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手取川の戦いとは?わかりやすく、簡単に解説!

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手取川の戦いってどんな戦い?

手取川の戦いで秀吉はどんな行動をしたの?

 

このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。

手取川の戦いは、1577年に加賀国手取川の周辺でおきた戦闘で、上杉謙信軍と織田信長配下の柴田勝家軍が戦いました。

戦いは上杉軍の完勝で、織田軍は命からがら敗走しました。

 

今回は手取川の戦いについてわかりやすく、簡単に解説します。

Uesugi Kenshin.jpg
引用: 上杉謙信 - Wikipedia

 

手取川の戦いの背景とは?

織田家の急速な拡大

将軍足利義昭が作り上げた信長包囲網は、武田信玄の死をきっかけに崩壊しつつありました。

信長は自分の周囲の勢力を各個撃破し、京都周辺を中心に日本の中央部を支配するなど、圧倒的な力を誇っていました。

 

1575年5月21日、新暦の6月29日。

織田信長徳川家康の連合軍が武田勝頼率いる軍を長篠の戦いで打ち破りました。

最大の脅威だった武田軍団を打ち破ったことで、信長の天下取りは大きく前進します。

 

浅井・朝倉を排除し、近江から越前にかけても支配下におさめた信長は、北陸制圧に乗り出しました。 

本願寺上杉謙信の共闘

越後に本拠を置く上杉謙信は、南の北条・武田と戦っていました。

しかし、この時期は武田氏とは同盟関係にあり、北条氏は越後まで進出する気配がありません。

そのため、謙信は西の越中に勢力を伸ばします。

 

現在の富山県にあたる越中一向一揆の勢力が強い地域で、これまでも何度も上杉謙信と戦いを繰り広げてきた因縁の相手でした。

ところが、仇敵ともいえる本願寺から上杉謙信に和睦の打診が来ます。

 

いったいどういう理由で和睦の使者を派遣したのでしょうか。

 

北陸地方一向一揆で最も力を持っていたのは加賀の一向一揆でした。

15世紀に守護の富樫氏を滅ぼしてから、一向一揆が加賀一国を支配する体制を築いていたからです。

しかし、加賀一向一揆は信長軍の柴田勝家の攻撃よって大打撃を受けます。

 

事態を憂慮した本願寺上杉謙信に使者を派遣、対信長で共闘を申し出ました。

謙信は、将軍足利義昭を助け、室町幕府を再興するため本願寺と共闘し信長と戦う決意を固めます。

 

七尾城攻略戦 

1576年11月、上杉軍は能登畠山氏の居城である七尾城を包囲していました。

七尾城は日本海海運の要衝で上杉軍の上洛の時に無視できない位置にある城でした。

 

当時の畠山氏の当主は幼く、城中は織田派と上杉派に分かれて争っていました。

上杉軍が接近する中、織田派が七尾城内で優位に立ち上杉軍と戦うため七尾城に籠城することが決められます。

 

七尾城は山の上に築かれた天然の要害で、力攻めで容易に落ちる城ではありません。

七尾城内の織田派は、信長に援軍を請う使者を派遣しました。

信長はこれに応え、柴田勝家羽柴秀吉ら50,000の大軍を七尾城救援に差し向けます。

 

謙信は同盟関係となった本願寺に、織田軍の進軍阻止と妨害活動を依頼しました。

このため、柴田軍は思うように進むことができません。

 

断続的に包囲が続いた七尾城では、幼少の主君である畠山春王丸が病死。

城中の士気が著しく低下しました。

これをチャンスと考えた謙信は七尾城中の上杉派を動かし織田派の家臣を排除。

七尾城を降伏・開城させることに成功します。

手取川の戦い

羽柴秀吉軍の撤退

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独断で撤退した羽柴秀吉

引用:豊臣秀吉 - Wikipedia

 

七尾城救援に向かう柴田軍の内部で、足並みの乱れが生じます。

柴田勝家とともに七尾城救援を命じられていた羽柴秀吉が独断で撤退しました。

撤退の理由など詳しい事情はわかっていませんが、以前から柴田勝家羽柴秀吉はそりがあっていません。

そのことが原因で、秀吉が勝手に撤退してしまったのかもしれません。

この知らせを聞い信長は激怒します。

無許可での撤退は信長の怒りを買うこと必定でした。

秀吉にそれがわからなかったはずがありません。

それでも撤退したのですから、単なる不仲以上の理由があったのかもしれませんね。 

戦いの始まり

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手取川

引用: 手取川 - Wikipedia

 

一向一揆による妨害や、近畿地方で起きた松永久秀の謀反などにより進軍が遅れていた信長軍はようやく加賀北部に達します。

しかし、主将の柴田勝家は七尾城が陥落したことを知りません。

 

上杉軍が七尾城を包囲していると考えていた柴田勝家は背後を突くべく軍を北上させたのです。

柴田勝家が七尾城陥落と上杉軍の接近を知ったのは手取川を渡った後でした。

勝家は手取川を背に戦うことは危険だと考え、即座に川を渡って撤退しようとします。

 

しかし、謙信の動きは勝家の想定よりはるかに早いものでした。

川を渡ろうと背を向けた時に上杉軍の急襲を受けた柴田軍は混乱状態に陥り、多数の戦死者を出します。

 

謙信は、川中島の戦いの時も機動力を生かして武田軍の不意を突いた経験があります。

謙信にとって機動戦はもっとも得意な戦法だったのでしょう。

合戦後、「上杉に 逢うては織田も 手取川 はねる謙信 逃げるとぶ長(信長)」という落首が残されました。 

上杉謙信の急死

KasugayamaCastle-print.jpg引用: 春日山城 - Wikipedia

 

手取川で勝利した上杉謙信は本拠地の春日山城に帰還します。

12月には次の大遠征をおこなうべく領内に大規模な陣ぶれを出しました。

出陣を6日後に控えた1578年3月9日、謙信は春日山城の厠で倒れ、そのまま息を引き取りました。

謙信の死後、養子の景勝と景虎が後継者をめぐって争う御館の乱がおきて上杉氏の勢力は大きく衰退してしまいます。

歴史にifはないですが、謙信が倒れていなければ、近畿地方でどのような戦いが繰り広げられたのでしょうか。

 

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