「松平氏とは?」
「家康の祖父の松平元康や父の松平広忠ってどんな人?」
「改名前の徳川家康(松平元康)は何をしていたの?」
このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。
松平氏は三河国(愛知県東部)の加茂郡松平郷を本拠地とした国人領主です。
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松平氏は7代目当主清康(家康の祖父)の時代に勢力を急拡大させ、西三河を征服しましたが、家臣の反逆にあい25歳の若さで殺されてしまいます。
清康の急死で当主となった広忠は10歳で8代目当主となりました。
しかし、幼かったこともあり広忠は家中の統制に苦労します。
西の織田氏と東の今川氏という二大勢力に挟まれた広忠は、嫡男竹千代(のちの徳川家康)を人質に出すことで今川氏の援助を得ました。
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竹千代は織田氏や今川氏の人質として幼少期を過ごします。
1560年の桶狭間の戦いでは今川方の一武将として参戦しました。
桶狭間で今川義元が戦死すると、今川氏の混乱に乗じて本拠地の岡崎城を今川氏から取り戻し独立します。
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その後、織田信長と同盟(清洲同盟)を結び、名を松平元康から松平家康に改名しました。
松平氏の始まり
松平氏とは?
三河国は現在の愛知県東部にあたる地域です。
徳川家康は将軍になる前、松平氏の家系図を作らせたのですが、確実に史料で存在が分かっているのが3代目の松平信光です。
松平信光は室町幕府の重要な役職を務めた伊勢氏の家来として京都で働いたことが記録に残っています。
もともと、三河国では一色氏が守護を務めていましたが、6代将軍足利義教と対立したため、三河守護の職を奪われてしまいました。
かわりに三河守護となった細川氏と結びつくことで、松平氏は強くなります。
松平氏の家紋とは?
徳川家の家紋といえば、水戸黄門にも登場する「丸に三つ葉葵」です。
家紋のもととなったのは「フタバアオイ」という植物です。
通常、フタバアオイの葉は名の通り二つなのですが、まれに三つ葉のフタバアオイが現れます。
それを図案化したのが「三つ葉葵」といってよいでしょう。
葵の家紋は京都の賀茂神社にゆかりがあります。
このことから、松平氏が賀茂氏と何らかのつながりを持っていたことがわかります。
西三河をまとめた徳川家康の祖父、松平清康
1523年、13歳で松平氏のあとを継いだ清康は、松平家の分家や有力な家臣たちと戦って勝利。
西三河を統一した清康は、東三河や奥三河の豪族たちも従わせ、ついに三河を統一します。
勢いに乗った清康は、美濃の斎藤道三と手を組んで尾張に攻め込みました。
尾張の守護代だった織田信秀(信長の父)は、守山城に立てこもります。
清康が守山城を包囲していた時、突然、家臣の一人だった阿部正豊によって殺されてしまいました(森山崩れ)。
殺されたとき、清康はまだ25歳。
まだまだ、将来の成長が見込めるときだったので、清康自身も無念だったでしょう。
なぜ、清康が殺されたかは謎の部分が多いです。
しかし、清康が死んで松平家がバラバラになってしまったことは間違いありません。
今川に従属した徳川家康の父、松平広忠
清康が突然死んだため、子供の広忠が松平家を継ぎました。
ところが、広忠はこの時10歳。
まだ、一家の主となるには若すぎました。
松平一族は、だれが指導権を握るかで内輪もめを始めます。
広忠は、一族の争いを治めることができず、駿河の今川氏を頼りました。
また、尾張の織田信秀がたびたび三河に攻め込んできたので、信秀との戦いにも明け暮れます。
信秀の攻撃はとても激しく、重要な城である三河安祥城を織田に奪われました。
岡崎城まで攻め込む勢いの織田軍と戦うため、広忠は今川氏の援軍を頼みます。
今川が出した条件が、広忠の子で、跡継ぎの竹千代(のちの、徳川家康)を人質に出すことでした。
単独で信秀と戦うことができない広忠は、今川の要求を受け入れるしかありません。
1548年、広忠は今川の援軍と一緒に、小豆坂で織田信秀と戦います。
今川が送ってきた援軍はなんと2万人。
圧倒的有利となった松平・今川連合軍は織田信秀に勝つことができました。
1549年、広忠は24歳で亡くなります。
はっきりしたことはわかっていませんが、家臣の岩松八弥に襲われて殺されたか、襲われた時の傷がもとで亡くなったかの可能性が高いようですね。
松平竹千代(松平元康)の独立
人質だった幼少時代
松平広忠と於大の方の子として生まれた竹千代は、松平氏の跡継ぎと見られていました。
広忠が、今川に援軍を求めると、援軍と引き換えに竹千代を人質として今川のところによこすよういわれます。
広忠は今川の要求に従い、竹千代を今川のもとに送り出しました。
ところが、旅の途中で戸田城主の戸田康光が松平広忠を裏切ります。
康光は、竹千代を手土産に織田信秀に寝返りました。
信秀は、竹千代を人質として広忠に今川と手を切ることを迫ります。
しかし、広忠は今川と手を切りませんでした。
結局、竹千代は2年間、織田の人質として過ごします。
1549年、広忠が岡崎城で亡くなりました。
今川義元は、捕まえていた織田信秀の一族と竹千代を交換することを申し出ます。
信秀も、交換を受け入れました。
これで、竹千代は今川の人質となり、駿府城に連れて行かれます。
松平氏の城だった岡崎城には今川の家臣が代官として入りました。
桶狭間の戦い
1555年、竹千代は成長し元服します。
このとき、竹千代は今川義元から「元」の字をもらい、松平元康となのりました。
元康は、今川家臣関口親永の娘である築山殿を妻としました。
1560年、今川義元は25,000の大軍を率いて京都に向けて進撃を開始します。
松平元康や三河衆は、今川軍の先鋒として織田軍の城や砦を攻撃しました。
今川の大軍を迎え撃った織田信長は、今川義元の本隊をピンポイントで攻撃!
義元を討ち取りました。
今川からの独立
今川義元が討ち取られたとの知らせを受けた松平元康は最前線の大高城から三河国大樹寺に撤退しました。
大樹寺に逃げ込んだ元康は戦況の悪化に絶望し、先祖の墓の前で自害しようとしました。
しかし、大樹寺の住職登誉天室は元康に「厭離穢土・欣求浄土」の教えを実現するため生き延びるべきだと説得されました。
自害を思いとどまった元康は大樹寺から巻き返しのチャンスを図ります。
そのうち、桶狭間の敗報が岡崎城にいた今川の代官の耳にも入ります。
身の危険を感じた代官は駿河に逃亡。
元康は今川の代官が逃げ去った岡崎城に入城し、ついに、自分の城を取り戻しました。
清洲同盟の締結と今川からの独立
岡崎城を取り戻した元康は、桶狭間の戦いの翌年である1561年に織田信長と和睦しました。
そして、信長との間に清洲同盟を結びます。
信長は北の美濃や西の伊勢への侵攻をはかり、元康は三河統一と東の遠江進出を目指しました。
後方の安全を確保した元康は、今川義元に由来する「元」の字を返上し、名を家康と改めました。攻守逆転した家康は、今川領を切り取るべく東へと進出を開始します。
さいごに
三河の国人に過ぎなかった松平氏は、松平清康の活躍で一気に領土を広げます。
しかし、清康は家臣に殺されました。
清康の子の広忠は、今川を頼って織田の攻撃を防ぎます。
広忠の子の竹千代(元康)は、織田と今川の人質となりながら、ひたすら耐えました。
桶狭間の戦い後、元康は家康と改名し、今川から独立。
織田信長と同盟して、今川氏を攻める立場になりました。
天下人となる家康ですが、若いころは苦労の連続だったのですね。