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「朝倉氏とは?」分国法の「朝倉孝景条々」とは?「一乗谷朝倉氏遺跡」とは?わかりやすく解説!

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朝倉氏とは?

朝倉氏遺跡とは?

朝倉氏の家紋とは?

朝倉氏のつくった分国法とは?

 

このページをご覧の皆さんはそのような疑問をお持ちかもしれません。

朝倉氏は越前国(現在の福井県)を支配した戦国大名です。

朝倉氏は現在、福井市の一部となっている一乗谷を本拠地としました。

 

応仁の乱のとき、西軍に属していた7代当主朝倉孝景は東軍に寝返り。

越前の支配権を手に入れました。

また、孝景は「朝倉孝景条々」という分国法を制定し越前支配を固めます。

 

戦国時代になると、越前だけではなく隣国の若狭・加賀・近江・美濃にも出兵し勢力を拡大しました。

しかし、台頭してきた新興勢力である織田信長によって滅ぼされてしまいました。

 

今回は朝倉氏とは何か、一乗谷を中心とする朝倉氏遺跡の概要、朝倉氏の家紋、朝倉氏の分国法などについてまとめます。

 

室町時代の守護や守護代について知りたい方は、こちらの記事をどうぞ。

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

織田信秀について知りたい方は、こちらの記事をどうぞ。

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/1972201">実生の桃</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

朝倉氏とは?

朝倉氏は但馬国兵庫県北部)を発祥の地とする一族です。

全国各地に朝倉氏の血筋は広がりますが、とくに有名なのが越前国福井県)に土着した越前朝倉氏です。

 

越前朝倉氏(以後、朝倉氏)は、越前守護の斯波氏に仕え、甲斐氏や織田氏ととともに越前国守護代に任じられました。

 

応仁の乱がおきると、その混乱に乗じて7代当主の朝倉孝景(英林孝景)が越前の支配権を確立。

また、孝景は「朝倉孝景条々」という分国法を制定し支配を固めました。

 

その後、朝倉氏は隣国である若狭(福井県西部)・近江(滋賀県)・美濃(岐阜県)・加賀(石川県)などに進出します。

そんな朝倉氏に目を付けたのが足利義昭でした。

 

義昭の兄である13代将軍足利義輝三好三人衆松永久秀によって殺害されました。(永禄の変

kiboriguma.hatenadiary.jp 

兄の敵を討ち、室町幕府再興を目指した足利義昭は越前の朝倉義景を頼ります。

義景は義昭を受け入れました。

しかし、義景はなかなか義昭の上洛要請に応じません。

しびれを切らした義昭は義景に見切りをつけ、美濃を制圧した新興の戦国大名織田信長を頼ると決断。

越前を去りました。

 

足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は、朝倉義景に従うことを求めます。

しかし、義景はこれに応じませんでした。

義景は北近江の浅井長政と手を組み信長と戦います。

kiboriguma.hatenadiary.jp

とはいえ、圧倒的な兵力を持つ信長に対し、次第に劣勢になっていきました。

そして1573年、越前に攻め込まれ一乗谷が陥落。

朝倉氏は滅亡しました。

 

朝倉氏の家紋

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朝倉氏の家紋「三つ盛木瓜

引用:朝倉氏 - Wikipedia

 

朝倉氏の家紋は「木瓜紋」の一つである「三つ盛木瓜」です。

木瓜」は”もっこう”と読み、瓜を輪切りにした時の断面図を図案化した家紋です

子孫繁栄を願う縁起の良いものとして多くの氏族で家紋として用いられました。

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織田木瓜

引用:織田氏 - Wikipedia

 

後に朝倉氏を滅ぼす織田信長の家紋も「木瓜」です。

こちらは「織田木瓜」とよばれますよ。

 

朝倉氏の領土と石高

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朝倉氏の領土(現在の福井県

引用:福井県 - Wikipedia

 

朝倉氏は現在の福井県の大半を占める越前国を支配していました。

戦国時代の正確な石高は不明ですが、江戸時代に越前国を与えられた福井藩越前松平家)の石高は68万石とされます。

また、福井県西部の若狭国は江戸初期の検地で8万5000石と算出されました。

このことから、朝倉氏の石高は75万石前後と考えてよいでしょう。

 

一乗谷朝倉氏遺跡」とは?

一乗谷朝倉氏遺跡とは、福井市にある戦国時代の遺跡のことです。

朝倉氏が本拠地とした一乗谷の城や館、城下町などを含む大規模な遺跡ですよ。

 

1573年、織田信長は大軍を派遣し朝倉氏を攻撃。

朝倉氏の本拠地である一乗谷を陥落させ、朝倉義景を自刃に追い込みました。

この時、一乗谷は織田軍によって焼き払われ、朝倉氏の栄華は焼き尽くされました。

 

しかし、近年の発掘調査によって往時の一乗谷の様子が再現されつつあります。

一乗谷については、福井県観光連盟が作成した動画もありますので、ぜひご覧ください。 

 

朝倉氏の有名人

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朝倉孝景

引用:朝倉孝景 (7代当主) - Wikipedia

「天下一の極悪人」朝倉孝景

朝倉氏第7代当主の朝倉孝景は、斯波氏が守護をつとめる越前国で勢力を拡大した人物でした。

 

孝景は公家や寺社といった中世の権威に恐れおののくことなく、公家領・寺社領を横領し、彼らから「天下一の極悪人」とよばれ忌み嫌われました。

孝景が死去した時、京都の公家の一人は「近年まれに見る慶事」と日記に記されました。

朝倉氏といえば保守的という印象を持たれがちでしたが、孝景は真逆の人物だったようですね。

 

しかし、孝景が旧勢力と争って手に入れた基盤をもとに、朝倉氏は戦国大名として成長していきます。

 

越前国の内紛で台頭

越前国の守護は室町幕府の名門である斯波氏です。

斯波氏の下で守護代をつとめていたのが甲斐氏でした。

甲斐氏は守護代として斯波氏に仕えつつ、幕府からも直臣扱いされるという特殊な家柄です。

 

15世紀中ごろ、守護の斯波氏と守護代の甲斐氏の関係が悪化し、越前国で長禄合戦がおきました。

このとき、孝景は守護代の甲斐氏に味方し、主力として活躍します。

甲斐氏の当主である甲斐常治が死去すると、越前国内で孝景の影響力が強まりました。 

応仁の乱で東軍に寝返り

1467年、斯波氏・畠山氏の家督争いや将軍の跡継ぎ争いなどが原因で応仁の乱が始まります。

孝景は主君である越前守護斯波義廉とともに西軍の一員として参戦しました。

孝景は御霊合戦上京の戦い相国寺の戦いなどに参戦。伏見稲荷の戦いで、孝景は東軍の守将骨皮道賢を討ち取る活躍を見せます。

 

1471年、孝景は東軍の浦上則宗接触

将軍足利義政や東軍のリーダーである細川勝元から越前の支配権を認められると、孝景は主君を裏切り東軍に寝返ります

 

西軍きっての勇将が相手方に寝返ったとあって、西軍には大きな動揺が走りました。

孝景の寝返りにより戦局は東軍有利となります。

孝景は越前国に戻り、反対派を実力で排除して支配権を固めました。

分国法「朝倉孝景条々」

1479年から81年の間に、孝景は「朝倉孝景条々」という分国法を制定します。

分国法とは、戦国大名が自分の領国を支配するために制定した国内法のことですね。

朝倉孝景条々」は、孝景の合理主義的な性格を反映した革新的なものでした。

 

まず、孝景は

朝倉家に於ては宿老を定むべからず。その身の器用忠節によりて申し付くべき事

と宣言し、世襲ではなく実力主義で家臣を採用することを定めました。

 

また、「惣別分限あらん者、一乗谷へ引越、郷村には代官ばかり置かる可き事」

とし、国人や地侍一乗谷に集めました

城下町に家臣を集住させることで、土地から切り離し、家臣化を進めたと考えられます。

 

さらに、

「名作之刀さのみ被好間敷候、其故は万疋之太刀を持たり共百筋之鑓には勝間敷候、万疋を以て百筋之鑓を求百人為持候は一方は可防候」

と述べ、同じお金を使うなら高価な武具を一つ買うのではなく、実用性がある安価な武器を買うべきとして贅沢を戒めました。

 

朝倉孝景条々」は孝景本人が作ったかどうかは疑問があるとされますが、孝景の実用重視の姿勢があったからこそ、孝景が作った家訓として後世に伝わったのではないでしょうか。

 

宿将朝倉宗滴

孝景が築いた土台を生かし、朝倉家を最盛期に導いた宿将が朝倉宗滴です。

宗滴は、孝景の八男として生まれました。

宗滴は朝倉氏3代にわたって仕え、数々の戦で勇名をとどろかせます。

加賀一向一揆との戦い

1488年、加賀の一向一揆は加賀守護の富樫氏を事実上滅ぼし、加賀一国を手中におさめていました。

加賀の一向一揆は越前にも勢力を拡大させようと、たびたび侵攻してきます。

 

1506年、加賀の一向一揆は越前の一向一揆勢力や孝景によって排除された旧守護代家の残党などと合流し越前に攻め込みます。

宗滴は九頭竜川流域で一向一揆を迎撃しました。

この時、加賀の一国一揆は総勢30万ともいわれる大軍を動員します。

対する宗滴は8,000から16,000の兵で迎え撃ちました。

 

宗滴は真正面から戦っては不利だと考えたのか、敵の態勢が整う前に夜襲を決行。

一向一揆勢を敗走させます。

宗滴軍は勢いに乗じて越前の一向一揆の拠点である吉崎御坊を破壊しました。

朝倉氏の宿将として活躍

加賀の一向一揆に勝利したのちも、宗滴は各地を転戦しました。

1517年には幕府の命令で若狭・丹後方面に出兵し勝利します。

 

1525年、近江おきた浅井氏と六角氏との争いに際しては出兵して両者を調停しました。

宗滴による調停が縁となり、朝倉氏と浅井氏は固い同盟を結ぶことになります。

 

1527年、12代将軍足利義晴管領細川高国の要請により上洛し、川勝寺口の戦いで三好勢に勝利します。

 

1555年、宗滴は長尾景虎の要請に応じて加賀の出陣。宿敵の一向一揆と対峙します。

加賀入国後、加賀南部の3城を攻撃し、たった一日で陥落させてしまいました。

その後、一揆勢が守りを固めたため、持久戦となります。

 

戦いの最中、宗滴は病に倒れました。

宗滴は指揮権を朝倉景隆に譲ると一乗谷に帰還。同年9月8日に死去しました。 

 

最後の当主朝倉義景

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朝倉義景

引用:朝倉義景 - Wikipedia

 

孝景、宗滴によって築かれた朝倉氏の栄華は100年にわたって続きました。

しかし、11代当主朝倉義景の時代に、覇者織田信長とたびたび戦って滅ぼされてしまいました。

足利義昭を生かせず、信長に上洛を許す

義景が11代当主となった時、一族の長老である朝倉宗滴が健在でした。

そのため、朝倉家の軍事・外交は宗滴によって主導されます。

1555年に宗滴が死去すると、義景は自ら政務をとるようになりました。

 

1565年、京都で13代将軍足利義輝が暗殺されると、義輝の弟である義昭は越前に身を寄せます。

義昭は、義景に対し自分の上洛を支援してくれるよう頼みました。

しかし、義昭は嫡男が病死したこともあり、義昭の要請になかなか応じようとしません。

 

業を煮やした義昭は義景の下を去り、織田信長の下に身を寄せます。

1568年、織田信長足利義昭を奉じて上洛。

京都周辺の支配権を手に入れました。

義景は上洛の大義名分ともいえる足利義昭を十分に生かすことができず、好機を逸します。

浅井と組んで信長と戦う

足利義昭を奉じて上洛した信長は、将軍の名で朝倉義景に対し上洛するよう迫ります。

しかし、義景はこの命令に応じません。

信長は義景の上洛拒否を理由とし、朝倉攻めを始めました。

 

義景は朝倉家と深いかかわりがある浅井長政と連携。

浅井長政織田家との同盟を破り、朝倉氏に味方します。

背後を突かれた織田軍は総崩れとなり敗走しました。

 

京都に戻った信長は体勢を立て直し、再び朝倉・浅井軍と姉川で戦います。

朝倉軍は朝倉景健を大将とする軍を派遣していました。

朝倉義景自身が出陣しなかったことは、義景の甘さだったかもしれません。

 

戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わります。

以後、徐々に朝倉・浅井軍は織田軍に追い込まれていきました。

朝倉氏の滅亡

1573年、織田軍は3万の兵をひきいて近江に侵攻します。

義景は総力をあげて浅井救援の軍を編成しようとしますが、朝倉氏の重臣たちは出兵を拒否します。

それでも、2万の兵を集めた義景は浅井救援のため出陣しました。

 

1573年8月12日、信長は暴風雨を利用して朝倉軍を急襲。

混乱した朝倉軍を潰走させ、追撃戦でせん滅しました。

義景は越前国内を転々とした後、家臣たちに裏切られ自刃しました。

 

さいごに

越前の朝倉氏は孝景が土台を作り、宗滴によって戦国大名として発展しました。

しかし、新興勢力の織田氏との戦いに敗れ、100年の栄華に幕を閉じます。

実力主義を唱えた孝景が信長を見た時にどのように感じたか、とても興味があるところですね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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