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「幕藩体制とは?」幕府と藩の違いや幕藩体制の意味、崩壊までの流れをわかりやすく解説!

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幕藩体制って何?

幕府と藩は何が違うの?

このページを見ている皆さんは、このようにお考えではないでしょうか。

幕藩体制とは、江戸幕府を中心に幕府と藩が日本各地を支配する政治体制のことです。

江戸幕府は日本全国に命令を出せるというだけではなく、日本で一番広い土地を支配する領主でもありました。

この記事では、幕藩体制の成立から崩壊までの大まかな流れや、江戸幕府のしくみ、江戸幕府と諸藩の違い、江戸幕府による大名統制などについて解説します。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/707039">松波庄九郎</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

 

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幕藩体制とは? 

幕府や藩などが全国各地を支配するしくみを幕藩体制といいます。

幕府のトップは征夷大将軍で代々徳川氏が独占しました。

 

幕府の領地を天領といいます。

幕府は江戸や京都・大坂周辺などの重要地域や金銀山を天領に組み込みます。

そのため、幕府の経済力は諸藩に比べはるかに強大でした。

 

天領以外の4分の3はが支配します。

藩のトップは大名、または藩主といいました。

志村けんのバカ殿様」で出てくる「殿」は、藩主のことです。

 

藩は幕府と別に武士たちを配下としました。

幕府に仕える武士は幕臣、藩に仕える武士は藩士とよばれ区別されます。

それ以外に、天皇家や公家、寺社が所有する土地もありましたが幕府や藩に比べると微々たるものでした。

幕藩体制の確立・動揺・崩壊

幕藩体制の確立

1600年、徳川家康関ヶ原の戦いで勝利し、1603年に征夷大将軍となりました。

家康は武家諸法度禁中並公家諸法度などを定め、幕藩体制の基礎固めをします。

 

幕藩体制が確立したのは3代将軍徳川家光のころです。

家光は武家諸法度に参勤交代を追加し、幕府による大名統制を強化し、幕府による全国支配を確立します。

 

家康から秀忠、家光までの時代は武力で諸大名を押さえつける武断政治の時代だとされます。

幕府は大名たちが力をつけるのを警戒し、有力大名を次々と取り潰します。

 

しかし、行き過ぎた大名の取り潰しは多くの藩士たちを失業させ、「浪人」を全国各地に出現させます。

刀を持った浪人たちが増えすぎると、秩序維持の点で問題となります。

4代将軍家綱から5代将軍綱吉の時代にかけて、武断政治は徐々に改められ、朱子学を中心とする文治政治へと移行します。

その結果、上下秩序を重んじる朱子学が武士たちの基礎教養となりました。

最近はやりの流れをつかむことを重視したマンガ本ですので、とっても覚えやすいんです。

ぜひ、読んでみてください!

幕藩体制の動揺

17世紀の後半になると幕府財政は行き詰まります。

それまでたくさん採れていた金銀の採掘量が減ったにもかかわらず、幕府の出費が増え続けたからでした。

 

財政難に拍車をかけたのが5代将軍綱吉による巨額の出費です。

綱吉のもとで勘定奉行を務めた荻原重秀は金銀の純度をおとした貨幣を発行し、貨幣の流通量を増やしますが、一時しのぎにしかなりませんでした。

 

18世紀初めに将軍となった8代将軍吉宗は新田開発や増税により財政難を解決します。

吉宗の改革は享保の改革と呼ばれました。

しかし、増税に反発する農民は各地で一揆をおこします。

 

以後、寛政の改革天保の改革でも財政立て直しが目指されましたが、十分な成功とはならず、幕府財政は苦しいままでした。

寛政の改革については、松平定信の記事が参考になりますのでそちらの内容もどうぞ!

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繁栄の絶頂だった元禄時代から、幕府の財政難、享保・寛政と続く改革の流れがよくわかります。

だいたいの流れをつかみたいならとてもおすすめですよ!

幕藩体制の崩壊

19世紀になると、ヨーロッパ列強の船が日本近海に出没します。

諸外国は幕府に鎖国をやめて開国するよう圧力をかけます。

 

幕府の力が衰える一方、諸藩では藩政改革が進み強い力を持つ藩が現れました。

こうした藩を雄藩といいます。

やがて薩摩藩長州藩といった討幕勢力は朝廷と結びつき、戊辰戦争で勝利して江戸幕府を滅亡に追いやりました。

最終的に、幕藩体制は崩壊します。

 

複雑な幕末の流れをつかみたいならこちらのマンガがおすすめ。


1年、1か月ごとに刻一刻と変化する情勢を文字だけで理解するのは少し難しいかもしれません。

流れをつかんでからの方が断然覚えやすいですよ!

 

江戸幕府のしくみ

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/707039">松波庄九郎</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

江戸幕府の主な役職

江戸幕府は将軍を頂点とする全国組織です。

諸藩と比べ物にならないほど大きな幕府を機能させるため、様々な役職が置かれました。

江戸幕府の主な役職について紹介します。

大老

大老将軍を除くと江戸幕府の最高職です。

複数選ばれるのが普通の江戸幕府の中で、珍しく一人だけ選ばれます。

 

将軍の代理ともいえる存在で江戸時代を通じてのべ10人だけ選出されました。

5代将軍徳川綱吉の治世前半を支えた堀田正俊日米修好通商条約を結んだ井伊直弼が有名です。

老中

老中政治全体を統括する役職で、現代でいう内閣にあたります。

総理大臣にあたるのは老中の中でもトップの人という意味で老中首座よばれました。

松平定信水野忠邦も老中首座として改革の指揮を執ります。

三奉行

老中のもとで行政や裁判に携わったの三奉行です。

三奉行は寺社奉行町奉行勘定奉行をさします。

老中と三奉行で構成され、重要事項について合議や採決を行うのが評定所でした。

 

寺社奉行は4名選出され全国の自社と寺社領を管理します。

宗教活動をコントロールするのが寺社奉行の主な仕事だといえます。

 

町奉行は、江戸市中の行政や裁判を担当しました。

時代劇の大岡越前遠山金四郎江戸町奉行でしたね。

南北2名選出されます。江戸町奉行は現在でいう東京都知事と東京地方裁判所の裁判官を兼ねる役職でした。

 

勘定奉行は幕府の財政を司る役職です。

天領からの租税収入や幕府財政の管理を行いました。

徳川綱吉時代の勘定奉行荻原重秀は小判の質を下げて発行量を増やし幕府の収入を増やします。

その一方で物価高騰を招いてしまいました。

京都所司代

京都所司代京都の護衛と宮中・西国大名の監視をおこないます。

西国には有力な外様大名が多いので幕府としては目が離せませんでした。

また、朝廷を幕府がしっかりと抱え込むことで天皇や朝廷の政治利用を防ぐことも京都所司代の仕事となります。

 

幕末、幕府の京都掌握力が弱まると雄藩が朝廷の公家たちと接触するようになり、朝廷が政治の表舞台に出るきっかけとなりました。

江戸幕府の役職は定期テストや入試でよく出題されます。

 

江戸幕府の財政基盤

江戸幕府は全国各地に天領を所有していました。

天領の石高は400万石で、日本全国3000万石の13.7%に相当します。

最大の藩が前田家の100万石ですから、幕府は日本最大の藩だともいえます。

 

幕府の強みは重要な鉱山の手中に収めていたことでした。

戦国大名たちの財源だった佐渡金山や石見銀山など主な鉱山は幕府が支配します。

また、全国で流通する金貨(小判)や銀貨(丁銀など)、銭貨(寛永通宝などの銅銭)を鋳造する権利も幕府が独占しました。

 

加えて、商業が盛んな江戸・京都・大坂・長崎・堺なども幕府直轄地に組み入れます。

中でも長崎で行われる長崎貿易は完全に幕府が独占しました。

 

江戸幕府の軍事力

幕府には将軍直属の旗本御家人がいました。

旗本は将軍に直接謁見できる高位の直属家臣で、それ以下のものは御家人とされます

 

彼らは戦時になると兵力として動員されます。

その数約8万人とされます。これが、旗本八万騎の語源ですね。

 

これに徳川一族の親藩関ケ原以前から徳川氏に従っていた譜代大名などの兵力を合わせると幕府の動員兵力は25万人以上となります。

十分、諸大名を圧倒できる兵力でした。

 

藩のしくみ

藩とは、江戸時代に大名(1万石以上の領地を支配する領主)が支配した領地、支配のしくみを表す言葉です。

大名は藩主、大名の家臣は藩士とよばれます。

 

藩士たちは藩主の居城周辺にある城下町に集められ、藩からの俸禄をもらうのが一般的でした。

中には藩主から土地を与えられるものもいましたが全体の中では少数派です。

 

藩はトップである大名のもとに家老や奉行、代官などが置かれ、幕府に認められた領地を統治しました。

諸藩は幕府に従いますが、藩内の政治はある程度の自治を認められました。

江戸幕府による大名統制

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/1931971">ラテすけ</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

大名の配置

江戸幕府は全国の大名を3つのランクに分けます。

一つは、尾張藩紀伊水戸藩の御三家を筆頭とする親藩です。

親藩には松平姓を名乗る徳川家の親族大名も含まれます。

 

関ヶ原以前から徳川氏に従っていた大名を譜代大名といいます。

譜代大名は大きな領地をもちません。

しかし、政治・経済的に重要な場所を領地として与えられました。

また、譜代大名は老中など幕府の要職に就くことができました

 

重要地域から最も遠い場所には外様大名が配されます。

外様大名は領地こそ大きいですが、幕府の要職に就くことはありません。

江戸幕府は身内ほど重要地域に、外様ほど遠隔地に配置したのです。

武家諸法度

江戸幕府が大名をコントロールするために定めた法令を武家諸法度といいます

1611年に家康が各大名から取り付けた誓紙三カ条をもとに、金地院崇伝が10カ条を追加して1615年に諸大名に申し渡されました。

 

一国一城令や参勤交代などは武家諸法度の一部として発布されます。

武家諸法度は1615年の二代将軍秀忠によるものをはじめとし、将軍が変わるたびに何度も改訂されました。

一国一城令

1615年、江戸幕府武家諸法度の中で大名たちに居城以外の城を破壊するよう命じました

大名の軍事力を削減するのが目的で西日本を中心に多くの城が廃城となります。

同時に、無断で新たな城を築城することも禁止します。

 

1619年、広島藩福島正則広島城を無断で修築したことが武家諸法度違反だとしてとがめられました。

その結果、福島正紀は安芸・備後50万石を没収されてしまいます。

参勤交代

参勤交代は三代将軍徳川家光武家諸法度寛永令)で公布されます。

大名は領地に1年、江戸に1年滞在すると定められました。

また、大名の妻子は江戸居住が義務付けられます。

 

参勤交代は大名にとって莫大な費用負担となりました。

その一方で、江戸と地方を往来する交通が発達し、文化の地方普及が促進されます。

手伝普請

参勤交代と同じく、諸大名を財政的に苦しめたのが手伝普請でした。

手伝普請は幕府の命令で大名が築城や治水工事を請け負うことです。

諸大名は江戸城や駿府城など幕府の城をつくるたびに動員されます。

 

江戸時代中期になると、治水対策の手伝普請が多くみられます。

 

1750年代から1760年代にかけて、薩摩藩が幕府から命じられた木曽川長良川揖斐川の治水工事は51名が自害し33名が病死、工事完了後に責任者の家老が自刃するなど壮絶なものでした。

巨額の費用は諸藩の財政を圧迫します。

まとめ

幕藩体制は幕府と藩が日本全国を支配するしくみです。

全国組織である幕府は日本で最も経済力と軍事力を持つ組織でした。

藩は大名が支配する領地・支配のしくみなどを表す言葉です。

重要地点は幕府が、その他の地域を藩が支配していたと考えるとわかりやすいですね。

 

江戸幕府武家諸法度などの法令を出し諸大名をコントロールします。

江戸幕府を中心とする幕藩体制大政奉還まで270年近く継続します。

 

この記事を読んで、幕藩体制とは何か、幕藩体制の成立から崩壊までの大まかな流れや、江戸幕府のしくみ、江戸幕府と諸藩の違い、江戸幕府による大名統制などについて少しでも疑問が解けたらありがたいです。

 

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