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「序曲1812年」とは?「序曲1812年とナポレオン戦争の関連は?」わかりやすく解説!

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序曲1812年ってどんな曲?

序曲1812年は、いつ、誰が作曲したの?

序曲1812年とナポレオンのロシア遠征の関係は?

 

このページに来てくれた人はそう言った疑問を持っているかもしれません。

 

序曲1812年はロシアの作曲家チャイコフスキーが19世紀後半に作曲しました。

 

この曲のテーマはナポレオンのロシア遠征ロシア帝国の勝利です。チャイコフスキーは戦いの様子を音楽によって表現しました。

 

曲中にはロシア正教の聖歌やフランス国家のラ・マルセイエーズロシア帝国の国家などが登場し、大砲や教会の鐘まで登場するスケールの大きな曲です。

 

今回はチャイコフスキー作曲の「序曲1812年」について解説します!

 

ロシアについて興味がある方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

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モスクワのクレムリンにある大砲

引用:写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

 

序曲1812年とは

作曲者のチャイコフスキー

 

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チャイコフスキー

引用:ピョートル・チャイコフスキー - Wikipedia

「序曲1812年」を作曲したのはロシアの作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーです。

 

1840年、ウラル地方のヴォトキンスクで生まれました。先祖はウクライナ・コサックでした。

 

幼いころから音楽の才能を発揮しますが、両親はチャイコフスキーを音楽家にせず、法律学校に通わせます。

 

1859年に法律学校を卒業したチャイコフスキーロシア帝国の官僚となりました。

 

1861年チャイコフスキーは作曲家アントン・ルービンシュタインが音楽教育を行っていたロシア音楽協会(のち、ペテルブルク音楽院)で本格的に音楽の勉強にのめりこみました。

 

そして、1863年ロシア帝国の官僚をやめ、音楽活動に専念します。

 

その後、パラキレフキュイムソルグスキーボロディンリムスキー・コルサコフのいわゆるロシア5人組と知り合い交流を深めました。

 

1866年、アントンの弟のニコライ・ルービンシュタインモスクワ音楽院を開くと、講師として教鞭をふるいました。

 

以後、12年にわたってチャイコフスキーは教壇に立ちます。

 

1878年モスクワ音楽院の講師を辞めたチャイコフスキーは、「弦楽セレナード」、「交響曲第5番」、「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」、「交響曲第6番 悲愴」などの名曲を次々と作曲し、ロシアを代表する音楽家となりました。

 

1893年チャイコフスキーは「悲愴」の初演から数えて9日後にこの世を去りました。

 

死因はコレラか肺水腫と考えられています。葬儀はロシア皇帝アレクサンドル3世の命により国葬とされました。

 

 

序曲1812年が作曲されたのはいつ?

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作曲を依頼したニコライ・ルービンシュタイン

引用:ニコライ・ルビンシテイン - Wikipedia

1880年5月末、チャイコフスキー楽譜出版社のユルゲンソーンから、旧知のニコライ・ルービンシュタインチャイコフスキーに作曲を依頼したがっているという内容の手紙を受け取りました。

 

当初、チャイコフスキーは作曲に前向きではなかったようで、返事を出したのはおよそ1か月後のことでした。

 

返書の中でチャイコフスキーは金額・期限などについてはっきりさせるよう書いています。

 

また、7月に出した手紙では「自分自身が感動しないであろう作品に手を付けることはできない」と作曲に後ろ向きの姿勢を示しました。

 

9月末、今度はニコライ・ルービンシュタインが直接チャイコフスキーに手紙を出し、作曲を依頼します。

 

さすがに、旧知のニコライ・ルービンシュタインから直接依頼されると断れなかったのか、しぶしぶ作曲に同意します。

 

その後、1か月半で「序曲1812年」は完成しました。ところが、演奏される前に依頼者のニコライ・ルービンシュタインが亡くなってしまいます。

 

依頼者が亡くなることで宙に浮いた「序曲1812年」は1882年5月に楽譜が出版され、1882年8月に初演が行われます。

 

最初、「序曲1812年」は凡作だと新聞でたたかれました。

 

しかし、1887年に行われたチャイコフスキー自身の指揮による演奏は大成功を収めました。

 

以後、「序曲1812年」は名曲としてたびたび演奏されるようになりました。

 楽曲の全体構成

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「序曲1812年」を演奏する米国陸軍軍楽隊

引用:1812年 (序曲) - Wikipedia

 「序曲1812年」は、ナポレオンのロシア遠征とそれに対するロシア軍の抵抗、勝利という流れに沿って構成されています。

 

最初に流れてくるのはロシア正教会の聖歌「神よ、汝の民を救い」の旋律です。

 

チェロとヴィオラの荘重なメロディーによって幕を開けます。

 

しばらくすると、どこかで聞いたことがあるメロディーが流れてきます。

 

フランス国歌の「ラ・マルセイエーズです。これは、いうまでもなくナポレオン軍を象徴するものですね。

 

ラ・マルセイエーズ」は徐々に大きく、はっきりと響き渡りナポレオン軍の優勢が示されます。大砲が最初に「発砲」するのはこの場面です。

 

すこし演奏が静かになった後、再び激しい演奏に戻ります。今度は、ロシア軍の反撃です。

 

「神よ、汝の民を救い」が流れ、教会の鐘が鳴り響きロシアの反撃と勝利をあらわします。

 

そして、最終盤に大音響とともに奏でられるのがロシア帝国国歌にあたる「神よ、皇帝を守り給え」でフィナーレへとなだれ込みます。

 

大砲を打ち鳴らし、教会の鐘が鳴り響くさまは圧巻です。

 

現在、自衛隊などで「序曲1812年」を演奏するときは、砲兵隊が105mm榴弾砲を空砲で発射します。

 

 

おすすめの「序曲1812年

いちばんのおすすめは「皇帝」ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮の「序曲1812年」です。

 

楽曲の重厚さや荘重さ、カラヤン独特の重みなどすべてがおすすめですが、貴重な「合唱付き」というのも重要なおすすめポイントです。

 

興味がある方はぜひ聞いてみてください!

 

序曲1812年のモチーフとなったナポレオンのロシア遠征とは

 

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ロシア遠征直前地図:赤がフランス帝国

引用:ナポレオン・ボナパルト - Wikipedia

ナポレオンのロシア遠征は、ロシア帝国を大きく揺るがす出来事でした。

 

第二次世界大戦独ソ戦大祖国戦争と称するまで、国を挙げた戦争という意味で祖国戦争とよばれたのは、1812年のナポレオンによるロシア遠征だったのです。

 

ロシア遠征の大まかな流れを見ていきましょう。

ロシア遠征の原因

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イギリスが勝利したトラファルガー海戦

引用:トラファルガーの海戦 - Wikipedia

19世紀の初め、ヨーロッパ大陸は戦争の天才ナポレオンの力が強い時代でした。

 

オーストリア帝国ロシア帝国アウステルリッツ三帝会戦で敗北し、プロイセン王国イエナの戦いで敗北しました。

 

しかし、会場ではイギリスのネルソントラファルガー海戦で戦い敗れてしまいます。

 

ナポレオンは宿敵イギリスを苦しめるため、ロシア・オーストリアプロイセンなどにイギリスとの貿易を禁じる「大陸封鎖令」を出します。

 

しかし、ロシア帝国にとってイギリスは優良な穀物販売先でした。

 

このため、ロシアはフランスの目をかいくぐってイギリスと密貿易をします。これが、フランスにバレてしまいました。

 

事態を知ったナポレオンはロシアを屈服させるためロシア遠征を決断します。

 

ロシアが勝利するまでの経過

1812年6月、ナポレオンは45万のフランス軍(通称、大陸軍:グランダルメ)と同盟国軍25万のおよそ70万の大軍を率いてロシアに侵攻を開始しました。

 

ロシア軍は50万、最終的には90万を動員しました。

 

国境を守っていたロシアのバルクライ将軍はフランス軍との衝突を避け内陸へと撤退します。

 

総司令官となったクトゥーゾフ将軍はモスクワ手前のボロジノでナポレオン軍を迎撃します。

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ナポレオンが勝利したボロジノの戦い

引用:ボロジノの戦い - Wikipedia

しかし、会戦となるとナポレオンは強く、ボロジノの戦いでロシア軍は敗北してしまいました。

 

このあたりが「序曲1812年」でラ・マルセイエーズが鳴り響いている場面ですね。

 

ボロジノの戦いで敗れたクトゥーゾフはモスクワを明け渡します。

 

この時、ロシア軍はモスクワ市街を焼き払いました。ナポレオンがモスクワに入城した時、彼の目の前にあったのは荒れ果て食料もない廃墟だったのです。

 

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炎上するモスクワとナポレオン

引用:1812年ロシア戦役 - Wikipedia

攻め込まれた時、自国領土を焼き払ってでも敵軍の補給を困難にする戦法を焦土作戦といいます。

 

加えてロシア軍はコサック騎兵を使って食糧輸送中のフランス軍を襲撃し、前線のフランス兵を飢えさせました。

 

補給困難に陥ったナポレオンは1812年10月に撤退を決断します。

 

11月になるとロシアの極寒の冬がフランス軍に襲い掛かりました。冬将軍の到来です。フランス軍は徐々に数を減らしていきました。

 

さらに、寒さと飢えでフランス軍は多くの軍馬を失いました。

 

そのため、騎兵は歩兵となり、引手を失った大砲は各所で放棄されます。ロシア軍は弱体化したフランス軍に容赦なく襲い掛かりました。

 

1812年12月、フランス軍は完全にロシア領から追い出されました

 

ロシア遠征の失敗はナポレオンの威信を失墜させ、彼の没落のきっかけとなります。

 

まとめ

 「序曲1812年」は19世紀後半にチャイコフスキーによって作曲されました。

 

曲のモチーフとなったのはナポレオンによるロシア遠征です。

 

楽曲の中にロシア正教の聖歌やフランス国歌、ロシア帝国国歌が用いられています。

 

また、曲中で大砲や教会の鐘が使われるなどスケールが大きいことも「序曲1812年」の魅力です。

 

実際のロシア遠征は「序曲1812年」の流れの通り、モスクワ占領までのナポレオンの優勢からロシア軍の勝利を描く壮大な歴史劇となっています。

 

自衛隊などが演奏するときは実際の大砲が用いられ、迫力満点です。

 

この記事を見て「序曲1812年」とはなにか、作曲者のチャイコフスキーがどんな人か、モデルになったナポレオンのロシア遠征とは何かなどについて「そうだったのか」と思っていただけると幸いです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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