「扇の的ってどんな話?」
「扇の的の主人公、那須与一はどんな人?」
「扇の的のあらすじや登場人物の心情について知りたい!」
このページをご覧の方はそのようなことをお考えなのではないでしょうか。
「扇の的」は鎌倉時代に成立したと考えられる『平家物語』の一節です。
『平家物語』の第十一巻の「那須与一」と「弓流」の部分が古典の教材として取り上げられてきました。
源平合戦の一つである屋島の戦いでの那須与一の活躍を描いたのが「扇の的」です。
今回は「扇の的」の登場人物や屋島の戦いの内容、登場人物の心情などについてまとめます。
この記事で分かること
・登場人物のプロフィール
・屋島の戦いの大まかな内容
・「扇の的」のあらすじ
・登場人物の心情
扇の的の登場人物
那須与一(なすのよいち)
名は宗高といいます。
竿に旭日の扇を掲げて漕ぎ出した平家の小舟を見た義経が、与一に命じて竿の先端にある扇を射落とします。
源平合戦が終わってから、那須与一は扇の的を射落とした功績で諸国に5つの荘園を得たとされます。
源義経
源義経は鎌倉幕府初代将軍となった源頼朝の弟で幼名は牛若丸といいます。
平治の乱で父の源義朝が殺されると、京都近郊の鞍馬寺に預けられました。
藤原秀衡をはじめとする奥州藤原氏について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!
1180年、頼朝が挙兵すると義経は兄のもとに駆け付けともに平氏打倒を目指します。
1183年、先に入京していた源義仲(木曽義仲)と後白河法皇の関係が悪化すると、法皇は頼朝に義仲追討を命じます。
法皇の求めに応じた頼朝は、義経らに木曽義仲の追討を命じました。
木曽義仲の最期について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
京都に入った義経は、引き続き平家と戦います。
一の谷の戦いのさなかにおきたの「敦盛の最期」の悲劇でした。
敦盛の最期について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
その後、義経は兄の頼朝と対立、再び奥州に逃れますが、頼朝の威を恐れた藤原泰衡によって攻め滅ぼされました。
伊勢三郎義盛
伊勢三郎義盛は源義経の郎党で、義経四天王の一人に数え上げられます。
壇ノ浦の戦いでは平氏の総大将平宗盛と子の平清宗をとらえました。
終生、義経に忠実な人物で頼朝と義経が対立した時も義経に従い奥州に向かおうとしました。
しかし、船が流され義経と離れ離れになり、鈴鹿山でとらえられ斬首されました。
義経の伝記である『義経記』では、衣川で義経と最後まで戦ったと描かれます。
「扇の的」では、平氏の老武将を射るのをためらう那須与一に「義経の命令だ」として老武将を射させます。
年が五十歳くらいの男
那須与一が扇の的を射落としたとき、その見事さに感嘆し戦場で舞い踊った老武士。
はじめ、与一は射ることをためらいますが、伊勢三郎義盛から「義経の命令だ」といわれ、やむなく、老武士を射殺します。
屋島の戦いとは
屋島の戦いは源平合戦とよばれた治承寿永の乱の戦いの一つです。
平氏は屋島を根拠地に瀬戸内海の制海権を握っていたため、源氏の西上作戦はうまくいきませんでした。
事態を打開するため、義経は梶原景時らの反対を押し切って暴風雨の中、少数部隊だけで四国に上陸します。
源氏が四国にわたってきていると思っていなかった屋島の平氏を奇襲攻撃。
平氏を屋島から追い払ったことで、瀬戸内海の制海権は源氏に移ります。
「扇の的」のあらすじ
「扇の的」の直前の様子
「扇の的」は屋島の戦いの勝敗がほぼ決し、平氏の軍勢が海に逃れ義経率いる源氏が波打ち際まで押し寄せているときの場面です。
海に逃れた平氏の軍船から、1隻の小舟が波打ち際に近づいてきます。
小舟には日の丸の扇が掲げられており、美しい女が手招きしていました。
それを見た義経は側近を呼び「どういう意味だと思う?」と尋ねると、側近は「射よ、という意味でしょう。義経様が自ら出ていけば狙撃される可能性があるので、別のものに射落とさせるべきです。」と助言します。
「扇の的」のあらすじ
矢の射程距離から遠かったので、与一は海に馬を乗り入れます。
その日は冬の2月18日で与一にとって向かい風の北風が強く、波も荒いものでした。
海には平氏の軍船、陸には源氏の騎馬武者たちが並び、晴れがましい様子です。
与一は「南無八幡大菩薩、生まれ故郷の神の日光権現、宇都宮大神、那須の温泉大明神よ、どうかあの日の丸の扇の真ん中を私に射させてください。これを射そこねたら私は自害する覚悟です。
私をもう一度生まれ故郷に返して下さるお気持ちがあれば、この矢を外させないでください。」と神や仏に祈りました。
与一は矢を射やすいタイミングを待って「ひょう!」と矢を放ちます。
矢は扇の要から3センチほどのところに見事に命中!。
矢は海中に落ち、扇は空に舞い上がって、そのまま海に落ち波間に漂いました。
これをみた平氏の老武将があまりの素晴らしさに感動して舞い始めます。
義経側近の伊勢三郎義盛は、与一に近づき、「義経様のご命令だ。あのものも仕留めよ」と伝えました。
与一は迷いますが、老武将の首の骨を射ぬき射倒します。
平氏の者たちは静まり返り、源氏の者たちはえびらを叩いてどよめきました。
「あ、射落とした」という者もいれば、「”情け”のないことをするものだ」という者もいたといいます。
登場人物の心情
「扇の的」は登場人物や見ている人々の心情に注目する作品です。
それぞれ、どのような気持ちをしていたのか読み解いてみましょう。
那須与一
はじめ、与一は義経の命令を断ります。
しかし、それが許されず仕方なく波打ち際までやってきました。
とはいえ、一度引き受けた以上は断れないのが鎌倉時代の武士。
与一は覚悟を決めて的を射抜こうとします。
与一は目を閉じ、神仏に的を射抜かせてほしいと願います。
神仏に祈る与一からは緊張と必死さが伝わります。
的に当てて一息付けたのもつかの間、今度は踊る老武士を射よと命じられます。
伊勢三郎義盛から義経の命令を聞いた与一は、戦い用の中差の矢を老武士の喉元めがけて放ちました。
戦い用の中差の矢を放ったことから、与一は老武士を打ち取るつもりだったことがわかります。
本文だけからは、与一の心情はわかりません。
しかし、戦い用の矢を放ったことから、与一が覚悟を決めて矢を放ったことがわかります。
一度ならず二度までも素晴らしい弓の腕前を見せた与一に、源氏の武士たちは箙を叩いてどよめきました。
源義経
義経は源氏の大将という立場にいました。
屋島の合戦ではかったものの、平氏の挑発ともいえる「扇の的」は是非とも射抜かせなければなりませんでした。
戦いに勝っても「なめられた」とあっては、源氏の面目丸つぶれです。
ただ、平治の乱後に山中や東北で育った義経には、平氏のもつ都人の雅(みやび)に対する関心が薄かったのかもしれません。
老武士の踊りを見ても、ほめたたえているというより、何やら挑発めいた行動に見えたのではないでしょうか。
平氏の老武士
都を長く支配した平氏の武士たちは、都独特の雅さを愛でる感性を持っていました。
那須与一の神業ともいえる弓の腕前に対し、敬意を表し舞い踊ったのでしょう。
ですから、彼に挑発の意思はなく、本文の通り、面白さ(興趣)のあまり、自らも芸でお返しをしたくなってしまったのでしょう。
その彼を与一が殺してしまったので、平氏がたは「源氏の田舎者はもののあわれ(情)がわからない」と思ったのかもしれません。
まとめ
「扇の的」は、『平家物語』の一節です。
主人公は那須与一で、彼が「扇の的」を射抜く物語でした。
この話は単なる武勇伝ではなく、源氏と平氏の違いや「情」について考えさせられる物語です。
試験では与一の心情についてよく聞かれるので、しっかり確認しましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。