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早良親王、菅原道真、平将門、崇徳上皇。平安時代の日本に出現した「怨霊」と彼らを祀る「御霊信仰」とは

こんにちは、木彫りグマです。

 

今から1000年以上前の平安時代、今よりも人々にとって「死」は身近なものでした。

大災害や疫病が流行すると、あれよあれよという間に多くの人々が亡くなります。

 

科学が発達していない当時、人々は人智を超えた恐ろしい存在が人々に災厄をもたらすと考えました。

その一つが怨霊です。

無実の罪で追放・処刑され、非業の死を遂げた人々の霊が怨霊として祟ると信じられました。

 

朝廷は、怨霊を鎮めるため神泉苑で御霊会を開催。

その後も、彼らは御霊神社や北野天満宮神田明神白峯神宮などで神として祀られ崇敬されました。

 

今回は、早良親王菅原道真平将門崇徳上皇など怨霊とされた人々や、怨霊を祀る御霊信仰についてまとめます。

 

記事のまとめ

桓武天皇の弟である早良親王は、神として崇道神社などで祀られた

太宰府に左遷され、非業の死を遂げた道真は雷神として仇敵に報復。その後、北野天満宮にまつられた

平将門は首だけとなっても妖力を発揮。首が落ちた場所に首塚がつくられました。神田明神には将門が今も祀られる

保元の乱に敗れ、渾身の写経の受け取り拒否をされた崇徳上皇は皇室没落の呪いをかけ、崇徳上古の祟りを恐れた皇室は今も崇徳上皇をまつっている

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/2599305">ナン0730</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

 

怨霊とは何か(生霊と死霊)

 怨霊とは、激しい怨み(うらみ)をもって非業の死を遂げた人の霊魂(霊)のこと。

怨霊は、生きている人に禍をもたらすと考えられてきました。

 

日本を含む東アジア世界では、人間の肉体と霊魂は別々に存在すると考えられます。

それを表す言葉が「魂魄」です。

魂は精神的なものを、魄は肉体的なものをあらわしました。

 

ちなみに、生きているときに魂が肉体を離れ、なんらかの祟りを成す場合は「生霊」とよばれます。

 

一番わかりやすいのは、『源氏物語』に登場する六条の御息所でしょうね。

主人公である光源氏に対する強い想いと、光源氏とかかわる女性に対する激しい嫉妬・憎悪から、夜な夜な魂だけが肉体を抜け出し、相手の女性にたたりを成しました。

 

今回扱うのは、怨霊の中でも亡くなった人の魂である「死霊」の怨霊です。

 

 

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平安時代の怨霊たち

 平安時代より以前から、無念の思いを抱いて亡くなった人は現世の人々にたたりを成すという考え方があり、「怨霊」とされた人は結構います。

今回は、歴史上著名な4人の怨霊について紹介します。

 

無実の罪で断食抗議!流罪の途中で亡くなった早良親王

 早良親王奈良時代末期に、光仁天皇の皇子として生まれました。

早良親王桓武天皇と同じ高野新笠の子です。

 

天武天皇の血筋が優先された奈良時代天智天皇系である早良親王や父である白壁王は、皇位継承の確立が低いと考えられていました。

 

しかし、称徳天皇が子供のいない状態で亡くなると、天武天皇の血筋が絶えてしまいました。

そのため、朝廷の重臣たちは白壁王を光仁天皇として迎えることにしました。

これにより、早良親王は兄である山部親王についで、高い皇位継承権をもつことになります。

 

光仁天皇が亡くなり、山部親王桓武天皇として即位しました。

このとき、早良親王は皇太弟に建てられます。

 

早良親王の命運が暗転したのは785年。

長岡京建設の責任者だった藤原種継暗殺事件に連座し、早良親王は幽閉されてしまいます。

桓武天皇早良親王淡路国に流すと決定します。

身に覚えがない罪だったため、早良親王は抗議の断食をしました。

早良親王は流される途中、河内国高瀬橋の付近でこの世を恨みつつ亡くなりました。

 

その後、桓武天皇の近親者に不審死が相次ぎます。

それだけではなく、都では疫病が流行し、洪水が発生するなど天変地異が続きました。

桓武天皇や朝廷は早良親王が怨霊となったと考え、早良親王の霊を鎮めるため「崇道天皇」の称号を追贈しました。

 

 

政争に敗れ、大宰府で失意の生涯を閉じ、政敵に祟りを成した菅原道真

菅原道真平安時代初期の学者・貴族です。

宇多天皇に仕え、宇多天皇が行った寛平の治を支えました。

 

道真にスポットライトが当たるきっかけとなったのは、阿衡の紛議です。

即位したての宇多天皇重臣である藤原基経を関白に任じるとき、勅書の中に「宜しく阿衡を以って卿の任とせよ」との一文がありました。

 

基経はある学者から「阿衡」は名誉職である、実験がないと告げられれ、「それならば出仕の必要はない」として政治をボイコットしてしまいます。

 

このとき、基経に書簡を送り朝廷に出仕するよう諫めたのが菅原道真でした。

以来、道真は宇多天皇の側近として重用されるようになります。

 

菅原家は代々、学者の家柄でした。

しかし、高位高官に登る家柄ではなかったため、道真の出世を快く思わない貴族がいたとしても不思議はありません。

 

宇多天皇が引退し、天皇の位を息子の醍醐天皇に譲ると、道真は右大臣に昇進しました。

道真は醍醐天皇に引退を申し出ますが、醍醐天皇はこれを却下しました。

 

事態の変化は突然でした。

901年、醍醐天皇は道真が宇多天皇を惑わしたとして、突如、太宰府への流罪が決定。

道真の子たちも流刑とされます。

 

これは、左大臣藤原時平による陰謀とも、父以来の重臣である菅原道真を排除したがっていた醍醐天皇の意向とも伝えられますが、真偽は定かではありません。

 

太宰府に流された道真は、903年、失意の中でなくなります。

こののち、朝廷では異変が相次ぎました。

 

908年、道真の弟子で道真の無罪を醍醐天皇に訴えようとした宇多天皇を阻んだ藤原菅根が死去します。

死因は落雷でした。

 

909年、道真左遷の首謀者と考えられた藤原時平が39歳の若さで病死。

910年から連年、洪水や大火などの災害が京都を襲います。

さらに、913年には道真の後任として右大臣となった源光が死去します。

その後も、洪水や水ぼうそう渇水、洪水、せきの病などあらゆる災害が京都を襲いました。

 

極めつけは930年に起きた出来事。

この時、宮中の清涼殿では醍醐天皇臨席のもと、朝廷の会議(朝議)が行われていました。

議題は雨乞いの儀式を行うべきか否かです。

 

昼過ぎ、愛宕山の方から黒雲がわき平安京を覆います。

そして、清涼殿に落雷が落ちました。

 

大納言藤原清貫は衣服を焼かれ死亡。

右中弁内蔵頭の平希世は顔を焼かれ、ほどなく亡くなりました。

 

死の穢れを徹底的に排除しているはずの宮中で死者が出たことは、宮中を大混乱させます。

醍醐天皇は清涼殿から非難したものの、その時のショックがもとで3か月後に死去します。

 

これらの事件は、怨霊となった道真が雷神の姿となり雷を操っておこしたと考えられました。

恐れおののいた朝廷は947年に北野天満宮を創建し、道真を神として祀ります。

 

  

首だけになっても祟りはおさまらず!平将門の怨霊伝説

平将門平安時代中期の武将です。

関東で朝廷が送り込んでくる国司たちの非道に抵抗し、関東で独立国を築き上げようとしました。

平将門はみずから「新皇」と称し、独自の関東政府を樹立しようとはかったのです。

 

朝廷は「将門を討ち取ったら貴族にする」という破格のお触れを出して、将門討伐軍を募りました。

 

将門は940年に討伐軍との戦い敗れ、討ち取られてしまいました。

ここまでなら、歴史上、しばしばみられる反乱と討伐の物語。

しかし、ここからが将門の怨霊の本領発揮なのです。

 

討ち取られた将門の首は京都に運ばれ、七条河原町でさらし首にされました。

しかし、その首がいつまでたっても腐らない。

そればかりか、何か月も目を見開いていたとか、歯ぎしりをしていたとか、怪異譚が続きました。

 

そして、ついには首が関東に向けて飛び去ります。

将門の首は、故郷の下総国(千葉県の一部)にたどり着いたとも、途中で力尽き落下したともいいます。

落下したとされる場所には将門の首塚がつくられました。

 

もっとも有名な首塚は東京にある将門塚。

東京都千代田区大手町にある将門の首を祀ったとされる首塚のことです。

 

関東大震災後、東京の再開発が進められていた時に首塚周辺に大蔵省の仮庁舎を建てようとしました。

その後、時の大蔵大臣の不審死などが将門の祟りと恐れられ、大蔵省仮庁舎を取り壊しています。

 

また、第二次世界大戦後にGHQ首塚周辺を整地しようとしたところ事故が相次いだことから、区画整理事業を中止したといったことが伝えられています。

 

 

明治以降の皇室をも恐れさせ、今なお崇敬される崇徳上皇 

崇徳上皇平安時代末期の人物で、朝廷の最高権力者である「治天の君」の座を後白河天皇と争いました。

保元の乱で敗れた崇徳上皇は、四国の讃岐(香川県)に配流されます。

 

配流された崇徳上皇は、権力争いからすっかり離れ、仏教を深く信仰。

当時の流行であった浄土の教えに帰依し極楽往生を願いました。

 

崇徳上皇は、極楽往生するため五部大蔵経の筆写をおこないます。

崇徳上皇は五部大蔵経を京都の寺院に納めてほしいと贈りましたが、後白河上皇崇徳上皇の呪詛が込められているのではないかと疑い、写経を送り返します。

 

このことに怒った崇徳上皇は「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」と本当の呪詛を写経に書き込みました。

 

崇徳上皇の呪詛が聞いたかのように、12世紀後半は動乱の時代となります。

後白河上皇の近縁者が相次いで亡くなり、平清盛後白河上皇を幽閉するなどそれまでの社会秩序が大きく乱れました。

 

あまりに凶事が多くなったので、それらは崇徳上皇の祟りではないかと疑われます。

後白河上皇は1184年に崇徳上皇を朝敵とした処分を撤回。

崇徳院の称号を追贈しました。 

 

怨霊を「祀る」ことで祟りを鎮めようとした御霊信仰

日本において、祟りを成す強大な存在にたいしては、一つの遇し方がありました。

それが、神として祀ること。

神として祀ることで、怨霊から守り神に変えようとしたのでしょう。

そうすることで、怨霊を御霊にして、味方につけようとします。

 

日本国の大魔縁となり、天皇家を没落させると宣言した崇徳上皇は、神として祀られることで四国の守護神となりました。

平将門は、首塚神田明神で祀られ関東の守護神となります。

 

菅原道真に至っては、雷神を統べる天神、かつ学問の神となって全国各地に天満宮が建てられるようになりました。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/1596274">コロ助</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

怨霊となった人物たちとかかわり深い神社

 

怨霊となった人物たちは、崇道神社や北野天満宮神田明神白峯神宮に神として祀られます。

 

崇道神社

早良親王を祀った神社は、京都市左京区上高野にある崇道神社です。

社伝によれば、神社は早良親王の霊を鎮めるため貞観年間(9世紀半ば)に創建されました。

境内からは小野妹子の子である小野毛人墓誌が見つかり、国宝に指定されます。

 

もともと、この神社の敷地は小野氏にゆかりがある土地だったので、神社が建てられる前に小野氏の墓があったからでしょう。

 

北野天満宮

北野天満宮京都市上京区にたてられました。

道真の怨霊を鎮めるため建てられた北野天満宮では菅原道真と子の菅原高視が祀られています。

 

987年、一条天皇は勅旨を派遣し「北野天満宮天神」の称号を贈りました。

北野天満宮室町幕府の崇敬も受けましたが、室町時代後期の戦乱で焼け落ち、一時衰退します。

 

1587年、豊臣秀吉北野天満宮の境内で「北野の大茶会(北野大茶湯)を開催。

その後、1607年に現在の社殿が造営されました。

 

江戸時代以降、道真は怨霊・雷神としてというより、学問の神として祀られるようになります。

 

神田明神

神田明神は、大己貴命少彦名命とともに平将門を祀った神社です。

平将門の乱が静まっても、関東の人々の心には将門を崇敬する気持ちがあったようで、人々の信仰の対象となりました。

 

14世紀初頭に疫病が流行した時、これは将門の祟りだということになり、将門への供養が実行され、1309年に神田明神で祀られるようになりました。

 

江戸時代初期、神田明神は現在地に移転し、江戸総鎮守として江戸の人々に信仰されます。

関東大震災で焼失後、1934年に鉄筋コンクリート製で再建されます。

東京大空襲でも奇跡的に焼失を免れました。

 

明治時代に、将門は祭神から外されましたが、戦後に神田明神の祭神として復活します。

 

白峯神宮

京都市上京区にある白峯神社は、明治時代に創建された神社で都を追放された崇徳上皇を祀っています。

 

崇徳上皇を祀ったのは明治天皇です。

もともとは、明治天皇の父である孝明天皇崇徳上皇の御霊を京都に迎えようとしていたのを、明治天皇が実行したものですね。

 

皇室にとって、崇徳上皇の存在は没後800年たっても注意を払う対象でした。

1964年、昭和天皇香川県坂出市にある崇徳天皇陵に勅旨を派遣し、式年祭を執り行わせます。

崇徳上皇の呪詛が現実のものとならないよう、怨霊を鎮めたかったのでしょうね。

 

 

さいごに

早良親王菅原道真平将門崇徳上皇

いずれも非業の死を遂げた人々には、生きている人々を呪詛するしかるべき理由があったのでしょう。

 

しかし、彼らに祟られていると思った人たちは、それぞれに心当たりがあったのかもしれません。

何かの不幸があれば、自分のかつての所業を思い出したのかもしれません。

 

願わくば、怨霊に祟られない人生を歩みたいものですね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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