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「光源氏の誕生の登場人物とは?」「光源氏の誕生のあらすじが知りたい」わかりやすく解説!

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光源氏の誕生の登場人物について知りたい!」

「敬意の方向について知りたい!」

光源氏の誕生の内容・あらすじを、わかりやすく教えてほしい!」

 

このページをご覧の方は、そのように思っているのかもしれません。「光源氏の誕生」は、紫式部作の『源氏物語』第一話「桐壺」に書かれている光源氏誕生の物語で、12歳くらいまでの時期を扱います。

今回は、『源氏物語』や作者の紫式部源氏物語に登場する人物、天王に仕える女性たちの称号や住まい、敬意の方向などについてまとめます。

◆この記事でわかること◆
・『源氏物語』のだいたいの構成
・「光源氏の誕生」の登場人物と人間関係
・宮中の后妃の称号や后妃が住んだ建物(七殿五舎)
・「光源氏の誕生」の敬意の方向
・「光源氏の誕生」の大まかな意味

 

源氏物語』とは?

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平安女性のイメージ

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源氏物語』は、11世紀はじめに紫式部が著した長編小説で、正しくは「源氏の物語」といいます。全部で54帖にわたる物語は3つに分けられます。

  • 第一部:光源氏の誕生から、光源氏が位人臣を極めるまで
  • 第二部:光源氏の後半生
  • 第三部:匂宮に関連する3帖と宇治十帖

物語りの分け方は諸説ありますが、第一部と第二部は光源氏、第三部は光源氏の子とされるが主人公です。

光源氏のモデルには、有力な皇族系貴族だった源融(みなもとのとおる)や源高明(みなもとのたかあきら)、そして紫式部をスカウトした藤原道長などがあげられます。

作者の紫式部について

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紫式部の像

宇治 紫式部像 - No: 37458|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

紫式部平安時代の中期に活躍した人物で、作家や歌人として宮廷につかえる女房(女官)でした。

藤原道長の娘である彰子が、一条天皇の后になる際に、彼女のお付きの女房として採用され宮中に入りました。源氏物語』の作者として有名ですが、和歌の名手でもあり、『小倉百人一首』に彼女の歌が収録されています。

和歌について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

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紫式部日記』は、彼女と同時代に宮中に仕えた著名な女官についての人物評がみられますが、『枕草子』の著者である清少納言に対しては、以下のように評しています。

清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」

「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」

清少納言はわかったような顔をして寛文を書き散らかしているが、よく見れば間違いが多い」「こんな人の行く末に良いことがあろうか、いや、ない」とかなり厳しい評価をしています。

清少納言について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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他の女官、例えば和泉式部赤染衛門などについては、プラスに評価した記述がみられることを考えると、清少納言とは相性が悪かったのかもしれません。

 

光源氏の誕生」(桐壺)の登場人物

光源氏(世に清らなる玉の男皇子)

源氏物語』の主人公で、桐壺帝と桐壺更衣の間に生まれた子です。

桐壺帝には高位の后である弘徽殿女御との間に生まれた第一皇子(のちの朱雀帝)が生まれていたので、光源氏は第二皇子です。

幼いころから輝くばかりの美貌と才能に恵まれましたが、母の身分が低いため次の帝に離れず、臣籍降下しました。

その後、近衛中将から大将、大納言、内大臣などを経て太政大臣や准太上天皇になるなど位人臣を極めます。

光源氏が登場するのは第一話の「桐壺」から第四十話の「幻」までです。

光源氏が誕生した「桐壺」では、”世に清らなる玉の男皇子”、”珍らかなる、児(ちご)の御かたちなり”、”疑ひなき儲の君”などと絶賛されています。

このような素晴らしい子どもだったので、桐壺帝は”この君(光源氏)をば、私物(わたくしもの)に思ほしかしづき給ふ事限りなし”といった具合で溺愛します。

帝(桐壺帝)

光源氏の父で、桐壺更衣を寵愛した人物。

理想的な帝王として描かれ、延喜の治を行った醍醐天皇がモデルではないかと言われます。

桐壺帝には、弘徽殿女御をはじめとする位の高い后が仕えていましたが、桐壺更衣ばかりを寵愛したので、後宮の人間関係のバランスが崩れてしまいます。

桐壺更衣の死後、桐壺更衣によく似た藤壺(のちの藤壺中宮)を寵愛します。

更衣(桐壺更衣)

光源氏の母で、桐壺帝に仕えた后の一人。

女御よりも格下の后で、父である按察大納言がすでに死去していたため、後宮に後ろ盾がいない状態でした。

桐壺帝の寵愛を受けるようになると他の后たちの嫉妬を一身に受け、他の后の父などから楊貴妃に例えられ、国を乱す元だという批判も浴びてしまいます。

光源氏が3歳の時、ストレスのためか病となり亡くなってしまいました。

一の皇子の女御(弘徽殿女御)

右大臣の娘で、第一皇子と二人の皇女の母。

後宮で最も力を持っていた女性ですが、桐壺帝の寵愛を桐壺更衣に奪われたことで、彼女や彼女の子である光源氏を激しく憎みます。

第一皇子が朱雀帝として皇位につくと、弘徽殿大后と呼ばれるようになり、国政にも強い影響力を及ぼしました。

のちに光源氏を須磨に追放しますが、権勢が衰えると光源氏の復帰を防げなくなります。

天皇の后妃たちの称号

天皇の后妃(妻)たちは、大きく分けて4つの称号で呼ばれていました。皇后、中宮、女御、更衣です。それぞれの違いについて解説します。

皇后

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推古天皇

推古天皇 - Wikipedia

皇后とは、天皇の正式な妻で、正妻といってもよい立場で、場合によっては天皇として即位することもありました。

たとえば、敏達天皇の皇后である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は、敏達天皇の死後に、皇后として崇峻天皇に即位を命じ、崇峻天皇暗殺後は自ら即位して推古天皇となりました。

また、舒明天皇の皇后だった寶女王(たからのひめみこ)は、皇極天皇斉明天皇に、天武天皇の皇后だった鸕野讚良(うののさらら)は、持統天皇にそれぞれ即位します。

奈良時代まで、皇后は皇族から選ばれていましたが、聖武天皇藤原不比等の娘である光明子を皇后に迎えたことで、皇族以外からも選ばれるようになります。

中宮

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宮中の様子を描いた『紫式部日記』の一場面

藤原彰子 - Wikipedia

中宮は、皇后とほぼ同格とされる称号です。

もともと、後宮には皇后しかいませんでしたが、一条天皇の時代に、すでに皇后として定子がいたにもかかわらず、藤原道長が娘の彰子を、定子と同格の皇后として送り込み、二人の皇后が並立しました(一帝二后)。

以後、先に入った定子が皇后、後に入った彰子を中宮と呼びますが、皇后と中宮の間に身分の差はありません。

定子について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

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女御・更衣

天皇の后の称号の一つで、皇后や中宮に次ぐ地位です。

源氏物語の冒頭文で

いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらいける中に」とあるように、女御や更衣には定員がなく、同じ天皇に複数の女御や更衣が仕えていることも多々ありました。

そのため、区別の意味もあったかもしれませんが、女御や更衣は住む殿舎の名でよばれます。

たとえば、弘徽殿に住んでいる女御なら「弘徽殿女御」、桐壺殿に住んでいる更衣なら「桐壺更衣」とよばれました。

女御の下に位置付けられたのが更衣です。

更衣の子は、女御の子よりも格下として扱われ、臣籍降下の対象となりました。

光源氏は、桐壺更衣の子なので皇位継承の順位は低く、源姓を与えられ臣籍降下しました。

ちなみに、臣籍降下とは、皇族が皇籍を離れ一般臣下になることで、基本的に皇位継承権はありません。

皇位継承権を得るには、皇族に復帰する必要があります。

 

天皇に仕える女性たちが住んだ局(建物)

天皇につかる女性たちは後宮に局を与えられました。与えられた建物により、その女性のランクが暗示されます。

ここでは、天皇の住まいである後宮にある七殿五舎や、『源氏物語』によく出てくる弘徽殿と飛香舎(藤壺)、淑景舎(桐壺)について解説します。

七殿五舎

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七殿五舎

七殿五舎 - Wikipedia

天皇の住む場所は、内裏の紫宸殿の後方にあり、後宮とよばれます。後宮の建物をまとめて呼ぶときにつかうのが七殿五舎です。

弘徽殿をはじめとする七殿がつくたてものは、内裏が創建された当時からあったとされ、飛香舎などの五舎よりも格上とされます。

弘徽殿

天皇が寝起きする清涼殿の北に位置し、七殿の中でも最も格上とされた建物です。

光源氏の誕生」で登場する弘徽殿女御は、桐壺帝の后の中でも最も格上の女性で、朱雀天皇の母となってからは弘徽殿大后となり、強い権勢をふるいました。

飛香舎(藤壺

庭に藤が植えられていたことから、藤壺の異名を持つ建物です。

はじめは、七殿より格下の建物でしたが、清涼殿に近いことから中宮や女御といった高貴な女性の住まいとされました。

物語りの途中で登場する「藤壺中宮」は、藤壺に住んでいたためそのようによばれました。

藤壺中宮は、桐壺更衣とそっくりの容姿だったため桐壺帝の寵愛を受けます。

しかし、藤壺が病で里下がりした際に、理想の女性として慕う光源氏と関係を持ち、男子を出産。何も知らない桐壺帝は「瑕なき玉」として男子を溺愛します。

桐壺帝の死後、光源氏からの求愛をかわし切れなくなった藤壺は出家してしまいます。

淑景舎(桐壺)

桐壺は、天皇が住まう清涼殿から最も遠く離れた建物です。

普段は、后妃が住むためというより摂政が宿直する場所として用いられました。

天皇からお呼びがかかると、后たちは住んでいる建物から清涼殿に向かわねばなりません。

しかし、桐壺から清涼殿までの途中で桐壺更衣は嫌がらせを受けます。

具体的には、渡り廊下に汚物をまき散らされ、着物を汚し天皇のところに行けないようにすることや、渡り廊下を歩いているときに前後の戸を閉めて閉じ込められるなどsれます。

どちらも、非常に陰湿なものですが、裏を返せばそれだけ桐壺帝の寵愛が強く、他の女性の嫉妬を買っていたともいえます。

桐壺更衣は、こうした心理的な圧迫もあってか、光源氏が3歳の時に亡くなってしまいました。

敬意の方向

敬意の方向を考えるとき、誰から誰への敬意なのかが重要です。これを、敬意の方向といいます。

 

「誰から」

・地の文なら作者から

・会話文なら、言葉を発している人(話し手)から

「誰へ」

・尊敬語なら動作主

・謙譲語なら動作の受け手

・丁寧語なら聞き手・読み手

 

これが基本となります。

源氏物語』において、筆者である紫式部は、自分より身分が上の人物に対し敬語を使います。

 

例)この御子生まれ給ひて後は

生まれ給ひ:生まれたのは御子、生まれたということに対し、筆者の紫式部は敬意をこめて、”生まれ給ひ”(お生まれになった)と書きました。

この場合、敬意の方向は筆者から御子へとなります。

 

紫式部の書く”地の文”は、ドラマのナレーションのようなもので、読み手である私たちに対し、状況を説明する文章です。その中でも、物語に登場する高貴な人々に対して、敬意を示し続けます。

 

基本、地の文では「筆者」から「登場人物」への敬意が示されると覚えてよいでしょう。さらに、登場人物たちは、自分よりも偉い人に敬意を示すことも併せて理解しておきましょう。

また、天皇は登場人物全てと筆者から敬意を向けられる対象ですので、併せて覚えておきましょう。 

光源氏の誕生」の意訳

光源氏の誕生は、基本的に作者である紫式部によるナレーションです。

これから始まる『源氏物語』がどのようなお話なのか、ドラマのオープニング部分で語っているものです。

いづれの御時にか」の意訳

いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり。

 

いつの天皇の時代であったか、(天皇に仕える)数多の女御や更衣の中に、それほど高貴な血筋ではないが、とても帝の寵愛を受けた女性がいました。

 

はじめより我はと思ひ上がり給へる御方方、めざましきものにおとしめ 嫉み給ふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、まして安からず。

 

宮中に仕えるようになってから”自分こそは(帝の寵愛を受ける!)とお思いになっている方々は、寵愛を受けた女性を”気に入らない!”と妬みなさり、女御よりも身分が低く(したがって、チャンスが少ない)更衣たちは猶更、心安らかではありませんでした。

 

朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに 里がちなるを、

 

朝夕、宮中での宮仕えをしていた中で、その女性の行動が人の心を動揺させ、恨みを募らせてしまったのでしょうか、(恨まれている女性=桐壺更衣)は、とても病気がちになり、なんとなく心細い様子で実家に帰っていました。

 

いよいよ あかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。

 

その様子を見た桐壺帝が、ますます気の毒にお思いになって、(桐壺更衣を)周りの人がそしる(悪く言う)のも憚られず、世間の語り草になるに違いないほどの御もてなし(厚遇・寵愛ぶり)をしていらっしゃいました。

 

上達部、上人なども、あいなく目をそばめつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。

 

上達部(三位以上の上級貴族)などは、(桐壺帝の様子を)”感心しないことだ”と思い、目を背けていましたが、見ていられないほどの寵愛ぶりでした。

 

唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれと、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、

 

”中国でも、このようなこと(皇帝が特定の女性を寵愛すること)があって、世の中が乱れたのだ”などと、世間の人々の間でも苦々しいことだと、人々の悩みの種になり、楊貴妃の例を引き合いに出されかねないほどとなり

 

唐の玄宗皇帝は、楊貴妃を寵愛するあまり国政を顧みなくなりました。
そして、世の中が乱れ、安史の乱へとつながったとされてきました。 宮中の人々は、帝の寵愛を受けすぎる桐壺更衣を楊貴妃に見立てて批判したのです。
 
いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひ給ふ。
 
桐壺更衣は、”大変きまりが悪い”と思うことが多かったですが、桐壺帝の類を見ないほど強い愛情を頼りに、宮仕えをしていました。
 
父の大納言は亡くなりて、母北の方 なむ古の人の由あるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえ華やかなる御方々にもいたう劣らず、
 
桐壺更衣の乳である大納言はすでに亡くなっていました。母親の北の方は昔風の人で由緒ある家柄です。そのため、両親ともそろっていて、今のところ世間の評判となっている女御や更衣と比べても劣っておらず、
 
なにごとの儀式をももてなし給ひけれど、とりたててはかばかしき後ろ見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。
 
どのような儀式でも、他の女御や更衣と比べて引けを取らずに執り行うことはできましたが、後見人となる人がいないので、何かあった時のよりどころがなく、心細いご様子でした。
 
平安時代の宮中で重要なのは「後ろ見」、すなわち実家の後見人でした。
宮中で何かあった時に頼れるのは実家です。しかし、父を亡くした桐壺更衣は後ろ盾がない状態であり、非常に不安定な立場でした。
 

「前の世にも御契りや」の意訳

前の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子さへ生まれ給ひぬ。
いつしかと心もとながらせ給ひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌なり。
 
桐壺帝と桐壺更衣は、前世からの御縁が深かったのでしょうか。世にまたとないほど清らかな玉のような皇子がお生まれになりました。
桐壺帝は”早く見たい”と待ち遠しくお思いだったので、急いで皇子を参上させ、皇子の顔を見るとめったにないほどの(すばらしい)お顔立ちの皇子でした。
 
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲の君と、世にもてかしづき聞こゆれど、
この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、
この君をば、私物に思ほしかしづき給ふこと限りなし。
 
右大臣の女御(弘徽殿女御)との間に生まれた第一皇子は、後ろ盾がしっかりしていて疑いなく皇太子となると世の中の人もみなしていましたが、
この新たに生まれた第二皇子の美しさには較べようがなく、第一皇子への接し方は普通に大切になさる程度でしたが、
この君(第二皇子)は、桐壺帝が自分の大切な子としてお育てになりました。
 
はじめよりおしなべての上宮仕へし給ふべき際にはあらざりき。
 
桐壺更衣は、当初は、ありきたりの帝のおそば勤めをなさらなければならない身分ではありませんでした。
 
おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参上らせ給ふ、
 
世間の評判は並大抵のものではなく、桐壺帝が分別なく常に桐壺更衣を管弦の遊びや趣のある催しの際にも(桐壺更衣より身分が高い女御を差し置いて)真っ先に参上させ、
 
ある時には大殿籠り過ぐして、やがて候はせ給ひなど、あながちに御前去らずもてなさせ給ひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、
 
あるときには帝は桐壺更衣といっしょにお休みになられ、寝過ごされたときもそのままおそばに仕えさせるなど、強引にそばから離れないよう扱っているうちに、自ずと身分が低いようにも見えていましたが
 
天皇の后妃はそれぞれ、殿舎(局)を与えれ、独立した生活をしていました。しかし、桐壺帝が寵愛のあまり、桐壺更衣を常に自分のそばに置いてしまったことで、女御や更衣といった后妃よりも身分が低い一般の女房のように見えてしまっていました。最初は身分が低く見えなかったものが、あとから身分が低く見えてしまうと紫式部が書いたのは、そのためです。
 

この御子生まれ給ひて後は、いと心異に思ほしおきてたれば、坊にも、ようせずは、この御子の居給ふべきなめりと、一の皇子の女御は思し疑へり。

 

第二皇子が生まれてからは、帝は桐壺更衣を格別に心がけるようお決めになり、そのように扱ったので、第一皇子の母=弘徽殿女御は”帝は第二皇子を皇太子にするのではないか”とお疑いになりました。

 

人よりさきに参り給ひて、やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞなほわづらはしう、心苦しう思ひきこえさせ給ひける。

 

弘徽殿女御は、誰よりも先に桐壺帝に入内していて、帝が弘徽殿女御を大切に思う気持ちは並大抵ではなく、第一皇子だけではなく、皇女も生まれていたので、帝も弘徽殿女御の忠告だけははばかられ、つらくお思いになっていました。

 

かしこき御蔭をば頼み聞こえながら、おとしめ疵を求め給ふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞし給ふ。御局は桐壺なり。

 
桐壺更衣は、桐壺帝の寵愛だけを頼みとしてきましたが、桐壺更衣をおとしめ、落ち度を探す人が多い有様でした。桐壺更衣は体が弱く、寵愛を受けたためによくない思いをなさっていました。この更衣の住む局が桐壺です。

まとめ

◆この記事のまとめ◆
・『源氏物語』は三部構成
・「光源氏の誕生」の登場人物は桐壺帝、桐壺更衣、第一皇子の母(弘徽殿女御)
・「光源氏の誕生」の敬意の方向は、誰から誰への敬意かに注目
・桐壺帝は桐壺更衣と光源氏を寵愛したが、後ろ盾がない桐壺更衣の立場は不安定

今回は紫式部が書いた『源氏物語』の冒頭文である「桐壺」を紹介しました。桐壺の前半部分は光源氏誕生について、後半は宮中での桐壺更衣の立場について書かれています。

女性社会である宮中ならではの人間関係の複雑さや、皇位継承をめぐる周囲の人々の思惑などが絡み、桐壺更衣はストレスで病がちになっていきます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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