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遼・金・元・清は征服王朝ってどういうこと?中国に侵入して王朝を建てた五胡や北魏も併せて解説!

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私たちが「中国人」と呼ぶ人々はさまざまな民族によって構成されています。

中国の92%を占める漢民族以外にもモンゴル族ウイグル族など55の少数民族が存在しています。

現在の中国は主要民族である漢民族が中心となっていますが、かつては、周辺の異民族が中国を支配したことがありました。

異民族、特に北方の異民族が中国に侵入して打ち立てた王朝を「征服王朝」とよびます。

今回は征服王朝の歴史についてまとめます。

出典:写真AC

 

征服王朝とは何か?

出典:写真AC

征服王朝という言葉を初めて用いたのはアメリカ人の中国研究科ウィットフォーゲルです。

彼は北方の異民族が中国に侵入し、その一部または全土を征服したり支配したりした王朝を征服王朝と呼びました。

征服王朝は中国を支配する際、北方にある本拠地を放棄せず、中国と北方の本拠地を別々の仕組みで支配しました。

そのため、中国王朝と同化した五胡十六国時代の異民族(五胡)や北魏以降の北朝の諸王朝、隋・唐は征服王朝に含めないのが一般的です。

中国の北半分を征服した「五胡」

出典:写真AC

三国を統一した晋が290年に起きた八王の乱で衰退すると、それに乗じて中国北方の異民族が豊かな中国に侵入し、独自の王朝を打ち立てました。

その後、五胡をほぼ統一した北魏北魏の流れをくむ隋・唐が中国を支配します。

しかし、これらの王朝は次第に漢民族化(漢化)して独自性を失いました。

「五胡」とは何か

「胡」とは中国から見た異民族のことです。

五胡とは5つの異民族をさす言葉で、匈奴鮮卑・羯(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)の5民族を意味します。

五胡が中国北部に侵入できたのは中国王朝が弱体化していたからでした。

三国時代の後半、三国の一つである魏は蜀を滅ぼしたが、重臣司馬炎に皇帝の座を奪われて滅亡しました。

新たに晋(西晋)を建てた司馬炎は三国最後の国である呉を滅ぼし、60年ぶりに中国を統一しました。

しかし、司馬炎の死後に晋の政治が乱れ、王族同士が争う八王の乱が発生します。

このとき、内戦に勝利しようとした王族たちは強い軍事力を持つ五胡を中国に引き入れてしまいます。

やがて、五胡は西晋を滅ぼし、中国北部(華北)の各地に独自政権を建てました。

また、滅ぼされた西晋の王族の一人が南方に逃れ、東晋を樹立したため、中国は長期間の分裂時代に突入します。

304年に匈奴劉淵が王朝を建ててから439年に北魏武帝華北を統一するまでの時代を五胡十六国時代といいます。

中国に吸収された北魏

439年、五胡の一つである鮮卑族の拓跋氏が建てた北魏が中国を統一しました。

以後は、華北北魏にはじまる北朝が、華南は東晋・宋・斉・梁・陳という漢民族系の南朝が支配する南北朝時代とよばれます。

北魏の6代皇帝である孝文帝は都を北方の平城から黄河流域の洛陽に遷都します。

そして、服装や食事、言語などを中国風に変更する漢化政策を実施します。

孝文帝の政策により北魏の支配者層の漢化が進みましたが、それに反発する北方民族は孝文帝の死後に大反乱を起こしました。

この反乱がきっかけとなり北魏は分裂します。

北魏時代に作られた大石窟寺院に雲崗・竜門があります。

世界史の資料集に登場するのでよく目にするかもしれません。

北朝の系譜に連なる隋・唐

北魏東魏西魏に分裂し、東魏北斉に、西魏北周にとってかわられます。

581年、北周の実力者だった楊堅は579年にライバルの北斉を滅ぼし、580年に皇帝として即位します。

この時楊堅が建てた王朝をといいます。

日本が遣隋使を送ったあの隋です。

楊堅自身のルーツは鮮卑族ですが、漢化政策の影響を受けた人物です。

隋は孝文帝時代に始まった鮮卑族漢人の融合国家といえるでしょう。

589年、隋は華南にあった陳を滅亡させ370年ぶりに中国を統一します。

しかし、隋王朝は短命でした。

楊堅の跡を継いだ2代皇帝の煬帝が大運河の建設や度重なる高句麗遠征によって国力を疲弊させ、大規模な住民反乱を招いたからです。

結局、隋は大農民反乱に飲み込まれて618年に滅亡しました。

そののちに成立した唐の始祖李淵楊堅と同じく漢化された鮮卑人をルーツに持つ人物でした。

隋も隋の諸制度の多くを引き継いだ唐も、中国の王朝として君臨するため征服王朝とは考えられていません。

4つの征服王朝とその特徴

出典:写真AC

ここまでは、征服王朝の成立以前についてまとめました。

ここからは、ウィットフォーゲルが征服王朝に分類した4つの王朝について整理します。

遼(契丹

遼はモンゴル系の契丹が建国した王朝です。

建国者の耶律阿保機契丹内部の反乱を鎮めることで勢力を拡大。

周辺諸地域を征服して領土を拡大しました。

2代皇帝耶律徳光の時代、中国は唐の滅亡により混乱状態にありました。

唐の滅亡後、華北後梁後唐後晋後漢・後周の5つの王朝が順番に支配したため、のちに五代十国時代と呼ばれます。

五代の一国である後晋契丹の支援を受けるため、領土の一部である燕雲十六州契丹に割譲します。

契丹遊牧民と新たに加わった漢民族の支配を別々に行いました

このような支配体制を二重統治体制といいます。

また、遼は漢字と異なる契丹文字を使用していたのも注目です。

北魏や隋・唐とことなり、遼は自民族の文字を使用しているという点でも漢化され切っていないといえるでしょう。

時は流れて10世紀後半から11世紀初めにかけて、中国全土を統一した宋は燕雲十六州の奪還を掲げたびたび契丹と戦いました。

しかし、軍事面で劣る宋は契丹に勝利できず、契丹の燕雲十六州支配を認めざるを得なくなります。

この時に結ばれたのが「澶淵(せんえん)の盟」です。

宋は領土を奪われただけではなく、毎年、莫大な量の銀と絹を契丹に送ることを約束させられました。

燕雲十六州を巡る北方民族と中後の激しいせめぎあいを描いた小説『楊家将』は中国で人気の小説です。

金(女真

金はツングース系の女真族が建国した国で、初代皇帝は完顔阿骨打です。

金は宋と共同で遼を攻撃し滅亡させました。

しかし、宋は金との約束を果たさなかったため、金が宋の都である開封を占領。

皇帝の欽宗上皇徽宗を北方に連れ去りました(靖康の変)。

明の永楽帝が起こしたクーデタの靖難の変と間違いやすいので注意しましょう。

くわしくは、こちらの記事を見てください。

kiboriguma.hatenadiary.jp

靖康の変に勝利した金は黄河より北側の広大な地域を支配します。

金は遼の二重統治体制を引き継ぎます

すなわち、女真人や契丹人などの遊牧民の部族は猛安・謀克とよばれる単位で支配し、漢民族渤海人は州県制で統治しました。

また、金も女真文字を使用し漢字と一線を画していることにも注目すべきです。

元(モンゴル)

元はモンゴル人を支配階級とする王朝です。

2代皇帝オゴタイの時代に華北の金を滅ぼし、5代皇帝フビライの時代に南宋を滅亡させました。

中国全土を支配したフビライは国の名を元と改め、現在の北京にあたる大都を建設し、全土を支配します。

人口のわずか1.5%のモンゴル人が圧倒的多数の漢民族を支配する体制です。

これまでの王朝と比べ中国文化を重視せず、チベット仏教への信仰やパスパ文字の使用といったモンゴル色の強い支配を行いました。

前王朝の宋では儒学的教養を積んだ士大夫とよばれる階級が科挙に合格して完了となっていましたが、元の時代には科挙が停止されるなど不遇の時代を迎えます。

かわって重要な地位(特に財務関係)に就いたのは色目人とよばれる漢民族以外の西方の民族です。

科挙が復活したのは元の末期でした。

元を滅ぼした明の初代皇帝朱元璋について知りたい人はこちらの記事をご覧ください。

kiboriguma.hatenadiary.jp

清(女真

清は金と同じく女真族が建国した国で、当初は後金と称していました。

建国者はヌルハチで、2代ホンタイジの時代に万里の長城以北を制圧します。

3代皇帝の順治帝の時代、明で起きた李自成の乱の混乱に乗じて万里の長城を突破し北京を制圧しました。

清は明の支配体制を継承しつつ、バランスの良い統治体制を目指します。

満漢併用制(満漢偶数官制)を採用し、漢民族の懐柔を図る一方、八旗とよばれる正規軍の力や反清活動の弾圧(文字の獄など)により支配体制の維持を図ります。

また、北方民族の風習だった辮髪(べんぱつ)漢民族に強制し、拒むものは殺害しました。

漢字とともに満州文字を使っていたことも清の特徴として挙げられます。

支配階級である満州人と圧倒的多数派の漢民族のバランスをとることで清は長期にわたって中国を支配することに成功したのです。

まとめ

今回は中国の一部、あるいは全土を支配した征服王朝についてまとめました。

以前に比べ、これらをまとめて出題することは少なくなりましたが、遼と金、元と清はよく比較されます。

それぞれの特徴を頭に入れ、正誤問題で間違わないようにしましょう。

 

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