元予備校講師、木彫りグマのブログ

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平成30年史 政治も気候も激動に見舞われた平成5年(1993年)

こんにちは。木彫りグマです。

 

令和になってからふりかえる平成30年の歴史。今回は、平成5年(1993年)をとりあげます。

 

平成5年は長年続いた55年体制が終焉を迎えた年であり、地震や冷夏などの自然災害に見舞われた年でもありました。

と同時に、道の駅の開業や環境基本法の制定、世界遺産の指定など、令和にもつながることが始まった年でもありますね。

 

1993年を政治、社会経済、スポーツ・エンタメ、環境問題などに分けて振り返りましょう。

 

なお、前年の平成4年についてはこちらの記事をご覧ください。

平成30年史 平成4(1992)年編

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/43626">acworks</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

政治の動き

1993年は日本の政治史にとって特異な年でした。1955年に成立した自民党社会党を軸とする55年体制が完全に崩壊したからです。自民党の一部議員の造反により宮澤内閣不信任決議案が可決され、解散・総選挙へとなだれ込みました。選挙の結果は、自民党社会党が大きく議席を減らし、自民党から離党した新政党・新党さきがけ日本新党などが勝利しました。

 

宮澤内閣不信任決議案の可決

1989年7月、第15回参議院選挙で敗北した自民党は政治改革関連法案を成立させ、リクルート事件や消費税などによって失った世論の支持を回復させようとしました。

しかし、海部内閣や次の宮澤内閣は自民党内をまとめきれず、政治改革関連法案を国会で成立させることができません。

 

1993年6月14日、宮沢首相が政治改革関連法案の成立を断念すると、社会党公明党民社党が内閣不信任案を衆議院に提出しました。

6月18日、衆議院で内閣不信任案が採決。自民党内から造反が出て、宮澤内閣不信任が可決されました。

これにより、衆議院議員総選挙の実施が決まります。

 

新党ブームと社会党の大敗

自民党を離党した造反議員たちは、新党さきがけ新生党を結成します。その前年、前熊本県知事の細川護熙日本新党を結成していました。

1993年7月18日、衆議院議員総選挙が実施されます。

 

この選挙で、武村正義率いる新党さきがけ羽田孜小沢一郎率いる新生党細川護熙率いる日本新党保守系3政党が議席を大きく伸ばしました。

対して、伝統的な野党である社会党は136議席から70議席へと大きく後退。歴史的大敗を喫しました。

 

細川内閣成立と55年体制の終わり

総選挙の結果、自民党は223議席過半数に届きませんでした。キャスティングボードを握った日本新党自民党サイドとも非自民党サイドとも接触し協議を重ねます。

最終的に日本新党は非自民勢力と手を組みました。

 

1993年8月6日、総理大臣指名のために召集された特別国会で、日本新党の党首である細川護熙が総理大臣に指名されます。

細川政権は非自民・非共産の8党連立政権という日本の政治史上、例のない形で発足しました。

細川内閣の成立により、自民党は1955年以来、初めて野党に転落。

55年体制は終焉を迎えます。

 

社会・経済・災害

1993年は自動車に関する注目すべきニュースが二つありました。一つは日産座間工場の生産停止。もう一つは、いまではおなじみの「道の駅」の運用開始です。自然災害の面では能登半島沖地震北海道南西沖地震など大規模な地震が発生した年でしたね。また、記録的な冷夏により米不足が深刻化。平成の米騒動が発生しました。

 

日産自動車の座間工場の生産停止

日産自動車バブル崩壊後、経営不振に苦しんでいました。

高級車の販売が低迷する中、あらたなヒット商品を生み出すことができず、組合運動の活発化で合理化が思うように進んでいなかったからです。

 

業績が悪化の一途をたどった日産は、主力工場の一つである座間工場を2年後の1995年に閉鎖すると発表しました。

座間工場ではサニーやセフィーロの生産を行っていましたが、会社のリストラにより閉鎖を余儀なくされます。

 

バブル崩壊の目に見える形とあって、当時よく報道されていたのを思い出しました。

 

道の駅の運用開始

道の駅は高速道路にあるサービスエリアやパーキングエリアのような施設を一般道にも作ろうという発想で生み出されます。

単なる休憩施設ではなく、地域の文化・名所・特産品などを紹介する場としても機能することが期待されました。

 

1991年、実験的に山口県岐阜県、栃木県に設置されます。

そして1993年に、全国で103カ所の道の駅がつくられました。

現在、道の駅は1000カ所を越えました。

今では、道の駅そのものが観光スポットになっていることも多く、多くの訪問客でにぎわっていますね。

 

能登半島沖地震北海道南西沖地震

1993年2月7日、石川県輪島市の沖を震源とする能登半島沖地震が起きました。

地震の規模を示すマグニチュードは6.6。かなり大きな地震で、当時話題となりました。

被害総額は42億円とされていますね。

 

能登半島沖地震からおよそ半年後の7月12日、北海道にある奥尻島震源とする地震が発生しました。

マグニチュード能登半島沖を大きく上回る7.8。

震源奥尻島の間近だったため、発生直後に津波奥尻島を襲いました。

 

地震発生が夜間だったため、南西沖地震での津波は撮影されていませんが、震源のすぐ近くである奥尻島の西側では31.7mの遡上を記録します。

当時の被害者のインタビューを思い出すと、被害者は気がついたら波に飲み込まれ、沖合に流されていたと語っていましたね。

 

また、津波に襲われた奥尻島の青苗地区では火災も発生。

折からの強風にあおられ地区全体を焼き尽くしました。死者・行方不明者あわせて230名。

日本海側では最大級の地震となりました。

 

翌年1月におきた阪神淡路大震災の印象が強いため忘れられがちですが、震源が近いときの津波の恐ろしさをまざまざと見せつけた地震でした。

 

冷夏と平成の米騒動

1993年の夏、日本列島は記録的な冷夏に見舞われました。

梅雨前線が長期にわたって日本列島に停滞したため、夏になっても一向に気温が上がらなかったのが大きな原因です。

 

特に、コメどころである東北地方では冷害の被害が深刻でした。

青森県岩手県宮城県など太平洋側では冷涼な北東風である「やませ」が吹き付けたことで被害が深刻化。

作況指数青森県28、岩手県30、宮城県37と記録的な落ち込みを見せました。

これにより、コメの流通量が極端に減少します。

 

細川内閣はタイ、中国、アメリカなどからコメの緊急輸入を行いました。

しかし、農薬問題や食味の違いなどから外国産米は不人気で国産米の値段が高騰します。

翌年、コメの流通量が回復することで平成の米騒動は終息しました。

これを教訓に、冷害に弱いササニシキから耐冷性が強いひとめぼれ、コシヒカリへの作付け転換が進みます。

 

 スポーツ・エンターテイメント

1993年はJリーグが開幕した年でした。この当時の流行語として、サッカー関連の用語が数多く見出せます。最もインパクトがあったのは「ドーハの悲劇」。今でも、日本サッカーの歴史で欠かすことができない出来事として紹介されます。音楽面では、ZARD大黒摩季などのビーイング所属のアーティストがチャートの上位を占めるビーイングブームが到来していました。

 

ドーハの悲劇Jリーグの発足

サッカー日本代表チームはFAFAワールドカップの出場権をかけてアジア地区最終予選を戦っていました。

日本はグループ1位で、初めての本選出場に強い期待をかけられていたのを覚えています。

 

1993年10月28日、日本代表チームはカタールのドーハでイラクと対戦していました。

日本が勝てば無条件で本選出場が確定。

引き分けや敗戦だったときはサウジワラビア・韓国との得失点差により出場が決まるという状態。

 

日本はこのゲームで引き分け。

サウジワラビアや韓国が勝利したため、得失点差により日本はリーグ3位となって初のワールドカップ出場を逃しました。

このことを「ドーハの悲劇」とよびます。

世間の当時の落胆ぶりは、サッカーに詳しくない木彫りグマでも覚えているほどでした。

 

また、同じ年に日本プロサッカーリーグであるJリーグが開幕します。

Jリーグは10チームで始まりましたが、今ではJ1だけではなくJ2やその下部組織も運営されていますね。

Jリーグは日本にサッカー文化を根付かせることに成功したといってもよいでしょう。

 

ビーイングブームと広瀬香美の「ロマンスの神様

1992年の後半頃から、ZARDWANDS大黒摩季ら楽曲がCMのタイアップ曲で流されるようになりました。

今では有名な彼らも、この当時はまだまだ無名。

インターネットも一般には普及していない時期だったので、「誰が歌っているのか」ということ自体が話題となっていました。

 

テレビ番組でたびたび取り上げられた彼らはビーイングに所属していたため、彼らが巻き起こしたブームをビーイングブームといいます。

 

ビーイング所属のアーティストは、テレビなどの露出を徐々に減らし、そのことで人々の注目集める手法を取ります。

今では考えられないくらいのCD売り上げを記録していたことを覚えていますね。

ビーイングブームは1995年頃まで続きます。

 

同じ年、大きなヒットを飛ばしたのが広瀬香美でした。広瀬香美のデビューは1992年。「愛があれば大丈夫」が1枚目のシングルです。

1993年、広瀬が担当したアルペンのCMソング「ロマンスの神様」が170万枚以上のCD売り上げを叩き出す大ヒットとなりブレイクしました。

冬の女王とよばれる広瀬の活躍の始まりですね。

 

さいごに

 

いまにして思えば、平成5年は大きな転換点となった年だと思います。

政治面での大変動や災害という意味でも注目すべき年となりました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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