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どん底の昭和恐慌から日本を復活させた「ダルマさん」高橋是清と高橋が行った高橋財政とは

こんにちは、木彫りグマです。

 

新型コロナウイルスの猛威が日本列島を覆いつくす中、もう一つの脅威が静かに進行しています。

それは、深刻な経済不況。

 

新型コロナウイルス感染防止のため、観光業・飲食業をはじめ、国内の多くの産業が経済的痛手を被っています。

 

帝国データバンクが4月20日付で公表したレポートで、上場企業だけでも1,602社が新型コロナウイルスの影響を受けたことが明らかにされました。

経済活動の「自粛」などにより、1兆7000億円から2兆円の売り上げが消失。

さらに、損失は拡大するとレポートでは見ています。

 

戦争以外で、日本経済にこれだけダメージを与えた出来事はあったでしょうか。

強いて言えば、1930年から31年にかけて日本をおそった「昭和恐慌」がそれにあたりますね。

 

今回は、昭和恐慌から日本を立ち直らせた高橋財政をとりあげ、新型コロナウイルス後の経済を考えるうえで、道標になればいいなと思います。

 

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内閣総理大臣より大蔵大臣が向いていた?高橋是清ってどんな人?

 

高橋是清1854年仙台藩に生まれました。

若いころ、横浜のヘボン塾で学び1867年にアメリカに留学します。

 

ところが、藩から出された留学費用はアメリカ人貿易商人に着服され、奴隷契約ともいえる年季奉公の契約書にサイン。

オークランドのブラウン家でブドウ園などの労働者としてこき使われました。

この間、高橋は英語の読み書きを習得します。

 

1868年に帰国した高橋は、森有礼にすすめられ、文部省に入省。

持ち前の英語力を生かして英語教師としても働きました。

 

1878年、廃坑寸前だった共立学校の校長に就任。

共立学校を大学予備門受験生のための受験予備校として整備しました。

共立学校は、のちの開成中学校・高等学校のもととなります。

 

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』にも、高橋はしばしば登場します。

主人公秋山真之正岡子規は高橋の教え子でした。

 

1889年、高橋はペルーの鉱山事業に投資するため農商務省を退職します。

しかし、この鉱山事業は既に廃校となっていたため、高橋は投資資金の全てを失いホームレスになってしまいました。

 

進退窮まった高橋をスカウトしたのが川田小一郎でした。

川田は三菱の創業者岩崎弥太郎の補佐役として、常に三菱の先頭に立ってきた人物です。

1889年には薩摩の有力者松方正義の推薦で日本銀行総裁となっていました。

 

日本銀行に入行した高橋は、日本銀行本館の建設事務主任となり建設を成功させます。

その後、九州全域を統括する西部支店の初代支店長となりました。

 

1904年に日露戦争が始まった時、高橋は日本銀行の副総裁でした。

高橋は戦費調達のためイギリスのロンドンにわたります。

投資家たちが、ロシアより国力が劣る日本の敗北を予想して日本国債の買い入れに慎重になる中、高橋は日本には支払い能力があり、戦争にも勝利できると熱弁をふるいました。

 

高橋はロシアのロマノフ朝によるユダヤ人迫害(ポグロム)に強い反感を持つユダヤ人資本家ジェイコブ・シフを味方につけ、彼の人脈によって戦費を調達します。

 

1910年代、立憲政友会に入党した高橋は第一次山本内閣や原敬内閣で大蔵大臣を経験。

原の暗殺後は内閣総理大臣も務めました。

 

1927年、金融恐慌が発生すると日本銀行総裁井上準之助とタッグを組み、3週間のモラトリアム(支払い猶予令)を発令。

裏が白い片面だけの200円札を大量に印刷し銀行に配ることで預金者を安心させ、取り付け騒ぎ(預金者が銀行に殺到してお金を引き出そうとするパニック行動)を鎮静化させます。

 

財政のプロとして名声を確立し、その外見や功績・実績から七転び八起きする「ダルマさん」にたとえられた高橋が、再び財政の世界で活躍したのが1931年におきた昭和恐慌の時でした。

 

 

日本を襲った空前の不景気「昭和恐慌」と「農村恐慌」とは

 

1920年代、日本は相次ぐ恐慌に苦しめられていました。

恐慌とは、生産の急低下や物価の暴落、支払い不能や破産などを引き起こす資本主義経済の混乱状況のこととされます。

 

1923年の震災恐慌や1927年の金融恐慌により、日本経済は大きなダメージを負っていました。

それにとどめを刺すように起こったのが1929年の世界恐慌です。

アメリカの株価大暴落を引き金におきた世界恐慌は、1年余りの期間をかけて日本に大きな影響を与えました。

 

浜口内閣の大蔵大臣井上準之助は、金の輸出を認める金解禁政策をとり、国の支出を減らす緊縮財政政策をとります。

 

世界恐慌のパニックから自国の金を守るため、各国が金解禁をとりやめ金の輸出禁止を行う中、日本は金解禁を継続。

そのため、金と交換できる日本円の価値は急上昇し、極端な円高となります。

さらに、外国人を中心に円と金の交換が行われ、大量の金が海外に流出しました。

 

世界中で貿易が激減する中、輸出産業を中心に日本企業が次々と倒産。

世の中に失業者があふれました。

これを、昭和恐慌といいます。

 

昭和恐慌は農村にも波及しました。

当時、日本の主力輸出品は生糸でした。

アメリカは生糸の最大輸入国でしたが、世界恐慌のせいで生糸のアメリカ向け輸出が激減。

農家は現金収入が確保できなくなりました。

 

追い打ちをかけるように起きたのが豊作貧乏と飢饉です。

1930年、米が豊作だったため米価が急落。

生糸価格の暴落とあわせて、農家の収入を大きく減らす原因となりました。

 

1931年になると、一転して東北や北海道で大凶作。

東北地方を中心に農家の娘の身売りや欠食児童の出現など、悲惨な状況となりました。

これを農村恐慌といいます。

 

日本は昭和恐慌と農村恐慌により、お先真っ暗ない状態となってしまいました。

 

 

日本を不況から脱出させ、先進国で最も早く景気を回復させた高橋財政

 

1931年、第二次若槻内閣が満州事変の収拾に失敗し総辞職すると、立憲政友会犬養毅が内閣を組閣しました。

犬養は昭和恐慌を抑えるため、高橋是清に4度目の大蔵大臣就任を要請します。

高橋は犬養内閣、斉藤内閣、岡田内閣の大蔵大臣として事態の収拾にあたりました。

 

高橋は就任直後から大胆な手に出ます。

まず、金の輸出は即座に再禁止。

ついで、日本銀行の協力を得て軍事予算を増額します。

さらに、時局匡救事業として景気対策を目的とした大規模な工業事業を実施しました。

 

恐慌の時、政府が支出を増やして仕事を作り出すことで不景気を脱するべきだとする考え方はイギリスの経済学者ケインズらが主張していた政策です。

高橋は、ケインズ的な財政支出の拡大で混乱する日本経済を立て直しました。

その結果、日本は列強の中で最も早くデフレを乗り越え景気回復を果たします。

 

しかし、高橋財政は副作用を伴うものでした。

軍備拡大要求にこたえたことにより、陸海軍はさらなる軍事費増大を要求してきます。

高橋は過大な軍事費増加要求を拒否しましたが、それが陸軍青年将校らの反発を買い、二・二六事件で殺されてしまいます。

 

 

さいごに

 

恐慌対策はスピード感が大事です。

打てる手を次々と打ち、経済の悪化を食い止めるには決断力とスピードが必要不可欠だったでしょう。

 

その点では新型コロナウイルス対策と似ているかもしれません。

4月末時点で新型コロナウイルスの発生拡大を食い止めたニュージーランドは、都市閉鎖(ロックダウン)を行うだけではなく、同時に経済対策も実施していました。

 

5月2日現在、日本は緊急事態宣言の継続が濃厚とみられています。

スピード感を持った対応が期待されるところですね。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

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