「二宮金次郎ってどんな人?」
「どうして、小学校に銅像があったの?」
「二宮金次郎の名言とは?」
このページをご覧の皆様はそのような疑問を持っているかもしれません。
二宮金次郎は江戸時代後期に活躍した人物です。
農村復興や経済思想の普及に努めました。
昔は多くの小学校に薪を背負った二宮金次郎の銅像がありましたね。
しかし、実際に何をした人なの?
そう聞かれると、なかなか答えにくいかもしれません。
今回は二宮金次郎がどんな人か、なぜ、彼の銅像が小学校に置かれたのか、そして、金次郎が残した名言にはどんなものがあるかなどについてまとめます。
二宮金次郎の功績
若き日の二宮金次郎
二宮金次郎(尊徳)は江戸時代後期の人物です。
14歳の時に父を亡くし、16歳の時に母もなくします。
二宮家の田畑は酒匂川の洪水で流出してしまい、文字通りの無一文となった金次郎は叔父に養われました。
金次郎は勉学に励んで家を復興させようとしますが、夜の明かり代を惜しんだ叔父により、夜の勉強を禁じられます。
金次郎は油のもととなるアブラナを土手に植え、自分で油を調達しました。
否定されても邪魔されても、目的達成のためなら何でもするというところが垣間見れています。
また、田植えで捨てられた苗を用水堀で育てて、一俵分の収穫を得たといいます。
一俵といえば60kgです。
これも、金次郎の「お家再興」の元手となったのでしょう。
金次郎は叔父の家を出ると親族の家に身を寄せます。
そして、元手を増やし続けました。
次の年に5俵、その次の年に20俵とどんどん増やします。
そして、ついに二十歳のときに家屋敷を再興することに成功しました。
元手がほとんどない状態からお家再興を果たしたのは非常に素晴らしいと思います。
金次郎はやればできるという根性論の人ではありません。
合理的に、どうやれば少ない元手て成功できるかを徹底的に追求したなのではないでしょうか。
その点で、彼は現代の私たちが学ぶべき要素をたくさん持った偉人だと思うのです。
彼は農業収入だけを元手にしただけではありませんでした。
幼少の時に薪を売ったり、草鞋を編んだりするなどのアルバイトで現金を稼いでいます。
百姓でありながら、商業的な視点も持ち合わせていました。
農業収入と現金収入。
いまでいうなら、給料と副業を同時に行って「稼ぐ力」を身に着けていったといったところでしょう。
服部家の財政再建
金次郎の仕事を、現代に当てはめると「ファイナンシャルプランナー」ではないかなと思います。
はじめに、小田原藩の家老であった服部家の財政再建に取り組みます。
彼は、5年改革で再建を請け負いました。
彼の財政再建は実にシンプルです。
まず、服部家の支出を徹底的に見直しました。
江戸時代後期の武士の家は、多くの場合、支出が放漫になっていて財政難になっていました。
金次郎は徹底的に無駄をカットしていきます。
しかし、強権的にコストカットしたわけではありません。
たとえば、無駄をせず、上手にやりくりしたものを褒めます。
褒められると、やる気が出るので個人レベルでもコストカットに努めるようになるでしょう。
また、皿などの備品を壊してしまっても素直に名乗り出たら責任を追及しませんでした。
さらに、予算よりも安く仕入れることに成功したものには成功報酬を与えてやる気を引き出しました。
こうして、人の心にも配慮した支出の見直しが功を奏して、服部家の財政は持ち直し、多額の借金も返済することができました。
これは、現代のファイナンシャルプランナーの方の手法にもよく似ていますよね。
自分の実力以上の贅沢をしない。
工夫して切り詰める。
楽しく節約する。
いずれも現代に通じる大事なことではないでしょうか。
桜町復興
服部家の財政再建は評判となり、ついに小田原藩主大久保忠真の耳にも入ります。
大久保公は、金次郎に飛び地の桜町領の復興を命じます。
度重なる飢饉で疲弊した桜町領は困窮を極めていました。
領民たちも自分たちの前途を悲観し、やる気のない生活を送っていました。
田畑を放り出し、昼間から酒を飲んで博打をする。
怠けているというよりも、あまりに絶望的な現実から目をそらしている現実逃避だったのかもしれません。
このテンション最悪の農村に金次郎はやってきました。
金次郎は藩主に掛け合って年貢を半減させます。
高すぎる税金がやる気をそいでいると考えたからです。
10年がかりの復興計画が、こうして始まりました。
しかし、すべての領民が金次郎の改革に賛成したわけではありません。
反対する者たちも大勢いたいのです。
改革開始から6年目、突如として金次郎は桜町から姿を消しました。
金次郎の突然の失踪に、桜町の領民たちは真っ青になります。
指導者を失い、再び悪化し始めた状況に領民たちは狼狽します。
ついには、領民たちは藩に金次郎の捜索願を出しました。
一方、姿を消した金次郎は成田山新勝寺で断食行をしていました。
改革がうまくいかない理由を自分の心と神仏に問うていたのです。
金次郎が成田山新勝寺にいると知った領民たちは彼ののもとに集まります。
そして、再び桜町で改革の先頭に立ってほしいと懇願しました。
人々の心が一つになったのを見た金次郎は桜町に戻ります。
実は、上杉謙信にも似たようなエピソードがあります。
人々の心がまとまらないときには、こうした一か八かの行動が必要なのかもしれませんね。
藩主と約束してから10年後、金次郎は桜町の復興に成功。
年貢も1000俵から1900俵近くまで回復し、村には900俵の貯蓄もできました。
支出を削減し、生産性を向上させて収益を上げる。
企業経営者としても有能だったことを示していますね。
その後も、小田原藩全体の飢饉を救ったり、いくつもの大名領を復興させるなど財政再建のプロとして大活躍しました。
ついには、江戸幕府に召し抱えられ幕府直轄地に復興も任されるようになりました。
二宮金次郎の銅像について
二宮金次郎の銅像はなぜ小学校に置かれた?
二宮金次郎の銅像が小学校に置かれた理由は、彼が戦前の道徳にあたる「修身」の教科書で取り上げられ続けたからです。
一生懸命努力することや働くことの大切さを体現した金次郎の一生は子供たちの模範となると考えられたのでしょう。
金次郎の銅像が一気に広まったのは昭和初期のこと。
昭和天皇の即位記念に際し、神戸の実業家の夫人が全国の小学校83校に金次郎の銅像を寄贈したことも普及の契機となったようです。
金次郎の銅像を9割製造しているのは富山県高岡市にある平和合金という会社。
今でも精巧な二宮金次郎像を生産しています。
詳しくは、こちらのHPをご覧ください。
二宮金次郎の銅像が減った3つの理由
一つ目の理由は小学校の統廃合です。
少子化の影響で小学校が統廃合された際、廃校となった小学校に取り残されるケースもあるようですね。
二つ目の理由は銅像そのものの老朽化。
老朽化した際に、修理せず撤去してしまうケースもあるようです。
そして、三つ目の理由は時代の変化。
昭和の時代、金次郎は勤労の美徳を体現する存在でした。
寝る間も惜しんで勉学に励み、自分で働いて学資を稼ぐ姿は多くの人の共感を得たでしょう。
しかし、令和の時代に彼のような生き方は多数派ではありません。
世の大勢と彼の生き方が離れてしまったことも、彼の像が減っていった理由ではないでしょうか。
金次郎の銅像に関する都市伝説とは?
「夜のなると金次郎の銅像が走り出す」
「金次郎の像が背負っている薪が減る」
「金次郎が読んでいる本のページがめくれる」
こうした怪談が生まれた背景に、金次郎の銅像がとても身近な存在だったことがあります。
「トイレの花子さん」などと同じで、小学生にとって常に目にする存在だからこそ、「怪談のネタ」になったのではないでしょうか。
二宮金次郎の名言
積小為大
塵も積もれば山となるといったほうが、わかりやすいかもしれません。
「小さなことからコツコツと」というのは誰しもわかっているかもしれませんが、実現するのはとても難しいことです。
これは、江戸時代も現代も全く変わりません。
毎日の生活の無駄をなくしつつ、次の生産のための投資を怠らない。
ただ、節約してため込むのではなく次につなげる投資の原資にする。
彼の生き方が集約された言葉ではないでしょうか。
万町の田を耕すもその技は一鋤ずつの功による
万町の田とは、1万町歩の広さの田のことで、広い面積の水田の例えです。
どんなに広い水田でも地道に一回ずつ鋤で耕さなければなりません。
地道な毎日の努力が結果につながるという意味です。
道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である
経済的利益を優先すると、「儲かれば何をしてもかまわない」という思考に陥りがちです。
金次郎はその状態を「道徳を忘れた経済」と定義します。
と同時に、彼はいかに立派なことを言っても経済的に成り立たないものは「寝言」だと切り捨てます。
彼は道徳の教科書に用いられるほどの人格者でしたが、同時に、目標は達成してこそ意味があると考える現実主義者でもあったことがわかります。
まとめ
今回は二宮金次郎についてまとめました。
江戸時代後期に活躍した二宮金次郎は、コツコツと小さなことを積み上げることで一度は失った自分の田畑を取り戻しました。
それだけではなく、家老の服部家の財政や小田原藩の飛び地である桜町領の復興などを成し遂げ、最後は幕臣として農村復興にあたりました。
経済を通じて社会を立て直したという点で、大河ドラマ「青天を衝け」の渋沢栄一にも通じるところがあるのではないでしょうか。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。