「水魚の交わり」は故事成語の一つで、親しく信頼しあう人間関係を示しています。
『蜀志』「諸葛亮伝」や『十八史略』に書かれたエピソードに由来します。
今回は「水魚の交わり」の意味や登場人物、「水魚の交わり」に至るまでのあらすじ、「水魚の交わり」のストーリー、使い方についてまとめます。
「水魚の交わり」の意味
水魚の交わりは以下のような意味の言葉です。
水と魚のような関係。非常に親密な関係のたとえ。
出典:コトバンク
人間関係の近しさを水と魚にたとえ、どちらにとっても必要不可欠であることをあらわしています。
「水魚の交わり」の登場人物
水魚の交わりは三国志のエピソードの一つで、三国志好きであれば一度は目にしたことがある有名人が数多く登場します。
登場する人物について簡単にまとめます。
劉備(りゅうび)
劉備の姓は劉、名は備、字は玄徳。
※字(あざな)とは成人した時に本人がつけた呼び名のこと。通常は姓+名、姓+字で名乗ります。したがって、劉備であれば劉備または劉玄徳となのります。
現在の北京周辺にあたる涿郡琢県(河北省)の出身です。
漢王朝の王室の血を引くと称する人物で、関羽・張飛と義兄弟の契りを結んだことでも知られます。
『三国志演義』の主人公で、義を重んじる人物として描かれます。
中国最大の領土を支配した曹操と対立し、都を追われ荊州に亡命します。
「水魚の交わり」のころは荊州(現在の湖北省)の支配者である劉表の客将で独自の領土を持っていませんでした。
諸葛亮(しょかつりょう)
父早くに亡くし、弟ともに叔父の諸葛玄に養われ、幼いころ、徐州(現在の江蘇省北西部)から荊州に移住します。
荊州では晴耕雨読の生活を送り、自らの才能を古の名宰相管仲や名将楽毅に並ぶものだと思っていましたが、それを認める者は多くありませんでした。
しかし、彼のことを認める徐庶や黄承彦のような人物もいたため、いまだ世に出ていない大人物という意味で「伏龍」ともいわれていました。
劉備は3度にわたって諸葛亮のもとを訪れ、彼を口説き落として軍師としました。
この劉備のふるまいから、礼を尽くして才能がある人物を招くことを「三顧の礼」というようにまります。
司馬徽(しばき)
司馬徽の姓は司馬、名は徽、字は徳操。
荊州に住んでいた人物鑑定家で水鏡先生と呼ばれていました。
龐統(ほうとう)
龐統の姓は龐、名は統、字は士元。
口下手で身なりが粗末であったことから良い評判がありませんでした。
しかし、司馬徽が才能を高く評価したことで世間に知られるようになります。
後に劉備に仕え、劉備の蜀遠征軍の参謀として活躍しますが、落鳳坡の戦いで命を落としました。
徐庶(じょしょ)
徐庶の姓は徐、名は庶、字は元直。
徐庶から諸葛亮の話を聞いた劉備は、諸葛亮を呼んでくるよう徐庶に頼みますが、徐庶は「こちらから行けば会えますが、無理に連れて来る事はできません」と断ります。
曹操(そうそう)
曹操の姓は曹、名は操、字は孟徳。
黄巾の乱で勃興した軍閥の一人で華北を中心に勢力を拡大していた人物で、劉備にとって最大の敵です。
200年に起きた官渡の戦いで最大のライバルだった袁紹を倒し、中国最大の勢力とを築き上げました。
荊州の支配者だった劉表が死去すると、後継者をめぐる混乱に乗じて荊州を占領。
その勢いに乗じて長江下流の孫権と戦いますが赤壁で大敗しました。
孫権(そんけん)
孫権の姓は孫、名は権、字は仲謀。
長江下流域の江東の支配者です。
兄の孫策が築いた地盤を支配し、独自勢力を打ち立てていました。
後に諸葛亮の説得に応じて劉備と同盟を結び、赤壁の戦いで曹操に勝利します。
赤壁の戦い後、荊州を劉備に奪われますが劉備の義弟関羽を倒して荊州を占領。
劉備の怒りを買ってその侵攻を招きました。
激しい戦いの末、夷陵の戦いで劉備軍に勝利し、荊州支配を確たるものにしました。
「水魚の交わり」までのあらすじ
200年、劉備は董承を首謀者とする曹操暗殺計画に加わりましたが事前に露見したため、曹操との関係が急速に悪化しました。
そして、翌201年に曹操との争に破れ荊州を支配していた同族の劉表のもとに逃れます。
劉表は劉備を客将として迎えましたが、独自の領土を持つことはできず、劉表は以下の一部将として時を過ごします。
「水魚の交わり」のストーリー
水魚の交わりの本文は以下の3つに分けられます。
この3つに分けて口語訳します。
伏龍・鳳雛のうわさ
琅邪(ろうや)からやってきた諸葛亮は、襄陽(荊州の中心都市)の近くで仮住まいしていた。
いつも、自分を春秋戦国時代の名宰相の菅仲や名将楽毅と比べていた。
「時局を知るには優秀な人物であるべきだ。そうなると、自然と伏龍・鳳雛という2人の人物が思い浮かぶ。(伏龍は)諸葛孔明、(鳳雛は)龐士元です。」
※臥竜:伏龍と同じく、世に知られていない優秀な人物のこと
諸葛亮の進言
そして、劉備が諸葛亮に(これからどうすればよいかという)策を訪ねると、諸葛亮は次のように言いました。
「曹操は100万の軍を率い、皇帝(天子)奉じて諸侯に命令しています。
※天子は皇帝のことで、ここでは後漢最後の皇帝である献帝のこと
※諸侯は有力貴族のことで、ここでは有力者ぐらいにいみになる
この勢いがある曹操とまともに戦ってはなりません。
孫権は江東(長江下流域)を支配し、国は守りやすく、人民の支持も得ています。(この孫権と手を組み)ともに助け合うのは良いのですが、争ってはなりません。
荊州は軍を動かしやすい場所です。(その西にある)益州は険しい地形に守られ、肥沃な大地が広がる天から与えられた土地です。
※益州:四川盆地を中心とした地域で、のちに劉備が蜀を建国する
もし、(あなた:劉備)が荊州と益州を領有し、その要害の地を保てれば、天下に大きな動きがあった時、荊州の兵は重要拠点の宛や(都のある)洛陽を攻め、益州の兵は秦川を攻めることができます。
(そうなれば)天下の人民はこぞって将軍のために食物を捧げ、迎えてくれるに違いありません。」
劉備は「善し」といいました。
結び
これ以後、(配下に加わった)諸葛亮と劉備の親交はどんどん深まりました。
そして劉備は「私にとって孔明がいるのは、魚が水を得たようなものだ」といいました。
「水魚の交わり」が書かれた本
水魚の交わりについて書かれた本が2冊ありますので紹介します。
『蜀志』
1つ目は『蜀志』です。
小説である『三国志演義』と区別するため『正史 三国志』とよばれることもあります。
『魏志』『呉志』『蜀志』と3国を別々に扱っているのが特徴です。
『十八史略』
『十八史略』は宋末から元の初期に南宋の曾先之(そうせんし)によって書かれた本です。
史料的価値は低いものの、中国史の大まかな流れを知るのにふさわしい入門書として親しまれてきました。
ある程度、受験対策にもなるので気が向いたら読んでみてはいかがでしょうか。
故事成語「水魚の交わり」の使い方・例文・類語
劉備と諸葛亮の交流は故事成語「水魚の交わり」として知られています。
故事成語としての使い方や例文、類語についてまとめます。
使い方
並々ならぬ親しさを表現する際に使います。
友人関係や夫婦関係でも使用されます。
例文
高校時代から苦楽を共にした彼との関係は水魚の交わりといってもよいものだ。
類語
刎頸(ふんけい)の交わり
刎頸の交わりも互いの親密な関係をあらわす故事成語です。
相手のために首を切られても悔いはないという意味で、いわば運命共同体として相手をみなしています。
あたかも、メロスとセリヌンティウスの間柄のようですね。
まとめ
今回は「水魚の交わり」についてまとめました。
諸葛亮を得た劉備は喜びのあまり、いつも諸葛亮と話をして義兄弟の関羽や張飛がドン引きしてしまいます。
ただ、諸葛亮の才能は本物で、劉備に仕えてから蜀の建国を助け、劉備の死後は子の劉禅に忠節を尽くします。
劉備がはるかに年下の諸葛亮を軽んじず、三顧の礼で迎えたことに対し、諸葛亮は自分の全身全霊をもって答えました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。