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幕府権威の再興に苦心し、下剋上によって壮絶な最期を遂げた剣豪将軍足利義輝とは

こんにちは、木彫りグマです。

 

大河ドラマ麒麟が来る』の第5話で、主人公の明智十兵衛が13代将軍足利義輝と出会うシーンがありました。

大河ドラマでは向井理さんが演じていますね。

 

義輝は将軍とはいっても、畿内の最高実力者である三好長慶と緊張状態にありました。

高貴とはいえ、足利将軍家応仁の乱以来、衰退の一途をたどっています。

衰えた幕府の力を取り戻し、将軍の威光を回復させようとした足利義輝とはいったいどのような人物だったのでしょうか。

 

歴史ゲーム信長の野望にも登場する剣豪将軍足利義輝の生涯について、元予備校講師の木彫りグマが解説します。

 

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<a href="https://www.ac-illust.com/main/profile.php?id=UcZy0agl&area=1">歩夢</a>さんによる<a href="https://www.ac-illust.com/">イラストAC</a>からのイラスト


 

応仁の乱後の衰退した足利将軍家

 酒色におぼれ若くして亡くなった9代将軍足利義尚

1467年から1478年にかけて、京都を中心に応仁の乱がおきました。

応仁の乱により京都は潰滅的被害を受けます。

京都に置かれていた室町幕府の威光も地に堕ちました。

 

8代将軍足利義政の後を受け、9代将軍となった足利義尚は将軍権力の復活を目指しますが、思うようにいかず酒色におぼれてしまいます。

義尚が25歳の若さで死去すると、足利義材(義稙)が跡を継ぎました。

 

流浪の将軍足利義稙

足利義稙は、まだ存命していた足利義政日野富子の支持を得て10代将軍となりました。足利義稙は近江の六角氏討伐に成功し、将軍権威をわずかでも回復させます。

 

しかし、六角攻めに反対していた細川政元日野富子らによってクーデタである明応の政変をおこされてしまいました。

細川政元らは11代将軍として足利義澄を立てます。

 

義稙は一時的に将軍職に復帰しますが、後ろ盾となっていた大内義興が周防に帰国したことで力を失い、阿波へと脱出しました。

 

中央政局に翻弄された足利義輝の父、足利義晴

足利義稙が一時的に将軍職に復帰した時、11代将軍足利義澄は近江に脱出しました。義澄が京都帰還を果たせぬまま近江で死去します。

 

子の義晴は義澄派の播磨守護の赤松義村の下で養育されました。

ところが、義晴は赤松氏と守護代浦上氏の争いに巻き込まれ、浦上氏によって保護されます。

 

1521年、管領細川高国足利義稙を追放。

かわって、義晴を12代将軍として京都に迎えました。

1520年代、管領細川氏は有力家臣である三好氏としばしば争い、そのたびに義晴は巻き込まれ、京都やその周辺を転々としました。

 

1546年、義晴は将軍職を息子の義輝に譲ります。

1549年、義晴は細川氏綱三好長慶と対立し京都を追われました。

翌年、京都帰還を果たせぬまま40歳で亡くなります。

 

 

足利義輝の誕生と元服

1536年、足利義輝は12代将軍足利義晴の子として生まれました。

将軍の正室である御台所の子で、摂関家の血を引く義輝は血統の上では申し分のない高貴な生まれです。

 

1546年、義輝は元服の儀式を行いました。

儀式の翌日、義輝は父から将軍職を譲られ室町幕府13代将軍となります。

 

1549年、幕府の有力者である細川晴元は家臣の三好長慶に裏切られました。

三好長慶は晴元と敵対していた細川氏綱と手を結んだからです。

細川晴元は都から落ち延びる際、足利義晴・義輝父子を伴って近江に脱出します。

 

三好長慶との対立と和睦 

三好長慶暗殺未遂事件

三好長慶と対立した足利義輝は、京都に入ることができず近江で京都奪還を狙いました。1551年、三好長慶が伊勢貞孝の屋敷に招かれることを知った義輝は進士賢光に、長慶暗殺を命じます。しかし、ことは露見。進士賢光は自害して果てました。

 

三好長慶の暗殺に失敗した幕府側は軍事力で京都奪還を目指しますが、相国寺の戦いで長慶の部下である松永久秀らによって阻止されます。

 

度重なる三好長慶との和睦と戦い

1552年、足利義輝三好長慶と和睦し京都に戻りました。

いったんは落ち着いたかに見える室町幕府でしたが、義輝側近の上野信孝の台頭により、幕臣内部での対立が激化。

 

さらに、出雲などの守護職を山名氏や赤松氏から奪い尼子氏に与えたことで、内部対立は決定的なものとなりました。

 

1553年、上野信孝らは実力者の三好長慶を排除するため反三好勢力と提携。

義輝も三好長慶との和睦を破棄して東山霊山城に籠城します。

 

三好長慶は義輝のこもる霊山城を攻め落としました。

義輝は近江に脱出します。

1558年、義輝は再び三好長慶と和睦し、京都に戻ります。

 

 

諸大名との修好

京都に戻った義輝は、幕府や将軍の権威を回復するため戦国大名たちと積極的に修好を結び、和議のあっせんなどを行いました。

 

例えば、安房の里見義堯と相模の北条氏康の争いや武田晴信(信玄)と長尾景虎上杉謙信)の争い、島津貴久と大伴義鎮の争いなどの調停を頻繁に行います。

 

足利義輝が非業の死を遂げた永禄の変 

1564年、三好長慶が死去すると三好氏の家臣だった松永久秀三好三人衆が勢力を拡大します。

松永久秀三好三人衆にとって、自分で政治を行いたいと考え行動する足利義輝は迷惑な存在でした。

 

1565年、松永久秀三好三人衆足利義輝のいる二条御所に攻め込みます。

義輝は自ら薙刀や刀をとって松永・三好軍を相手に奮戦。

義輝は畳に数十本の刀を突きさし、襲い来る敵兵を次々と切り捨てました。

最終的に義輝は複数の兵士たちに囲まれ、槍で突き殺されたと伝えられます。

 

宣教師のルイス=フロイスは義輝のことを武勇に秀でた人物と評していますが、印象的な最期を迎えたことを聞き知っていたからこそそのように描いたのでしょう。

 

さいごに 

名ばかりの存在であった室町将軍の権威を高めるため、最後まで奮戦した足利義輝は、下剋上の申し子ともいえる松永久秀らによって殺害されました。

大河ドラマ麒麟が来る』で、義輝の最後が描かれるのかどうか、興味深いところですね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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