「宇都宮城ってどんな城?」
「宇都宮釣り天井事件って何?」
このページをご覧の方はそのようにお考えかもしれません。
宇都宮城は宇都宮氏の居館として作られ、戦国大名宇都宮氏の本拠地となった城でした。
江戸時代の初めにおきた釣り天井事件で、宇都宮城主本多正純は失脚してしまいました。
その後、宇都宮城はたびたび城主を変えつつ、江戸幕府の北の拠点として機能し続けます。
幕末、江戸開城に納得しない伝習隊などの旧幕府軍が宇都宮城を攻撃しました。
このとき、土方歳三は旧幕府軍の指揮官の一人として参戦し、足を負傷します。
今回は、宇都宮城の歴史や釣り天井事件、幕末の宇都宮攻防戦についてまとめます。
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この記事で分かること
・宇都宮城をつくった宇都宮氏の歴史
・宇都宮釣り天井事件の大まかな内容
・戊辰戦争の一部である宇都宮攻防戦の様子
宇都宮城とは
宇都宮城は川越城、忍城、前橋城、金山城、唐沢山城、多気城とともに関東七名城の一つとして数え上げられています。
宇都宮城の概略についてご紹介します。
宇都宮城は古代末期に築城されました。城の形式は平城です。
江戸時代初期に宇都宮城を与えられた本多正純は旧来の城郭を大幅に改造しました。
この城は、本丸と二の丸、三の丸、外郭から構成され、それぞれの郭を守るように堀を巡らせています。
中でも本丸を守る堀は幅20メートルにもなります。
江戸時代の改修では、東北地方からの攻撃が想定されていたため、北の守りが強化されました。
さらに、奥州街道や日光道中、寺町などの整備により宇都宮城全体の防御力を向上させます。
北関東随一の名門大名となった宇都宮氏
鎌倉時代の宇都宮氏
宇都宮氏の始祖は藤原宗円という人物です。
彼は源頼家・義家にしたがって前九年合戦を戦い、その功績により現在の宇都宮(二荒山神社の別名)の別当職に任じられました。
そのため、子孫は宇都宮氏を名乗るようになります。
宇都宮家三代当主の宇都宮朝綱は源頼朝から「関東一の弓取り」とよばれるほどの武勇の持ち主でした。
そのように呼ばれるきっかけとなったのは奥州合戦での大活躍です。
頼朝は奥州合戦への往路・復路で宇都宮に立ち寄り、戦勝祈願と戦勝御礼を行っています。
鎌倉時代末期に楠木正成らが畿内で挙兵すると、宇都宮家九代当主の宇都宮公綱は正成討伐軍に参加します。
このとき、敵である正成から「坂東一の弓取り」と評されました。
室町時代から戦国時代にかけての宇都宮氏
室町時代、宇都宮氏は足利尊氏に味方して北関東での支配を強めました。
しかし、尊氏の死後、関東で起きた動乱に巻き込まれ、一族が分裂するなど勢力が衰退します。
衰退する宇都宮氏を再興したのが十七代当主の宇都宮成綱です。
家督相続時におきた混乱を収束させると近隣の小山氏との争いに勝利して領土を拡大します。
同時に、古河公方や関東管領上杉氏とも良好な関係を築き、外交面でも宇都宮家を安定化させます。
1512年、宇都宮成綱は重臣の芳賀高勝を殺害し、宇都宮家で内乱が起きました。
これを、宇都宮錯乱といいます。宇都宮成綱は2年にわたった宇都宮錯乱に勝利します。
しかし、成綱の死後、宇都宮家は再び混乱し衰退の一途をたどるようになります。
そして、21代当主宇都宮広綱の時代には家臣に下剋上され、一時、宇都宮城を乗っ取られてしまいます。
戦国大名宇都宮氏の終焉
弱体化した宇都宮氏は防御に適さない宇都宮城を家臣に委ね、自らは堅固な多気山城に立てこもります。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めがはじまると22代当主の宇都宮国綱は秀吉に味方します。
こうして、宇都宮氏は所領18万石を安堵されました。
しかし、1597年に突如改易されてしまいます。
これにより、戦国大名宇都宮氏は歴史の表舞台から退場しました。
改易の理由は不明ですが、豊臣政権の五奉行の一人である浅野長政との対立が原因だとする説があります。
宇都宮城は将軍の日光東照宮参詣の宿泊所
宇都宮城は江戸と東北地方・日光東照宮を結ぶ交通上の重要地点です。
江戸幕府が注意していたことの一つに仙台藩伊達家の動向があります。
もし、仙台藩が関東に攻め込んできたとき、迎撃の拠点となるのが宇都宮でした。
また、この城は徳川家康が葬られた日光東照宮の玄関口にあたります。
東北に抜ける奥州街道と日光に達する日光道中の両方を抑える重要な場所に宇都宮はあったのです。
宇都宮釣り天井事件
宇都宮釣り天井事件は、宇都宮城主本多正純が2代将軍徳川秀忠を謀殺しようとしたとされ失脚した事件です。
正純が宇都宮城主となったいきさつ
本多正純は徳川家康の謀臣である本多正信の子で、家康から絶大な信頼を受けていました。
家康の死後、正純は秀忠付きの老中となり権勢をふるい続けます。
しかし、振る舞いが尊大で土井利勝をはじめとする秀忠側近に恨まれたといいます。
1619年、秀忠は「家康の遺命」として本多正純を宇都宮城主とします。
そして、それまで宇都宮城主だった奥平氏を下総古河に移しました。
本多正純の失脚
1622年4月、徳川秀忠が日光東照宮に参詣した時、その帰りに宇都宮城で一泊することになっていました。
日光滞在中の秀忠に、姉の加納御前から密告が届きます。
宇都宮城の普請に不備があるというのです。
これを聞いた秀忠は予定を変更し、宇都宮城に立ち寄らず壬生城を経由して江戸にもどりました。
江戸にもどった秀忠は側近たちに密告の真偽を調査させます。
1622年8月、本多正純は幕府の命令で出羽山形に赴きました。
目的は、改易された最上氏から山形城の引き渡しを受けるためです。
無事、城を接収した正純のもとに幕府からの急使がやってきました。
幕府の急使は正純に、鉄砲の購入理由や宇都宮城を無断で修築し、秀忠の寝所となる部屋に釣り天井を仕掛けて暗殺しようとした疑いを糾問したのです。
正純は幕府の急使に理路整然と反論しましたが、一部の糾問に明確に答えられなかったことを理由に宇都宮を没収されました。
誰が、本多正純を失脚させたのか?
実は、秀忠は宇都宮城宿泊を取りやめた後、幕臣の井上正就に宇都宮城を調査させています。
このとき、井上は宇都宮城に不審な点がないことを確認しています。
それにもかかわらず、本多正純が失脚したのはなぜなのでしょうか?
一つは、加納御前の正純に対する恨みです。加納御前は奥平信昌に嫁いでいました。
信昌や自分が生んだ子たちが早くに亡くなると彼女は奥平家の幼い当主を後見して家を守ろうとします。
そのさなかに、本多正純の転封によって奥平氏は宇都宮から古河に「格下げ」されてしまいました。
また、信昌と加納御前の娘は本多正信・正純父子と対立し失脚した大久保忠隣の子に嫁いでいました。
こうした関連から加納御前が正純を陥れたという可能性は十分あります。
加えて、正純は家康側近として数々の裁定にかかわり、秀忠側近との折り合いも悪かったといいます。
土井利勝をはじめとする秀忠側近が事件を利用して失脚させたのかもしれません。
戊辰戦争の舞台となった宇都宮城
幕末、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は新政府軍に降伏し江戸城を引き渡しました。
しかし、これに納得しない人々は関東各地で新政府軍と戦闘をおこないます。そのうちの一つが宇都宮城の戦いでした。
宇都宮城攻防戦は1868年4月19日と4月23日に行われた二度にわたる戦いのことです。
戦ったのは新政府軍と伝習隊を中心とする旧幕府軍でした。
戦いの結果、宇都宮城は二の丸御殿、三の丸の藩士邸宅などを焼失します。
宇都宮城攻防戦直前の様子
旧幕府軍の決起
伝習隊は1867年に幕府の勘定奉行小栗忠順の主導で創設された洋式軍隊です。
フランスから軍事顧問団を招き、本格的な洋式訓練を施した旧幕府軍の精鋭部隊でした。
徳川慶喜が江戸開城を決めたことに対し、大鳥圭介率いる伝習隊は降伏に反対し下総国府台で決起しました。
このとき、伝習隊に合流したのが新選組の副長だった土方歳三です。
国府台で決起した大鳥圭介や土方歳三らは北上しつつ兵力を増強しました。
そして、小山で新政府軍を打ち破ります。
これは、鳥羽伏見の戦い以来、連戦連敗を続けてきた旧幕府軍にとって久々の勝利となります。
勢いを増した旧幕府軍は北関東の要衝である宇都宮城を目指しました。
宇都宮城の防衛体制
1867年4月、宇都宮藩では藩主が滋賀県大津で新政府に抑留されたため、藩主が不在でした。
そのときに、藩内では野州世直しとよばれる大規模な農民一揆がおきます。
混乱状態の宇都宮藩では家老の県信輯(あがたのぶつぐ)が新政府軍に味方することを決定します。
宇都宮藩は新政府の手を借りて一揆を鎮静化させることに成功しました。
ところが、宇都宮藩に次の試練が襲い掛かります。
旧幕府軍2200名あまりが宇都宮城を目指して北上してきたのです。
第一次宇都宮城攻防戦
1867年4月19日、旧幕府軍の接近を知った新政府軍は宇都宮藩軍を主力とする700名で城の守りを固めます。
城外の戦闘で敗れた新政府軍は籠城策を取りました。
しかし、撤退時に田川に架かる橋を落とさなかったため旧幕府軍の城下進出を許してしまいます。
旧幕府軍は宇都宮城北方の二荒山神社を占拠し、そこから砲弾を宇都宮城に打ち込みました。
最新式の兵器を操る旧幕府軍に対し、旧式装備の新政府軍は終始圧倒されます。
戦いのさなか、旧幕府軍の兵士の一人が戦場での恐怖にかられ敵前逃亡してしまいました。
このとき、指揮官の土方歳三は逃亡する兵を斬り捨て退却を厳に禁じます。
劣勢の新政府軍は宇都宮城の放棄を決断しました。
第二次宇都宮城攻防戦
宇都宮城陥落で勢いに乗る旧幕府軍は、宇都宮城の南方にある壬生城攻略を目指して進撃しました。
その途中、安塚に布陣する新政府軍に対し総攻撃を仕掛け占領しました。
これに対し、壬生城を守備していた新政府軍の鳥取藩兵は安塚奪還のために出撃し、旧幕府軍を敗走させ安塚を奪還しました。
援軍として壬生城に到着した薩摩藩兵を主力とする新政府軍は宇都宮城の奪還を決めました。
疲労困憊する鳥取藩兵は壬生城の守備として残し、主力部隊は宇都宮城を目指して北上します。
1867年4月23日、新政府軍は宇都宮城を守る旧幕府軍と交戦状態に入ります。
城の西側から攻め寄せた新政府軍は伝習隊の猛烈な反撃にあい苦戦を強いられます。
また、大鳥圭介は戦闘前に配置していた伏兵を用いて新政府軍をかく乱します。
一方、新政府軍は城の西側に砲兵を配置し、宇都宮城や旧幕府軍が布陣する二荒山神社に砲撃を加えました。
激しさを増す戦闘の中、土方歳三は足に銃弾を受けて戦線を離脱。
現在の宇都宮城址公園
戊辰戦争の激戦により、宇都宮城のほとんどの建物は破壊され、城下や二荒山神社などは戦火により焼失しました。
戦いの後、宇都宮城は宇都宮藩に返還されます。
廃藩置県後、宇都宮城には歩兵第2連隊の本営が置かれることとなりました。
戦後、宇都宮城の遺構の大半は都市開発によって失われ、昭和中期には本丸土塁の一部が残るのみとなっていました。
平成に入り、宇都宮城やその周辺を整備する事業が本格化します。
まず、市は発掘調査や文献調査をもとに本丸の外観復元に取り組みます。
その結果、本丸清明台櫓や冨士見櫓、石垣、土塁、土塀、堀の外観を復元します。
こうして、宇都宮城址公園では「宇都宮さくら祭り」や「フェスタmy宇都宮」、「うつのみや城址祭り」などが開催され、観光の名所となります。
まとめ
いかがでしたか?
宇都宮城は、下野一帯に勢力を伸ばした宇都宮氏の居城として発展しました。
1622年、将軍秀忠の暗殺を謀った「釣り天井事件」の疑惑をにより城主の本多正純が改易となります。
その後、奥平氏や本多氏など譜代大名が入れ代わり立ち代わり宇都宮城の主となりました。
幕末、大鳥圭介や土方歳三率いる旧幕府軍は宇都宮城を急襲し陥落させました。
しかし、新政府軍はすぐに体勢を立て直し、宇都宮城を奪還します。
この戦いで宇都宮城と城下の大半が焼失しました。
この記事を読んで、宇都宮城の歴史や釣り天井事件、宇都宮城攻防戦について「そうだったのか」と思っていただけたら嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。