「古代の税の仕組みってどうなっているの?」
「大化の改新と税制度って関係あるの?」
「年貢っていつ生まれた言葉?」
このページをご覧の皆さんは、そのような疑問を持っているかもしれません。
古代の税制度は農民たちに口分田という土地を与え、そのかわりに稲や布を納めさせるものでした。
また、雑徭(ぞうよう)という労役も課せられます。
大化の改新以前、日本全土をしっかりと治める政府がなく、有力な豪族たちがそれぞれ土地を支配し、勝手に税を取っていました。
大化の改新で最強の豪族である蘇我氏が滅ぼされ、蘇我氏を倒した中大兄皇子や中臣鎌足は公地公民などの新制度を導入。
中国式の中央集権国家を目指します。
しかし、公地公民や班田収授法といった仕組みは奈良時代後半に崩れます。
そのため、朝廷は地方の直接支配をあきらめ、国司に支配を任せました。
支配を任された国司は脱税されないよう、人間ではなく土地に課税。
土地の所有者が税を払う仕組みとします。
その税の一つが「年貢」でした。
今回は古代の税の仕組みついてわかりやすく解説します。?
日本の税の仕組みについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
豪族たちによる土地支配
今から1500年近く前の5世紀から6世紀。
豪族たちの連合政権である大和朝廷がつくられました。
当時、天皇は大王(おおきみ)とよばれていましたが、絶対的な存在ではありませんでした。
豪族たちはそれぞれに広大な私有地を支配し、多くの私有民を配下におさめています。
大王といえども、比較的有力な豪族といってよいほどの力しか持っていなかったので、場合によっては豪族たちに排除されることすらありました。
歴史の教科書に出てくる聖徳太子こと厩戸王は蘇我氏と協調しつつ、冠位十二階などの制度を整えました。
それでも、豪族たちの土地を取り上げることなど不可能だったのです。
大化の改新と公地公民
645年、斉明天皇の皇子である中大兄皇子と豪族の中臣鎌足は共謀して最有力豪族だった蘇我入鹿を打倒しました。
蘇我氏を滅ぼした後に行われた一連の改革を大化の改新といいます。
歴史の授業で習ったあのお話ですね。
大化の改新後に発布されたとされるのが「改新の詔」。
この詔で
・土地と人民は天皇が支配(公地公民)
・土地を農民たちに分配し税を負担させる(班田収授法)
などが定められました。
あまりに整った内容なので、後世に作られたのではないかという説もあります。
公地公民や班田収授法は大宝律令で正式に法律となりました。
「班田収授法」で土地を与えられた農民は様々な税を負担します。
まず、口分田とよばれる田を与えられた農民たちは租や調、庸とよばれる税を支払いました。
さらに、雑徭という60日以内の労働もしなければいけませんで。
農民たちからすれば、土地を与えられるという点ではいいですが、それと引き換えに土地に縛り付けられ多くの負担をしなければならなくなったのです。
公地公民の崩壊
大宝律令が制定されてから20年ほどたったころ、早くも班田収授法が行き詰まりを見せました。
人口が急増したため口分田が間に合わなくなったのです。
723年、右大臣の長屋王は三世一身の法を制定し開墾を奨励しますがうまくいきませんでした。
三世一身の法は開拓してから3代の間は土地私有を認めるが、その後は国に土地を返さなくてはならないからです。
特に、返還寸前の3代目からするとやる気ゼロになるしくみですよね。
で、しょうがなく743年に墾田永年私財法を制定します。
開墾した土地は永久に私有していいよという命令ですね。
これでやる気を出したのは一般農民ではなく、多くの人を雇う力がある大貴族や大寺社でした。
三世一身の法や墾田永年私財法がだされた聖武天皇の時代について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
大貴族や大寺社は働きたい人を募って土地を開墾。
私有地を拡大させました。こうして出来上がった私有地を荘園といいます。
国の口分田で働くよりも荘園の方が負担が少ないケースもあったため、重い税負担に苦しんだ人々が荘園に逃げ込むことも発生しました。
課税対象の変化
律令が作られたとき、課税対象は「人」でした。
租も、調・庸・雑徭も戸籍や計帳とよばれる帳面に記載された個人が負担する仕組みです。
ところが、負担するはずの人がいなくなる浮浪や逃亡が多発。
場合によっては、勝手に僧侶になって免税対象者となってしまうなどしたため、奈良時代後半には税制が大きく揺らぎました。
そう考えると、奈良時代後半は脱税パラダイスになっていたのかもしれませんね。
これでは、国の税収がなくなってしまいます。
平安時代の初期には班田収授法をしっかり行うことなどの改革を行いましたが、うまくいきませんでした。
平安時代の中期、京都で摂関政治が行われる頃になると、朝廷は地方を細かく支配することをあきらめます。
そして、一定の額の納税と引き換えに地方の支配を国司にほぼ任せきりにしました。
国司たちは税を確実に徴収するため、課税対象を「人」から「土地」に切り替えます。
土地を所有する有力農民に「官物」とよばれる土地税と臨時雑役という労役税を課すようになりました。
11世紀になると、有力農民たちは名主とよばれるようになります。
彼らは年貢という土地税と特産物である公事、労役税である夫役をおさめるようになります。
これでようやく、私たちが知っている「年貢」という言葉が登場するわけです。
次の時代である鎌倉時代でも土地に税をかけるという考え方は引き継がれ、室町・江戸と続きます。
最終的には明治時代の地租や現代日本の固定資産税へとつながりました。
さいごに
最初は「人」に課されていた税は、逃げられない「土地」に対する課税へと変化します。
今も昔も、税をとる側は、なるべく逃げられないところから取ろうとします。
サラリーマンの源泉徴収は、まさにその考え方ですよね。