現代語訳を知りたい!

 

このページをご覧の方はそのようなことを知りたいとお考えかもしれません。鴨長明平安時代末期の人物です。賀茂神社に連なる神職の家に生まれましたが、一族内の出世競争に敗れ、神職として出世する道を絶たれました。

 

出世をあきらめて出家した鴨長明隠居先である「方丈」で書いた随筆が『方丈記です。『方丈記』には記録文学としての側面があります。今回取り上げる「養和の大飢饉」も実際に起きた出来事を鴨長明が記録したものでした。

 

今回は鴨長明がどんな人か、『方丈記』とはどんな本なのか、「養和の大飢饉」の原文や現代語訳はどうなっているのかなどについてわかりやすくまとめます。

 

 

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/815470">かいくう</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

鴨長明とは

 随筆『方丈記の著者である鴨長明。彼が生まれたのは平安時代末期の院政期のこと。鴨という名字からわかるように、鴨長明は加茂神社の禰宜の家に生まれました鴨長明下鴨神社賀茂御祖神社)の禰宜の座に就こうとしましたが、一族内の競争に敗れ、禰宜になることはできません。

 

といっても、鴨長明が無能だったからではありません。俊恵門下で和歌の腕を磨き、中原有安から琵琶の極意を習うなど一流の教養を身に着けていました。

 

しかし、教養と、会社や組織で上り詰める才能は別物です。如何に、典雅な振る舞いができる教養人でも、社内闘争に必ず勝てるわけではないのです。社内闘争に敗れ、神職としての出世に見切りをつけた長明は、近江国大岡寺で出家。京都の東山や大原、日野などで隠遁生活に入りました。

 

方丈記』とは

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鴨長明の直筆と伝えられる『方丈記』の大福寺本

 『方丈記』は、鴨長明が日野山のふもとに隠遁していた時に住んでいた一丈四方の建物(方丈)で書いた随筆です。『方丈記』は漢字と仮名が混じった和漢混交文で書かれた日記ですね。古典の中では比較的読みやすい文章だと思います。

 

方丈記』でもっとも有名なのは冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」ではないでしょうか。

 

方丈記』は、災害記録文学としての側面を持ちます。1177年に京都でおきた安元の大火や1180年の治承の竜巻、1185年の元暦の地震などが記録されていますね。今回紹介する「養和の大飢饉」も、鴨長明によって記録された災害でした。

養和の大飢饉とは

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養和の飢饉、もしくは、養和の大飢饉は1181におきた飢饉です。飢饉とは、自然災害や戦争などにより人々が飢え苦しむこと。養和の大飢饉の原因は、干ばつや洪水などにより農作物が実らないという自然災害でした。

 

被害の中心地域は西日本。無数の餓死者が発生したため、街中には遺体が放置され疫病が蔓延します。朝廷は加持祈祷を行い、飢餓が収まるよう願いましたが一向に効果が現れません。

 

あまりに使者が増えすぎ、丁寧な供養ができない状況となったため、仁和寺の僧隆暁は人々の額に阿弥陀仏の「阿」を書いて仏と結縁させて葬りました。この時、源氏と平氏が戦う治承寿永の乱の真っ最中でしたが、飢饉のあまりのひどさに戦いが中断されたほどです。 

平安末期の平氏政権や『平家物語』について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

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原文と現代語訳

また養和のころとか、久しくなりて覚えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。

あるいは春・夏日照り、あるいは秋、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごとくならず。

 

養和年間のころだったでしょうか、ずっと前なのであまり覚えていませんが、二年くらい世の中が飢饉に見舞われてあきれるほどひどいことがありました。

ある春や夏は日照りに、秋は大風・洪水などよくないことが続き、食料となる穀物(五穀)が全く実りません。

 

むなしく春かへし、夏植うる営みありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。これによりて、国々の民、あるひは地を捨てて境を出で、あるひは家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらさらそのしるしなし。

 

無駄に春に耕し、夏に田植えをしても、秋に刈り取り冬に蓄えるということがない。このため、諸国の人々は土地を捨て、国境を越え、家を放棄し山に住むなどしました。様々な加持祈祷をしましたが、全く効果がありません。

 

京のならひ、何わざにつけても、みな、もとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。

念じわびつつ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、道のほとりに多く、憂へ悲しむ声耳に満てり。

 

京の都の習わしで、なにかにつけ地方からくる産物を頼っていたのに、そういった物資が何も京都に入ってこないので、体裁を取り繕うことができるでしょうか(いや、できない)。

我慢できずに様々な財物を捨てるようにして(食べ物と交換しようと)しますが、まったく目をくれる人がいません。交換してくれる人でも、財物より食べ物の価値が高いとしました。乞食が道のそばに数多くいて、(彼らの)憂い悲しむ声があちこちで充満しています。

 

前の年、かくの如くからうじて暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまにあとかたなし。世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。

はてには、笠うち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。

取り捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはんや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。

 

前の年は、このようにして過ぎていき年が暮れました。来年は立ち直るだろうと思っていたら疫病の流行が加わり、以前の生活の跡形もありません。世の中の人々が皆、飢えて死んでしまったので、日にちが立つごとに困窮するありさまは、水の少ないところで苦しむ魚のたとえがぴったりだ。

ついには、笠をつけ、足を包むような身なりの良い格好の人ですら物乞いをして歩きます。つらい目に遭って呆けたような状態の人が、歩くかと思えば倒れ伏してしまう。築地塀の傍らや道のそばで餓死しているものの数は数え切れません。

道路に散在する遺体の取り扱い方法もわからないので、遺体から発する臭気が街の中に満ち、遺体が腐敗して変化する様子は目も当てられないことが多かった。まして、(普段は往来がみられる)河原などで馬や車が行きかう様子など全く見られない。

 

あやしき賤、山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。

あやしき事は、薪の中に、赤き丹つき、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋ぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。

 

身分の卑しい者たちや山に住む者たちも力尽きたので、山から薪を持ってくるものがいなくなり、頼りにするものがない人々は自分の家を壊して市場で薪として売っています。一人がもってきた薪の代金は、一日の食費にすらならなかったということです。

不思議なことは、薪の中に赤い丹(寺院仏閣の建物などに使われる赤い塗料)や箔などがついた木があったこと。そのことについて尋ねると、どうしようもなくなった人々が古寺に入り、仏を盗み、寺の建物や仏具を壊して割くだいた(薪として売っていた)とのこと。汚れや罪悪の世(濁悪世)に生まれてしまったため、このような情けない有様を見てしまった。

 

またいとあはれなることも侍りき。去りがたき妻・夫持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食ひ物をも彼に譲るによりてなり。

されば、親子あるものは定まれることにて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳を吸ひつつ、臥せるなどもありけり。

 

また、とてもしみじみと感じ入ることもありました。離れられない妻や夫を持ったものは、その愛情が強く深いものが必ず先に死んでしまいます。その理由は、自分のことは後回しにして相手を思いやり、自分の食べ物も相手に与えてしまうからでした。

親子の場合、親が先に死にました。母親が死んでいることを知らずに、あどけない子供が母親の乳を吸って横になっていることもありました。

 

仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬることを悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。

人数を知らんとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、道のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。

いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸国をや。

 

仁和寺の隆暁法印という人は、このように数え切れないほどの人々が死んでいることを悲しみ、死者の首が見えるごとに、死者の額に「阿」の字を書いて阿弥陀仏と縁を結ぶ(結縁)をさせました。

死者の総数を知ろうと、四・五月に数えてみたところ、京都の内、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の道端にあった(死者の)頭の数は42,300余に登りました。

ましてや、その前後に死んだ者も多く、河原、白河、西の京やもろもろの辺境地域まで加えると死者の数は際限がない。まして、畿内以外の諸国を加えると(さらに際限が亡くなるでしょう)。

 

 

さいごに

現代と異なり、医療が未発達で食料給付などのセーフティーネットが不十分だった平安時代末期、飢饉が発生すれば多くの人が餓死してしまったことでしょう。飢餓はしばしば疫病を引き起こします。飢餓で抵抗力を失った人々は、感染症の格好の餌食となったことでしょう。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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