「イェニチェリとは?」
「イェニチェリはいつ廃止されたの?」
「なぜ、スプーンや鍋がイェニチェリのシンボルになった?」
この記事をご覧の方はそんな疑問を持っているかもしれません。
イェニチェリはオスマン帝国の常備歩兵軍団です。
デウシルメとよばれる特殊な徴兵制度で編成されました。
彼らは銃火器や大砲で武装し、強い火力で周辺諸国の軍を圧倒しました。
彼らが奏でる軍楽「メフテル」はイェニチェリやオスマン帝国軍に力を与え、他国軍には恐怖をもたらしました。
メフテルの衝撃はモーツァルトが「トルコ行進曲」を作曲するきっかけともなります。
スルタン直属で距離が近かったイェニチェリは、スルタンともに食事することが許されました。
そのため、食事で使うスプーンや鍋が彼らのシンボルとなります。
強大な力を誇ったイェニチェリでしたが、世襲化が進むことにより徐々に腐敗。
改革の抵抗勢力となって19世紀に廃止されました。
今回はイェニチェリとは何か、イェニチェリの歴史、イェニチェリの軍楽であるメフテルについてまとめます。
なお、トルコについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
イェニチェリとは
イェニチェリは、14世紀から19世紀にかけて存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団です。
トルコ語で「イェニ」はあたらしい、「チェリ」は歩兵といういみですね。
イェニチェリ登場以前、オスマン帝国軍の主力は弓を扱うことに長けたトルコ人騎兵でした。
それに対し、イェニチェリは歩兵です。
騎兵に対して不利な歩兵が、どうして騎兵に取って代わったのでしょうか。
それは、イェニチェリが銃で武装する火力重視の部隊だったからです。
イェニチェリはスルタン(オスマン帝国の皇帝)直属部隊として、各地で勇名を馳せます。
イェニチェリの歴史
スルタン直属の歩兵として、オスマン帝国の中核を担うイェニチェリ。
イェニチェリがたどった歴史についてみてみましょう。
デウシルメ制でイェニチェリを編成
イェニチェリが始めて編成されたのは14世紀のムラト1世の時代だとされます。
戦いで捕虜としたキリスト教徒を奴隷兵として編成したのがイェニチェリのはじめでした。
その後、キリスト教徒の子弟を重用し、イスラム教に改宗させて兵士などととして使うデウシルメ制度が出来ることで、イェニチェリは安定的に兵士を増やすことが出来ました。
セリム1世・スレイマン1世の勝利に貢献したイェニチェリ
1514年、スルタン・セリム1世は、イスラム教シーア派のサファヴィー朝の軍団と戦います。
このチャルディラーンの戦いはサファヴィー朝の騎馬軍団とセリム1世率いるイェニチェリの戦いでもありました。
イェニチェリは鉄砲の火力でサファヴィー朝の騎兵を圧倒します。
信長の長篠の戦いの半世紀以上前に、似た戦いがあったのは驚きですね。
スレイマン1世がスルタンとなると、さらに領土を拡大。
スレイマン1世のいる頃、イェニチェリが必ず付き従いました。
イェニチェリは鉄砲だけではなく、大砲や攻城兵器も備えた強大な部隊だったので、スレイマン1世の領土拡大に大きな貢献をします。
イェニチェリの世襲化と腐敗
スレイマン1世の時代から、イェニチェリの性格が変化したといわれます。
それまで、デウシルメ制度で出身母体から切り離されていたイェニチェリ。
しかし、スレイマン1世のころからイスラム教徒がイェニチェリになる例が増え、イェニチェリの地位を子孫に伝えることが増えました。
17世紀以降、イェニチェリの軍紀は乱れ、政府の人事への介入や地方での横暴な振る舞いにより人々を困らせる存在となります。
18世紀後半、イェニチェリの戦闘能力は同じ時代のヨーロッパ列強と比べ明らかに時代遅れとなっていました。
セリム3世がイェニチェリに代わる軍隊を作ろうとしましたが、イェニチェリの反対で失敗に終わります。
イェニチェリたちは主君であるスルタンとともに食事をする権利を与えられていました。
スルタンがイェニチェリたちに与える俸給や待遇に不満があると、スープ用の大鍋をひっくり返して不満の意を表すことができます。
それだけ、特権的な手段となっていたことがわかる話ですね。
イェニチェリの廃止とムハンマド常勝軍の設置
軍事的な強さを失い、改革の抵抗勢力となっていたイェニチェリはスルタンにとって厄介な存在でしかありませんでした。
19世紀、スルタン・マフムト2世はイェニチェリの廃止を決意します。
マフムト2世は、イェニチェリ廃止の前に、イスラム法学者(ウラマー)の支持を取り付けていました。
1826年、マフムト2世はイェニチェリを集め、解散を宣告します。
イェニチェリたちは大鍋をひっくり返し、不服従の意思を示しました。
マフムト2世は、事前に呼び寄せていた砲兵隊にイェニチェリを攻撃させます。
4,000名以上のイェニチェリが殺害され、イェニチェリは解散させられました。
400年以上の歴史を持つイェニチェリが滅亡した瞬間でもありますね。
イェニチェリ解散後、スルタン直属のムハンマド常勝軍がオスマン帝国の軍事力を担いました。
イェニチェリが奏でるメフテル(軍楽)
イェニチェリたちが奏でる軍楽をメフテル、軍楽隊をメフテルハーネといいました。
メフテルの中でも有名な曲が『ジェッディン・デテン』ですね。
この曲は、日本のテレビドラマ『阿修羅のごとく』のオープニングに使われました。
向田邦子原作の小説をテレビドラマ化したものですが、ジェッディン・デテンを使ったオープニングが非常に印象的でした。
ある種のおどろおどろしさを感じさせるメフテルは、攻撃する側のトルコ軍の士気を高め、守るヨーロッパ勢を恐れさせたことでしょう。
モーツァルトがメフテルをまねて『トルコ行進曲』を作曲したそうですが、インスピレーションを刺激されてもふしぎではありませんね。
まとめ
イェニチェリとは、オスマン帝国のスルタン直属部隊です。
銃火器で武装した歩兵軍団で強い火力を持ち、周辺諸国の軍を圧倒しました。
彼らは赤い軍装に身を包み、ヨーロッパ諸国を震え上がらせます。
しかし、オスマン帝国の最盛期を築いた精鋭たちも、月日の経過とともにただの特権集団へと変化。
盛者必衰とはよく言いますが、長期にわたって最強であり続けるということは非常に困難なことだと感じました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。