「松平定信ってどんな人?」
「松平定信って何した人?」
「松平定信の有名な子孫は?」
このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。
松平定信は徳川将軍家に準ずる家柄「御三卿」の田安家に生まれました。
その後、白河藩松平家に養子に出され、白河藩主となり、天明の飢饉の被害を最小限に食い止めました。
1787年、定信は御三家の推挙を受け老中首座に就任。
いわゆる「寛政の改革」を実行します。
しかし、11代将軍徳川家斉の方針とあわず、老中を辞任。
1829年、70歳で江戸で亡くなりました。
今回は寛政の改革を行った松平定信のしたことや定信に関するエピソードなどを紹介します。
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松平定信ってどんな人?
1759年、田安宗武の子として生まれました。
田安家は御三家に準ずるとされた御三卿の家柄で、田安宗武は8代将軍吉宗の子であり、定信自身は吉宗の孫にあたります。
17歳のころ、定信は白河藩に養子に出されました。
後年、定信は田沼意次の画策で自分は白河藩に養子に出されたと自伝に書いています。
1783年に天明の飢饉が発生すると、白河藩でも極度の食料不足に陥りました。
東北地方各地では江戸に米を送ることに反対する打ちこわしが頻発するなど、不安定ない情勢となります。
定信は会津藩から米を買い入れるなどして、凶作に対応しました。
御三家の推挙で定信が老中首座となり幕政を主導することになりました。
定信は田沼系の人物を一掃し、吉宗時代を手本とする寛政の改革を始めます。
定信に課せられた責務は幕府財政の立て直しでした。
彼は倹約による緊縮財政を実施しつつ、荒廃した農村を復興させるため旧里帰農令を発布。
江戸に出てきていた農民たちを農村に返すことで、財政基盤である農村の復興を果たそうとしました。
他にも関東地方で商業振興を図ることや飢饉対策としての囲米の実施、人足寄場の設置などの社会政策も実行します。
しかし、マジメな性格の定信の政治は非常に厳格で、多くの人は窮屈さを感じました。
それは、11代将軍の家斉とて例外ではありません。
結局、定信は朝廷対応などで家斉と意見が合わず、老中を辞任しました。
松平定信がしたこととは?
寛政の改革
田沼時代の商業重視の政策を改め、祖父吉宗にならった農業重視の政策を実行しました。
また、囲米の制度や人足寄場の設置などの社会政策を実施するなど農業・財政以外の取り組みも見られました。
旧里帰農令
定信が老中になる少し前、天明の大飢饉が関東や東北地方を襲いました。
この影響で農村は荒廃し、食いっぱぐれた農民たちが江戸に集まります。
彼らを農村に戻すことで農民を増やし、荒れた土地を耕させようと考えました。
帰農する農民たちには援助金を与えます。
囲米の制度と人足寄場の設置
囲米は飢饉に備えて食料を備蓄させる制度です。
現代と違い、江戸時代に災害が発生すると人々は個人の蓄えでしのぐしかありませんでした。
そこで、飢饉に備えて食料を備蓄させ餓死者を減らそうと考えたのです。
また、人足寄場とは江戸に流入してきた無宿人を収容し、職業訓練を施す施設です。
無宿人を痛めつけたり、逮捕するのではなく、教育を施して社会復帰させるというのはそれまでにない画期的な考え方でした。
ちなみに、人足寄場の設置を定信に進言し実現させたのは「鬼平」こと長谷川平蔵でした。
朱子学の尊重
定信は幕府お抱えの儒学者林家の家塾である聖堂学問所で朱子学以外の学問を教えることを禁止しました。
定信が朱子学を重視したのは、朱子学が上下の身分秩序を重んじる「大義名分論」を中心としていたからです。
同じ儒学者でも陽明学は身分秩序よりも現実の改革を重視しました。
のちに、陽明学者である大塩平八郎は幕府の政治を批判し反乱を起こします。
定信は秩序重視の朱子学を尊重することで幕府の支配を固めようと考えたのでしょう。
定信の引退後、聖堂学問所は幕府直轄とされ、名を昌平坂学問所と改めます。
倹約令と棄捐令
倹約令とは、質素倹約により節約せいという命令で出費の削減が目的でした。
定信の時代、幕府の財政は傾いており、支出を減らすのは当然のことだったでしょう。
もう一つの棄捐令(きえんれい)というのは、旗本・御家人の困窮を救うため、札差とよばれた金貸したちに借金の帳消しを命じたものでした。
借金を取り消され大損した札差に対し、幕府は低金利で融資することで彼らの仕事を続けさせます。
エピソード
田沼意次と仲が悪い
松平定信といえば、田沼意次と対立していたイメージが強いかもしれません。
田沼意次は9代将軍家重と10代将軍家治に仕え、老中として政治を動かしました。
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定信と田沼の仲が悪かった理由は2つあります。
1つは、定信が白河藩に養子に出される件で、田沼が関与していたと定信が考えていたからです。
定信が生まれた田安家は将軍家にもしものことがあった時に、将軍を出す家柄として吉宗が作りました。
定信の兄は病気がちで、もし、兄が死ねば定信が田安家の当主になり、有力な将軍後継候補となったでしょう。
実際、兄が死に田安家の当主が空席になった時には養子縁組を解消する動きが出ます。
しかし、縁組解消の許可は下りず、田安家は当主不在のまま、定信は白河藩に出されました。
こうして、定信が将軍になる可能性が消滅してしまったのです。
田沼を恨んだとしても全く不思議ではないでしょう。
もう1つは、政策の違いです。
田沼は商業中心の政策を実行し、幕府の収入を増やそうとしました。
しかし、そのせいで拝金主義の風潮が強まり、賄賂政治が横行したとされます。
一方、定信は8代将軍吉宗時代の農業重視の政治を行いました。
役人の綱紀粛正も行い、賄賂をなくそうとします。
こうした政策面での違いも彼らが不仲だった理由でしょう。
ただ、賄賂については定信自身が田沼に贈っていることがわかっています。
それを考えると、倫理面だけではなく、政策面の違いもあると考えるべきではないでしょうか。
超マジメな性格
定信は幼いころから読書好きでした。
そして、12歳になると『自教鑑』という本を自分で書きました。
内容は人が守るべきモラルや政治の理想など。
とても、12歳の子供が書いたとは思えない内容でした。
子どものころからモラル第一の超マジメ人間として育ったので、寛政の改革では武士だけではなく町人たちにも「マジメ」を求めてしまいます。
「マジメ」の具体例は、性風俗に言及した本の出版社・作者の処罰や、幕府に批判的な本の著者の処罰などでした。
堅苦しい生活にうんざりした町人たちは
「白河の 清きに魚の すみかねて 元の濁りの 田沼恋しき」
と田沼時代を懐かしみました。
鬼平は使い捨て
鬼平とは、池波正太郎原作の『鬼平犯科帳』の主人公、鬼の平蔵こと長谷川平蔵宣以(のぶため)のことです。
鬼平は火付盗賊改め方のトップとして江戸の治安維持に努めていました。
若いころ、鬼平は放蕩三昧を繰り返し、父が蓄えた財産もすべて使い切ってしまいます。
しかし、この放蕩三昧の生活で庶民と苦楽を共にした経験が、のちの彼にとって大きな財産となります。
田沼時代に彼は順調に昇進します。
そして、1787年に彼は火付盗賊改め方に任じられました。
鬼平は定信に人足寄場の設置を進言し、実現にこぎつけます。
しかし、定信は鬼平のことを著書『宇下人言』で「長谷川某」とよぶなど、嫌っていたようです。
それは、彼の手法が「マジメ」な定信に容認しがたいものだったからでしょう。
定信の不興を買ってしまった鬼平は火付盗賊改め方から出世できず、その役から引退した直後に病死します。
鬼平は定信に使い捨てにされたといってもよいかもしれませんね。
定信の有名な子孫
真田幸貫
真田幸貫は定信と側室の間に生まれた子でした。
1815年に幸貫は信州松代藩の真田家に養子に出され、1823年に家督を相続します。
天保の改革では老中の一員となって幕政改革に努めました。
また、人材育成にも力を入れ佐久間象山に洋楽研究をさせました。
のちに佐久間象山は幕末きっての知識人として強い影響力を発揮します。
さらに、殖産興業や産業振興、藩校の開設など松代藩の基盤強化に努めました。
1852年、幸貫は家督を孫に譲り、同年に亡くなります。
板倉勝静
板倉勝静(かつきよ)は白河藩主の松平定永の子で、定信の孫にあたります。
彼は養子に出されて備中松山藩を相続しました。
藩の財政を好転させ、軍備増強に努めました。
藩政改革の成功が幕府に評価され、1857年に寺社奉行に抜擢されます。
しかし、安政の大獄では寛大な処置を行ったため大老井伊直弼の怒りを買い、寺社奉行を罷免されました。
その後、老中に昇進しました。
戊辰戦争では勝静は宇都宮城に軟禁されていたところを大鳥圭介・土方歳三らに救出されます。
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しかし、備中松山藩はそれ以前に新政府に降伏しており、藩主の勝静が戦い続けることでとばっちりを受ける可能性がありました。
そこで、山田方谷は勝静を連れ戻させ、新政府に自首させます。
自首した勝静は禁固刑に処せられましたが、1872年に恩赦で釈放されました。
晩年、勝静は上野東照宮の神官を務めたり、第八十六銀行(現在の中国銀行)の設立に携わるなどします。
そして、1889年に東京で亡くなりました。
まとめ
10代将軍家治が死去すると、定信は白河藩主としての実績を買われ老中首座に就任。
寛政の改革を実施します。
しかし、生真面目すぎる定信は11代将軍徳川家斉と意見が合わなくなり、老中を辞任してしまいました。
田沼や田沼が抜擢した長谷川平蔵のことは嫌っていたようです。
最後までお読みいただきありがとうございました。