「鎌倉幕府の収入源って何だろう?」
「室町幕府の収入源って何だろう?」
このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。
鎌倉幕府の収入源は全部で3つ。
室町幕府の収入源も3つ。
直轄地からの税収と商業活動や流通ににかける税金、そして日明貿易です。
同じ3つといっても、鎌倉幕府の方が圧倒的に安定した財源を持っていました。
鎌倉幕府ほどの確固たる収入源を持たない室町幕府は、商業や流通からの税金をあちこちからかき集めることで財政を成り立たせます。
今回は、鎌倉幕府と室町幕府の経済基盤の違いを、収入減から解説します。
鎌倉時代の政治について知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。
鎌倉幕府の3つの収入源
頼朝について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。
鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)は、御家人(頼朝に従う武士たち)の土地の支配権を認めます(御恩)。
御家人たちは、頼朝や幕府の求めに応じ、戦闘参加や警備の人数を出しました(奉公)。
この関係を、封建制度といいます。
この説明だけを聞くと、鎌倉幕府は御家人たちの力に頼っていたように聞こえます。
しかし、幕府自体もかなり強い力を持っていました。
収入源1:関東知行国
鎌倉幕府のトップである将軍は、朝廷からいくつかの国の支配権を認められていました。
1186年段階では、越後・信濃・武蔵・上総・下総・相模・伊豆・駿河の8カ国に及びます。将軍は、この8カ国から上がる収入を得ることができました。
収入源2:関東御領
1185年に壇ノ浦で兵士を滅ぼしたのち、幕府はかつて平家が持っていた荘園や、平家に味方した武士が持っていた土地などを没収します。
没収した土地からの収入は当然、幕府のものとなりました。
没収される前、平家が持っていた荘園は日本全国で500か所以上に及びます。
この荘園群も幕府の財源となりました。
収入源3:承久の乱で得た所領・荘園
1221年、朝廷のトップに君臨していた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府のナンバー2にあたる、執権の職に就いていた北条義時を討伐せよとの命令を下しました。
朝敵とされた北条義時は、姉の北条政子の助けを得て幕府に従う御家人たちの結束を固め、逆に、京都にいた後鳥羽上皇のもとに攻め込みます。
予想外の義時の反撃に、準備不足だった後鳥羽上皇方は敗北。
このとき、幕府は上皇方の貴族や武士の土地3000か所以上を没収し、功績のあった御家人たちに分け与え、支配権を強めました。
幕府の収入が直接増えたわけではありませんが、幕府に味方する御家人たちの土地が増えることは、幕府が動員できる兵力が増えることを意味します。
その意味で、承久の乱で没収した土地も幕府の基盤を強化したといえるでしょう。
承久の乱で勝利した北条泰時について知りたい方はこちらの記事もどうぞ。
こうした武士たちの力を結集してつくられたのが鎌倉の街です。
鎌倉には鶴岡八幡宮をはじめとする古くからの寺社がありますが、幕府が寺社建立にお金を出せたのも強い経済基盤があればこそでした。
室町幕府の3つの財源
後醍醐天皇は、一度は捕らえられますが、幽閉先を脱出し、奈良の吉野で南朝を開きます。
京都の北朝と、吉野の南朝が互いに正当性を主張して争ったので、南北朝時代といいますね。
室町幕府は全国各地の守護に協力を求めるため、守護に国から上がる収入の半分を取得する権利を与える半済令を出しました。
幕府自身が持っている直轄地は御料所とよばれましたが、鎌倉幕府が持っていた土地ほど広くはありませんでした。
広大な土地を持たない室町幕府の経済基盤は脆弱なものとなってしまいます。
収入源1:直轄地からの収入
室町幕府がもつ直轄地を御料所といいます。
鎌倉時代から足利氏が持っていた土地もあれば、幕府成立後に新しく得た土地もありました。
しかし、鎌倉幕府が持っていた荘園や土地に比べると非常に小さいものでした。
収入源2:庶民や商業活動から得られる現金収入
幕府は全国の街道に関を設け、港では津料を得ていました。
しかし、関銭や津料は幕府だけの独占収入ではありません。
各地の有力者も、同じように取り立てていたからです。
臨時に取り立てる段銭や棟別銭というのもありました。
また、借金を帳消しにするとしてしられる徳政令を発布した時、徳政令の効果を取り消したり、あるいは認めてもらうために幕府に銭を治める分一銭というのもありました。
あるいは、高利貸し業者である土倉や酒屋に税を課すということも行っていました。
それが、土倉役、酒屋役です。
ちょっとでも、現金収入になりそうであれば、すかさず税を集め、小口からでも幕府の収入を上げようという涙ぐましいまでの努力が伺えます。
収入源3:日明貿易での収入
税収が安定しない室町幕府にとって、日明貿易はとても重要なものでした。
義満は明の皇帝に「臣源道義」と称し、明の皇帝に貢物を献上します。
明の皇帝は、義満が派遣した使節に対し、貢物に数倍する下賜品を与えました。
貿易といいつつも、ほぼ一方的に日本側が得をするもので、幕府にとって大変重要な財源となりました。
日明貿易で日本に入ってきた明銭(永楽通宝)について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
鎌倉幕府と室町幕府の違いとは?
鎌倉幕府は広大な土地を支配する安定政権でした。
そのため、承久の乱では朝廷方を圧倒しました。
幕府が滅んだのは、財政基盤の問題というよりも、足利尊氏をはじめとする有力御家人が幕府を見限ったのが原因でした。
一方、室町幕府は足利義満の時代こそ、強いリーダーシップを発揮しますが、義満の死後に弱体化します。
室町幕府は鎌倉幕府に比べ直轄地が狭く、収入が少ない幕府でした。
そのため、軍事力もそれに比例して脆弱です。
6代将軍足利義教は守護の赤松氏に暗殺されました。
8代将軍足利義政は、守護大名同士が争う応仁の乱を止めることができませんでした。
室町幕府は最終的に京都周辺さえ支配できなくなります。
その結果、室町幕府の末期は戦国時代と呼ばれるようになりました。
さいごに
現在、世界を大きく動かしているのはアメリカや中国です。
これらの国は豊かな天然資源をもち、経済的にも発展していますよね。
だからこそ、世界を動かす力を持っているのです。
日本は国家収入を大きく超える債務を抱えています。
今は、債務よりも世界各地にある日本の財産の方が大きいので、あまり目立った問題となっていません。
しかし、過去の遺産を食いつぶしてしまったとき、日本の国債や円が大暴落し、海外から必要なものを輸入できなくなりかもしれません。
増税によって国の収入を増やすのも一つの手ですが、増税のし過ぎは国を衰退させます。
日本には、今まで蓄積された様々な技術があります。
この遺産を生かして、日本という国の収入を増やすための産業を率先して育成するべきではないでしょうか。
特に、環境分野の技術により力を入れ、環境先進国になることで経済発展を遂げる。
環境と経済発展の共存を図ることこそ、日本の発展の道かもしれませんね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。