元予備校講師、木彫りグマのブログ

元予備校講師の木彫りグマが、主に歴史・地理・社会経済、古典などについて書くブログ

太閤検地や金銀山の支配、「黄金王」豊臣秀吉の財政基盤とは

こんにちは、木彫りグマです。

 

黄金王、日輪の子、黄金の茶室。

これらのキーワードから思いつく人物は誰でしょう?

おそらく、皆さんの頭の中にある人が思い浮かぶのではないでしょうか。

 

答えは、「豊臣秀吉」。

織田信長につかえて出世し、天下統一を成し遂げた人物ですね。

 

豊臣秀吉にとって、ラッキーカラーは「金」だったかもしれません。

とにかく金が大好きで、茶室も金で作り上げ、自分の居場所を示す馬印も「金の千成ひょうたん」。

幼名の日吉丸という名前も、黄金や太陽に縁がある人生を暗示していたのかもしれません。

 

今回は、秀吉が「金(きん・かね)」をどのようにして手に入れていたか、豊臣政権の財政基盤にスポットをあてて紹介します。

 

日本史や経済について興味がある方は、こちらの記事もどうぞ! 

kiboriguma.hatenadiary.jp 

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp 

kiboriguma.hatenadiary.jp

f:id:kiboriguma:20200424082251p:plain

 

豊臣政権を支えた石田三成ら官僚たち

 

足軽の子から成りあがった豊臣秀吉

先祖代々の家臣を持たなかった秀吉は、優秀な人物に片っ端から声をかけてスカウトしました。

 

秀吉がスカウトした人材は2つのグループに分けられます。

一つは、賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍に代表される子飼いの武将たち。

加藤清正福島正成などの若手武将たちですね。

 

もう一つのグループは、秀吉が北近江を所領としていた時にスカウトした官僚・武人の集団です。

その代表はなんといっても石田三成でしょう。

 

石田三成らは武将というよりは官僚として秀吉の天下統一に活躍します。

三成の能力がいかんなく発揮されたのは秀吉の九州征伐の時でした。

 

1587年に始まった秀吉の九州征伐は非常に短期間で終結します。

その原動力となったのが、石田三成ら優秀な官僚たちでした。

彼らは、大軍を動員・輸送するにあたって緻密に計算。

現場が動きやすいように物資を動かしました。

 

三成たちの力は秀吉が勢力を拡大するにつれ、重要なものとなります。

 

 

 

秀吉政権の基盤を固めた太閤検地

 

1582年、本能寺の変で信長が亡くなると、秀吉は謀反人明智光秀を討伐して信長の後継者争いに名乗りを上げます。

実は、この年に「太閤検地」は開始されました。

 

検地とは土地を調査し、広さや収穫量を記録すること。

検地に基づいて、年貢が決定されました。

 

信長も検地に力を入れていましたが、信長時代の検地は指出検地。

自己申告だったわけです。

馬鹿正直に申告すると多くの年貢をとられるだけなので、できるだけ土地面積や収穫量を少なく見積もって報告しました。

 

秀吉が行った太閤検地は、秀吉配下の役人を全国各地に派遣し、彼らが実際に面積や収穫量を割り出すという本格的なものでした。

この作業をやるためには緻密な計算能力や、全国各地に人を派遣して管理する能力が必要です。

石田三成らの力は、太閤検地でフルに発揮されました。

 

秀吉は、平安時代からずっと続く土地に関する権利を簡単にすることで、全国の土地を把握しようとします。

秀吉が定めた原則は「いま、田畑を耕している人=土地の所有者」。

この一地一作人の原則は非常にシンプルだったので、土地や税の把握が格段にしやすくなります。

 

また、秀吉は検地に反対する者は皆殺しにしてでも検地を行うよう指示。

太閤検地の命令書には、

「一人も残置かずなでぎりニ申し付くべく候。百姓以下にいたるまで相届かざるニ付ては、一郷も二郷も悉くなでぎり仕るべく候。たとへ亡所ニ成り候ても苦しからず候」

とあります。従わない村は皆殺し。

村が滅んでも買わないという非常に厳しい命令で、実際に従わない村や豪族は秀吉の命令で攻撃され滅ぼされました。

 

 

 

豊臣政権の財政基盤

 

豊臣秀吉は、いかにして大量の金銀を得ていたのでしょうか。

秀吉政権の財源を三つに分けて考えてみましょう。

 

全国各地に設置された直轄領(蔵入地)

 

一つ目は、約200万石の直轄地です。

秀吉は近畿地方を中心に、全国各地に直轄領を作りました。

直轄領は、経済的に重要な場所にピンポイントでおかれます。

 

例えば、九州でいえば貿易の中心地である博多が直轄領でした。

また、島津氏の領国内の直轄地である加治木や佐竹氏の領国内の直轄地である那珂湊も国内経済の重要地点です。

 

金銀山の直轄

 

二つ目は全国各地の金山・銀山などからの収入です。

 

秀吉は佐渡金山や生野銀山石見銀山などの重要な鉱山を直轄地に組み入れました。

戦国時代の日本は空前のゴールド・シルバーラッシュ。

各地の鉱山から取り出された金銀は戦国大名の軍資金となっていました。

秀吉は、天下統一後に金銀山を差し押さえ、自分のものとします。

 

黄金王というのはたとえ話ではなく、本当に秀吉が大量の金を持っていたから就いたあだ名なんですね。

 

秀吉は直轄金銀山から得た金銀で貨幣を作らせます。

もっとも有名なのは天正大判でしょう。

 

天正大判は金73.84%、銀26.16%でつくられた大型の金貨幣。

いつも使うお金というより、金の延べ棒に近い感覚だったでしょうね。

秀吉がつくらせた天正大判は全部で15万枚近く。

 

現存しているものは多くないので、金としての価値に加え骨とう品としての価値も加算されますよ。

 

重要都市の直轄と豪商の利用

 

三つ目は重要都市の直轄と豪商の利用

 

博多や加治木、那珂湊のほかに大坂、京都、堺、伏見、長崎などが秀吉の直轄領となりました。

これらの都市から吸い上げられる税も秀吉政権の重要な財源です。

 

これらの町に住む豪商たちは秀吉政権と密接な関係を持ちました。

その代表が千利休や小西隆佐、島井宗室、神屋宗湛です。

豪商たちは豊臣政権に資金提供する見返りに、商売上の自由や特権を認められました。

 

 

さいごに

 

豊臣政権が作り上げたシステムは、次の江戸幕府にも引き継がれます。

太閤検地や金銀山の直轄などは、幕府にとっても重要な政策だったからです。

黄金王秀吉が蓄えた金銀財宝は、豊臣氏滅亡後、行方が分かっていません。

 

徳川幕府によって接収されたのか。

大坂の役で豊臣秀頼淀殿が使い切ってしまったのか。

大坂落城前に別な場所に移されて「埋蔵金」となったのか。

非常に興味深い謎ですね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

プライバシーポリシー お問い合わせ