「惣村って何?」
「自治的な村ってどういう意味?」
「惣村と土一揆の関係は?」
このページを訪れた皆さんは、こういう疑問を持っているかもしれません。
惣村とは、室町時代を中心に農村にできた村組織のことです。
惣村の「惣」はすべてといういみです。お惣菜の惣と同じ意味ですね。
惣村は支配者である荘園領主や国司、守護大名とある時は交渉し、ある時は従い、ある時は争いながら自分たちの村の自治を守ります。
やがて、惣村どうしが結びつき惣荘・惣郷が形成されます。
彼らは支配者に対して団結し、土一揆などで領主に抵抗しました。
今回は惣村について元予備校講師がわかりやすく解説します。
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惣村とは?
惣村とは中世の農民が作り上げた自治的な村・共同組織です。
惣村の力が強まったのは室町時代でした。
古代から続く荘園制度が武士の台頭や南北朝の動乱などによって崩壊し、領主の支配力が弱まると各地の農民たちは村の自衛や共同作業の実施のためにまとまるようになります。
それが、惣村です。
惣村では神社の儀礼を共同で行うことや入会地(いりあいち)とよばれる共同利用地の管理、村を略奪から守るための自衛活動、領主や国人からの不当な収奪に対する抵抗などが行われました。
惣村はいつから?できたのは鎌倉末期から室町初期?
惣村ができたのは鎌倉時代後期から室町時代前期にかけてと考えられています。
このころ、鎌倉幕府の支配体制がゆらぎ、日本全体が南北朝の動乱に巻き込まれていました。
かつて存在していた荘園制度はなし崩し的に崩壊し、かわって実力による地方支配が進みつつありました。
農民たちは自らの身を守るため武装して団結する必要に迫られます。
彼らは自分たちの村を守るだけではなく、近隣の惣村と共同して惣荘や惣郷などのより大規模なまとまりを形成しました。
団結することで力を持った彼らは、土一揆や徳政一揆をおこします。
惣村の特徴
惣村の指導者
惣村村の指導者は地侍でした。彼らはおとな(長・乙名)、沙汰人などとよばれます。
地侍は守護大名と主従関係を結び侍の身分を獲得した上層農民のことです。
もともと、荘園領主の系統をくむ国人に比べると、より農民に近い存在だといえます。
村の政治は寄合で決める
村の政治は寄合で決められました。寄合は惣村のなかにある村の鎮守の神社で話し合われます。
この中で、村の様々なことが決められました。
惣村のルール(惣掟・地下掟)と地下検断
惣村のルールを惣掟といいます。惣掟は地下掟・村掟ともいいます。
地下は「じげ」とよみます。平安時代、地下は天皇の御殿である清涼殿に上がることができない中・下級官僚を指す言葉でした。
鎌倉時代や室町時代になると、地下は庶民を指す言葉として定着します。
現在使われる言葉でいえば、「しもじも」や一般人に近いニュアンスですね。
地下の掟、つまり、一般人である惣村の村人が守るべきルールという意味で惣掟や地下掟と呼ばれるようになりました。
惣掟には違反者は惣村から追放されるという規定がされます。
惣村では、村人は惣掟のルールに従うことが求められ、違反者にはペナルティが課されました。
惣村の構成員が違反者に追放などのペナルティを課すなど自ら検断(逮捕・裁判すること)することを地下検断といいます。
惣村が年貢を請け負う「地下請」
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奈良時代や平安時代の朝廷は農民個々人に土地を与え、租庸調などの税を取り立てていました。
この仕組みは平安時代後半には崩壊してしまいます。
室町時代になり惣村が発達すると、荘園領主や国司は年貢の徴収を自治組織である惣に委ねるようになります。
惣は決められた年貢を納めるかわりに、惣村内部での自治を強めました。
税を払う代わりに、口出しをさせないようにしたといってもよいでしょう。
地下請が広まるにつれ、荘園領主や国司の農村に対する支配力は弱まり、惣村の力が強くなっていきました。
惣村が行った団体行動
引用:お百姓さんイラスト - No: 1143522/無料イラストなら「イラストAC」
惣荘・惣郷の結成
惣村の力が強まると、近隣の惣村が結びつくようになりました。
荘園内での惣村の連合を惣荘、国司の支配地である公領の惣村の連合を惣郷といいます。
惣荘・惣郷は荘園領主や国司に対し、年貢の減免、荘官の免職、債務の減免などを要求しました。
こうした要求が受け入れられないときは、土一揆などを起こして領主に抵抗しました。
一揆の結成
室町時代は惣村が発達したことにより農民が団結した時代です。
彼らは利害が一致せず圧迫を加えるような領主に対し一致団結して一揆をおこします。
室町時代に起きた代表的な土一揆
1428年:正長の徳政一揆
近江国(現在の滋賀県)で馬借とよばれる運送業者たちが借金の帳消しなどを行う「徳政」を要求して一揆をおこしました。
近江坂本で起きた土一揆は現在の京都府にあたる山城国を始め、畿内一帯に広がります。
一揆勢は各地で高利貸しを営む土倉や酒屋、寺院を襲撃し勝手に借金を帳消しにする「私徳政」を実行しました。
一揆の勢力は京都や奈良にも及びますが、室町幕府は武力鎮圧できません。
「正長元年九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣に之を取り、借銭等悉く之を破る。官領、之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。」と記録しています。
1429年:播磨の土一揆
播磨国(現在の兵庫県南部)で播磨一国の土民が蜂起しました。一揆勢の組敵は守護赤松氏の追放です。
借金帳消しを求める徳政要求というよりは、守護の追放がメインになっている点で国人たちが起こす国一揆に近いかもしれません。
結局、播磨の土一揆は守護の赤松満祐によって鎮圧されます。
1441年:嘉吉の徳政一揆
正長の土一揆が起きた1428年、室町幕府では6代将軍足利義教が将軍に就任しました。
義教は3代将軍足利義満の時代を理想とし、各地の守護に対し強圧的な姿勢で臨みます。
義教によって攻撃されることを恐れた一部の守護は反義教の動きを強めました。
1441年、有力守護の一人である赤松満祐は私邸に将軍義教を招き宴会を開きました。
縁もたけなわとなった時、赤松満祐の手勢が将軍義教や側近たちを襲撃し殺害してしまいます。これを嘉吉の変といいます。
嘉吉の変で幕府が混乱する中、畿内の農民たちは「代替わりの徳政」を要求し京都で蜂起しました。
地侍たちを指導者とする一揆勢は数万人は室町幕府に対し徳政令の実施を要求しました。
混乱する幕府は一揆勢の要求を受け入れ、嘉吉の徳政令を出させます。
また、同時に国人について知ることも非常に重要です。
国人について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。
是非読んでください!
まとめ
惣村とは、税を納めるかわりに様々なことを村人たちが決定する「自治的な村」でした。
惣村を指導した地侍たちは「おとな」や「沙汰人」とよばれました。
村のルールである惣掟は、村の中の様々なことをルール化します。
その内容は生活にまで及びました。惣掟に違反したものは追放などのペナルティを受けました。
大規模化した惣村は年貢の減免や荘官の免職、債務の破棄などを要求して土一揆を起こします。
代表的な土一揆は正長の土一揆、播磨の土一揆、嘉吉の徳政一揆です。
この記事を読んで、「惣村って何?」、「自治的な村ってどういうこと?」、「代表的な土一揆」などについて少しでも「わかった」と思っていただけたら幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。