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南蛮貿易はどんな貿易?世界を魅了した石見銀山の銀のゆくえは?朱印船貿易との違いは?

「ボーロ」「天ぷら」「カッパ」「オルガン」「ビードロ

これらはポルトガル語が語源となって現代に伝わった言葉です。

遠く離れたポルトガルの言葉が日本に伝わったのは、「南蛮貿易」で日本とポルトガル・スペインがつながっていたからです。

 

戦国時代、日本の戦国大名たちは銀などの貴金属と引き換えに火薬の原料である硝石や高級絹織物の原料である生糸をポルトガル人・スペイン人といった南蛮人から購入していました。

 

今回は南蛮貿易の大まかな内容や輸出入品、石見銀山の銀産出拡大に貢献した「灰吹法」、江戸時代初期の朱印船貿易との違いなどについて解説します。

ぜひ、参考にしてください。

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南蛮貿易はどんな貿易?

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南蛮貿易とは、南蛮人と呼ばれたヨーロッパ人と日本の戦国大名や豪商が行った貿易のことです。

南蛮貿易の大まかな内容や重要ポイントについてまとめます。

南蛮貿易とは何か

南蛮貿易とは、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、日本とポルトガル・スペインなどのヨーロッパ諸国との間で行われた貿易のことです。

この貿易によって、ヨーロッパの文化や技術が日本に伝えられ、また、日本の銀が世界各地に流通することになりました。

南蛮貿易の輸出入品

南蛮貿易の輸出入品は以下のとおりです。

 輸出品   金、銀、銅、硫黄 
 輸入品   生糸、鉄砲、硝石、鉛 

硝石は火薬の原料となるもので、鉛は鉄砲の弾丸となるものです。

したがって、戦国大名たちは鉱産資源を輸出して武器の原料を輸入していたことがわかります。

輸入品のうち鉄砲は後に国産化されましたが硝石や鉛は輸入に頼るしかありませんでした。

 

この当時、中国産生糸は白糸と呼ばれて珍重されました。

江戸時代に入ると白糸貿易は江戸幕府の管理下に置かれ、幕府が認めた特定の商人(糸割符仲間)だけが取引できる「糸割符制度」に移行します。

 

糸割符仲間は京都・堺・長崎・江戸・大坂の五カ所商人で構成されました。

大学入学共通テストの日本史では、南蛮貿易朱印船貿易の内容と区別させる出題がありますので、受験生は気を付けましょう。

 

絹織物の原料である生糸や絹織物が国産化されたのは江戸時代の中期以降で、明治時代には日本を代表する輸出産業に成長します。

銀はなぜ必要とされたのか?

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南蛮貿易で重要な輸出品となったのが銀ですが、なぜ、銀は重要な輸出品となったのでしょうか。

西洋人(南蛮人)や中国人(明王朝)が銀を欲しがった理由を見てみましょう。

なぜ、南蛮人は銀を欲しがったのか

日本からの輸出品で重要な位置を占めていたのが「」です。

輸入品である生糸や硝石、鉛の対価として日本から輸出されていました。

 

16世紀の世界で銀は貿易の決済通貨として使用されていました。

簡単に言えば、銀さえあれば世界各地の物産をスムーズに売買できたので、現代のドルと同じような役割を果たしていたのです。

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アウクスブルク市庁舎「黄金の間」

大航海時代の少し前、ヨーロッパの銀は南ドイツのアウクスブルクで産出されており、銀山を所有していたフッガー家は巨万の富を築いていました。

 

フッガー家による銀の独占を崩したのがスペインです。

中南米を征服したスペインは16世紀中ごろの1545年にポトシ銀山を開発し、インディオを労働力として銀の大増産をスタートさせます。

これにより、大量の銀がヨーロッパにもたらされてフッガー家の独占を突き崩しました。

スペインが中南米から銀を持ち込むために編成した艦隊は「銀艦隊」とよばれ、オランダやイギリスの私掠船に狙われるようになります。

その後もスペインはメキシコなどでも銀の採掘を進め、日本の銀にも強い関心を示します。

中国でも銀が必要だった

中国は古い時代から銅銭を使う国でした。

織田信長の旗印として有名な「永楽通宝」は明の永楽帝の時代に鋳造された貨幣です。

永楽帝について知りたい方はこちらの記事をどうぞ!

 

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永楽帝の時代から100年以上たった16世紀中ごろ、明では銀の需要が高まっていました。

その理由の一つが軍事費の増大です。

 

明は北の遊牧民と南からの倭寇という海賊の侵攻に対抗するため多額の軍事費を必要としていました。

北方民族の侵入と倭寇による沿岸部での活動を合わせて「北虜南倭」といい、明を脅かした2大脅威として知られています。

 

これらのうち、明にとって大きな脅威だったのは北方の遊牧民(北虜)でした。

1449年にはオイラト部のエセン=ハンが明の正統帝を捕虜とする土木の変が発生し、明を恐れさせました。

1542年にはモンゴルで勢力を拡大したアルタン=ハンは明との国境を突破し、山西地方を1か月にわたって略奪します。

さらに、アルタン=ハンは1550年に明の首都である北京を8日にわたって包囲します。

 

明の首都である北京を脅かす遊牧民に対抗するため、兵を雇って北方の防備を固めるための銀が大量に必要だったのです。

かの有名な万里の長城を今の形にしたのは明の時代で、あれだけの大建造物をつくるには巨額の費用が必要だったことが想像できます。

その費用の一部として銀が使われていました。

 

また、明とスペインの貿易でも銀(メキシコ銀)が決済通貨として使用されたため明国内に大量の銀が流れ込むことになります。

 

1580年代、万暦帝のもとで政治改革を行った張居正は銀を基準とする一条鞭法を定めて銀を中心とする新しい税制をスタートさせます。

こうして、日本産の銀は世界経済の重要な構成要素として組み込まれるようになったのです。

世界遺産石見銀山」のすごさとは

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石見銀山 福神山間歩

石見銀山は2007年に世界遺産に登録されましたが、石見銀山の何がすごくて世界遺産となったのでしょうか。

すごかった理由は、石見銀山は世界の歴史を動かした銀山だからです。

ここでは、石見銀山のすごさと石見銀山を世界屈指の銀山に押し上げた「灰吹法」について解説します。

石見銀山はなにがスゴイ?

石見銀山鎌倉時代末期に発見され、周防の守護大名である大内氏が中心となって開発した銀山です。

本格的に開発を行ったのは博多の大商人である神谷寿禎(かみやじゅてい)です。

彼が石見銀山沖を船で通りかかった際に、山が光るのを見て銀の存在を確信し、大内義興の支援を受けて本格的な開発をスタートさせました。

 

江戸時代初期に当たる17世紀初頭の石見銀山の産出量は年間1万貫(約38トン)で、世界の産出銀量の3分の1を占めたといわれます。

石見銀山の銀は南蛮貿易や日本と明との勘合貿易を通じて中国に流れ、中国経済に大きな影響を与えます

世界遺産 石見銀山の近くにある温泉津温泉

世界遺産である石見銀山の周辺は銀山以外の観光スポットもたくさんあります。

レトロな雰囲気を味わいたい方におすすめなのが温泉津(ゆのつ)温泉です。

温泉津の港は石見銀山からとれた銀の輸出港として栄えました。

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温泉津温泉

温泉津温泉の泉質はpH値6.3の中性温泉で癖がなく肌に優しいのが特徴です。

しまね観光ナビ」によると、きりきずや末しょう循環障害、冷え性うつ状態、皮膚乾燥症などに効果があるとされています。

塩分と炭酸ガスの働きにより肌がつやつやになるといいます。

温泉街そのものもレトロで、どこか懐かしい雰囲気を味わえますので、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

石見銀山を成長させた「灰吹法」

灰吹法は鉱石から金や銀といった貴金属を取り出すときに用いられる精錬法です。

灰吹法の手順は以下のとおりです。

 

  • 銀鉱石に鉛を溶かして銀と鉛の合金(貴鉛)をつくる
  • 「灰吹」を行って鉛と酸素を結合させ、貴鉛から鉛を取り除く
  • ボタン状の銀(灰吹銀)ができる

参考:石見銀山世界遺産センター

 

灰吹法によって石見銀山からとれる銀の量は急増し、世界的な大銀山として成長することができたのです。

 

巨万の富をもたらす石見銀山大内氏と敵対する尼子氏にとっても喉から手が出るほど欲しいものであり、大内氏と尼子氏は石見銀山を巡って死闘を繰り広げます。

最終的に石見銀山大内氏と尼子氏を倒した毛利元就が支配しました。毛利元就について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

 

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朱印船貿易とは

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アユタヤ日本人町の石碑

南蛮貿易とよく比較されるものとして「朱印船貿易」です。

朱印船貿易南蛮貿易の違いについて詳しく説明します。

朱印船貿易はどんな貿易?

朱印船貿易とは、豊臣秀吉徳川家康がおこなった貿易のことで、朱印状という貿易許可証を持った船が東南アジア各地に派遣されて盛んに交易を行いました。

許可証を発行するのは豊臣政権や江戸幕府でしたが、実際の貿易は西国大名や京都・大坂・堺・長崎などの大商人です。

 

有名な大商人は京都の角倉了以茶屋四郎次郎、長崎の末次平蔵などです。

角倉了以は京都の大堰(おおい)川・高瀬川静岡県富士川・天龍川などの水路を開発した人物として有名です。

茶屋四郎次郎徳川家康の窮地を何度も救った豪商です。

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アンコール=ワット

貿易先である東南アジアには「日本町」がつくられ、朱印船貿易の拠点となります。

カンボジアのアンコール=ワットには朱印船貿易の時代に訪れた日本人の落書きが残っています。

朱印船貿易の主な輸出入品

朱印船貿易でも主な輸出品は銀でした。

 輸出品  銀、銅、漆器
 輸入品   生糸、絹織物、蘇木など

朱印船貿易は上記の貿易品をやり取りし、鎖国令が出されるまで続きます。

南蛮貿易とほぼ違いはありませんが、朱印状という形で中央政権(豊臣政権・江戸幕府)が貿易をコントロールしていたという点で大きな違いがあるといえます。

朱印船貿易にまつわるエピソード

江戸時代初期、シャム(タイ)の日本町で活躍したのが駿河国出身の武士である山田長政です。

長政がシャムにわたったのは関ヶ原の戦い朝鮮出兵大坂の陣などが起きた慶長年間(1596~1615)のことです。

 

シャム王国アユタヤに拠点を構えた長政は国内政治や戦争で功績をたててシャムの王女と結婚して王族になりました。

1628年にシャムの王が亡くなると幼い王を補佐して権力を握りますが、他の王族にねたまれて毒殺されました。

山田長政以外にも、海外で活躍した日本人が多数存在した時代で、日本版の大航海時代といってもよい状況でした。

朱印船貿易の終わり

豊臣秀吉は長崎や浦上などの地が協会に寄進されていることを知ると、これらの土地を没収して直轄領としました。

その後、伴天連(バテレン)追放令を発しキリスト教の布教を取り締まります。

この段階の布教禁止はあまり厳しいものではありませんでした。

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長崎26聖人殉教記念館

しかし、1596年には神父ペドロ=バプチスタら宣教師6名と日本人の信徒が処刑される長崎二十六聖人殉教事件がおきるなどキリスト教への圧迫が強まります。

 

江戸幕府を開いた徳川家康は貿易を優先し布教を黙認したため、信者数が75万人に達しました。

その後、家康は方針を転換して1613年に全国で禁教令を発して高山右近内藤如安をマニラに追放するなど弾圧を強めます。

 

家康の死後、朱印船貿易は徐々に制限されました。

1631年には朱印船のほかに老中奉書が必要となり、1633年には老中奉書がない船は渡航禁止となり、朱印船貿易は行われなくなりました

1635年には日本人の海外渡航が禁じられ、海外から日本に帰国することもできなくなります。

こうして、日本版大航海時代は幕を閉じました。

まとめ

今回は南蛮貿易石見銀山の歴史、朱印船貿易の特徴などについて解説しました。

南蛮貿易が行われた期間は100年に満たないものでしたが、日本の歴史に大きな影響を与えました。

石見銀山でとれた銀は世界経済の重要な要素として世界史を動かしていきます。

 

逆鱗に触れると何が起こる?『韓非子』が「逆鱗に触れる」で伝えたかったこととは?

伝説上の生き物である「龍」は、ファンタジーやアニメの題材としておなじみの存在です。

中国では皇帝のシンボルとして取り扱われ、日本でも強大な力を持った存在として語り継がれてきました。

龍にまつわる故事成語の一つに「逆鱗(げきりん)に触れる」があります。

今回は「逆鱗に触れる」の意味やこの言葉の出典である『韓非子』の著者である韓非の生涯、『韓非子』の原文や訳などについてわかりやすく解説します。

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「逆鱗に触れる」とは

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「逆鱗に触れる」の意味

故事成語「逆鱗の触れる」の意味は以下のとおりです。

 

帝王の怒りをうける。また、目上の人などの気持にさからって怒りを買う。はげしく叱られる。

出典:精選版 日本国語大辞典

 

龍は高貴なものであることから、帝王や目上の人の象徴として扱われ、龍の怒りを買う、すなわち、目上の人の怒りを買うという意味になったのでしょう。

「逆鱗に触れる」の類義語

逆鱗に触れるの意味は目上の人を怒らせることで、似た言葉に「不興を買う」というものがあります。

 

不興とは目上の人の機嫌を損なうことで、不興を買うや不興を招くといった使われ方をします。

単に不興だけで使うこともあり、その場合は目上の人の怒りに触れて何らかの咎めや勘当を受けることを意味します。

目上に人に叱られる、機嫌を損ねると理解しておけばよいでしょう。

「逆鱗に触れる」と「琴線に触れる」は別の意味

逆鱗に触れると同じように”触れる”という言葉を含むため、「琴線に触れる」が似た意味と誤解されることがあります。

 

琴線に触れるの意味は以下のとおりです。

 

良いものや、素晴らしいものに触れて感銘を受けること

出典:デジタル大辞泉

 

琴線は感動しやすい心を楽器の琴の糸にたとえたものであり、感動や共鳴を与えることを意味します。

逆鱗に触れるとは全く別な意味ですので注意しましょう。

「逆鱗に触れる」の例文

主人公は王様の逆鱗に触れて国を追放された。

課長は部下に対する嫌がらせが発覚し、社長の逆鱗に触れて懲戒処分となった。

 

韓非子』はどんな本?著者の韓非はどんな人?

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「逆鱗に触れる」は中国の春秋戦国時代に生きた思想家である韓非が書いた『韓非子』に登場するエピソードです。

ここでは韓非の生涯や『韓非子』で逆鱗に触れるをあつかった理由、韓非子秦王政の出会いや死についてまとめます。

韓非の生涯

韓非は古代中国の戦国時代に生きた思想家です。

性悪説で有名な荀子の弟子で、法による国家統治を解いた人物で法家の思想家の一人として有名です。

戦国時代に合った7つの国である「戦国の七雄」の一国であった韓の国の公子でした。

 

韓非の祖国である韓は七雄の中で最も弱く、隣国の秦の属国に近い状態にありました。

韓非は秦による韓の併合を阻止する使者として秦の都である咸陽に赴き、秦王政(のちの始皇帝と運命的な出会いをします。

 

韓非に会う前、秦王政は韓非の著作を読んでいたと思われ、韓非を秦にスカウトしようとしました。

しかし、秦の宰相だった李斯が韓非の才能を恐れて王に讒言を行い、韓非を牢獄につなぐよう画策します。

結局、韓非は李斯の策略にはまり牢の中で自害してしまいました。

 

史記』の著者である司馬遷は、「君主を説得することの難しさを説いた”説難”を説いた韓非でも自らの命を助けられなかったのは悲しいことだ」と述べています。

韓非子』はどんな書物?

韓非子』は戦国時代に法家の思想家である韓非が書いた本です。

法家とは、法律による厳格な支配を行って君主の力を強化し、富国強兵を目指す政治思想のことです。

法家の代表的な人物として商鞅と韓非があげられますが、商鞅は秦王政よりも前の時代に秦の力を強化した宰相として有名です。

 

下剋上が盛んだった戦国時代は、家臣による国の乗っ取りも少なくありませんでした。

晋は有力な重臣によって国が3分割されて韓・魏・趙の3国になり、斉は重臣の田氏に国主の座を取られています。

 

韓非は国の力を君主の下で一本化することにより国力強化を図るべきと考えて『韓非子』を著しました

 

韓非子を読んで感動したのが秦王政です。

秦王政は『韓非子』の中の「孤憤篇(こふんへん)」と「五蠹篇(ごとへん)」に感銘を受けたといわれます。

 

君主が意識すべきことを徹底的に解いている点で、西洋のマキャベリと似ているとされています。

韓非子』もマキャベリの代表的著作の君主論も日本語訳が数多く出版されていますので、機会があれば読んでみることをおすすめします。

 

「逆鱗に触れる」は『韓非子』のどの部分?

逆鱗に触れるの出典は『韓非子』の「説難篇(ぜいなんへん)」です。

説難のテーマは君主への進言の難しさで、部下が自分の意見を上司に進言するのは現代でも難しいためとても参考になります。

 

「説難篇」の大まかな内容は以下のとおりです。

 

昔、衛という国に霊公という君主がいて、イケメンの部下である彌子瑕(びしか)を寵愛していました。

 

衛には王の馬車に勝手に乗ったものは足を切られるという法律がありました。

あるとき、彌子瑕は母親が危篤であるという知らせを聞き、無断で王の馬車を使いましたが王は親孝行であるといって許しました。

 

また別の時に、彌子瑕は霊公のお供で桃園を訪れた時に、自分が食べた桃の半分を霊公に食べさせました。

霊公は自分のことを愛しているからこそ、桃を自分に食べさせてくれたのだといって、これも肯定的に受け取りました。

 

しかし、彌子瑕が年を取って霊公のお気に入りではなくなったとき、霊公は「彌子瑕は自分をだまして車を使い、食べかけの桃を食わせた悪党だ」と非難しました。

 

韓非は霊公と彌子瑕の関係を例に挙げ、主君に愛されていればどのような策でも受け入れられるが、憎まれればどのような策を提案しても拒絶されると述べます。

そして、「逆鱗」の由来となる龍のたとえ話につながるのです。

「嬰逆鱗に触る」の本文

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夫龍之爲蟲也、柔可狎而騎也。

夫(そ)れ龍の虫たるや、柔なるときは狎らして騎るべきなり。

そもそも龍という生き物は、従順な性格であるため飼いならして乗るこことができます。

 

然其喉下有逆鱗徑尺。

然れども其の喉の下に逆鱗の径尺なる有り。

しかし、龍の喉もとには長さが一尺くらいの逆さに生えた鱗(逆鱗)があります。

※一尺は約30cm

 

若人有嬰之者、則必殺人。

若(も)し人之に嬰(ふ)るる者有あらば、則ち必ず人を殺す。

もし、逆鱗に触れる人がいれば(いつもは温厚な龍であっても)必ず人を殺します。

 

人主亦有逆鱗。

人主(じんしゅ)も亦た逆鱗有り。

君主にも逆鱗があります。

 

説者能無嬰人主之逆鱗、則幾矣。

説く者能(よ)く人主の逆鱗に嬰るること無くんば、即ち幾(ちか)し。

君主に(何かの策を)説く者は、逆鱗に触れることがないならば(説得の成功に)近いといえます。

 

龍というのはとても温厚で飼いならせば乗ることさえできますが、逆鱗という約30cmの逆さまのうろこを触ると怒り、触った人を殺してしまいます。

逆鱗と同じものが君主にもあり、そこを触ってしまうと説得するのはとても難しいでしょう。

だから、逆鱗に触れないように説得することができれば君主説得の可能性が高くなると韓非は説いたのです。

 

戦国時代のエピソードでは、たとえ話の後に結論がくるという構成が多くみられますので、漢文を読むときの一つのパターンとして覚えておくとよいでしょう。

まとめ

今回は『韓非子』の有名なエピソードである「逆鱗に触れる」を紹介しました。

逆鱗は君主に限ったものではなく、誰しも持っている「触れられたくない部分」なのかもしれません。

人と話すときは、相手の触れてほしくないことをよく考えて対応することが重要であり、そうすることで人間関係がうまくいくのかもしれません。

 

遼・金・元・清は征服王朝ってどういうこと?中国に侵入して王朝を建てた五胡や北魏も併せて解説!

私たちが「中国人」と呼ぶ人々はさまざまな民族によって構成されています。

中国の92%を占める漢民族以外にもモンゴル族ウイグル族など55の少数民族が存在しています。

現在の中国は主要民族である漢民族が中心となっていますが、かつては、周辺の異民族が中国を支配したことがありました。

異民族、特に北方の異民族が中国に侵入して打ち立てた王朝を「征服王朝」とよびます。

今回は征服王朝の歴史についてまとめます。

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征服王朝とは何か?

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征服王朝という言葉を初めて用いたのはアメリカ人の中国研究科ウィットフォーゲルです。

彼は北方の異民族が中国に侵入し、その一部または全土を征服したり支配したりした王朝を征服王朝と呼びました。

征服王朝は中国を支配する際、北方にある本拠地を放棄せず、中国と北方の本拠地を別々の仕組みで支配しました。

そのため、中国王朝と同化した五胡十六国時代の異民族(五胡)や北魏以降の北朝の諸王朝、隋・唐は征服王朝に含めないのが一般的です。

中国の北半分を征服した「五胡」

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三国を統一した晋が290年に起きた八王の乱で衰退すると、それに乗じて中国北方の異民族が豊かな中国に侵入し、独自の王朝を打ち立てました。

その後、五胡をほぼ統一した北魏北魏の流れをくむ隋・唐が中国を支配します。

しかし、これらの王朝は次第に漢民族化(漢化)して独自性を失いました。

「五胡」とは何か

「胡」とは中国から見た異民族のことです。

五胡とは5つの異民族をさす言葉で、匈奴鮮卑・羯(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)の5民族を意味します。

五胡が中国北部に侵入できたのは中国王朝が弱体化していたからでした。

三国時代の後半、三国の一つである魏は蜀を滅ぼしたが、重臣司馬炎に皇帝の座を奪われて滅亡しました。

新たに晋(西晋)を建てた司馬炎は三国最後の国である呉を滅ぼし、60年ぶりに中国を統一しました。

しかし、司馬炎の死後に晋の政治が乱れ、王族同士が争う八王の乱が発生します。

このとき、内戦に勝利しようとした王族たちは強い軍事力を持つ五胡を中国に引き入れてしまいます。

やがて、五胡は西晋を滅ぼし、中国北部(華北)の各地に独自政権を建てました。

また、滅ぼされた西晋の王族の一人が南方に逃れ、東晋を樹立したため、中国は長期間の分裂時代に突入します。

304年に匈奴劉淵が王朝を建ててから439年に北魏武帝華北を統一するまでの時代を五胡十六国時代といいます。

中国に吸収された北魏

439年、五胡の一つである鮮卑族の拓跋氏が建てた北魏が中国を統一しました。

以後は、華北北魏にはじまる北朝が、華南は東晋・宋・斉・梁・陳という漢民族系の南朝が支配する南北朝時代とよばれます。

北魏の6代皇帝である孝文帝は都を北方の平城から黄河流域の洛陽に遷都します。

そして、服装や食事、言語などを中国風に変更する漢化政策を実施します。

孝文帝の政策により北魏の支配者層の漢化が進みましたが、それに反発する北方民族は孝文帝の死後に大反乱を起こしました。

この反乱がきっかけとなり北魏は分裂します。

北魏時代に作られた大石窟寺院に雲崗・竜門があります。

世界史の資料集に登場するのでよく目にするかもしれません。

北朝の系譜に連なる隋・唐

北魏東魏西魏に分裂し、東魏北斉に、西魏北周にとってかわられます。

581年、北周の実力者だった楊堅は579年にライバルの北斉を滅ぼし、580年に皇帝として即位します。

この時楊堅が建てた王朝をといいます。

日本が遣隋使を送ったあの隋です。

楊堅自身のルーツは鮮卑族ですが、漢化政策の影響を受けた人物です。

隋は孝文帝時代に始まった鮮卑族漢人の融合国家といえるでしょう。

589年、隋は華南にあった陳を滅亡させ370年ぶりに中国を統一します。

しかし、隋王朝は短命でした。

楊堅の跡を継いだ2代皇帝の煬帝が大運河の建設や度重なる高句麗遠征によって国力を疲弊させ、大規模な住民反乱を招いたからです。

結局、隋は大農民反乱に飲み込まれて618年に滅亡しました。

そののちに成立した唐の始祖李淵楊堅と同じく漢化された鮮卑人をルーツに持つ人物でした。

隋も隋の諸制度の多くを引き継いだ唐も、中国の王朝として君臨するため征服王朝とは考えられていません。

4つの征服王朝とその特徴

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ここまでは、征服王朝の成立以前についてまとめました。

ここからは、ウィットフォーゲルが征服王朝に分類した4つの王朝について整理します。

遼(契丹

遼はモンゴル系の契丹が建国した王朝です。

建国者の耶律阿保機契丹内部の反乱を鎮めることで勢力を拡大。

周辺諸地域を征服して領土を拡大しました。

2代皇帝耶律徳光の時代、中国は唐の滅亡により混乱状態にありました。

唐の滅亡後、華北後梁後唐後晋後漢・後周の5つの王朝が順番に支配したため、のちに五代十国時代と呼ばれます。

五代の一国である後晋契丹の支援を受けるため、領土の一部である燕雲十六州契丹に割譲します。

契丹遊牧民と新たに加わった漢民族の支配を別々に行いました

このような支配体制を二重統治体制といいます。

また、遼は漢字と異なる契丹文字を使用していたのも注目です。

北魏や隋・唐とことなり、遼は自民族の文字を使用しているという点でも漢化され切っていないといえるでしょう。

時は流れて10世紀後半から11世紀初めにかけて、中国全土を統一した宋は燕雲十六州の奪還を掲げたびたび契丹と戦いました。

しかし、軍事面で劣る宋は契丹に勝利できず、契丹の燕雲十六州支配を認めざるを得なくなります。

この時に結ばれたのが「澶淵(せんえん)の盟」です。

宋は領土を奪われただけではなく、毎年、莫大な量の銀と絹を契丹に送ることを約束させられました。

燕雲十六州を巡る北方民族と中後の激しいせめぎあいを描いた小説『楊家将』は中国で人気の小説です。

金(女真

金はツングース系の女真族が建国した国で、初代皇帝は完顔阿骨打です。

金は宋と共同で遼を攻撃し滅亡させました。

しかし、宋は金との約束を果たさなかったため、金が宋の都である開封を占領。

皇帝の欽宗上皇徽宗を北方に連れ去りました(靖康の変)。

明の永楽帝が起こしたクーデタの靖難の変と間違いやすいので注意しましょう。

くわしくは、こちらの記事を見てください。

kiboriguma.hatenadiary.jp

靖康の変に勝利した金は黄河より北側の広大な地域を支配します。

金は遼の二重統治体制を引き継ぎます

すなわち、女真人や契丹人などの遊牧民の部族は猛安・謀克とよばれる単位で支配し、漢民族渤海人は州県制で統治しました。

また、金も女真文字を使用し漢字と一線を画していることにも注目すべきです。

元(モンゴル)

元はモンゴル人を支配階級とする王朝です。

2代皇帝オゴタイの時代に華北の金を滅ぼし、5代皇帝フビライの時代に南宋を滅亡させました。

中国全土を支配したフビライは国の名を元と改め、現在の北京にあたる大都を建設し、全土を支配します。

人口のわずか1.5%のモンゴル人が圧倒的多数の漢民族を支配する体制です。

これまでの王朝と比べ中国文化を重視せず、チベット仏教への信仰やパスパ文字の使用といったモンゴル色の強い支配を行いました。

前王朝の宋では儒学的教養を積んだ士大夫とよばれる階級が科挙に合格して完了となっていましたが、元の時代には科挙が停止されるなど不遇の時代を迎えます。

かわって重要な地位(特に財務関係)に就いたのは色目人とよばれる漢民族以外の西方の民族です。

科挙が復活したのは元の末期でした。

元を滅ぼした明の初代皇帝朱元璋について知りたい人はこちらの記事をご覧ください。

kiboriguma.hatenadiary.jp

清(女真

清は金と同じく女真族が建国した国で、当初は後金と称していました。

建国者はヌルハチで、2代ホンタイジの時代に万里の長城以北を制圧します。

3代皇帝の順治帝の時代、明で起きた李自成の乱の混乱に乗じて万里の長城を突破し北京を制圧しました。

清は明の支配体制を継承しつつ、バランスの良い統治体制を目指します。

満漢併用制(満漢偶数官制)を採用し、漢民族の懐柔を図る一方、八旗とよばれる正規軍の力や反清活動の弾圧(文字の獄など)により支配体制の維持を図ります。

また、北方民族の風習だった辮髪(べんぱつ)漢民族に強制し、拒むものは殺害しました。

漢字とともに満州文字を使っていたことも清の特徴として挙げられます。

支配階級である満州人と圧倒的多数派の漢民族のバランスをとることで清は長期にわたって中国を支配することに成功したのです。

まとめ

今回は中国の一部、あるいは全土を支配した征服王朝についてまとめました。

以前に比べ、これらをまとめて出題することは少なくなりましたが、遼と金、元と清はよく比較されます。

それぞれの特徴を頭に入れ、正誤問題で間違わないようにしましょう。

 

問屋、問丸、馬借、問屋場、いったい何が違う?わかりやすく解説!

日本史の問題で困るのは、似たような用語の区別です。

鎌倉時代から江戸時代にかけての運送業者としてよく登場する問(問丸)や馬借、問屋の違い、江戸時代に登場する問屋場と問屋の違い、廻船問屋に関する用語は混ざりやすく、間違う生徒が多かったと記憶しています。

今回は出題ポイントや問(問丸)・馬借・問屋の違い、問屋と問屋場の違い、廻船問屋や江戸時代の海運にまつわる用語についてまとめます。

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出題されるポイント

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大学共通テストにおいて、似た意味の言葉の区別は頻出事項です。

二文正誤であれ、四択問題であれ、出題ポイントは似通っています。

これから3つの出題ポイントをまとめます。

時代を問われる

1つ目の出題ポイントは時代です。

問丸・馬借という言葉は鎌倉時代室町時代の用語です。

一方、問屋は室町時代から江戸時代にかけて、問屋場・廻船問屋・東廻り航路・西廻り航路といった用語は江戸時代にもちいられました。

まぎらわしい用語が出てきたら、必ず、どの時代の言葉かチェックしておきましょう。

内容を問われる

2つ目の出題ポイントは内容です。

問丸は、河口や港湾などで総合的な運送業務を担っていたのに対し、馬借・車借は基本的に陸上輸送を担当します。

「馬借は河口や港湾で総合的運送業務を担った」とあれば誤文になるので注意しましょう。

後ほど詳しく述べますが、問丸と問屋、問屋場は見た目が似ているためしばしば正誤問題の材料で使われます。

一つひとつの内容をしっかり理解して問題を解きましょう。

問(問丸)・馬借・問屋の区別

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問(問丸)とは

活躍したのは平安時代末期から中世(鎌倉時代室町時代にかけて。

港や都市など交通の重要拠点に居住

物資の運送・保管・販売を担当しました。

平安時代末期に淀川流域で生まれたとされ、鎌倉時代には荘園領主と結びつき年貢米の輸送などにかかわります。

鎌倉時代末期には運ぶだけではなく物資の販売もするようになりました。

商品流通が盛んになると事業を拡大し、年貢以外も扱う総合運送業に成長します。

中世後期(室町時代)には塩・魚・紙・材木など商品ごとに専門化し、流通や販売を独占するようになります。

問(問丸)の一部は問屋に発展しました。

馬借とは

https://image.tnm.jp/image/1024/C0019204.jpg

出典:東京国立博物館

活躍したのは中世から近世(江戸時代)

水陸交通の接点や街道沿いの地を拠点としました。

馬の背に荷物を載せて運搬した運送業で、船で運ばれてきた物資を京都・奈良などの消費地に運びました。

室町時代には寺社の下で座(同業者組合)のような組織を作り、交通路の利権を独占するものもあらわれます。

交通網を掌握していたため情報を得やすく、しばしば、土一揆の先鋒として活動しました。

土一揆について知りたい人は、こちらの記事を見てください。

kiboriguma.hatenadiary.jp

車借とは

活躍したのは中世から近世

交通の要衝を拠点としましたが、活動は道路が整備されていた畿内や鎌倉の周辺に限られました。

荷車を使った運送業者で、荷物を運ぶだけではなく商業活動も行いました。

問屋とは(といや・とんや)

活躍したのは江戸時代

倉庫業と兼務することが多く、生産者や荷主と仲買・小売商人の売買を仲介する商人のこと。

江戸時代の問屋は3種類に分けられます。

荷受問屋

自己資金で取引せず、荷主から預かった商品を保管・販売し、手数料を受け取る

江戸十組問屋大坂二十四組問屋も荷受問屋に含まれます。

仕入問屋

自己資金で商品を購入し、仲買や小売商人に卸売りをする。

廻船問屋

海上輸送を請け負う問屋のこと。

 

問屋と問屋場は何が違う?

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問屋は商品の流通や売買にかかわる組織で、商人と考えるとよいでしょう。

一方の問屋場は江戸時代に伝馬継立を行う施設のことです。

※伝馬は街道の各宿で常備された公用馬のこと。必要な人員や経費は宿が負担しました。

名前は似ていても両者は別物ですので注意しましょう。

廻船問屋(かいせんどいや)とは?

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廻船問屋は船問屋とも言います。

船主のために積み荷を集めたり、船主と契約を結んで自ら積み荷を運んだりしました。

大都市や拠点となる重要な港に成立し、海上交通の重要な担い手として活躍しました。

廻船問屋が活躍した江戸時代の海の道

廻船問屋は江戸時代の海の主役といってもよい存在です。

彼らが行き来した航路は江戸時代の経済を支える大動脈として機能しました。

ここからは江戸時代の海の道を4つ紹介します。

東廻り航路

1つ目は東廻り航路です。

開拓したのは江戸時代前期の豪商河村瑞賢です。

日本海側の出羽国酒田(山形県酒田市)から津軽海峡三陸沖・房総半島沖を経て江戸湾に達するルートです。

このルートの開拓により、東北地方の米(奥州米)が消費地である江戸にもたらされました。

西廻り航路

2つ目は西廻り航路です。

東廻航路と同じく河村瑞賢が開拓した航路です。

酒田を起点とし、北陸沖・山陰沖から下関を経て、瀬戸内海・大阪湾へと向かうルートです。

古代から発達していた琵琶湖を利用したルートにかわり、蝦夷地や北陸地方京阪神地方をつなぐ輸送ルートが生まれます。

南海路:菱垣廻船・樽廻船

3つ目は南海路です。

南海路は大阪と江戸を結ぶ定期航路で、菱垣廻船樽廻船が就航していました。

当時、畿内は手工業などの産業が発達していたため商品の生産が盛んでした。

その一方、江戸は幕府が開かれ、参勤交代などで武士人口が増大したことから一大消費地として成長していました。

大阪方面(上方)からの物資は下りものと呼ばれ江戸で盛んに消費されます。

菱垣廻船
物流博物館

江戸時代初期に南海路で活躍したのが菱垣廻船でした。

江戸十組問屋と手を結んで大量の物資を大阪から江戸に運びこみました。

しかし、のちには樽廻船に押されるようになりました。

樽廻船の主な積み荷は酒や雑貨ですが、船足の速さで菱垣廻船より有利に立ちます

北前船

江戸時代後期から明治時代前期に活動した買積廻船集団のこと。

蝦夷松前に進出した近江商人にやとわれ、越前敦賀松前を往復したのが始まりです。

近江商人の商売哲学について知りたい人は、こちらの記事もどうぞ。

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江戸時代中期の宝暦・天明期に独立した商人が現れ、松前日本海各地・瀬戸内海・上方の市場をつなげ、価格差で利益を上げました。

松前藩について知りたい人は、こちらの記事もどうぞ

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高田屋嘉兵衛
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北前船で富を築いたのが高田屋嘉兵衛です。

高田屋嘉兵衛は淡路島出身の商人で、蝦夷地・箱館に進出しました。

国後島択捉島の航路を開拓し、漁場の運営や廻船業で巨利を得ました。

そして、その財産を箱館の街に投資し、箱館発展の礎を築いたと評価されます。

高田屋嘉兵衛が深くかかわったのが北前船でした。

嘉兵衛は兵庫で仕入れた酒や塩、木綿といった物資を山形県の酒田に運び、酒田の米を箱館で販売することで利益を上げます。

帰路は箱館で魚や昆布、魚肥を仕入れて上方(京大坂方面)で販売しました。

彼の活躍を描いた司馬遼太郎の小説が『菜の花の沖』です。

当時の北前船の様子や彼がロシアに抑留されているときの様子などがよくわかる小説です。

現在まで続く北方領土問題やロシアとの付き合い方についてもうかがい知ることができる良書ではないでしょうか。

まとめ

今回は問丸、問屋、馬借、問屋場など経済史で登場するまぎらわしい言葉を中心に整理しました。

日本史は暗記が中心ですが、単純暗記だけだと似た意味の言葉が出てきたら迷ってしまうかもしれません。

テストや受験の前に、似た言葉を整理することで得点を一気に上げることができるので、しっかり復習しておくことを勧めます。

 

「水魚の交わりってどんな意味の言葉?」「水魚の交わりの口語訳は?」「水魚の交わりに出てくる人物が知りたい」わかりやすくまとめます。

水魚の交わり」は故事成語の一つで、親しく信頼しあう人間関係を示しています。

『蜀志』「諸葛亮伝」や『十八史略』に書かれたエピソードに由来します。

今回は「水魚の交わり」の意味や登場人物、「水魚の交わり」に至るまでのあらすじ、「水魚の交わり」のストーリー、使い方についてまとめます。

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水魚の交わり」の意味

水魚の交わりは以下のような意味の言葉です。

水と魚のような関係。非常に親密な関係のたとえ。

出典:コトバンク

人間関係の近しさを水と魚にたとえ、どちらにとっても必要不可欠であることをあらわしています。

水魚の交わり」の登場人物

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水魚の交わり三国志のエピソードの一つで、三国志好きであれば一度は目にしたことがある有名人が数多く登場します。

登場する人物について簡単にまとめます。

劉備(りゅうび)

劉備
出典:Wikipedia



劉備の姓は劉、名は備、字は玄徳。

※字(あざな)とは成人した時に本人がつけた呼び名のこと。通常は姓+名、姓+字で名乗ります。したがって、劉備であれば劉備または劉玄徳となのります。

現在の北京周辺にあたる涿郡琢県(河北省)の出身です。

漢王朝の王室の血を引くと称する人物で、関羽張飛と義兄弟の契りを結んだことでも知られます。

三国志演義』の主人公で、義を重んじる人物として描かれます。

中国最大の領土を支配した曹操と対立し、都を追われ荊州に亡命します。

水魚の交わり」のころは荊州(現在の湖北省)の支配者である劉表の客将で独自の領土を持っていませんでした。

諸葛亮(しょかつりょう)

諸葛亮
出典:Wikipedia

諸葛亮の姓は諸葛、名は亮、字は孔明

父早くに亡くし、弟ともに叔父の諸葛玄に養われ、幼いころ、徐州(現在の江蘇省北西部)から荊州に移住します。

荊州では晴耕雨読の生活を送り、自らの才能を古の名宰相管仲や名将楽毅に並ぶものだと思っていましたが、それを認める者は多くありませんでした。

しかし、彼のことを認める徐庶や黄承彦のような人物もいたため、いまだ世に出ていない大人物という意味で「伏龍」ともいわれていました。

劉備は3度にわたって諸葛亮のもとを訪れ、彼を口説き落として軍師としました。

この劉備のふるまいから、礼を尽くして才能がある人物を招くことを「三顧の礼」というようにまります。

司馬徽(しばき)

司馬徽の姓は司馬、名は徽、字は徳操。

荊州に住んでいた人物鑑定家で水鏡先生と呼ばれていました。

劉備に伏龍が諸葛亮鳳雛龐統であると告げた人物。

龐統ほうとう

龐統の姓は龐、名は統、字は士元。

口下手で身なりが粗末であったことから良い評判がありませんでした。

しかし、司馬徽が才能を高く評価したことで世間に知られるようになります。

後に劉備に仕え、劉備の蜀遠征軍の参謀として活躍しますが、落鳳坡の戦いで命を落としました。

徐庶(じょしょ)

徐庶の姓は徐、名は庶、字は元直。

司馬徽の門下生の一人で、諸葛亮とも親交があった人物です。

荊州にやってきた劉備徐庶を高く評価していました。

徐庶から諸葛亮の話を聞いた劉備は、諸葛亮を呼んでくるよう徐庶に頼みますが、徐庶は「こちらから行けば会えますが、無理に連れて来る事はできません」と断ります。

それを聞いた劉備は、自ら諸葛亮のもとに足を運びます。

曹操(そうそう)

曹操の姓は曹、名は操、字は孟徳。

黄巾の乱で勃興した軍閥の一人で華北を中心に勢力を拡大していた人物で、劉備にとって最大の敵です。

200年に起きた官渡の戦いで最大のライバルだった袁紹を倒し、中国最大の勢力とを築き上げました。

荊州の支配者だった劉表が死去すると、後継者をめぐる混乱に乗じて荊州を占領。

その勢いに乗じて長江下流孫権と戦いますが赤壁で大敗しました。

孫権(そんけん)

孫権の姓は孫、名は権、字は仲謀。

長江下流域の江東の支配者です。

兄の孫策が築いた地盤を支配し、独自勢力を打ち立てていました。

後に諸葛亮の説得に応じて劉備と同盟を結び、赤壁の戦い曹操に勝利します。

赤壁の戦い後、荊州劉備に奪われますが劉備の義弟関羽を倒して荊州を占領。

劉備の怒りを買ってその侵攻を招きました。

激しい戦いの末、夷陵の戦い劉備軍に勝利し、荊州支配を確たるものにしました。

水魚の交わり」までのあらすじ

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200年、劉備は董承を首謀者とする曹操暗殺計画に加わりましたが事前に露見したため、曹操との関係が急速に悪化しました。

そして、翌201年に曹操との争に破れ荊州を支配していた同族の劉表のもとに逃れます。

劉表劉備を客将として迎えましたが、独自の領土を持つことはできず、劉表は以下の一部将として時を過ごします。

参謀役を欲していた劉備荊州で人材を探していました。

水魚の交わり」のストーリー

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水魚の交わりの本文は以下の3つに分けられます。

この3つに分けて口語訳します。

伏龍・鳳雛のうわさ

琅邪(ろうや)からやってきた諸葛亮は、襄陽(荊州の中心都市)の近くで仮住まいしていた。

いつも、自分を春秋戦国時代の名宰相の菅仲や名将楽毅と比べていた。

劉備司馬徽に優秀な人物はいないかと尋ねると、司馬徽

時局を知るには優秀な人物であるべきだ。そうなると、自然と伏龍・鳳雛という2人の人物が思い浮かぶ。(伏龍は)諸葛孔明、(鳳雛は)龐士元です。

徐庶もまた、劉備に「諸葛孔明臥竜である」と述べました。

臥竜:伏龍と同じく、世に知られていない優秀な人物のこと

諸葛亮の進言

劉備は3度訪問して諸葛亮に会えた。

そして、劉備諸葛亮に(これからどうすればよいかという)策を訪ねると、諸葛亮は次のように言いました。

曹操は100万の軍を率い、皇帝(天子)奉じて諸侯に命令しています。

※天子は皇帝のことで、ここでは後漢最後の皇帝である献帝のこと

※諸侯は有力貴族のことで、ここでは有力者ぐらいにいみになる

この勢いがある曹操とまともに戦ってはなりません。

孫権は江東(長江下流域)を支配し、国は守りやすく、人民の支持も得ています。(この孫権と手を組み)ともに助け合うのは良いのですが、争ってはなりません。

荊州は軍を動かしやすい場所です。(その西にある)益州は険しい地形に守られ、肥沃な大地が広がる天から与えられた土地です。

益州四川盆地を中心とした地域で、のちに劉備が蜀を建国する

もし、(あなた:劉備)が荊州益州を領有し、その要害の地を保てれば、天下に大きな動きがあった時、荊州の兵は重要拠点の宛や(都のある)洛陽を攻め、益州の兵は秦川を攻めることができます。

※秦川:かつて秦が支配していた陝西省周辺、現在の西安市付近

(そうなれば)天下の人民はこぞって将軍のために食物を捧げ、迎えてくれるに違いありません。」

劉備は「善しといいました。

結び

これ以後、(配下に加わった)諸葛亮劉備の親交はどんどん深まりました。

そして劉備は「私にとって孔明がいるのは、魚が水を得たようなものだ」といいました。

水魚の交わり」が書かれた本

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水魚の交わりについて書かれた本が2冊ありますので紹介します。

『蜀志』

1つ目は『蜀志』です。

『蜀志』は晋の歴史家陳寿が書いた歴史書です。

小説である『三国志演義』と区別するため『正史 三国志』とよばれることもあります。

魏志』『呉志』『蜀志』と3国を別々に扱っているのが特徴です。

 

十八史略

十八史略』は宋末から元の初期に南宋の曾先之(そうせんし)によって書かれた本です。

史料的価値は低いものの、中国史の大まかな流れを知るのにふさわしい入門書として親しまれてきました。

日本語訳で一番のおすすめは陳舜臣十八史略です。

ある程度、受験対策にもなるので気が向いたら読んでみてはいかがでしょうか。

故事成語水魚の交わり」の使い方・例文・類語

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劉備諸葛亮の交流は故事成語水魚の交わり」として知られています。

故事成語としての使い方や例文、類語についてまとめます。

使い方

並々ならぬ親しさを表現する際に使います。

友人関係や夫婦関係でも使用されます。

例文

高校時代から苦楽を共にした彼との関係は水魚の交わりといってもよいものだ。

類語

刎頸(ふんけい)の交わり

刎頸の交わりも互いの親密な関係をあらわす故事成語です。

相手のために首を切られても悔いはないという意味で、いわば運命共同体として相手をみなしています。

あたかも、メロスとセリヌンティウスの間柄のようですね。

まとめ

今回は「水魚の交わり」についてまとめました。

諸葛亮を得た劉備は喜びのあまり、いつも諸葛亮と話をして義兄弟の関羽張飛がドン引きしてしまいます。

ただ、諸葛亮の才能は本物で、劉備に仕えてから蜀の建国を助け、劉備の死後は子の劉禅に忠節を尽くします。

劉備がはるかに年下の諸葛亮を軽んじず、三顧の礼で迎えたことに対し、諸葛亮は自分の全身全霊をもって答えました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

「比企能員はどんな人?」「比企能員が殺された比企能員の乱とは?」わかりやすく解説します!

比企能員という人物をご存知ですか?

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する13人の一人です。

正直な話、一般的な知名度は高くありませんが、個性派俳優の佐藤二朗さんが演じることで話題となりました。

今回は比企能員の人物像やプロフィール、彼が滅ぼされた比企能員の乱、彼の墓がある妙本寺、比企氏と結びつきが深い埼玉県東松山市などについて紹介します。

鎌倉時代全体の歴史を知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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妙本寺方丈門

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比企能員はどんな人

比企能員の基本データ

 

プロフィール

比企能員平安時代の末から鎌倉初期に活躍した有力御家人です。

比企能員のおばにあたる比企尼(ひきのあま)が源頼朝の乳母であった関係で権勢を強めました。

能員の娘である若狭局(わかさのつぼね)が2代将軍源頼家の側室となり、一幡(いちまん)を生んだことから、比企氏の力がさらに強まります。

比企史の勢力拡大を恐れた北条時政比企能員を自邸におびき寄せて謀殺し、比企一族を滅ぼしました。(比企能員の変・比企の変)

比企能員の末子である比企能本(ひきよしもと)は日蓮の弟子となり、鎌倉に妙本寺を建立して比企氏の菩提を弔いました。

比企氏・将軍家・北条氏系図

比企氏・将軍家・北条氏の系図

将軍家と北条氏との関係について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

 

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将軍家と親密な比企氏

比企氏は将軍家と親密な間柄の御家人です。

比企能員のおばで、義理の母にあたる比企尼源頼朝の乳母でした。

鎌倉殿の13人では草笛光子さんが演じています。

彼女は平治の乱で敗れ伊豆に流された源頼朝に、夫である比企掃部允とともに20年間も仕送りを続けて援助しました。

頼朝からすれば命の恩人ともいえる女性です。

この関係から考えれば、比企氏が頼朝や将軍家と親しい間柄であるのは当然のことといえるでしょう。

島津忠久

ちなみに、比企尼の長女である丹後内侍惟宗広言との間に設けた子が島津忠久です。

島津忠久は薩摩島津氏の祖とされるので、比企尼は源氏だけではなく島津氏にとっても特別な女性といえるでしょう。

比企家の棟梁となった比企能員は、自分の娘である若狭局源頼家に嫁がせます。

若狭局と頼家の間には一幡という男子が生まれたため、能員は御家人の中でも頭一つ抜けた存在となります。

こうして、比企能員源頼家の政治的後見人としての立場を強めていきました。

”鎌倉殿の13人”の一人

源頼家

1199年(建久10年)、源頼朝が急死しました。

頼朝の急死を受け、朝廷は嫡男の頼家を左近衛中将(左中将)任命し、諸国守護の宣旨を下しました。

これにより、頼家は2代目鎌倉殿となります。

ところが、頼家が鎌倉殿になってわずか3か月後、頼家の独裁が停止されてしまいました。

幕府の歴史書吾妻鏡』は、頼家が頼朝と異なり慣例を無視した裁断を下したことが独裁停止の原因としています。

かわって、北条時政をはじめとする13人による合議制で裁断が下されることになりました。

後世、「十三人の合議制」とよばれるものです。

13人に名を連ねたのは以下の御家人たちでした。

彼らのうち、大江広元中原親能二階堂行政三善康信は京都から下ってきた文官たちで、御家人北条時政以下の9人です。

 

一方、頼家は側近である小笠原長経比企宗員比企時員中野能成ら以外に自分への目通りを許さないとする措置を取ります。

 

こうして、頼家や側近たちと御家人たち、特に北条氏との対立が激しさを増していきました。

北条氏に滅ぼされる

13人の合議制はスタート直後から波乱含みでした。

梶原景時

梶原景時 - Wikipedia

1199年(正治元年)11月、源頼朝の側近として辣腕を振るった梶原景時が排斥されました。

景時とともに頼家の後見人という立場にあった比企能員は北条氏との対立に巻き込まれていきます。

頼家と北条時政らの対立が強まる中、1203年(建仁3年)に頼家が病にかかります。

頼家が危篤状態になったと判断され、家督は嫡男の一幡と弟の千幡(のちの源実朝)に分割されました。

これに強い不満を持ったのが比企能員です。

能員は千幡一派の排斥をはかりましたが、先手を打たれ、北条時政に謀殺されてしまいました。

比企能員の変とは

比企氏が滅ぼされた比企能員の乱とはどのようなものだったのでしょうか。

原因となった源頼家の重病と比企氏・北条氏の対立、乱の結果などについてまとめます。

源頼家が重病となる

事の発端は源頼家が若くして重い病にかかったことです。

頼家の病状は悪く、後継者を決める必要性ができました。

そこで、頼家の息子である一幡が関東28ヶ国地頭職と日本国総守護職を、頼家の弟である千幡が関西38ヶ国地頭職を相続すると決まりました。

比企氏と北条氏の対立

比企氏・将軍家・北条氏の系図

分割相続に不満を持ったのが頼家の後見人である比企能員です。

能員は病にかかっている頼家のもとを訪れ、分割相続は千幡(源実朝)の擁立を図る北条時政の陰謀であると訴えました。

かねてから、北条氏と対立していた頼家は比企能員に北条氏討伐を命じます。

比企能員の謀殺と一族滅亡

頼家が北条時政追討を比企能員に命じた話は、すぐに北条時政の耳に入りました。

そこで、北条側が先手を打ちます。

時政は仏事の相談があるとして比企能員を自分の屋敷に呼び出しました。

比企能員の一族は、北条氏の謀略であるとして能員を引き留めましたが、能員は構わず時政の屋敷に赴きます。

このとき、能員は時政に余計な疑念を抱かせないため平服で時政の屋敷に向かいました。

しかし、時政は有無を言わせず部下に能員を捕えさせ、殺害してしまいました。

能員の死を知った比企一族は一幡とともに小御書に立てこもって抵抗の姿勢を見せます。

北条政子

北条政子 - Wikipedia

そのため、北条政子は比企一族討伐に命令を下し、一幡もろとも比企一族を攻め滅ぼしました。

この戦いで一幡や母の若狭局が亡くなりました。

戦後、将軍家の外戚は北条氏のみとなり、北条氏の権勢が一気に強まります。

比企氏の墓がある妙本寺

妙本寺 祖師堂

妙本寺 - Wikipedia

比企能員の変で比企一族の大半が殺害され、御家人としての比企氏は滅亡しました。

しかし、能員の末子である比企能本は生き残りました。

能本は鎌倉時代を代表する名僧の一人日蓮の弟子となりました。

その後、姪である竹御前が4代将軍藤原頼経正室になった関係で能本は鎌倉に戻ります。

竹御前が亡くなると、比企一族が屋敷を構えていた比企ヶ谷に法華堂を建て彼女の菩提を弔いました。

法華堂は後に妙本寺となり、日蓮宗の重要拠点となります。

比企氏ゆかりの地である埼玉県東松山市

埼玉県のほぼ中央部にあたる比企郡平安時代後期から比企氏が支配していた土地でした。

比企郡のほぼ中央に位置していた東松山市は比企氏ゆかりの土地として6つの地点を紹介しています。

  • 比丘尼
  • 須加谷(すかやつ)
  • 串引沼
  • 城が谷
  • 梅が谷
  • 扇谷山宗悟寺

比企氏の城館があったとされる城が谷をのぞく5カ所は比企能員の娘で頼家の妻だった若狭局に関する伝承が残された地です。

まとめ

比企能員は「鎌倉殿の13人」に登場する有力御家人で、ドラマでは佐藤二朗さんが演じています。

将軍家の外戚として力を持った比企氏は、同じく外戚の北条氏と争いとなり比企能員の乱で滅ぼされます。

しかし、比企氏の生き残りが妙本寺を建てたことで比企氏の足跡が残されました。

比企氏が支配していた比企郡にある東松山市では比企氏ゆかりの女性を「比企三姫」としてキャラクター化しています。

その意味で、比企氏は現代によみがえったといってよいでしょう。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

「地政学における「緩衝地帯」の意味とは」わかりやすく解説します!

地政学に出てくる用語の一つに緩衝国、あるいは緩衝地帯という言葉があります。

緩衝国・緩衝地帯とは対立する勢力の間にある国や地域で、両勢力の直接衝突の可能性を減らす地域のことです。

今回は、緩衝地帯の意味や地政学用語のリムランド、現代のランドパワー・シーパワーの大国、緩衝地帯の具体例、ロシアから見たウクライナ地政学的位置などについてまとめます。

地政学や地理学について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

 

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緩衝地帯とは

マッキンダー

地政学 - Wikipedia

地政学で緩衝地帯とは、大国や大勢力に挟まれる場所に位置する諸国や地域のことを指し示します。

たとえば、冷戦時代にアメリカを中心とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国の緩衝地帯となった場所は東欧や東南アジアでした。

19世紀後半から20世紀前半に活躍したイギリスのマッキンダーは、大英帝国の覇権を守るためには、ドイツやソ連の勢力拡大を阻止するため、緩衝地帯を作るべきだと主張します。

 

ランドバワーとシーパワーがぶつかるリムランド

地政学を理解するには、ランドパワーやシーパワーの理解が欠かせません。

ランドパワーとシーパワーについて知りたい方は、こちらの記事を先にお読みください。

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リムランドの定義

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リムランドの概念図

地政学 - Wikipedia

海軍力の及ばないハートランドの周辺地域をリムランドといいます。

リムランドの考え方を提唱したのはアメリカのスパイクマンです。

彼は、ヨーロッパから中東、インド、中国、ロシアの太平洋沿岸までの地域をリムランドとよびました。

リムランドは農耕に向いた気候で、人口が多く、中小国家が乱立しやすい地域と定義しました。

ランドパワーの大国であるロシアの力を抑え込むには、アメリカがリムランドの国々に影響力を及ぼす必要があると主張したのです。

ランドパワーの大国であるロシアの圧力を受けた具体例の一つがフィンランドでした。

フィンランドについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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これまで、ヨーロッパ諸国への干渉に消極的だったアメリカは、第二次世界大戦後、西側諸国の盟主としてリムランドの国々に働きかけ、ソ連の封じ込めを図ります。

その意味で、冷戦の構造はランドパワーソ連とシーパワーのアメリカがリムランドをめぐっての対立ととらえることもできます。

ランドバワーの国

ランドパワーの国はユーラシア大陸の内陸部にある国です。

ロシア 中国 フランス ドイツ

これらの国は大規模な陸軍を持ち、鉄道や道路を使って部隊を移動させます。

ランドパワーの国々は近隣諸国に領域を広げるため、しばしば戦争してきました。

7年戦争や普仏戦争第二次世界大戦独ソ戦清王朝による新疆征服などはランドパワー国家による周辺への浸透といえます。

上記の地図で中国はリムランドに属していますが、中国が強い経済力と軍事力を持っていることを考えるとリムランドというよりランドパワーの国と考える方が現代に即していると考えます。

シーパワーの国

シーパワーの国は国の周囲を海洋に取り囲まれている国です。

アメリカ イギリス 

周囲を海に囲まれていたり、長大な海岸線を有するシーパワーの国は海軍が重要です。港湾施設をもち、領土的支配よりも交易ルートや交易拠点の支配を重視します。

その意味では大航海時代ポルトガルもシーパワーの国といってもよいでしょう。

交易ルートを守るための戦いは辞しませんが、戦争による領土獲得を最優先とするわけではありません。

シーパワーの国にとって大切なのは海の交通路(シーレーン)のコントロールだからです。

 

緩衝地帯の具体例

18世紀のポーランド・リトアニア共和国

ポーランド・リトアニア共和国の領域
出典:ポーランド・リトアニア共和国 - Wikipedia(某氏の作成画像)

ポーランド・リトアニア共和国は現在のポーランドリトアニアベラルーシウクライナなどで構成された国でした。

東にロシア帝国、南にオーストリアハンガリー二重帝国、東にプロイセン王国(後にドイツ帝国)と列強に挟まれていました。

国内有力貴族の権力が強く、国王の力はかなり制限されていたため中央集権が進まず、気がつけば周辺の峡谷に挟まれる不安定な緩衝地帯となっていました。

そして、18世紀後半にロシア、オーストリアプロイセンによって3分割され国として消滅してしまいます。

緩衝地帯は周辺諸国の都合によっていとも簡単に消滅させられてしまうという好例といえるでしょう。

19世紀のタイ

19世紀のタイ周辺の状況

タイの歴史 - Wikipedia

18世紀後半から19世紀にかけて、イギリスやフランスは積極的に東南アジアに進出し、植民地化していきました。

フランスは現在のベトナムラオスカンボジアを支配し仏領インドシナを成立させます。

一方イギリスはミャンマーやマレーシアなどを制圧し植民地化しました。

両勢力のはざまで取り残されたのがチャクリ朝(ラタナコーシン朝)のタイ王国です。

タイはイギリス・フランスの圧力により領土を徐々に削られます。

しかし、両国はタイを奪い合うことで戦いになることを懸念し、タイを独立国のまま維持することとしました。

特に何かの条約が結ばれたわけではありませんが、暗黙の了解としてタイの独立が維持されます。

タイは両国の緩衝地帯として生き延びましたが、あくまでも結果的に生き残っただけです。

このことに危機感を持ったのがラーマ4世ラーマ5世でした。

ラーマ4世

ラーマ4世 - Wikipedia

19世紀中ごろの国王ラーマ4世はヨーロッパの文明を積極的に取り入れて国力を増強。

ラーマ5世

ラーマ5世 - Wikipedia

跡を継いだラーマ5世も近代化政策を実行しました。

そのおかげでタイは国力増強に成功し、東南アジアで唯一、独立を維持します。

ポーランドとの違いは、緩衝地帯になってから国力増強に成功したかどうかかもしれません。

アフガニスタン

アフガニスタン

アフガニスタン - Wikipedia

アフガニスタン中央アジアにある国で、シルクロードの要衝として栄えました。

そのため、文明の十字路と呼ばれることもあります。

中央アジアとインド、イラン方面を結ぶ重要地点だったため、しばしば大国に攻め込まれたという歴史があります。

19世紀後半、インドを植民地としていたイギリスと領土を南に拡大していたロシア帝国との間でアフガニスタンの取り合いがはじまりました(グレートゲーム)。

イギリスはロシアに取られる前に先手を打ってアフガニスタンを制圧し保護国化。

アフガニスタンをロシアとの衝突を避ける緩衝地帯としました。

しかし、1919年にアフガニスタンはイギリスから独立しました。

その後、アフガニスタンは米ソ冷戦の舞台の一つとなります。

ブレジネフ

レオニード・ブレジネフ - Wikipedia

1979年、ソ連ブレジネフアフガニスタン侵攻を開始しました。

その明確な理由は定かではありませんが、アメリカ勢力がアフガニスタンに伸びるのを嫌ったともいわれます。

ソ連が撤退した後、アフガニスタンの内戦が続きました。

紆余曲折を経て、2022年現在、アフガニスタンタリバン(ターリバーン)の支配下にあります。

まとめ

今回は緩衝地帯についてまとめました。

強大な力を持つ国が、相対的に力が弱い国を武力で制圧することは歴史上たびたび起きてきたことでした。

緩衝地帯とされた国や地域が独立を維持するためには政治・軍事・経済において他国に左右されない力を持つ必要があります。

その意味で、タイの前例は参考になりうるのではないでしょうか。

 

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