「百貨店ってどんな歴史があるの?」
「日本や海外の百貨店とは?」
「なぜ、百貨店が苦戦しているの?」
このページをご覧の皆さんはそのようなそのような疑問を持っているかもしれません。
「百貨店」はヨーロッパで誕生しました。
その理由は、世界各地を植民地にしたヨーロッパに世界中の富が集まり豊かになったからです。
裕福になった人々は百貨店でショッピングを楽しみました。
日本に百貨店が誕生したのは明治時代から大正時代にかけてです。
日本橋三越や梅田阪急百貨店ができたのはこのころでした。
百貨店は人々の暮らしを豊かにし、行くことが一種のステータスだった時代もありました。
しかし、現在百貨店業界は苦戦しています。
中でも地方都市の老舗百貨店はどんどん姿を消してしまいました。
その背景には自家用車の普及で社会が大きく変化するモータリゼーションの進行がありました。
今回は百貨店の歴史や代表的百貨店、百貨店が苦戦する理由などについてわかりやすく解説します。
欧米で生まれた百貨店
User:Mikegr - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
百貨店というビジネスモデルが生まれたのは近代ヨーロッパです。
このころ、ヨーロッパは世界各地を植民地として支配し、経済的繁栄を迎えていました。
特に、広大な植民地を支配するフランスとイギリスでは世界に先駆けて百貨店が発展します。
百貨店はヨーロッパ生まれ
19世紀後半、ヨーロッパ諸国は未曽有の経済発展を遂げていました。
18世紀にイギリスではじまった産業革命により、商品の生産能力は飛躍的に向上。
それまでと比べると、安くて高品質の品物が庶民でも手に入るようになります。
各国の都市には専門店が並び、商業活動が活発化しました。
中でも、数多くの商品を取りそろえた大型小売店が誕生します。
これらの小売店のことを英語ではデパートメントストア、日本語では百貨店と呼びました。
大きな建物に様々な商品を展示する百貨店は人々のあこがれだったことでしょう。
フランスの百貨店
フランスでは、1852年にポン=マルシェ百貨店が誕生したとされます。
ポン=マルシェで扱った商品は、高級品ではなく比較的安価な大衆向けのものでした。
1885年に開業したプランタンはポン=マルシェの元店員が開業した百貨店。
パリと地方を結ぶ鉄道の新駅開設による利用者増を当て込んで出店しました。
最先端のアール=ヌーヴォーを取り入れた近代的な建物は人々の度肝を抜きます。
イギリスの百貨店
イギリス最大の老舗百貨店といえばハロッズ。
ハロッズは1834年に開業したデパートで、売り場面積90,000平方メートルを誇る大型百貨店でした。
ハロッズは「あらゆる商品を、あらゆる人々へ、あらゆる場所へ」をモットーに豊富な商品を取り揃えます。
地下鉄駅のすぐ近くに作られ、人々の往来が多い一等地である点はフランスの百貨店と同じですね。
ハロッズは現在でも王室御用達の百貨店です。
エリザベス2世やエディンバラ公フィリップ、チャールズ皇太子などハロッズを愛用する王族は多いですね。
1875年に開業したリバティ百貨店も老舗として知られています。
当初、リバティは日本や東洋の雑貨、織物、伝統工芸品などを扱っていました。
19世紀後半になると、アール=ヌーヴォーなどの商品を積極的に取り扱います。
リバティ百貨店は荘重な建物としても知られています。ロンドンを訪れたら、ぜひ、中に入ってみたいと思わせる建物ですよ。
日本の百貨店
Kakidai - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
日本で百貨店が誕生したのは明治時代から大正時代にかけてのこと。
日本橋三越を皮切りに、梅田阪急百貨店、日本橋髙島屋、京都大丸百貨店などの開業が相次ぎました。
昭和に入ると、全国の主要都市に多くの百貨店がつくられました。
日本橋三越百貨店
江戸時代の商人、三井高利が江戸に店を作ったのが三越百貨店の始まりです。
江戸時代は「越後屋」の屋号で呉服を販売していました。
三越が百貨店となるのは1904年のこと。
この時、初代専務に就任したのが日比翁助でした。
日比はデパートメントストア宣言を行い、呉服屋ではなく百貨店として店舗を運営することを宣言します。
1905年に店頭に大イルミネーションを設置し、化粧品や帽子の販売を開始します。
1907年には鞄や履物、洋傘など取扱商品を増やしました。
1913年には帝国劇場のパンフレットに広告を掲載し「今日は帝劇、明日は三越」キャッチコピーで集客しました。
日本橋三越本店が建てられたのは1914年のこと。
ルネサンス様式で東洋一とも称されたアールデコ調の百貨店でした。
最初の建物は1923年の関東大震災で焼失してしまいましたが、その後再建します。
梅田阪急百貨店
1920年、阪急梅田ビルの1階に東京の呉服屋である白木屋が梅田店を出店しました。これが、阪急百貨店の始まりです。
白木屋の販売データを見た阪急グループの創業者小林一三は、梅田駅のターミナルデパートとして阪急百貨店を開業させました。
開業直後、阪急は「どこよりも良い品物を、どこよりも安く売りたい」というキャッチコピーで宣伝され、大衆向け百貨店であることをアピールされました。
昭和恐慌の時、ライスにソースをかけただけのソーライスがはやります。
安さ目当てで多くの人が殺到したため、入店を規制しようとする店員に小林は、「ライスだけの客歓迎」という張り紙をさせ、積極的に受け入れました。
小林は、今は貧しくても後々、ソーライスを思い出し、また来てくれると考えたといいます。
小林の戦略はフランスのポン=マルシェやイギリスのハロッズと似ていますね。
苦しい百貨店業界
かつて、百貨店は日曜に家族で行く「晴れ」の場でした。
しかし、近年はスーパーマーケットの搭乗やネットビジネスの台頭により百貨店は苦戦を強いられています。
日本各地の地方都市にあった百貨店は次々と姿を消しつつあります。
モータリゼーションの到来による変化
第二次世界大戦が終結し、高度経済成長が訪れると日本でも一家に一台の車を持つ時代がやってきました。
自動車中心の社会となる、モータリゼーションの時代が訪れたといってもよいでしょう。
百貨店の強みの一つは、駅など交通の要衝にあることでした。
車中心となると、駐車場の有無が集客に直結します。
駅前などで、駐車場が不足しがちな百貨店にとって、不利な変化だといえるでしょう。
そうなると、広い駐車場を持つ郊外型の大型スーパーマーケットの方が集客に有利となります。
ネットビジネスの台頭
近年、百貨店を含む小売業界は新たな脅威にさらされています。
それが、インターネットの普及によるネットビジネスの台頭です。
インターネット上で商品を選択し、気軽に購入できる仕組みは百貨店やスーパーマーケットにとって脅威となる技術でした。
特に、アメリカからアマゾンがやってきて本格的なビジネスを展開するようになると、百貨店はますます苦戦します。
百貨店側は、百貨店ならではの利点である対面販売を強化。
都市部などを中心に巻き返しを図っていますが、成果が出るにはもう少し時間がかかるかもしれません。
地方百貨店の相次ぐ閉店
商圏人口が少なく、来客が確保しにくい地方百貨店にとってモータリゼーションとネットビジネスはダブルパンチとなって経営を圧迫しました。
2019年に限っても、北海道函館市の棒二デパートや青森市の中三青森店など、10店以上が閉店に追い込まれました。
かつては、デパートの屋上にある遊園地などで日曜を過ごしていた人たちも、今では、違う日曜日の過ごし方をしています。
経済の発展により、人々の趣味嗜好が多様化し、百貨店がそれに追いつけていないのかもしれませんね。
最後まで、読んでいただきありがとうございました。