「『四面楚歌』ってどういう意味?」
「『四面楚歌』の故事に登場する人物(馬)は?」
「漢文の『四面楚歌』のあらすじは?」
このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。
四面楚歌とは、周りに味方がいなくて孤立していること。
司馬遷が書いた歴史書『史記』に記されている項羽にまつわる物語です。
周囲に味方がいないと悟った項羽は、愛妾虞美人と最後の宴を催します。
そして名詩「抜山蓋世」を朗詠しました。
この場面の後、項羽は圧倒的多数の漢軍に突撃し、壮絶な最期を遂げます。
今回は『四面楚歌』の意味や『四面楚歌』の故事に登場する人物、『四面楚歌』のあらすじなどについてまとめます。
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故事成語「四面楚歌」
「四面楚歌」の意味
四面楚歌の意味は、
敵に囲まれて孤立し、助けがないこと。周囲の者が反対者ばかりであること。
周囲に味方がおらず、完全に孤立しピンチに陥っていることを表す言葉です。
「四面楚歌」の用例
反信長包囲網の結成により、信長は四面楚歌の状況となった。
彼を擁護する声はなく、孤立無援で四面楚歌であった。
彼女は四面楚歌の中にあり、いつ責められてもおかしくなかった。
「四面楚歌」の登場人物(馬も)
項羽(こうう)
秦の時代の末期に生まれた人物。
叔父の項梁とともに秦を打倒するために挙兵し、その王族の子孫を楚王にしました。
のちに漢を建国する劉邦は項羽と同じく楚王の配下として秦打倒の戦いに参加します。
そして、項羽と劉邦はともに秦の本国に攻め込み、秦を滅ぼしました。
項羽のライバルである劉邦について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
その後、項羽は楚王を追放し西楚の覇王と自称します。
挙兵して項羽と激戦を繰り広げました。
圧倒的強さを誇る項羽と、連戦連敗しても立ち上がり続ける劉邦。
いつ果てるともない戦いは、劉邦の家臣たち、韓信、蕭何、張良らの活躍により劉邦が優位になります。
項羽と劉邦の戦いを描いた不朽の名作といえば、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』ではないでしょうか。
大学入試センター試験にも出題されたほど有名な小説です。
横山光輝といえば「三国志」が有名ですが、こちらもなかなか面白い作品です。
ぜひ、読んでみてください!
最終的に、項羽は漢軍との乱戦の中で命を落としました。
享年30歳。
虞美人(ぐびじん)
項羽が熱烈に愛し、戦場まで伴った美女。
姓が「虞」というのはわかっていますが、名は不明です。
美人というのは宮中での女性の地位をしめすことばなので、名前ではありません。
漢軍の謀略にかかり、垓下に追い詰められた項羽。
その傍らには常に寵愛する虞美人の姿がありました。
舞い終えた虞美人は項羽に「大王がいなければ、私はどう生きたらよいのでしょう」という内容の返歌を贈ったといいます。
『史記』は、虞美人がその後どうなったか伝えていません。
虞美人は戦火を生き延びたとも、自殺したともいわれていますが定かではありません。
ちなみにヒナゲシの別名である「虞美人草」は虞美人の自殺後、墓の近くに咲いたことに由来します。
騅(すい)
騅は項羽の愛馬です。
この馬にまたがり、項羽は5年余にわたって戦い続けました。
騅の字には葦毛という意味がありますので、この馬も葦毛だった可能性が高いですね。
『史記』によると、項羽は185cm越えの大男だったといいます。
しかも、筋骨隆々のたくましい体で怪力無双でした。
そんな人間を5年にわたって乗せ続けた騅は並外れた馬だったのでしょう。
まるで、呂布や関羽を乗せた赤兎馬やマンガ『北斗の拳』でラオウを乗せた黒王号をイメージさせます。
「四面楚歌」のあらすじ
漢軍に敗れ追い詰められる項羽
項王(項羽)の軍は垓下に立て籠もりました。
配下の兵は(敗戦により)少なくなっており、食料は底をつきます。
漢の軍勢や漢に味方する諸侯の兵が垓下を幾重にも包囲しました。
周囲から聞こえる故郷「楚」の歌
夜、包囲している漢軍から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきました。
項羽はこれを聞いて大いに驚きます。
「漢は既に楚を占領したのか。(包囲軍の中に)なんと楚の人が多いのだろう」
これは、漢の軍師張良による策略でした。
張良は兵たちに楚のなまりを教え、楚人に成りすまして歌を歌わせたのです。
かつて、項羽は十倍以上の漢軍と戦い勝利したことがあります。
張良は項羽や彼の配下の心を折ることで勝利を確実にしようとしたのでしょう。
実際、項羽は「四面楚歌」にショックを受けてしまいます。
彼は天下がすべて敵にまわっても、故郷の楚の人々だけは自分を受け入れてくれると考えていたのかもしれません。
愛妾虞美人との最後の宴
「四面楚歌」を聞いた項羽は、自分の天幕で最後の宴を催します。
ここで『史記』は虞美人と騅を紹介します。
虞美人と騅は常に項羽に付き従ってきました。
それは、項羽の「抜山蓋世」の詩に彼女たちが登場するからでしょう。
項羽は「悲歌慷慨」し、大きな声で詩をうたいあげます。
名詩「抜山蓋世」
力抜山兮気蓋世(力は山を抜き、気は世を覆う)
時不利兮騅不逝(時利あらず、騅ゆかず)
騅不逝兮可奈何(騅のゆかざる、いかんすべし)
虞兮虞兮奈若何(虞や、虞や、なんじをいかんせん)
力は山を引き抜くほどであり、気概は世を覆いつくすほどだった
しかし、時節は自分に不利となった。そして、愛馬の騅すら動かなくなった
騅が動かないのに、どうしたらよいのだろう
虞よ、虞よ、お前をどうしてよいのかわからない
圧倒的不利な状況で項羽は自らの死を悟ったのでしょう。
そして、虞美人に想いを遺してしまい、自分の気持ちの行き場がなくなってしまったのかもしれません。
まとめ
四面楚歌は周りに味方が誰一人いなくなってしまうことでした。
一時は覇者として中国大陸に君臨した項羽も、垓下に追い詰められ「四面楚歌」の計略を受けた時には配下は800人まで減っていました。
天に見放された自分、遺していく虞美人。
様々な思いを込めて抜山蓋世の詩を読んだことでしょう。
このあと、項羽は漢軍に最後の突撃を敢行します。
項羽の死については、また別の機会にしましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。