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古代最大級の対外戦争である白村江の戦いとは?背景、原因、内容、影響などについてわかりやすく解説

 

このページをご覧になっている皆さんは

 

白村江の戦いってどんな戦いだろう?」

白村江の戦いの背景や原因は何だろう?」

白村江の戦いの影響はなんだろう?」

 

こういった疑問を持っているのかもしれません。白村江の戦いは663年におきた倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍の戦闘のことです。戦いの結果は唐・新羅連合軍の圧勝に終わりました。戦闘終了後、倭国は唐・新羅連合軍の侵入に備え、国の守りを固めます。

 

今回は、白村江の戦いの背景や原因、内容、影響などにつてわかりやすく解説します。

 

この記事で分かること

白村江の戦いは唐・新羅連合軍と倭国百済連合軍の戦い

・戦いの勝者は唐・新羅連合軍

・敗戦後、中大兄皇子は各地の防衛施設を整備し、唐・新羅連合軍の来襲に備えた

・戦いの後、新羅朝鮮半島から唐を追い出して朝鮮半島を統一した

 

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朝鮮半島衛星地図

引用:朝鮮半島 - Wikipedia

 

 

 

白村江の戦とは

どんな戦い?

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6世紀後半の朝鮮三国

引用:百済 - Wikipedia

 

白村江の戦いは、倭国百済の連合軍が唐と新羅の連合軍との間に起きた戦闘です。朝鮮半島南東部の新羅超大国である唐と連合を組み、朝鮮半島南西部にあった百済を滅ぼします。 

一方、百済の残存勢力は倭国(日本)に人質として出されていた百済王子を奉じて百済復興運動を展開します。そして、百済復興軍は倭国の大王である斉明天皇に援軍を要請します。 

これに斉明天皇が応じたことで倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍が現在の錦江河口付近にあたる白村江で激突します。

 

 

戦った場所は?

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地図中の青線が錦江

引用:錦江 (韓国) - Wikipedia

 

 

両軍が戦った白村江は、正確な位置は不明ですが錦江という川の河口と考えられています。錦江は百済にとって重要な水上交通路でした。 

錦江は百済の都が置かれていた公州の外港にあたる場所で非常に重要な拠点です。百済復興軍が援軍である倭国の軍勢を都の海の入り口である錦江に呼び寄せたとしても全く不思議ではありません。

倭国の援軍派遣を知った唐と新羅の軍がこの地で待ち構えるのは戦術上当然といってもよいでしょう。

 

  

白村江の戦いの背景にあった隋唐帝国の出現

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中国を統一した隋の楊堅

引用:楊堅 - Wikipedia

 

581年、中国北部を治めていた北周から支配権を奪った楊堅は隋を建国します。隋は589年に南朝の陳を滅ぼし中国を統一しました。後漢滅亡以来、370年続いた中国の分裂時代がこれで終わります。これにより、東アジアに巨大な統一国家が生まれました。

 

隋は大軍を派遣して朝鮮半島北部の高句麗を攻めます。隋が滅んだ後は、唐が高句麗攻撃を続けました。この時、新羅は唐に味方し、百済高句麗を支援しました。超大国である隋や唐が出現したことで朝鮮半島情勢は大きく動き出します。

  

戦いの原因は友好国百済の滅亡

白村江の戦いが起きるおよそ20年前の642年、百済義慈王は大挙して新羅に攻め込み、40余の城を攻め落とします。国家滅亡の危機に瀕した新羅超大国である唐に援軍を求めました。

 

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唐の高句麗出兵


引用:唐の高句麗出兵 - Wikipedia

 

唐は新羅の求めに応じて13万もの援軍を派遣します。唐が援軍を派遣した理由は、百済が唐と敵対関係にある高句麗を支援していたからです。頑強に抵抗する高句麗を滅ぼすため、背後で支援する百済を叩くのが唐の狙いでした。

 

唐の援軍派遣により形成は一気に逆転し、百済は唐の救援軍に対し有効な反撃をすることができず、都の泗沘が攻め落とされます。まもなく、百済義慈王が降伏することで百済は滅亡しました。

 

 

白村江の戦いの経緯

百済復興運動の始まり

唐の主力部隊が百済領から撤退すると、百済の有力者である鬼室福信らが反乱を起こしました。彼らの軍を百済復興軍とよびます。百済復興軍は復興の旗頭として、倭国に人質として出されていた百済王子の扶余豊璋の帰国を倭国に求めます。

 

倭国としては、長年の友好国である百済が滅ぶことで大陸から情報や文物を入手できなくなることを懸念しました。また、この戦いを機に朝鮮半島での勢力拡大をもくろむ意図があったのかもしれません。

 

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斉明天皇

引用:斉明天皇 - Wikipedia

 

 

大王である斉明天皇阿倍比羅夫らを朝鮮半島に派遣すると決定します。それだけではなく、天皇自ら筑紫の朝倉宮に移り戦争に備えました。しかし、戦いが始まる前の661年に、斉明天皇は朝倉宮で死去します。

 

斉明天皇の死後、皇太子の中大兄皇子は皇太子の身分のまま天皇代理として朝廷を指揮し、朝鮮半島への派兵を続行します。

 

戦いの経過

 

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朝鮮半島への派兵を続行した中大兄皇子(のちの天智天皇

引用:天智天皇 - Wikipedia

 

661年から662年にかけて、倭国百済に対し援軍を派遣します。この軍団を得て、百済新羅軍を押し返すことに成功します。これを知った唐はすぐさま水軍を派遣し、新羅軍と共同で倭・百済連合軍に対処します。

 

唐軍の狙いは、水陸両面から一気に併進することで倭・百済連合軍を逃さず壊滅させることにありました。そして、両軍合わせて10万以上となる大規模な戦いが展開されます。

 

錦江河口に集結した唐・新羅連合軍に対し、倭国百済連合軍はとくに明確な作戦をたてずに突撃を開始します。その結果は悲惨なものでした。唐軍の大型船に対し、倭国の軍船が小さかったこともありますが、作戦計画がない状態での無秩序な戦闘で倭国百済連合軍は多くの死者を出します。

 

陸上でも、唐・新羅連合軍は倭国百済連合軍を撃破しました。戦いの結果、百済復興軍は潰滅し、生き残った百済の貴族たちは倭国に亡命します。これにより、百済は完全に滅亡しました。

 

 

白村江の戦いの影響

日本で防衛体制が整備された

白村江の戦いが、倭国百済連合軍の大敗に終わった時、次に心配されたのが唐・新羅連合軍が倭国に攻めてくることでした。朝廷のトップである中大兄皇子は矢継ぎ早に防衛策を支持します。

 

 

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水城の断面

引用:水城 - Wikipedia

 

まず、九州北部にある朝廷の拠点の太宰府防衛のため、水城とよばれる土塁が築かれました。全長1キロ、高さ14メートルに及ぶ土塁です。さらに、朝鮮式山城である大野城を築城させます。朝鮮式山城の築城では亡命してきた百済貴族が技術指導を行いました。

 

加えて、九州北部を防衛する防人の配置を決定し兵力をあつめます。そして、各地にのろし台を置いていつでも唐・新羅連合軍が攻めてきてもいいようにし、都も飛鳥より内陸にあたる琵琶湖沿岸の大津に移すなど万全の態勢を整えました。

 

新羅朝鮮半島を統一した

 

666年、唐は高句麗への侵攻を再開します。百済という援軍を失った高句麗は唐と新羅の挟み撃ちを支えきれず、ついに滅亡してしまいました。高句麗の生き残りは靺鞨の人々とともに中国東北地方に渤海国を建します。

 

百済高句麗を滅ぼした唐は、それらの領土や新羅を直接支配しようと考えます。これに対し、新羅朝鮮半島から唐の勢力を追い出すことを画策します。670年から676年にかけて、新羅は唐と軍事的な衝突を繰り返し、旧百済領や旧高句麗領の一部を自領に取り込みます。

 

唐は新羅討伐を考えましたが、周辺諸国との戦争が激しくなったため新羅討伐を断念します。こうして、新羅朝鮮半島の統一に成功しました。

まとめ

 白村江の戦いは、唐・新羅連合軍と倭国百済連合軍の戦いでした。戦いの結果は唐・新羅連合軍の勝利です。大敗を喫した倭国は自国の防衛を固めました。その一方、朝鮮半島では新羅が唐の勢力を追い出し半島統一を成し遂げます。

この記事を見て、白村江の戦いの内容や、原因、背景、影響などについて「そうだったのか」と思っていただけると幸いです。 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

釣り天井事件の舞台?幕末に土方歳三に攻め落とされた?宇都宮城ってどんな城!?

宇都宮城ってどんな城?

宇都宮釣り天井事件って何?

宇都宮城戊辰戦争土方歳三に攻め込まれたって本当?

 

このページをご覧の方はそのようにお考えかもしれません。宇都宮城は宇都宮氏の居館として作られ、戦国大名宇都宮氏の本拠地となった城でした。

 

江戸時代の初めにおきた釣り天井事件で、宇都宮城本多正純は失脚してしまいました。その後、宇都宮城はたびたび城主を変えつつ、江戸幕府の北の拠点として機能し続けます。

 

幕末、江戸開城に納得しない伝習隊などの旧幕府軍宇都宮城を攻撃しました。このとき、土方歳三旧幕府軍の指揮官の一人として参戦し、足を負傷します。

 

今回は、宇都宮城の歴史や釣り天井事件、幕末の宇都宮攻防戦についてまとめます。

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宇都宮城富士見櫓

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この記事で分かること

 

宇都宮城をつくった宇都宮氏の歴史

・宇都宮釣り天井事件の大まかな内容

戊辰戦争の一部である宇都宮攻防戦の様子

 

宇都宮城とは 

宇都宮城川越城忍城、前橋城、金山城、唐沢山城、多気城とともに関東七名城の一つとして数え上げられています。宇都宮城の概略についてご紹介します。

 

宇都宮城は古代末期に築城されました。城の形式は平城です。江戸時代初期に宇都宮城を与えられた本多正純は旧来の城郭を大幅に改造しました。

 

この城は、本丸と二の丸、三の丸、外郭から構成され、それぞれの郭を守るように堀を巡らせています。中でも本丸を守る堀は幅20メートルにもなります。江戸時代の改修では、東北地方からの攻撃が想定されていたため、北の守りが強化されました。

 

さらに、奥州街道日光道中、寺町などの整備により宇都宮城全体の防御力を向上させます。

 

北関東随一の名門大名となった宇都宮氏

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宇都宮氏の家紋である左三つ巴


引用:宇都宮氏 - Wikipedia

 

鎌倉時代の宇都宮氏 

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宇都宮市にある二荒山神社

引用:二荒山神社 - Wikipedia

 

宇都宮氏の始祖は藤原宗円という人物です。彼は源頼家義家にしたがって前九年合戦を戦い、その功績により現在の宇都宮(二荒山神社の別名)の別当に任じられました。これにより、子孫は宇都宮氏を名乗るようになります。

 

宇都宮家三代当主の宇都宮朝綱源頼朝から「関東一の弓取り」とよばれるほどの武勇の持ち主でした。そのように呼ばれるきっかけとなったのは奥州合戦での大活躍です。頼朝は奥州合戦への往路・復路で宇都宮に立ち寄り、戦勝祈願と戦勝御礼を行っています。

 

鎌倉時代末期に楠木正成らが畿内で挙兵すると、宇都宮家九代当主の宇都宮公綱は正成討伐軍に参加します。このとき、敵である正成から「坂東一の弓取り」と評されました。

 

室町時代から戦国時代にかけての宇都宮氏 

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坂東一の弓取りといわれた宇都宮公綱

引用:宇都宮公綱 - Wikipedia

 

室町時代、宇都宮氏は足利尊氏に味方して北関東での支配を強めました。しかし、尊氏の死後、関東で起きた動乱に巻き込まれ、一族が分裂するなど勢力が衰退します。

 

衰退する宇都宮氏を再興したのが十七代当主の宇都宮成綱です。家督相続時におきた混乱を収束させると近隣の小山氏との争いに勝利して領土を拡大します。同時に、古河公方関東管領上杉氏とも良好な関係を築き、外交面でも宇都宮家を安定化させます。

 

1512年、宇都宮成綱は重臣の芳賀高勝を殺害し、宇都宮家で内乱が起きました。これを、宇都宮錯乱といいます。宇都宮成綱は2年にわたった宇都宮錯乱に勝利します。しかし、成綱の死後、宇都宮家は再び混乱し衰退の一途をたどるようになります。

 

そして、21代当主宇都宮広綱の時代には家臣に下剋上され、一時、宇都宮城を乗っ取られてしまいます。

 

戦国大名宇都宮氏の終焉

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宇都宮家の改易の黒幕とされた浅野長政

引用:浅野長政 - Wikipedia


弱体化した宇都宮氏は防御に適さない宇都宮城を家臣に委ね、自らは堅固な多気山城に立てこもります。

 

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めがはじまると22代当主の宇都宮国綱は秀吉に味方します。これにより、宇都宮氏は所領18万石を安堵されました。しかし、1597年に突如改易されてしまいました。これにより、戦国大名宇都宮氏は歴史の表舞台から退場します。

 

改易の理由は不明ですが、豊臣政権の五奉行の一人である浅野長政との対立が原因だとする説があります。

   

 

宇都宮城は将軍の日光東照宮参詣の宿泊所

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日光東照宮の陽明門

引用:日光東照宮 - Wikipedia

 

宇都宮城は江戸と東北地方・日光東照宮を結ぶ交通上の重要地点です。江戸幕府が注意していたことの一つに仙台藩伊達家の動向があります。もし、仙台藩が関東に攻め込んできたとき、迎撃の拠点となるのが宇都宮でした。

 

また、この城は徳川家康が葬られた日光東照宮の玄関口にあたります。東北に抜ける奥州街道と日光に達する日光道中の両方を抑える重要な場所に宇都宮はあったのです。

 

宇都宮釣り天井事件

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釣り天井の例

引用:天井 - Wikipedia


宇都宮釣り天井事件は、宇都宮城本多正純が2代将軍徳川秀忠を謀殺しようとしたとされ失脚した事件です。

 

正純が宇都宮城主となったいきさつ

本多正純徳川家康の謀臣である本多正信の子で、家康から絶大な信頼を受けていました。家康の死後、正純は秀忠付きの老中となり権勢をふるい続けました。しかし、振る舞いが尊大で土井利勝をはじめとする秀忠側近に恨まれたといいます。

 

1619年、秀忠は「家康の遺命」として本多正純宇都宮城主とします。そして、それまで宇都宮城主だった奥平氏を下総古河に移しました

 

本多正純の失脚

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本多正純と子の本多正勝の墓

引用:本多正純 - Wikipedia

 

1622年4月、徳川秀忠日光東照宮に参詣した時、その帰りに宇都宮城で一泊することになっていました。日光滞在中の秀忠に、姉の加納御前から密告が届きます。宇都宮城の普請に不備があるというのです。

 

これを聞いた秀忠は予定を変更し、宇都宮城に立ち寄らず壬生城を経由して江戸にもどりました。江戸にもどった秀忠は側近たちに密告の真偽を調査させます。

 

1622年8月、本多正純は幕府の命令で出羽山形に赴きました。目的は、改易された最上氏から山形城の引き渡しを受けるためです。無事、城を接収した正純のもとに幕府からの急使がやってきました。

 

幕府の急使は正純に、鉄砲の購入理由や宇都宮城を無断で修築し、秀忠の寝所となる部屋に釣り天井を仕掛けて暗殺しようとした疑いを糾問したのです。

 

正純は幕府の急使に理路整然と反論しましたが、一部の糾問に明確に答えられなかったことを理由に宇都宮を没収されました。

 

誰が、本多正純を失脚させたのか?

実は、秀忠は宇都宮城宿泊を取りやめた後、幕臣井上正就宇都宮城を調査させています。このとき、井上は宇都宮城に不審な点がないことを確認しています。それにもかかわらず、本多正純が失脚したのはなぜなのでしょうか?

 

一つは、加納御前の正純に対する恨みです。加納御前は奥平信昌に嫁いでいました。信昌や自分が生んだ子たちが早くに亡くなると彼女は奥平家の幼い当主を後見して家を守ろうとします。

 

そのさなかに、本多正純の転封によって平氏は宇都宮から古河に「格下げ」されてしまいました。

 

また、信昌と加納御前の娘は本多正信・正純父子と対立し失脚した大久保忠隣の子に嫁いでいました。こうした関連から加納御前が正純を陥れたという可能性は十分あります。

 

加えて、正純は家康側近として数々の裁定にかかわり、秀忠側近との折り合いも悪かったといいます。土井利勝をはじめとする秀忠側近が事件を利用して失脚させたのかもしれません

 

 

戊辰戦争の舞台となった宇都宮城

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宇都宮城の古地図

引用:宇都宮城の戦い - Wikipedia

 

幕末、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は新政府軍に降伏し江戸城を引き渡しました。しかし、これに納得しない人々は関東各地で新政府軍と戦闘をおこないます。そのうちの一つが宇都宮城の戦いでした。

 

宇都宮城攻防戦は1868年4月19日と4月23日に行われた二度にわたる戦いのことです。戦ったのは新政府軍と伝習隊を中心とする旧幕府軍でした。戦いの結果、宇都宮城は二の丸御殿、三の丸の藩士邸宅などを焼失します。

宇都宮城攻防戦直前の様子

旧幕府軍の決起

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幕末の大鳥圭介

引用:大鳥圭介 - Wikipedia

 

伝習隊は1867年に幕府の勘定奉行小栗忠順の主導で創設された洋式軍隊です。フランスから軍事顧問団を招き、本格的な洋式訓練を施した旧幕府軍の精鋭部隊でした。

 

徳川慶喜江戸開城を決めたことに対し、大鳥圭介率いる伝習隊は降伏に反対し下総国府台で決起しました。このとき、伝習隊に合流したのが新選組の副長だった土方歳三です。

 

国府台で決起した大鳥圭介土方歳三らは北上しつつ兵力を増強しました。そして、小山で新政府軍を打ち破ります。これは、鳥羽伏見の戦い以来、連戦連敗を続けてきた旧幕府軍にとって久々の勝利となります。

 

勢いを増した旧幕府軍は北関東の要衝である宇都宮城を目指しました。

 

宇都宮城の防衛体制

1867年4月、宇都宮藩では藩主が滋賀県大津で新政府に抑留されたため、藩主が不在でした。そのときに、藩内では野州世直しとよばれる大規模な農民一揆がおきます。

 

混乱状態の宇都宮藩では家老の県信輯(あがたのぶつぐ)が新政府軍に味方することを決定します。宇都宮藩は新政府の手を借りて一揆を鎮静化させることに成功しました。

 

ところが、宇都宮藩に次の試練が襲い掛かります。旧幕府軍2200名あまりが宇都宮城を目指して北上してきたのです。

 

第一次宇都宮城攻防戦

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旧幕府軍に合流した土方歳三

引用:土方歳三 - Wikipedia

 

1867年4月19日、旧幕府軍の接近を知った新政府軍は宇都宮藩軍を主力とする700名で城の守りを固めます。最初におきた城外の戦闘で敗れた新政府軍は籠城策を取りました。

 

しかし、撤退時に田川に架かる橋を落とさなかったため旧幕府軍の城下進出を許してしまいます。

 

旧幕府軍宇都宮城北方の二荒山神社を占拠し、そこから砲弾を宇都宮城に打ち込みました。最新式の兵器を操る旧幕府軍に対し、旧式装備の新政府軍は終始圧倒されます

 

戦いのさなか、旧幕府軍の兵士の一人が戦場での恐怖にかられ敵前逃亡してしまいました。このとき、指揮官の土方歳三は逃亡する兵を斬り捨て退却を厳に禁じます

 

劣勢の新政府軍は宇都宮城の放棄を決断しました。こうして、第一次宇都宮城攻防戦は旧幕府軍の勝利となります。

 

第二次宇都宮城攻防戦

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戊辰戦争でも用いられた四斤山砲

引用:四斤山砲 - Wikipedia

 

宇都宮城陥落で勢いに乗る旧幕府軍は、宇都宮城の南方にある壬生城攻略を目指して進撃しました。その途中、安塚に布陣する新政府軍に対し総攻撃を仕掛け占領しました。

 

これに対し、壬生城を守備していた新政府軍の鳥取藩兵は安塚奪還のために出撃し、旧幕府軍を敗走させ安塚を奪還しました。

 

援軍として壬生城に到着した薩摩藩兵を主力とする新政府軍は宇都宮城の奪還を決めました。疲労困憊する鳥取藩兵は壬生城の守備として残し、主力部隊は宇都宮城を目指して北上します。

 

1867年4月23日、新政府軍は宇都宮城を守る旧幕府軍と交戦状態に入ります。城の西側から攻め寄せた新政府軍は伝習隊の猛烈な反撃にあい苦戦を強いられます。また、大鳥圭介は戦闘前に配置していた伏兵を用いて新政府軍をかく乱します。

 

これに対し、新政府軍は城の西側に砲兵を配置し、宇都宮城旧幕府軍が布陣する二荒山神社に砲撃を加えました。激しさを増す戦闘の中、土方歳三は足に銃弾を受けて戦線を離脱します。被害が急増した旧幕府軍宇都宮城を捨て日光に撤退しました。

 

 

現在の宇都宮城址公園

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宇都宮城址公園の遠景

引用:宇都宮城址公園 - Wikipedia

 

戊辰戦争の激戦により、宇都宮城のほとんどの建物は破壊され、城下や二荒山神社などは戦火により焼失しました。戦いの後、宇都宮城は宇都宮藩に返還されます。廃藩置県後、宇都宮城には歩兵第2連隊の本営が置かれることとなりました。

 

戦後、宇都宮城の遺構の大半は都市開発によって失われ、昭和中期には本丸土塁の一部が残るのみとなっていました。

 

平成に入り、宇都宮城やその周辺を整備する事業が本格化します。まず、市は発掘調査や文献調査をもとに本丸の外観復元に取り組みます。その結果、本丸清明台櫓や冨士見櫓、石垣、土塁、土塀、堀の外観を復元します。

 

これにより宇都宮城址公園では「宇都宮さくら祭り」や「フェスタmy宇都宮」、「うつのみや城址祭り」などが開催され、観光の名所となります。

 

2020年は新型コロナウイルスの流行で多くのイベントが中止となりました。この影響が弱まり、来年以降はイベントが開催されるといいなと思います。

 

まとめ

 いかがでしたか?

 

宇都宮城は、下野一帯に勢力を伸ばした宇都宮氏の居城として発展しました。戦国大名の宇都宮氏は豊臣秀吉によって改易されてしまいます。

 

1622年、将軍秀忠の暗殺を謀った「釣り天井事件」の疑惑をにより城主の本多正純が改易となります。その後、奥平氏や本多氏など譜代大名が入れ代わり立ち代わり宇都宮城の主となりました。

 

幕末、大鳥圭介土方歳三率いる旧幕府軍宇都宮城を急襲し陥落させました。しかし、新政府軍はすぐに体勢を立て直し、宇都宮城を奪還します。この戦いで宇都宮城と城下の大半が焼失しました。

 

この記事を読んで、宇都宮城の歴史や釣り天井事件、宇都宮城攻防戦について「そうだったのか」と思っていただけたら嬉しいです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

今さら聞けない!?室町時代の自治的な村、惣村とは? 元予備校講師がわかりやすく解説!

惣村って何?

自治的な村ってどういう意味?

惣村と土一揆の関係は?

 

このページを訪れた皆さんは、こういう疑問を持っているかもしれません。惣村とは、室町時代を中心に農村にできた村組織のことです。惣村の「惣」はすべてといういみです。お惣菜の惣と同じ意味ですね。

 

惣村は支配者である荘園領主国司守護大名とある時は交渉し、ある時は従い、ある時は争いながら自分たちの村の自治を守ります。

 

やがて、惣村どうしが結びつき惣荘・惣郷が形成されます。彼らは支配者に対して団結し、土一揆などで領主に抵抗しました。

 

今回は惣村について元予備校講師がわかりやすく解説します。

 

室町時代に興味がある方はこちらの記事もどうぞ!

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惣村とは? 

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惣村とは中世の農民が作り上げた自治的な村・共同組織です。日本史で中世といえば、鎌倉時代室町時代をさします。惣村の力が強まったのは室町時代でした。

 

古代から続く荘園制度が武士の台頭や南北朝の動乱などによって崩壊し、領主の支配力が弱まると各地の農民たちは村の自衛や共同作業の実施のためにまとまるようになります。それが、惣村です。

 

惣村では神社の儀礼を共同で行うことや入会地(いりあいち)とよばれる共同利用地の管理、村を略奪から守るための自衛活動、領主や国人からの不当な収奪に対する抵抗などが行われました。

惣村の特色

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惣村の指導者

惣村村の指導者は地侍でした。彼らはおとな(長・乙名)、沙汰人などとよばれます。地侍守護大名と主従関係を結び侍の身分を獲得した上層農民のことです。もともと、荘園領主の系統をくむ国人に比べると、より農民に近い存在だといえます。

村の政治は話し合いで決める

村の政治は寄合で決められました。寄合は惣村のなかにある村の鎮守の神社で話し合われます。この中で、村の様々なことが決められました。

惣村のルール(惣掟・地下掟)と地下検断

惣村のルールを惣掟といいます。惣掟は地下掟・村掟ともいいます。地下は「じげ」とよみます。平安時代、地下は天皇の御殿である清涼殿に上がることができない中・下級官僚を指す言葉でした。

 

鎌倉時代室町時代になると、地下は庶民を指す言葉として定着します。現在使われる言葉でいえば、「しもじも」や一般人に近いニュアンスですね。

 

地下の掟、つまり、一般人である惣村の村人が守るべきルールという意味で惣掟や地下掟と呼ばれるようになりました。惣掟には違反者は惣村から追放されるという規定がされます。

 

惣村では、村人は惣掟のルールに従うことが求められ、違反者にはペナルティが課されました。惣村の構成員が違反者に追放などのペナルティを課すなど自ら検断(逮捕・裁判すること)することを地下検断といいます。

惣村が年貢を請け負う「地下請」

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奈良時代平安時代の朝廷は農民個々人に土地を与え、租庸調などの税を取り立てていました。この仕組みは平安時代後半には崩壊してしまいます。

 

室町時代になり惣村が発達すると、荘園領主国司は年貢の徴収を自治組織である惣に委ねるようになります。惣は決められた年貢を納めるかわりに、惣村内部での自治を強めました。税を払う代わりに、口出しをさせないようにしたといってもよいでしょう。

 

地下請が広まるにつれ、荘園領主国司の農村に対する支配力は弱まり、惣村の力が強くなっていきました。

 

惣村が行った団体行動

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惣荘・惣郷の結成

惣村の力が強まると、近隣の惣村が結びつくようになりました。荘園内での惣村の連合を惣荘、国司の支配地である公領の惣村の連合を惣郷といいます。

 

惣荘・惣郷は荘園領主国司に対し、年貢の減免、荘官の免職、債務の減免などを要求しました。こうした要求が受け入れられないときは、土一揆などを起こして領主に抵抗しました。

一揆の結成

室町時代は惣村が発達したことにより農民が団結した時代です。彼らは利害が一致せず圧迫を加えるような領主に対し一致団結して一揆をおこします。

室町時代に起きた一揆の年表

1428年:正長の徳政一揆

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正長の土一揆の結果、徳政を実行したことを記録した柳生の徳政碑文

 

近江国(現在の滋賀県)で馬借とよばれる運送業者たちが借金の帳消しなどを行う「徳政」を要求して一揆をおこしました。近江坂本で起きた土一揆は現在の京都府にあたる山城国を始め、畿内一帯に広がります。

 

一揆勢は各地で高利貸しを営む土倉や酒屋、寺院を襲撃し勝手に借金を帳消しにする「私徳政」を実行しました。一揆の勢力は京都や奈良にも及びますが、室町幕府は武力鎮圧できません。

 

正長の土一揆について記録した興福寺の僧尋尊は

 

「正長元年九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣に之を取り、借銭等悉く之を破る。官領、之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。」と記録しています。

 

引用:『大乗院日記目録』

1429年:播磨の土一揆

播磨国(現在の兵庫県南部)で播磨一国の土民が蜂起しました。一揆勢の組敵は守護赤松氏の追放です。借金帳消しを求める徳政要求というよりは、守護の追放がメインになっている点で国人たちが起こす国一揆に近いかもしれません。

 

結局、播磨の土一揆は守護の赤松満祐によって鎮圧されます。

1441年:嘉吉の徳政一揆

正長の土一揆が起きた1428年、室町幕府では6代将軍足利義教が将軍に就任しました。義教は3代将軍足利義満の時代を理想とし、各地の守護に対し強圧的な姿勢で臨みます。義教によって攻撃されることを恐れた一部の守護は反義教の動きを強めました。

 

1441年、有力守護の一人である赤松満祐は私邸に将軍義教を招き宴会を開きました。縁もたけなわとなった時、赤松満祐の手勢が将軍義教や側近たちを襲撃し殺害してしまいます。これを嘉吉の変といいます。

 

嘉吉の変で幕府が混乱する中、畿内の農民たちは「代替わりの徳政」を要求し京都で蜂起しました。地侍たちを指導者とする一揆勢は数万人は室町幕府に対し徳政令の実施を要求しました。混乱する幕府は一揆勢の要求を受け入れ、嘉吉の徳政令を出させます。

まとめ

惣村とは、税を納めるかわりに様々なことを村人たちが決定する「自治的な村」でした。惣村を指導した地侍たちは「おとな」や「沙汰人」とよばれます。

 

村のルールである惣掟は、村の中の様々なことをルール化します。その内容は生活にまで及びました。惣掟に違反したものは追放などのペナルティを受けます。

 

大規模化した惣村は年貢の減免や荘官の免職、債務の破棄などを要求して土一揆を起こします。代表的な土一揆は正長の土一揆、播磨の土一揆、嘉吉の徳政一揆です。

 

この記事を読んで、「惣村って何?」、「自治的な村ってどういうこと?」、「代表的な土一揆」などについて少しでも「わかった」と思っていただけたら幸いです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

大砲や教会の鐘まで使う「序曲1812年」とは?チャイコフスキーやロシア遠征につても解説!

序曲1812年ってどんな曲?

序曲1812年は、いつ、誰が作曲したの?

序曲1812年とナポレオンのロシア遠征の関係は?

 

このページに来てくれた人はそう言った疑問を持っているかもしれません。序曲1812年はロシアの作曲家チャイコフスキーが19世紀後半に作曲しました。

 

この曲のテーマはナポレオンのロシア遠征ロシア帝国の勝利です。チャイコフスキーは戦いの様子を音楽によって表現しました。

 

曲中にはロシア正教の聖歌やフランス国家のラ・マルセイエーズロシア帝国の国家などが登場し、大砲や教会の鐘まで登場するスケールの大きな曲です。

 

今回はチャイコフスキー作曲の「序曲1812年」について解説します!

 

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モスクワのクレムリンにある大砲

引用:写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

 

序曲1812年とは

作曲者のチャイコフスキー

 

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チャイコフスキー

引用:ピョートル・チャイコフスキー - Wikipedia

「序曲1812年」を作曲したのはロシアの作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーです。1840年、ウラル地方のヴォトキンスクで生まれました。先祖はウクライナ・コサックでした。

 

幼いころから音楽の才能を発揮しますが、両親はチャイコフスキーを音楽家にせず、法律学校に通わせます。1859年に法律学校を卒業したチャイコフスキーロシア帝国の官僚となりました。

 

1861年チャイコフスキーは作曲家アントン・ルービンシュタインが音楽教育を行っていたロシア音楽協会(のち、ペテルブルク音楽院)で本格的に音楽の勉強にのめりこみました。そして、1863年ロシア帝国の官僚をやめ、音楽活動に専念します。

 

その後、パラキレフキュイムソルグスキーボロディンリムスキー・コルサコフのいわゆるロシア5人組と知り合い交流を深めました。

 

1866年、アントンの弟のニコライ・ルービンシュタインモスクワ音楽院を開くと、講師として教鞭をふるいました。以後、12年にわたってチャイコフスキーは教壇に立ちます。

 

1878年モスクワ音楽院の講師を辞めたチャイコフスキーは、「弦楽セレナード」、「交響曲第5番」、「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」、「交響曲第6番 悲愴」などの名曲を次々と作曲し、ロシアを代表する音楽家となりました。

 

1893年チャイコフスキーは「悲愴」の初演から数えて9日後にこの世を去りました。死因はコレラか肺水腫と考えられています。葬儀はロシア皇帝アレクサンドル3世の命により国葬とされました。

 

 

序曲1812年が作曲されたのはいつ?

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作曲を依頼したニコライ・ルービンシュタイン

引用:ニコライ・ルビンシテイン - Wikipedia

1880年5月末、チャイコフスキー楽譜出版社のユルゲンソーンから、旧知のニコライ・ルービンシュタインチャイコフスキーに作曲を依頼したがっているという内容の手紙を受け取りました。

 

当初、チャイコフスキーは作曲に前向きではなかったようで、返事を出したのはおよそ1か月後のことでした。返書の中でチャイコフスキーは金額・期限などについてはっきりさせるよう書いています。

 

また、7月に出した手紙では「自分自身が感動しないであろう作品に手を付けることはできない」と作曲に後ろ向きの姿勢を示しました。

 

9月末、今度はニコライ・ルービンシュタインが直接チャイコフスキーに手紙を出し、作曲を依頼します。さすがに、旧知のニコライ・ルービンシュタインから直接依頼されると断れなかったのか、しぶしぶ作曲に同意します。

 

その後、1か月半で「序曲1812年」は完成しました。ところが、演奏される前に依頼者のニコライ・ルービンシュタインが亡くなってしまいます。依頼者が亡くなることで宙に浮いた「序曲1812年」は1882年5月に楽譜が出版され、1882年8月に初演が行われます。

 

最初、「序曲1812年」は凡作だと新聞でたたかれました。しかし、1887年に行われたチャイコフスキー自身の指揮による演奏は大成功を収めました。以後、「序曲1812年」は名曲としてたびたび演奏されるようになりました。

 楽曲の全体構成

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「序曲1812年」を演奏する米国陸軍軍楽隊

引用:1812年 (序曲) - Wikipedia

 「序曲1812年」は、ナポレオンのロシア遠征とそれに対するロシア軍の抵抗、勝利という流れに沿って構成されています。

 

最初に流れてくるのはロシア正教会の聖歌「神よ、汝の民を救い」の旋律です。チェロとヴィオラの荘重なメロディーによって幕を開けます。

 

しばらくすると、どこかで聞いたことがあるメロディーが流れてきます。フランス国歌の「ラ・マルセイエーズです。これは、いうまでもなくナポレオン軍を象徴するものですね。「ラ・マルセイエーズ」は徐々に大きく、はっきりと響き渡りナポレオン軍の優勢が示されます。大砲が最初に「発砲」するのはこの場面です。

 

すこし演奏が静かになった後、再び激しい演奏に戻ります。今度は、ロシア軍の反撃です。「神よ、汝の民を救い」が流れ、教会の鐘が鳴り響きロシアの反撃と勝利をあらわします。

 

そして、最終盤に大音響とともに奏でられるのがロシア帝国国歌にあたる「神よ、皇帝を守り給え」でフィナーレへとなだれ込みます。大砲を打ち鳴らし、教会の鐘が鳴り響くさまは圧巻です。現在、自衛隊などで「序曲1812年」を演奏するときは、砲兵隊が105mm榴弾砲を空砲で発射します。

 

 

おすすめの「序曲1812年

www.youtube.com

いちばんのおすすめは「皇帝」ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮の「序曲1812年」です。楽曲の重厚さや荘重さ、カラヤン独特の重みなどすべてがおすすめですが、貴重な「合唱付き」というのも重要なおすすめポイントです。

興味がある方はぜひ聞いてみてください!

 

序曲1812年のモチーフとなったナポレオンのロシア遠征とは

 

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ロシア遠征直前地図:赤がフランス帝国

引用:ナポレオン・ボナパルト - Wikipedia

ナポレオンのロシア遠征は、ロシア帝国を大きく揺るがす出来事でした。第二次世界大戦独ソ戦大祖国戦争と称するまで、国を挙げた戦争という意味で祖国戦争とよばれたのは、1812年のナポレオンによるロシア遠征だったのです。ロシア遠征の大まかな流れを見ていきましょう。

ロシア遠征の原因

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イギリスが勝利したトラファルガー海戦

19世紀の初め、ヨーロッパ大陸は戦争の天才ナポレオンの力が強い時代でした。オーストリア帝国ロシア帝国アウステルリッツ三帝会戦で敗北し、プロイセン王国イエナの戦いで敗北しました。

 

しかし、会場ではイギリスのネルソントラファルガー海戦で戦い敗れてしまいます。ナポレオンは宿敵イギリスを苦しめるため、ロシア・オーストリアプロイセンなどにイギリスとの貿易を禁じる「大陸封鎖令」を出します。

 

しかし、ロシア帝国にとってイギリスは優良な穀物販売先でした。このため、ロシアはフランスの目をかいくぐってイギリスと密貿易をします。これが、フランスにバレてしまいました。事態を知ったナポレオンはロシアを屈服させるためロシア遠征を決断します。

 

 

ロシアが勝利するまでの経過

1812年6月、ナポレオンは45万のフランス軍(通称、大陸軍:グランダルメ)と同盟国軍25万のおよそ70万の大軍を率いてロシアに侵攻を開始しました。ロシア軍は50万、最終的には90万を動員しました。

 

国境を守っていたロシアのバルクライ将軍はフランス軍との衝突を避け内陸へと撤退します。総司令官となったクトゥーゾフ将軍はモスクワ手前のボロジノでナポレオン軍を迎撃します。

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ナポレオンが勝利したボロジノの戦い

引用:ボロジノの戦い - Wikipedia

しかし、会戦となるとナポレオンは強く、ボロジノの戦いでロシア軍は敗北してしまいました。このあたりが「序曲1812年」でラ・マルセイエーズが鳴り響いている場面ですね。

 

ボロジノの戦いで敗れたクトゥーゾフはモスクワを明け渡します。この時、ロシア軍はモスクワ市街を焼き払いました。ナポレオンがモスクワに入城した時、彼の目の前にあったのは荒れ果て食料もない廃墟だったのです。

 

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炎上するモスクワとナポレオン

引用:1812年ロシア戦役 - Wikipedia

攻め込まれた時、自国領土を焼き払ってでも敵軍の補給を困難にする戦法を焦土作戦といいます。加えてロシア軍はコサック騎兵を使って食糧輸送中のフランス軍を襲撃し、前線のフランス兵を飢えさせました。

 

補給困難に陥ったナポレオンは1812年10月に撤退を決断します。11月になるとロシアの極寒の冬がフランス軍に襲い掛かりました。冬将軍の到来です。フランス軍は徐々に数を減らしていきました。

 

さらに、寒さと飢えでフランス軍は多くの軍馬を失いました。そのため、騎兵は歩兵となり、引手を失った大砲は各所で放棄されます。ロシア軍は弱体化したフランス軍に容赦なく襲い掛かりました。

 

1812年12月、フランス軍は完全にロシア領から追い出されましたロシア遠征の失敗はナポレオンの威信を失墜させ、彼の没落のきっかけとなります。

まとめ

 「序曲1812年」は19世紀後半にチャイコフスキーによって作曲されました。曲のモチーフとなったのはナポレオンによるロシア遠征です。楽曲の中にロシア正教の聖歌やフランス国歌、ロシア帝国国歌が用いられています。

 

また、曲中で大砲や教会の鐘が使われるなどスケールが大きいことも「序曲1812年」の魅力です。

 

実際のロシア遠征は「序曲1812年」の流れの通り、モスクワ占領までのナポレオンの優勢からロシア軍の勝利を描く壮大な歴史劇となっています。自衛隊などが演奏するときは実際の大砲が用いられ、迫力満点です。

 

この記事を見て「序曲1812年」とはなにか、作曲者のチャイコフスキーがどんな人か、モデルになったナポレオンのロシア遠征とは何かなどについて「そうだったのか」と思っていただけると幸いです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

国人って何?国人一揆や国人と地侍、守護大名、戦国大名との違いを解説!

室町時代の日本史用語の一つに「国人」という語句があります。

 

このページを訪れた人は「国人とは何か」、「国人と守護大名地侍などとの違いは?」といった疑問を持っているかもしれません。

 

国人とは、南北朝時代から戦国時代にかけて各地の村落を支配した領主のことです。荘園領主のもとで土地を管理していた荘官鎌倉時代に多く設置された地頭などから国人に成長することが多かったとされます。

 

今回は国人について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

 

室町時代や戦国時代の記事興味がある方はこちらもどうぞ!

 

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国人って何?

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国人出身の真田氏が居城とした上田城

引用:上田城 - Wikipedia

 

国人とは

その地に住み着いていた有力武士。荘官・地頭などが地方に土着して領主層に成長したものが多い。(引用:山川出版社日本史B用語集」)

 

国人という言葉が用いられるようになったのは鎌倉時代のことです。南北朝が激しく対立した14世紀中ごろ、ちょうど中央で観応の擾乱が起きたころには、国人は独自の社会勢力として認識されるようになりました。

 

国人たちは自分の館の周囲に自分の土地を集め、一円的な支配を強めます鎌倉時代から室町時代にかけて商業が発達すると、国人の中には交通や流通の拠点に自分の館を構え、定期市や手工業者を支配する者も現れました。

 

国人は周辺の国人たちと手を組み国人一揆を結成守護大名の支配に抵抗します。その後、下剋上などにより戦国大名が成立すると戦国大名に抵抗しつつも徐々に戦国大名の家臣にされていきました。なかには毛利氏のように国人から戦国大名に成長する者も現れます。

 

 

室町時代の国人

国人の成長と国人一揆

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毛利氏が用いた連判状

引用:二通の傘連判状(毛利氏の傘連判状から備後国人が抜ける謎)

 

そもそも、国人の歴史をさかのぼると鎌倉時代にたどり着きます。鎌倉時代、各地方には荘園領主を支配する荘官鎌倉幕府御家人として各地の荘園で権利を認められていた地頭などがいました。

 

彼らは徐々に土地に対する支配力を強め、各地を実力でおさめるようになります。そのため、室町時代以降は国人、あるいは国人領主と呼ばれることが多くなりました。

 

国人たちは黒人相互の紛争解決や農民の支配、守護大名からの圧力への抵抗などをするため、国人同士で武力連合を組むようになります。これを、国人一揆といいました。

 

国人一揆の中には互いが対等であることを示す傘(からかさ)連判状を交わして同盟関係を確認するものもありました。

国人と守護大名の関係

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守護大名武田氏の居城が置かれた躑躅ヶ崎館の外堀

引用:躑躅ヶ崎館 - Wikipedia

室町時代に入り大きく成長したのが守護です。鎌倉時代の守護と異なり室町時代の守護は国に対する支配力が強く、国人や地侍、有力農民などから税を取り立てました。権限が強まった室町時代の守護は守護大名とよばれますね。

 

また、守護大名守護代などを通じて国人領主を家臣にしようとします。これを、守護大名による国人領主の被官化ともいいますね。

 

国人からすれば、守護大名支配下に入れば、税を納め軍役をつとめなければいけません。これに反発する国人たちは国人一揆を結んで守護の支配に抵抗したわけです。

国人と地侍の違いとは?

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正長の土一揆について記録した柳生の徳政碑文が彫られた疱瘡地蔵

引用:正長の土一揆 - Wikipedia

では、同じように武力を持っていた国人と地侍とはどのように違うのでしょうか。一番の違いは出自です。荘官や地頭の系譜を継ぎ、代々支配者側にいたのが「国人」です。それに対し、有力農民が武装室町時代の村落である「惣」の一員でありながら武力で地域を支配していたのが地侍です。

 

農民に過ぎなかった地侍たちは惣の力を背景に、守護大名と主従関係を結びます。やがて、地侍たちは一致団結して土一揆を起こし、守護大名などの支配勢力に反抗しました。正長の土一揆がもっとも有名です。

 

やがて、国人と地侍は手を組んで守護大名に対抗するようになります播磨の土一揆山城国一揆では国人と地侍が協調して守護大名に対抗しました。守護大名国人一揆土一揆の頻発に手を焼きます。 

 

戦国時代の国人

国人と戦国大名の関係

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毛利元就墓所

引用:毛利元就 - Wikipedia

応仁の乱以後、室町幕府の権威は急速に衰えます。それによって地方では戦国大名による支配が進みました。戦国大名守護大名から戦国大名に成長したものや守護代から戦国大名になったもの、国人から戦国大名になりあがったものに大別されます。

 

戦国大名たちは分国法を制定して国内の国人や地侍をコントロールしようとしました。戦国大名の力が強まると、徐々に国人や地侍の力は弱まり戦国大名の家臣となっていきます。 

下剋上戦国大名に成長した国人 

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毛利元就が居城とした吉田郡山城の遠景

引用:吉田郡山城 - Wikipedia

国人から戦国大名に成長した代表例は中国地方の毛利氏でしょう。毛利元就守護大名大内氏支配下で力を蓄え、厳島の戦いで勝利することによりもともとの支配地である安芸国広島県)だけではなく、周防・長門山口県)や石見(島根県西部)を支配する大大名となります。

 

四国では土佐の長宗我部氏が勢力を拡大します。土佐国は代々細川氏が守護をつとめていましたが、応仁の乱以降、室町幕府の力が衰えると徐々に長宗我部氏のちからが増大します。そして、下剋上によって土佐一国、長宗我部元親の代には四国全土を制圧する守護大名となりました。

 

他にも後に天下を統一する三河松平氏も国人由来の戦国大名です。 

寄親・寄子制とは? 

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軍団化した戦国時代の部隊

引用:写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

戦国大名は家臣たちをコントロールするため、戦国大名を頂点とするピラミッド型の組織を作り上げました。この仕組みを寄親・寄子制といいます。

 

まず、戦国大名は自分が直接指示を出す上級家臣(おおむね、国人たち)を寄親とします。そして、国人たちの下に地侍たちを寄子として配置しました。戦時には、寄親は寄子を動員し一部隊を形成して戦国大名の指示に従いました。こうして、国人たちは戦国大名の支配に組み込まれます。 

まとめ 

国人とは鎌倉時代以前に荘官や地頭だった者たちが各地で土着したもののことです。国人たちは自らの利益を守るため国人一揆を形成し守護大名戦国大名の支配に抵抗しました。

 

地侍は国人よりも中小の在地領主で、有力農民が武装化した下級武士と考えられます。戦国大名の支配が強まると、国人は上級家臣である寄親に、地侍は国人たちの下に就く下級武士の寄子に編成され、戦国大名の支配に組み込まれました。

 

「国人って何?」、「国人と守護大名戦国大名地侍の違いは?」といった疑問に少しでも答えられたらいいなと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

傍若無人の語源となり、秦王政(後の始皇帝)暗殺を試みた荊軻とは?

このページを訪れた人は、

 

荊軻(けいか)って誰?」

「どうやって始皇帝を暗殺しようとしたのか?」

「傍若無人荊軻は関係があるの?」

 

このページを訪れた人は、そういった疑問を持っているかもしれません。

 

荊軻は古代中国の戦国時代に生きた「刺客」、つまり暗殺者です。燕の太子丹の依頼を受けた荊軻は燕に亡命していた秦の将軍樊於期(はんおき)の首を持参して秦王政(のちの始皇帝)に謁見し、暗殺を試み失敗しました。

 

なぜ、燕の太子丹は荊軻始皇帝暗殺を依頼したのでしょうか?また、荊軻とはいったいどんな人物だったのでしょうか?そして、どうやって荊軻は警固が厳重を極めた秦王政に近づき、暗殺の一歩手前まで追い詰めたのでしょうか?

 

今回は、始皇帝をあと一歩のところまで追い詰めた荊軻についてまとめます。

 

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 荊軻とは

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史記』の著者、司馬遷

引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ab/Si_maqian.jpg


荊軻について詳しく書き記したのは『史記』の編纂者である司馬遷です。司馬遷は、荊軻をはじめ戦国時代の著名な暗殺者5人をとりあげ「刺客列伝」を書きました荊軻の経歴はこの「刺客列伝」の内容によります。

 

荊軻は現在の河南省の一部にあたる衛の国に生まれました。衛は歴史の古い国でしたが国力は弱く、荊軻の時代には韓や魏の属国状態となっていました。

 

「刺客列伝」によると荊軻は若いころから読書と酒を好み、諸国を放浪して遊説術を学んだといいます。放浪の旅から戻った荊軻は衛の君主に謁見しましたが、衛の君主は荊軻の策を採用しませんでした。

 

祖国の官僚になることをあきらめた荊軻は街中で酒を飲みつつ、様々な人物と交わりました。酒が入ればケンカ沙汰になりやすいのは古今東西の常です。荊軻は剣術論や博打などについてケンカになりかけますが、そのたびに争いを避けます

 

荊軻とケンカした者たちは荊軻のことを臆病者とそしりましたが、荊軻としては些細なケンカで命をかけるような真似をしたくなかったのでしょう。

 

荊軻の行動が語源となった「傍若無人」とは

 各地を放浪した荊軻は中国北東部の国である燕にたどり着きました。燕は現在の北京周辺を支配する国です。そこで荊軻高漸離(こうぜんり)という人物と親しくなりました。高漸離は筑とよばれる弦楽器の名手です。

 

荊軻は燕の街の中で高漸離と酒を飲んでは筑の演奏でともに歌い、ときに大声で泣いたといいます。その様子はまるで周囲に人がいないかのようでした

 

「傍らに人無きが若し」司馬遷は記しています。このエピソードから、他人のことなどまるで気にかけず、遊び騒いで勝手にふるまうことを「傍若無人というようになりました。

荊軻が生きた古代中国の春秋・戦国時代

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春秋時代の中国

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/a/ab/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3.PNG


覇者が諸国をリードした春秋時代

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春秋時代の覇者の一人、斉の桓公

引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/92/Qihuangongguanzhong.jpg

 

古代の中国は「殷」や「周」とよばれた国を中心に緩やかにまとまっていました。紀元前770年に周が異民族に敗れ都を東に移すと周の権威が一気に衰えます。

 

かわって力をつけたのが各地を支配する諸侯たちでした。諸侯たちのうち、リーダー格の人物を覇者といいます。こうして周王にかわって覇者が諸国をリードする春秋時代が始まりました。かの有名な孔子春秋時代の人物です。

実力主義の戦国時代に台頭した戦国の七雄

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戦国の七雄の地図

引用:

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/ZH-%E6%88%98%E5%9B%BD%E4%B8%83%E9%9B%84%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg/1024px-ZH-%E6%88%98%E5%9B%BD%E4%B8%83%E9%9B%84%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg

 

春秋時代は血筋が重んじられ、周の王を尊ぶ尊王攘夷の考えが強い時代でした。しかし、戦乱が続くと血筋よりも実力が重視されるようになります。

 

紀元前453年、春秋時代の有力諸侯だった晋では有力家臣である韓氏、魏氏、趙氏の力が強まり、晋を三分割して支配しました。こうして、強いものが上にのしあがり、弱い主君や弱い国を凌ぐ下剋上の風潮が世の中を支配する戦国時代が始まります。

 

最終的に、七つの国が大国として成立しました。これを戦国の七雄といいます。戦国の七雄とは、北東部の燕、山東半島の斉、晋の北部の趙、晋の中部の魏、晋の南部の韓、長江流域の楚、西方の異民族を抑えた秦の七国です。

 

 

秦の強大化

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秦を強大化させた商鞅

戦国の七雄の中で、圧倒的な力を持ったのが西方の秦でした。秦の支配する地域は中国全体から言えば西の辺境です。なぜ、秦が力を強めたのでしょうか。

 

秦の国力を飛躍的に高めたのは商鞅という人物です。商鞅は法を中心とする法治国家として秦を再編します。商鞅は厳しい法律を課す一方、身分が低くても功績をあげれば出世できる仕組みを整えます。商鞅の改革により秦は国王の権力が非常に強い国となりました。

 

秦王政による六国征服

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始皇帝(秦王政)

引用:

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/27/Qinshihuang.jpg/800px-Qinshihuang.jpg
 

紀元前247年、秦の国で13歳の若き王が即位しました。のちに始皇帝と呼ばれる嬴政(えいせい)です。母親の趙姫に寵愛された嫪毐(ろうあい)が起こした反乱を鎮圧すると、宰相の呂不韋を退け自ら政治をおこないます。

秦王政は李斯をはじめとする秦の国以外の出身者を積極的に登用することで国力を強めました。国力を強めた秦は周辺諸国を次々と併合します。荊軻が滞在していた燕は、秦の侵攻を避けるため太子の丹を人質として差し出します

秦王政の暗殺計画

 

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始皇帝墓所ちかくに埋められていた兵馬俑

引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/Xian_museum.jpg/1280px-Xian_museum.jpg

太子丹の秦国脱出

人質として秦の都咸陽に滞在していた丹は、かつて趙国に人質に出されたことがあり、その時に秦王政と面識がありました。その時のよしみでよく扱ってくれるだろうと期待していましたが、丹の期待は裏切られてしまいます。

 

秦王政に冷たくあしらわれた太子丹は秦国を脱出して燕に帰ってしまいました。このままでは、秦に攻められると考えた太子丹は重臣に秦の打倒を相談します。しかし、重臣は秦にはかなわないから抵抗すべきでないと説きます。進退に窮した太子丹は大いに悩みました。

 

燕と秦の間にあった趙が秦に攻められ滅亡すると、秦は燕をたびたび攻めました。国力では秦にかなわない燕は滅亡の危機に瀕します

 

秦王暗殺計画の準備

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匕首のイラスト

引用:フリー画像(イラストAC)
 

追い詰められた太子丹は、燕の有力者田光に秦王政の暗殺を相談します。田光は最適な人物がいるとして荊軻を推挙しました。この時、太子丹は「くれぐれもご内密に」と田光に余計な念押しをしたため、疑われていると感じた田光はこの話を荊軻に伝えた後で自害します。

 

荊軻から田光の最期を聞いた太子丹は、荊軻に正式に秦王政の暗殺を依頼します。この時、太子丹は荊軻のために大金を出して暗殺用の匕首を入手します。その匕首に毒を塗って死刑囚を試し切りしたところ、全員が毒によって死にました。

 

荊軻は、用心深い性格の秦王政に近づくための方法を考えます。そして、秦王があってもよいと思えるほどの魅力ある手土産を2つ用意しようと考えます。

 

一つは、燕でもっとも豊かな督亢(とくこう)の地を献上すること。もう一つは燕に亡命してきた樊於期(はんおき)将軍の首です。太子丹にそれを告げると、自分を頼ってきた樊於期の首を差し出せないという答えでした。

 

そこで、荊軻は樊於期のところの行き、樊於期に事情を説明します。樊於期は秦に残してきた一族は秦王によって皆殺しにされたため、その恨みを晴らすためならばと自害して荊軻に首を差し出しました。

荊軻の旅立ち

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横山大観作「風蕭々兮易水寒」

引用:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/390141
 

荊軻は秦王暗殺のパートナーとして古くからの友人を呼んでいました。しかし、その友人がなかなか到着しません。すると、太子丹がなかなか出発しようとしない荊軻に対し、怖気づいてしまったのではないかと疑い始めました。

 

やむなく、荊軻は太子丹がつけた秦舞陽を供として秦に向けて旅立ちました。太子丹らは荊軻を易水まで見送ります。この時、見送りの人々は荊軻が生きて還れないと考えていたため喪服である白装束で経過を見送ります

 

この時、荊軻は「易水歌」とのちによばれる別れの詩を詠じます

 

風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず

 

風が物寂しく吹き、易水の水は冷たい。覚悟を持った壮士(勇ましい男)は、一度去ったら(仕事を成し遂げるまで)二度と戻らない。

 

 

秦王政と荊軻の対決と荊軻の死

 

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秦王政を殺害しようと追いかける荊軻

引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d3/Jingkeciqinwang.png

荊軻は秦舞陽をともなって秦の都咸陽にたどり着きます。督亢の地図と樊於期の首を持参した燕の使者がやってきたことを知った秦王政は大いに喜び謁見を許します。

 

秦王政の宮殿に入ると、秦舞陽がガタガタと震えだしてしまいました。不審に思った秦の廷臣が「なぜ、震えている」と尋ねます。すると、荊軻は「田舎者ゆえ、天子の前で恐れおののいているからです」と平然と答えて疑いをかわしました。

 

秦王政のすぐ近くまでやってきた荊軻は、督亢の地図を少しずつ開きます。そして、地図が開き終わると、あの毒を塗った匕首が現れました。荊軻は秦王政の袖をつかんで、一突きにしようとします

 

しかし、秦王政の袖が引きちぎられ、かろうじて秦王政は匕首をかわしました。逃げる秦王、追う荊軻。二人は謁見のまで追いかけっこをします。

 

護衛の兵士たちは武器を持ったまま謁見の場に上がることを許されていなかったので、誰一人荊軻を阻む者はいません。秦王政は長剣を帯びていましたが、慌てていてうまく抜くことができません。

 

その時、侍医の夏無且(かむしょ)が薬箱を荊軻に投げつけました。それに荊軻がひるんだすきに、秦王政が剣を背負って抜くことに成功します。秦王政はすぐに荊軻を斬りつけました。

 

足を斬られもはやこれまでと思った荊軻匕首を秦王政に投げつけます。しかし、これも外れてしまいました。逆上した秦王政は荊軻が動かなくなっても剣で荊軻を斬りつけ続けました

燕の滅亡と高漸離による始皇帝暗殺未遂

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始皇帝について記録した『史記』の「始皇帝本紀」

引用:

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8b/Qin_first_emperor_annals.JPG/1280px-Qin_first_emperor_annals.JPG

事件後、激怒した秦王政は直ちに燕に秦軍を差し向けます。紀元前226年、秦は燕の首都薊(けい)を攻め落とします。

 

事件の首謀者である太子丹は燕王によって殺され、燕王はその首で秦王政の許しを請おうとしました。しかし、秦王政は攻撃の手を緩めず、紀元前222年に燕は完全に滅ぼされました

 

荊軻の友の高漸離は筑の名手だったので、その腕を惜しんだ始皇帝に召し出されます。その際、始皇帝は高漸離の目をつぶして危害を加えられないようにしました。

 

目をつぶされた高漸離は友の敵を討つ機会を執拗に狙います。そして、演奏中に鉛を仕込んだ筑で始皇帝の暗殺を試みました。しかし、目が見えなかったこともあり暗殺は失敗。高漸離は始皇帝の部下に殺されてしまいます。

 

 

まとめ

 荊軻は戦国時代の人で、燕の太子丹の依頼により秦王政(のちの始皇帝)の暗殺をはかりました。太子丹が暗殺を依頼した理由は、秦の強大化で燕が滅ぼされると考えたからです。

 

荊軻は毒を仕込んだ匕首を献上品の地図に隠して秦王政に接近します。間近で地図を開き、秦王政を毒の匕首で一突きにしようとしました。しかし、間一髪のところで暗殺は失敗し、荊軻は殺されてしまいました。

 

たった一本の匕首で、中国最強の王、秦王政に立ち向かった「壮士」荊軻の存在は、司馬遷が書いた『史記』の「刺客列伝」によって今に伝えられています。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

「御成敗式目」って何?背景、目的、内容などわかりやすく解説!

御成敗式目ってそもそも何?」

御成敗式目の目的は?」

御成敗式目ってどんな内容?」

 

このページをご覧の方は、こうした疑問を持っているかと思います。

 

御成敗式目とは、1232年に鎌倉幕府3代執権北条泰時が中心になってつくられた武士のための法律です。全部で51か条あり、鎌倉幕府基本法となりました。貞永式目とも関東式目とも呼ばれました。

御成敗式目源頼朝以来の先例や道理(武家社会の慣習や道徳)を文章化したものです。のちに不足を補うため「式目追加」とよばれる追加法が出されました。

御成敗式目の適用範囲は武士たちでした。しかし、幕府の影響力が拡大すると適用範囲も広がります。

御成敗式目の内容は、守護の権限、土地に関する取り決め、親の「悔返し権」や裁判の基準、手続きなど多岐にわたります。 

今回は、御成敗式目制定の背景や目的、内容などについてまとめます。

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鎌倉幕府の象徴である鶴岡八幡宮

引用:  <a href="https://www.photo-ac.com/profile/1840121">姫子0510</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真  

 

 

御成敗式目が出された背景とは?

 

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武士のたしなみの一つ、流鏑馬(やぶさめ)

引用: <a href="https://www.photo-ac.com/profile/836029"> フランク</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真  

 

御成敗式目が出された背景に承久の乱の勝利による鎌倉幕府の影響力拡大と、地頭の設置範囲が全国に拡大し土地関係の裁判が多発したことがあります。

鎌倉幕府の支配力が強まった承久の乱

 

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承久の乱の関連地図

引用:承久の乱 - Wikipedia

源頼朝鎌倉幕府を開いたころ、幕府の支配権は関東など東日本中心でした。京都よりも西側の地域では朝廷の支配が続きます。

1221年、朝廷のトップである後鳥羽上皇鎌倉幕府の2代目執権北条義時を逆賊として討伐する命令を下します。上皇の命令を受け取った武士たちは大きく動揺しました。この動揺を抑えたのが頼朝の妻の北条政子です。

政子は御家人たちを館に集め「頼朝の恩は山よりも高く、海よりも深い」と説き、頼朝がつくった幕府と鎌倉を守るよう御家人たちに訴えます。奮起した御家人たちは義時の息子、北条泰時に率いられ上皇軍を打ち破りました。これが、承久の乱です。

承久の乱の結果、後鳥羽上皇ら中心人物は流刑など処罰され、京都に六波羅探題がおかれました。承久の乱後、鎌倉幕府の支配力は西日本にも及ぶようになります。

地頭の設置範囲の拡大

鎌倉幕府承久の乱後鳥羽上皇に味方した貴族や武士の所領を没収し、幕府方の御家人を地頭に任命します。地頭は荘園の管理人ですが、荘園からあがる収入を得られる経済的なメリットがある役職です。

例えば、『平家物語』の「敦盛の最期」に登場する熊谷次郎直実の一族は埼玉県の熊谷周辺を支配する御家人でした。承久の乱後、熊谷氏の一人が安芸国広島県)の地頭に任じられます。

こうして承久の乱後に各地に置かれた地頭たちは、荘園領主やもともとの土地の持ち主である荘官たちとトラブルを起こすようになりました。鎌倉幕府御家人たちが引き起こす土地をめぐる裁判の基準作りが求められるようになります。

 

御成敗式目の制定目的と適用範囲は?

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御成敗式目

引用:https://www.meiji.ac.jp/museum/guidance/shinsei/image/goseibai_l.jpg

御成敗式目を制定したのは鎌倉幕府3代執権の北条泰時です。なぜ、泰時は御成敗式目を制定したのでしょうか?そして、御成敗式目は誰に適用される法律だったのでしょうか。北条泰時が京都の六波羅探題だった弟の重時に送った「泰時消息文」に御成敗式目の目的が書かれています。 

御成敗式目の制定目的

 

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北条泰時

引用:北条泰時 - Wikipedia

泰時は「泰時消息文」の中で御成敗式目制定の目的を「かねて御成敗の躰をさだめて、人の高下を論ぜず、偏頗なく裁定せられ候はむ」として、身分に関係なく裁判が行われるよう基準を示すとしています。

泰時率いる鎌倉幕府にとって、御家人間や御家人荘園領主の紛争を公平に解決することがとても重要でした。そのため、裁判の当事者が納得いく「基準」を事前に示す必要があったのです。 

御成敗式目の適用範囲

 「泰時消息文」では、御成敗式目の適用範囲についても触れています。この法令はあくまでも「武家の人へのはからひのためばかりに候」として、適用範囲を武士に限っています

また、「京都の御沙汰、律令のおきて、聊もあらたまるべきにあらず候也」とも述べています。これは、律令の流れをくむ朝廷の公家法や、荘園領主独自の法である本所法を否定しないという意味です。

しかし、現実には武士の力が強まり御成敗式目を中心とする武家法が広がると公家法や本所法は衰退していきました。 

御成敗式目の主な内容

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武士社会の先例を打ち立てた源頼朝

引用:[http:// 松波庄九郎さんによる写真ACからの写真 ] 

 

守護の職務「大犯三箇条」

 御成敗式目では諸国に一人ずつ設置された守護の権限について明記されています。守護の権限は、御家人たちに京都大番役(京都警固)や鎌倉番役(鎌倉警固)を催促する権利である大番催促と謀反人の逮捕、殺害人の逮捕とされました。

また、大田文とよばれる土地台帳や国衙の行政事務を実行させるため、在庁官人とよばれる地方公務員を支配する権利も持ちます。

ただし、室町時代守護大名とは異なり守護であるだけでは経済的な利益を得られませんでした。 

土地に関する取り決め「不易の法」と「知行年紀法」 

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武士を象徴する兜

引用:[http:// KOU2301さんによる写真ACからの写真 ]

鎌倉武士にとって土地は命のように大事なものでした。「一所懸命」というのは、一つの領地に命を懸ける鎌倉武士の在り方を示した言葉だったのです。それだけに、土地裁判の基準は非常に重要なものでした。

基準の一つが「不易の法」です。不易の法とは、源頼朝、頼家、実朝、北条政子の時代に幕府から与えられた土地は、元の持ち主が訴訟を起こしても無効とするという法律です。

この時代は、承久の乱などで土地の持ち主が大幅に変化した時代でした。戦いに勝利した幕府が決定した土地所有者に対し、権利を保障した内容です。

もう一つが「知行年紀法」です。知行とは土地を支配することです。御成敗式目では20年以上継続して土地を支配した場合、その土地をどのようにして取得したかは問わず、支配している知行主の支配権を認めるとしました。20年以上前のことは時効とすると宣言したのです。

御成敗式目で定められた土地所有の原則は、鎌倉時代を通じて全国に浸透します。のちに、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇はこの仕組みを覆そうとしましたが、かえって武士たちの反発を招き、建武の新政崩壊の一因となりました。

 

親が持っていた「悔返し権」

鎌倉時代の一番の財産は土地です。遺産相続で一番もめたのも土地に関することでした。鎌倉時代の土地相続は分割相続が原則です。しかも、男子だけに限らず女子も相続権を認められていました。女子が相続上、不利益になるのは江戸時代以降のことです。

相続は親の生存中に決められることもありました。その時、一度、子に譲った土地を親が取り戻す権利のことを「悔返し権」といいます。鎌倉時代は、家長である「惣領」に強い力が認められており、子が一族の和を乱したり、惣領のいうことを聞かないときなどは土地をとりあげることができました。

 

 

まとめ

御成敗式目は1232年に鎌倉幕府3代執権の北条泰時が制定した法律でした。御成敗式目の内容は頼朝以来の先例と武家社会の慣習・道徳である道理を文章化したものです。

制定の目的は御家人同士の争いや御家人荘園領主の争いなどを裁く基準をあらかじめ作っておくことです。

適用範囲は武士に限られましたが、武士の力が強まるにつれ適用範囲は全国に拡大します。御成敗式目で出来上がった土地裁判の基準は、その後の時代も継承されました。

御成敗式目の内容や目的、適用範囲、内容などについて「そうだったのか!」と思っていただけたら幸いです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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