「小式部内侍ってどんな人?」
「大江山の歌の登場人物は誰?」
「大江山の歌の意味や和歌の技法について知りたい!」
「テストに出やすいのはどこ?」
このページをご覧の皆さんはそのようなことをお考えかもしれません。
小式部内侍は平安時代中期に朝廷に仕えた女房で、女流歌人としても知られた人物です。
彼女自身も優れた歌人でしたが、母の和泉式部も有名な歌人でした。
平安時代全体の流れについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
彼女の和歌の腕前がわかるエピソードが『十訓抄』や『古今著聞集』に収録されています。
そのエピソードの中で彼女が読んだのが「大江山の歌」でした。
この「大江山の歌」の技法はよく古典のテストで出題される定番問題です。
和歌について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。
今回は小式部の内侍がどんな人か、母の和泉式部との関係、大江山の歌のエピソードなどについてまとめます。
小式部内侍ってどんな人?
名前だけ聞くと紫式部の親戚?と思ってしまうかもしれません。
しかし、紫式部とほぼ同時代の人物です。
この当時の女性の常として、残念ながら本名は伝わっていません。
恋多き女性と知られていました。
平安時代の恋愛手段は「和歌」のやり取り。
顔を見るよりも、文字を見るほうが先であることなど珍しいことではありませんでした。
和歌で相手の心をつかむことができなければ、「恋多き女性」にはなれなかったのです。
小式部内侍は、和歌の腕前も母親譲りとあって、たちまち注目の的となります。
彼女は名だたる上流貴族の貴公子たちと恋を重ねました。
ことに、藤原教通や藤原範永、藤原公成との間には子をもうけています。
しかし、20代後半に藤原公成の子を出産した直後にこの世を去りました。
母親より早くなくなっており、母の和泉式部は嘆きの歌を残しています。
母の和泉式部とは?
和泉式部は小式部内侍の母で恋多き女性として知られた歌人です。
999年頃、和泉守橘道貞の妻となり、小式部内侍を生みました。
その後、道貞とは別居状態となり冷泉天皇の第三皇子である為尊親王と恋愛関係になりますが、身分違いの恋だとして親から勘当されます。
為尊親王が若くして亡くなると、その弟である敦道親王の寵愛を受けました。
敦道親王も早世すると、和泉式部は藤原道長の娘である彰子の女房の一人として宮廷に仕えます。
そして、1013年頃に道長の家司をつとめた藤原保昌と再婚して彼の任地である丹後(京都府北部)に赴任します。
『和泉式部日記』は1003年4月から翌年1月までの約10か月におよぶ和泉式部と敦道親王との恋愛の成行きを記した日記文学です。
恋多き女として知られた和泉式部の心の内をうかがうことができます。
大江山の歌
「大江山の歌」の登場人物
小式部内侍
和泉式部の娘。
母譲りの和歌の腕前ですでに定評がありました。
宮中で「歌合はせ」(歌会)が開かれることになり、小式部内侍も読み手の一人として選ばれました。
歌人にとって、歌会に呼ばれることは名誉であり、歌人としての実力を試される場となります。
定頼中納言
当時の彼の官位は中納言です。
これは、左右大臣や大納言に次ぐ要職で、彼が上級貴族だったことがわかります。
もちろん、和歌の腕前にも自信を持っていて、それを鼻にかけたのが小式部内侍をからかいます。
しかし、この軽はずみな行為のせいで彼の失態が後世まで語り継がれることとなりました。
和泉式部
このとき、和泉式部は京都におらず、夫の任地である丹後にいました。
作中で和泉式部が何かすることはありませんが、彼女の存在が「大江山の歌」の大前提となるので重要人物です。
「大江山の歌」のあらすじ
『十訓抄』という鎌倉時代に書かれた本に書かれている内容です。
母親である和泉式部が夫とともに丹後(京都府北部)に赴任していた時のこと。
娘である小式部内侍は和歌の大会(歌合はせ)に呼ばれました。
緊張しているであろう小式部内侍をからかってやろうと、定頼の中納言という貴族が
「丹後に派遣した使い者は帰ってきましたか?さぞや待ち遠しいでしょう」といいました。
母親の和泉式部の力を頼っているんだろう?といわんばかりの挑発です。
小式部内侍は「カチン」と来たのでしょう。言い捨てて去ろうとする中納言の服の裾をつかんで
「大江山 いくのの道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」
と即興で切り返したのです。
からかったつもりが、とんでもない歌を投げつけられた定頼の中納言。
ふつうは、これに対して何か返歌を返します。
しかし、歌のあまりの出来栄えに「やべぇ。どうしてこんなことが」などといって、尻尾を巻いて逃げてしまいました。
小式部内侍はこの出来事以来、歌人としての名声がより高まります。
「大江山の歌」に使われている技法
和歌の「採点」は、フィギュアスケートの採点に似ています。
どのような和歌の技法を使ったかという技術点と、和歌そのものが持つ芸術点とで評価されます。
まず、大江山と天の橋立は歌枕といって歌で読み上げるとポイントがあがる名所です。
次に、掛詞。
「いく」は行くと生、これに野を加えると、行く野で野原を行く、旅に出るというぐらいの意味。
生野は母のいる丹後に行く途中の地名。
「大江山を越えて生野を抜けて野を行く」ぐらいの意訳になります。
掛詞その2は「ふみ」。
「ふみ」は文と踏み。
ということは、母の文も見ていないし、私も足を踏み入れていないという訳です。
これでもか、これでもかというくらい技術点を積み重ね、歌枕を上手に使って情景を描き出す。
即興で作ったとは思えないくらいの名歌です。
だからこそ、この歌は百人一首にものっているのでしょうね。
ちなみに、高校の定期テストで一番聞かれるのはこの和歌の技法の部分ですよ!
大江山の歌以外にも、百人一首には優れた和歌がたくさんあります。
「大江山の歌」の教訓とは?
この話が収録されている『十訓抄』は教訓話をおさめた本です。
では、著者はこの話から何を教訓としたかったのでしょうか?
それは、「人を侮ってはいけない」ということです。
本来、定頼中納言も和歌の名手であり、小式部内侍の歌に気の利いた返しができたはずです。
しかし、彼は返すどころか一目散に逃げだしました。
反撃できるはずがないと侮って軽口をたたいたところ、思わぬ優れた歌を詠まれ、面食らってしまったのでしょう。
この話が広まると、小式部内侍の評判は一気に高まったといいます。
現代、小式部内侍が生きていたら、さぞかしエッジのきいたブログを書いてくれそうな気がしますね。
ちなみに、小式部内侍と同じ平安時代に活躍した女性に清少納言がいます。
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歌に詠まれた名勝「大江山」と「天橋立」
大江山
大江山は丹後半島の付け根にある山で、昔から雲海がみられる名勝として知られていました。
大江山はいくつもの峰からなる山の総称で、もっとも見晴らしがよい鍋塚からは若狭湾や丹後半島を見下ろすことができます。
天橋立
天橋立は宮津湾と内海である阿蘇海を隔てる全長3.6キロメートルの砂州です。
2021年には大学入学共通テストで出題されたことで話題になりましたね。
大江山や天橋立を含む丹後半島は風光明媚で食べ物もおいしい場所です。
若狭湾の海の幸を食べながら、古代に思いをはせるのもよいのではないでしょうか。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。