函館在住の元予備校講師のブログ:歴史・古典・政治経済をやさしく解説

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大鏡「競べ弓(弓争い・南院の競射)」あらすじ・現代語訳・登場人物・道長の性格をわかりやすく解説!

「競べ弓(くらべゆみ)」とは、歴史物語『大鏡(おおかがみ)』に収められた名場面のひとつです。

若き日の藤原道長が、兄・道隆の屋敷に突然あらわれます。そして甥の伊周と弓比べで勝負します。

このページでは、あらすじ・登場人物と性格・現代語訳を、わかりやすく解説します。さらに「その願かけが本当に叶った話」など、意外な後日談まで紹介します。

藤原道長この殿
勝ち気・強気
藤原道隆中関白
寛大を装い警戒
藤原伊周帥殿
動揺・気後れ

【名場面】道長の「この矢、当たれ!」— 競べ弓のあらすじ

前半:道長が2本リードする

ある日、伊周が、父・道隆の屋敷(南院)で弓の競射を催していました。そこへ、予告もなく道長がやってきます。

道隆は「思いがけないことだ」と驚きながらも、道長を丁重にもてなしました。

このとき、官位は伊周のほうが上でした。道長は下(下臈)です。それでも道隆は道長に気を使い、先に射させます。

すると勝負は、道長が伊周より2本多く的中させました。道隆や周囲の人々は「延長を」と勧めます。道長は内心おだやかではありませんが、承知しました。

後半:願かけの矢が的中する

延長戦で、道長は矢を構えながら言い放ちます。

道長「わたしの家から、帝や后がお立ちになるなら、この矢よ、当たれ!」

矢は、みごとに的の中心に命中しました。

続いて伊周の番です。しかし道長の気迫に押されたのか、気後れして、的にすら当たりません。

ふたたび道長の番です。

道長「わたしが摂政・関白になるのなら、この矢よ、当たれ!」

矢は、またも中心を射抜きました。

なぜ場は白けたのか

伊周が射ようとしたとき、父である道隆があわてて止めます。

道隆(父大臣)「どうして射るのか。射るな、射るな!」

道長の勢いに、その場は完全に飲まれていました。こうして宴は、しらけて終わってしまったのです。

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競べ弓の舞台は、貴族が集う宴の場でした。その平安時代から伝わる唐菓子(からがし)の流れをくむのが、京都の老舗・亀屋清永の「清浄歓喜団」です。今もなお昔ながらの姿でつくられる、めずらしい銘菓です。

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登場人物と性格 — 道長・道隆・伊周

競べ弓には、三者三様の性格がくっきりと描かれます。ひとりずつ見ていきましょう。

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藤原道長(この殿)|勝ち気そのもの

『大鏡』の主人公です。兼家の五男に生まれました。有力な兄が多く、はじめは後継者と見られていませんでした。

競べ弓での道長は、まさに勝ち気そのものです。兄の家に乗り込み、甥の伊周に勝負を挑みます。そして相手に忖度せず、勝ってしまいます。

藤原道隆(中関白)|寛大を装いつつ警戒する

道長の兄で、当時の最高権力者です。定子・伊周・隆家の父でもあります。父・兼家の死後、摂政・関白となりました。

「中関白」とは、父・兼家と弟・道長の間にはさまれた関白、という意味の呼び名です。『大鏡』や『枕草子』には、快活で冗談を好み、酒を愛する人物として描かれています。

競べ弓では、道長を歓待しながらも、内心では警戒しています。息子・伊周を勝たせたい親心も見え隠れします。

藤原伊周(帥殿)|道長の言葉に動揺する

道隆の子で、若くして出世した貴公子です。叔父の道長を追い越し、内大臣にまで昇りました。

「帥殿(そちどの)」という呼び名は、のちに大宰権帥(だざいのごんのそち)へ左遷されたことに由来します。競べ弓では、道長の気迫に押され、動揺して矢を外してしまいます。

 

【意外な事実①】願かけは"全部叶った" — 望月の歌と一家三后

⚡ 誰もが驚く後日談

競べ弓で道長は、「わが家から帝や后が出るなら」と願をかけました。じつは、この願かけは比喩ではなく、現実になります。

道長はのちに、3人の娘を次々と天皇の后に立てました。前例のない「一家三后」です。

そして権勢の絶頂で、あの有名な歌を詠みます。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の……」。若き日の強気な願かけが、そのまま叶ってしまったのです。

道長は、藤原氏の全盛期の頂点に立った人物です。だからこそ、競べ弓での勝ち気なふるまいは、単なる若気のいたりでは終わりませんでした。

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【意外な事実②】矢を外した伊周のその後 — 長徳の変

⚡ "矢"で始まり"矢"で終わる因縁

競べ弓で気後れし、矢を外してしまった伊周。その後の人生は、さらに劇的でした。

父・道隆の死後、伊周は後継争いで道長に敗れます。さらに、弟・隆家とともに花山法皇へ矢を射かける事件(花山院闘乱事件)を起こしてしまいます。これが「長徳の変」のきっかけです。

この事件などが原因で、伊周は大宰権帥へ左遷されました。弓の場面で始まった物語が、別の"矢の事件"で暗転したのです。

【なぜ?】道長はなぜ勝てたのか — 時代を遡る

そもそも、後継の本命は伊周でした。道隆の嫡男だからです。では、なぜ五男の道長に順番が回ってきたのでしょうか。時代を少し遡ってみましょう。

理由は、兄たちの相次ぐ死です。関白だった兄・道隆が病に倒れます。跡を継いだ兄・道兼も、わずかな在任で亡くなりました。こうして道長に、一気にチャンスが巡ってきたのです。

当時の政治は「摂関政治」です。娘を天皇に嫁がせ、その子(天皇)の外戚として実権をにぎる仕組みでした。道長の一家三后は、この戦略の完成形だったのです。

中関白家のその後 — 道隆の死と定子・隆家

勝者に見えた道隆の一族(中関白家)は、その後まもなく傾いていきます。道隆の病死、伊周の失脚と続いたためです。

道隆の娘・定子や、弟の隆家も、この一族の人々です。栄華のさなかにあった中関白家は、道隆の死をきっかけに、わずか数年で力を失っていきました。

競べ弓の別名・作者・出典・読み方

じつは同じ話!4つの別名

「競べ弓」は、教科書によって呼び名が変わります。次の呼び名は、すべて同じ場面を指します。

「弓争い(ゆみあらそい)」「南院の競射(みなみのいんのきょうしゃ)」「道長、伊周の競射」「競射」。検索するときは、どの名前でも同じ内容にたどり着けます。なお「南院」は「なんいん」と読まれることもあります。

読み方・作者・ジャンル

読み方
くらべゆみ
出典
『大鏡(おおかがみ)』
作者
未詳(はっきりしていません)
ジャンル
歴史物語/紀伝体(人物中心に歴史を描く形式)
語り手
大宅世継・夏山繁樹という老人たちの昔語り、という設定です

現代語訳と重要語・敬語のポイント

ここでは、名場面の流れを、やさしい現代語訳で確認します。要点をしぼった意訳です。

この殿、わたらせ給へれば、思ひがけずあやしと……
思いがけず道長がおいでになったので、道隆は驚いて、丁重にもてなしました。
道長が家より、帝・后立ち給ふべきものならば、この矢当たれ
「わが家から帝や后がお立ちになるなら、この矢よ当たれ」——矢は的の中心に命中しました。
(伊周は)気圧されて、的のあたりにだに近く寄らず
伊周は気圧されて、的の近くにさえ当たりませんでした。
な射そ、な射そ
道隆や人々は「射るな、射るな」と伊周を止め、座はしらけてしまいました。

つまずきやすい重要語・敬語

下臈(げろう)
官位や身分が低い人のこと。ここでは道長が伊周より官位が下だったことを指します。
あそばす
「(弓を)なさる」。ここでは尊敬の意味で使われています。
わたる
「おいでになる・いらっしゃる」。移動を高めて言う表現です。
敬意の方向
作者から道長へ、厚い敬意が向けられています。二重敬語(「せ給ふ」など)がその印です。
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まとめ

今回は、『大鏡』の「競べ弓(弓争い・南院の競射)」を解説しました。ポイントを振り返ります。

・道長が兄の家で甥・伊周に弓比べを挑み、願かけの矢を中心に当てた名場面です。
・道長は勝ち気、道隆は寛大を装い警戒、伊周は動揺、と三者三様の性格が描かれます。
・道長の願かけは、のちに一家三后として現実になりました。
・矢を外した伊周は、長徳の変で失脚していきました。

身内どうしの権力闘争の一幕から、若き日の道長の強気な人柄が伝わってきますね。

出典
  1. コトバンク『大鏡』 https://kotobank.jp/word/大鏡-39069
  2. コトバンク『歴史物語』 https://kotobank.jp/word/歴史物語-151523
  3. コトバンク『藤原道長』 https://kotobank.jp/word/藤原道長-124699
  4. コトバンク『藤原道隆』 https://kotobank.jp/word/藤原道隆-124695
  5. コトバンク『藤原伊周』 https://kotobank.jp/word/藤原伊周-124625
  6. コトバンク『藤原威子』(一家三后・望月の歌) https://kotobank.jp/word/藤原威子-124598
  7. 国文学研究資料館「書物で見る日本古典文学史・大鏡」 https://www.nijl.ac.jp/etenji/bungakushi/contents/detail/detail02-02_012.html
  8. 文化遺産オンライン(文化庁)「大鏡」 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/201143

逆鱗に触れるとは?意味・読み方と例文10選|韓非子の由来・書き下し文・現代語訳

逆鱗(げきりん)に触れる=目上の人を激しく怒らせること。

由来は中国の思想書『韓非子』の説難篇です。龍のあごの下には逆さに生えた鱗があります。そこに人が触れると、龍が怒ってその人を殺してしまう、という話が元になりました。

⚠️ 自分や目下の人については使いません。「琴線に触れる」とは別の意味です。

この記事でわかること

  • 意味・読み方と、そのまま使える例文10選
  • 年下や友達に使えるのかという、いちばん間違えやすいポイント
  • 由来となった『韓非子』の原文・書き下し文・現代語訳とテスト対策

「逆鱗に触れる」とは?意味と読み方

意味は「目上の人の怒りを買うこと」

「逆鱗に触れる」の意味は、次のとおりです。

帝王の怒りをうける。また、目上の人などの気持にさからって怒りを買う。はげしく叱られる。

ポイントは「目上の人」という部分です。相手が自分より上の立場でなければ、この言葉は使えません。

怒らせる相手は、社長・上司・先生・親・王様などが典型です。

読み方は「げきりんにふれる」

「逆鱗」は「げきりん」と読みます。

「さかうろこ」とは読みません。ここは誤読が多いところです。

「触れる」は「ふれる」です。ただし漢文の原文では「嬰(ふ)る」という別の字が使われています。

ニュアンスは「怒られる」ではなく「怒りを爆発させる」

「逆鱗に触れる」は、ちょっと注意されたときには使いません。

後で見るように、原文の龍は逆鱗に触れた人を「必ず殺す」のです。

つまり、取り返しがつかないレベルで怒らせた、という強い言葉です。軽い叱責に使うと大げさになります。

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【意外な事実①】逆鱗は、龍の体で1枚だけ逆を向いた鱗だった

場所は「あごの下」。全身でここだけが逆向き

そもそも「逆鱗」とは何でしょうか。

逆鱗とは、龍のあごの下(喉元)にある鱗のことです。

龍の体は、無数の鱗におおわれています。その鱗はすべて、頭から尾に向かってきれいに並んでいます。

ところが、あごの下だけは逆向きに生えています。全身でそこだけが、逆立っているのです。

だから「逆さの鱗」で「逆鱗」といいます。

原文には、その大きさが「径尺」と書かれています。直径が一尺ほどの、大きな鱗だったようです。

龍の鱗は頭から尾に向かって並びますが、あごの下の1枚だけが逆を向いています。これが逆鱗です。

触れた者がどうなるか──原文は「必ず人を殺す」

逆鱗は、龍の唯一の弱点です。

ふだんの龍は、とても穏やかな生き物とされています。慣らせば背中に乗ることさえできる、と原文にはあります。

しかし逆鱗に触れられた瞬間、龍は豹変します。原文は「則必殺人」、つまり「必ずその人を殺す」と書いています。

順に生えた鱗の中で、1枚だけが逆立っています。だから撫でれば、そこだけが刺さるのです。

ちなみに龍に乗るときは、首のあたりにつかまることになります。あごの下は、うっかり手が触れてしまう場所なのです。

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「逆鱗に触れる」の例文10選【コピペOK】

実際の使い方を、場面別に10個そろえました。そのまま使えます。

ビジネスで使う例文(4選)

① 部下の不祥事を隠していたことが発覚し、部長は社長の逆鱗に触れました。

部長(下)→ 社長(上)。立場の上下がはっきりしている、最も自然な使い方です。

② 取引先の社名を間違えたまま送信し、上司の逆鱗に触れてしまいました。

「〜てしまいました」を添えると、うっかりやってしまった感じが出ます。

③ 会議で社長の方針を真っ向から否定した彼は、逆鱗に触れて担当を外されました。

結果までセットで書くと、怒りの大きさが伝わります。

④ 納期の遅れを報告しなかったことが、常務の逆鱗に触れる結果となりました。

報告書や議事録など、かたい文章にも使える形です。

学校・家庭で使う例文(3選)

⑤ 門限を3時間も過ぎて帰宅し、父の逆鱗に触れました。

父・母・祖父母は「目上」にあたるので、問題なく使えます。

⑥ 提出物を白紙のまま出した生徒が、担任の逆鱗に触れています。

先生も目上です。生徒 → 先生の方向なら成立します。

⑦ 祖母の形見を勝手に売ってしまい、母の逆鱗に触れました。

「取り返しがつかないこと」をしたときに、ぴたりとはまります。

歴史・ニュース風の例文(2選)

⑧ 主人公は王様の逆鱗に触れて、国を追放されました。

本来の使い方に最も近い形です。相手が王や君主なら、まさに原義どおりです。

⑨ 諫言を続けた家臣は、ついに殿の逆鱗に触れ、蟄居を命じられました。

時代小説やドラマの解説でよく見る形です。

短い例文(1選)

⑩ うっかり口が滑って、部長の逆鱗に触れました。

一文で完結する最短の形です。会話でも使えます。

【NG例】これは誤用です

× 妹の逆鱗に触れてしまいました。

妹は目下です。目上にしか使えないので誤りです。

× 彼の一言が、私の逆鱗に触れました。

自分について使うのも誤りです。「頭にきました」などに置き換えます。

× その映画は私の逆鱗に触れました。

感動した、という意味で使うのは完全な誤りです。それは「琴線に触れる」です。

なぜ目下に使えないのか。次の章で解説します。

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【診断】その使い方、合っていますか?「逆鱗に触れる」は年下・友達に使える?

まずは○×クイズ3問

考えてから読み進めてください。

第1問 「妹の逆鱗(げきりん)に触れてしまった」 ○か×か。

第2問 「新人の発言が、社長の逆鱗に触れた」 ○か×か。

第3問 「彼の一言が、私の逆鱗に触れた」 ○か×か。

答え:「逆鱗に触れる」は目上の人専用です

正解

第1問 × / 第2問 ○ / 第3問 ×

辞書には、はっきりと補足が書かれています。「天子や目上の人を怒らせる」意味なので、自分や目下の人について使うのは誤りです。

第2問だけが正解です。新人から見て社長は目上なので、問題なく使えます。

なぜ目上の人にしか使えないのか

理由は単純です。逆鱗を持っているのは龍だからです。

中国において、龍は皇帝の象徴でした。皇帝の顔を「竜顔」、皇帝の衣を「竜袍」と呼びます。

つまり「逆鱗を持つ人」=「皇帝のように上位の人」という前提が、言葉の中に組み込まれているのです。

妹や後輩に逆鱗があることにしてしまうと、妹や後輩を皇帝あつかいすることになります。だから不自然になります。

ただし、使い方は広がりつつあります

正直に補足しておきます。

最近では、目上に限らず「相手をひどく怒らせてしまった」という場面で使われることも増えてきました。辞典にも、そうした指摘があります。

とはいえ、テストや仕事の文章では、目上に対して使うのが安全です。誤用と判定されるリスクがありません。

年下・同僚に使うときの言い換え

相手 使える表現
年下・後輩 怒らせてしまった/機嫌を損ねた/怒りを買った
同僚・友人 怒らせた/気に障ったらしい/地雷を踏んだ
目上・上司 逆鱗に触れる/不興を買う/勘気に触れる

「地雷を踏む」は、逆鱗に近い意味の現代的な言い方です。こちらは相手の立場を選びません。

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【意外な事実②】「琴線に触れる」を“怒らせる”意味だと思っている人が約3割います

文化庁の調査では、正解と誤答がほぼ並んでいました

「琴線に触れる」という言葉があります。本来の意味は「感動や共鳴を与えること」です。

ところが、文化庁の「国語に関する世論調査」には、驚くような結果が残っています。

平成19年度の調査では、本来の意味である「感動や共鳴を与えること」と答えた人が3割台後半でした。

一方で、本来の意味ではない「怒りを買ってしまうこと」と答えた人が3割台半ば

その差は、わずか2ポイントしかありませんでした。

さらに「分からない」と答えた人が2割台半ばで、この年に調査した5つの語の中で最も高くなっています。

つまり、「琴線に触れる」を正しく理解している人は、4割に届いていないということです。

なぜ、正反対の意味で覚えられてしまうのか

原因の一つは、まさに「逆鱗に触れる」だと考えられます。

どちらも「〜に触れる」という同じ形をしています。だから記憶の中で混ざってしまうのでしょう。

もう一つは「癪に障る」「癇に障る」の影響です。「さわる・ふれる+怒る」という組み合わせが、頭の中でつながってしまうわけです。

類義語・言い換え一覧

言葉 意味とニュアンス
不興を買う 目上の人の機嫌を損ねること。逆鱗より少し軽めです。
勘気に触れる 主君や親から、とがめを受けること。時代がかった響きです。
怒りを買う 最も汎用的な言い換え。相手の立場を選びません。
虎の尾を踏む きわめて危険なことをするたとえ。『易経』履卦が出典です。

「虎の尾を踏む」は逆鱗とよく似ています。ただし、こちらは危険な行為そのものを指します。

逆鱗に触れるは相手が怒った結果まで含みます。ここが違いです。

ちなみに『平家物語』には「龍の鬚をなで、虎の尾をふむ心地」という一節があります。龍と虎は、昔からセットで語られてきました。

対義語・混同注意語

言葉 意味
琴線に触れる 良いものに触れて感銘を受けること。まったく別の意味です。
お眼鏡にかなう 目上の人に気に入られること。逆鱗に触れるの逆の結果です。

「琴線」とは、心の奥にある、感動しやすい気持ちを琴の糸にたとえた言葉です。

「彼の演奏は私の琴線に触れた」なら正解です。「彼の一言が私の琴線に触れて、頭にきた」は誤りになります。

「他にも間違って覚えている言葉があるかもしれない」と思ったら、手元に1冊あると安心です。

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由来は『韓非子』説難篇|「逆鱗に触れるの由来に関係するのは?」の答え

【即答】答えは「君主の説得法」です

Q. 「逆鱗に触れる」の由来に関係するのは?

A. 君主の説得法

「弟子のいたずら」ではありません。逆鱗の話は、君主をどう説得するかを論じた文章の中に出てきます。

出典は『韓非子』の「説難篇(ぜいなんへん)」

「逆鱗に触れる」の出典は、『韓非子』という思想書です。全20巻55編からなります。

著者は韓非。中国の戦国時代末期を生きた思想家で、法による国家統治を説いた法家の代表格です。

その中の「説難篇」に、龍の話が出てきます。

説難篇のテーマは、ずばり「君主を説得することの難しさ」です。部下が上司に意見を通すのは難しい、という話だと思ってください。

なぜ“説得”の話に龍が出てくるのか

説難篇には、有名な前置きがあります。

昔、衛(えい)という国に霊公という君主がいました。霊公は、彌子瑕(びしか)という美しい部下を寵愛していました。

衛の国には、王の馬車を勝手に使った者は足を切られる、という法律がありました。

あるとき彌子瑕は、母が病気になったと知らされます。そこで王の許しが出たと偽って、馬車を使ってしまいました。

ところが霊公は罰しません。「親孝行だ。足を切られる罪も忘れるほど、母を思ったのか」と褒めました。

別のときには、彌子瑕は自分が食べかけた桃の残り半分を、霊公に食べさせました。霊公は「うまさも忘れて私に食べさせてくれた。私を愛しているのだな」と喜びました。

しかし年月が経ち、彌子瑕は容色が衰えて寵愛を失います。すると霊公はこう言い放ちました。

「こいつはもともと、私をだまして馬車を使った。おまけに食べかけの桃を私に食わせた男だ」

行為は何ひとつ変わっていません。変わったのは、君主の気持ちだけです。

韓非はここから結論を導きます。愛されていればどんな進言も通り、憎まれていればどんな正論も拒まれる、と。

そして、その結論を決定づけるたとえとして、龍の逆鱗が登場するのです。

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【原文】「嬰逆鱗(えいげきりん)」の書き下し文・現代語訳

説難篇の該当箇所を、原文・書き下し文・現代語訳の順で並べます。全部で5文です。

夫龍之爲蟲也、柔可狎而騎也。

夫(そ)れ龍の虫たるや、柔なるときは狎(な)らして騎(の)るべきなり。

そもそも龍という生き物は、おとなしいときには、飼いならして乗ることさえできます。

然其喉下有逆鱗徑尺。

然れども其の喉の下に逆鱗の径尺なる有り。

しかし、その喉の下には、直径一尺ほどの逆さに生えた鱗があります。

若人有嬰之者、則必殺人。

若(も)し人之に嬰(ふ)るる者有らば、則ち必ず人を殺す。

もし、これに触れる人がいれば、龍は必ずその人を殺してしまいます。

人主亦有逆鱗。

人主(じんしゅ)も亦(ま)た逆鱗有り。

君主にもまた、逆鱗があるのです。

説者能無嬰人主之逆鱗、則幾矣。

説く者能(よ)く人主の逆鱗に嬰るること無くんば、則ち幾(ちか)し。

君主に意見を説く者が、その逆鱗に触れずにいられるなら、説得の成功に近いといえます。

全体の現代語訳

龍という生き物は、本来おとなしい存在です。慣らせば背に乗ることもできます。

ただし喉の下に、一尺ほどの逆さの鱗があります。そこに触れた者は、必ず殺されます。

君主にも、同じものがあります。触れられたくない一点が、必ずあるのです。

だから君主を説得したい者は、まずその一点を避けることです。それができれば、説得は半ば成功したようなもの──韓非はそう説きました。

テストに出る重要語句・句形

語・句形 読みと意味
「そ(れ)」と読む。文頭の発語で「そもそも」の意。
「な(らす)」。慣れ親しませる、飼いならす。
「ふ(るる)」。触れる。ここが最頻出です。
人主 「じんしゅ」。君主のこと。
若〜、則必… 「もし〜ならば、すなわち必ず…」。仮定条件の基本形。
能無〜 「よく〜なくんば」。「〜しないでいられるならば」。
幾矣 「ちかし」。(理想に)近い、もう少しで到達する。

構成のパターンも覚えておきましょう

この文章は「たとえ話 → 結論」という順番で書かれています。

龍の話がたとえ、「人主亦有逆鱗」から先が結論です。

戦国時代のエピソードには、この形がとても多く見られます。漢文を読むときのパターンとして覚えておくと役に立ちます。

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定期テスト対策|「嬰逆鱗」想定問題5問

問1 「然其喉下有逆鱗徑尺。」を書き下し文に直しなさい。

問2 傍線部「嬰之者」の「之」は何を指すか、本文中の語で答えなさい。

問3 「則必殺人」を口語訳しなさい。

問4 「人主亦有逆鱗」とあるが、君主の「逆鱗」とは何のたとえか。20字以内で説明しなさい。

問5 本文で韓非が最も言いたかったことを、次から選びなさい。
ア 龍は本来おとなしい生き物である
イ 君主に意見するときは、触れてはならない一点を避けるべきだ
ウ 君主は気まぐれで信用できない
エ 説得には多くの言葉が必要である

解答

問1/然れども其の喉の下に逆鱗の径尺なる有り。

問2 逆鱗

問3 (龍は)必ずその人を殺してしまう。

問4 君主が触れられたくない、怒りを買う一点のたとえ。(19字)

問5 イ

問2と問5は特によく出ます。問5でアを選ばせるのが定番のひっかけです。龍の話はあくまでたとえである、と押さえておきましょう。

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なぜ「逆鱗」の話は生まれたのか

ここまでが、検索して知りたかったことのすべてです。

ここから先は、少しだけ深く潜ります。「なぜ?」を2回さかのぼると、この短いたとえ話の見え方が変わります。

問い① なぜ韓非は“説得の危険”を書いたのか

ここに、大きな皮肉があります。

韓非は、話すのが苦手な人でした。

『史記』の老子韓非列伝は、韓非が生まれつき吃音で、うまく話すことができなかったと伝えています。だから、彼は著述で自説を広めようとしました。

つまり「説難篇」は、うまく話せない人間が書いた、説得の本なのです。

言葉が出てこないからこそ、彼は考え抜いたのでしょう。どこに地雷があるのか。どうすれば殺されずに意見を通せるのか。

逆鱗という比喩の生々しさは、ここから来ているのかもしれません。

問い② なぜ君主は、そこまで恐ろしかったのか

韓非が生きたのは、戦国時代の末期です。下剋上が当たり前の時代でした。

家臣が国を乗っ取ることも、めずらしくありません。

晋という大国は、有力な重臣たちによって3つに割られました。それが韓・魏・趙です。韓非の祖国である韓も、そうやって生まれた国でした。

斉では、重臣の田氏が国主の座そのものを奪っています。

君主から見れば、部下は全員が潜在的な簒奪者です。だから疑い、だから怒りました。

君主が理不尽だったのではありません。理不尽でなければ生き残れない時代だったのです。

そんな時代に、絶対に逆らえない存在を表すたとえとして選ばれたのが、皇帝の象徴である龍でした。しかも龍には鱗があります。「触れる」という動作を、そのまま表現できる体を持っていたのです。

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【意外な事実④】説得術を説いた韓非は、説得に失敗して死にました

秦王政「この人に会えたら、死んでもいい」

韓非の書は、国境を越えて一人の男の手に渡ります。秦王政、のちの始皇帝です。

秦王政は『韓非子』の「孤憤篇」「五蠹篇」を読んで、激しく感動しました。そして、こう漏らしたと『史記』は伝えます。

「この人物に会って交わることができたなら、死んでも悔いはない」

一国の王が、会ったこともない他国の思想家に、ここまで言ったのです。

そして、会えました

韓非の祖国・韓は、戦国七雄の中でも小さな国でした。秦の圧迫を受け続けていました。

その韓が、秦の攻撃を止めるための使者として、韓非を秦に送ります。

秦王政は喜びました。韓非を秦に迎え入れようとします。

陥れたのは、同門の学友でした

ここで一人の男が動きます。李斯です。

李斯は、韓非と同じ荀子の門下でした。つまり同門の学友です。

のちに始皇帝の丞相となり、郡県制や文字・度量衡の統一を進めることになる人物です。

李斯は、韓非の才能を恐れました。そして王に讒言し、韓非を牢につなぐよう仕向けます。

韓非は、王に弁明する機会を与えられませんでした。話すのが苦手な男に、そもそも話す場が回ってこなかったのです。

結局、韓非は李斯の策にはまり、獄中で毒をあおって死にました。紀元前233年のことです。

なお、この最期については、自ら毒をあおったとする説と、毒殺されたとする説があります。『史記』の記述が簡潔なため、解釈が分かれています。

司馬遷の嘆き

『史記』の著者・司馬遷は、この結末に嘆きを残しています。

君主を説得することの難しさを、あれほど見事に説いた韓非が、自分自身だけは救えなかった。それが悲しい、と。

逆鱗を見つけた男が、逆鱗に触れて死んだ。

説難篇は、警告の書であると同時に、著者自身の予言になってしまいました。

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【意外な事実⑤】同じ話から生まれた、もう一つの故事成語「余桃の罪」

あの彌子瑕の話には、名前がついています

食べかけの桃を君主に食べさせた、彌子瑕。

じつはあのエピソードは、もう一つの故事成語の出典にもなっています。

それが「余桃の罪(よとうのつみ)」です。「余桃」とは、食べ残しの桃という意味です。

意味は「君主の寵愛が気まぐれで、あてにならないこと」。愛されていたときは美談だった行為が、憎まれた瞬間に罪状へ変わる、という恐ろしさを表します。

逆鱗と余桃は、同じ真理の裏表です

この2つは、説難篇という同じ文章から生まれた双子のような言葉です。

言葉 説難篇のどの側面か
逆鱗に触れる 相手には、触れてはならない一点がある(事前の警告
余桃の罪 相手の気持ちが変われば、評価は反転する(事後の恐怖

韓非が言いたかったのは、結局ひとつです。

説得の成否を決めるのは、あなたの正しさではなく、相手の感情だ。

2200年以上前の指摘ですが、今の職場でも通用してしまうところが、この本の恐ろしさです。

韓非の思想と、その最期をもう少し詳しく知りたくなったら。

韓非子 悪とは何か

韓非子 悪とは何か

「著者に会えたら死んでもいい」と始皇帝を感動させた思想を、90編で読める1冊。この記事で紹介した余桃の罪や「君主への意見の出しかた」はもちろん、矛盾・守株の出所になった逸話も収録されています。中国哲学史の泰斗・加地伸行氏による読みやすい訳文と、韓非伝を含む豊富な解説つきです。

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よくある質問(FAQ)

逆鱗は、龍のどこにあるのですか?

あごの下(喉元)です。全身の鱗のうち、そこだけが逆さに生えています。大きさは原文で「径尺」、直径一尺ほどとされています。

「逆鱗」と、ふつうの「鱗」は何が違うのですか?

向きが違います。ふつうの鱗は頭から尾へ順に並びますが、逆鱗はそこだけ逆を向いています。だから触れると刺さり、龍が激怒するとされました。

「逆鱗にふれる」と「逆鱗に触る」は、どちらが正しいですか?

現代の慣用句としては「逆鱗に触れる(ふれる)」が一般的です。漢文の原文では「嬰(ふ)る」という字が使われているため、教科書では「嬰逆鱗(逆鱗に嬰る)」と表記されます。

「逆鱗に触れる」の反対語は何ですか?

明確な対義語はありません。結果として逆になるのは「お眼鏡にかなう」(目上の人に気に入られる)です。なお「琴線に触れる」は対義語ではなく、混同されやすい別の言葉です。

この言葉は、いつごろから日本で使われていますか?

古くから使われています。辞書には、幕末の1864年の文書に用例が見られると記されています。また『平家物語』には「大きに逆鱗ありけり」という形で登場します。

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あわせて読みたい|中国古典から生まれた故事成語

  • 塞翁が馬幸と不幸が、何度もひっくり返り続ける話です。
  • 四面楚歌項羽を追い詰めたのは、剣ではなく歌でした。
  • 水魚の交わり劉備が関羽・張飛に言い放った、少しひどいたとえ。
  • 覆水盆に返らず出世した夫に復縁を迫った、妻の末路。
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まとめ

最後に、この記事の要点を整理します。

・「逆鱗に触れる」は、目上の人を激しく怒らせること

・読み方は「げきりんにふれる」。「さかうろこ」ではありません

・逆鱗は、龍のあごの下にある逆さに生えた鱗

・出典は『韓非子』説難篇。テーマは君主の説得法

・自分や目下の人には使いません。「琴線に触れる」は別の意味です

逆鱗は、君主だけのものではないのかもしれません。

誰にでも、触れられたくない一点があります。相手のそれがどこにあるのかを考えること。それが、韓非が2200年以上前に残した実用書の中身でした。

ちなみに韓非自身は、それに失敗しました。だからこそ、この教えは重いのだと思います。

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出典・参考文献

語義・用法について

『韓非子』・韓非・李斯について

言葉の誤用に関する調査について

「水魚の交わり」現代語訳・書き下し文|意味・登場人物もわかりやすく解説

「水魚の交わり(すいぎょのまじわり)」とは、魚と水のように切っても切れない、深い信頼関係のことです。

実はこの名言、劉備(りゅうび)が“嫉妬した仲間をなだめるため”に放った一言が由来だと知っていましたか。 しかも、その相手だった諸葛亮(しょかつりょう)は、当時まだ実績のない27歳の無名青年でした。

この記事では、現代語訳・書き下し文から意味・登場人物・テスト対策まで、まとめてわかりやすく解説します。

「水魚の交わり」とは?意味を一言で

結論

水魚の交わり=互いに欠かせない存在どうしの、深い信頼関係のたとえです。
もとは主君と家臣の関係を指す言葉でした。いまは友人・夫婦・仕事仲間など、幅広い間柄に使われています。

読み方と語源のイメージ

読み方は「すいぎょのまじわり」です。「水魚之交(すいぎょのこう)」とも書きます。

魚は水がなければ生きられません。水もまた、魚がいてこそ生き生きとします。この関係を、人と人の絆にたとえた言葉です。

「仲がよい」との違い

単に「仲がよい」とは少しちがいます。ポイントは、どちらか一方が欠けても成り立たないという点です。

そのため、軽い知り合いに使うと大げさに響きます。深く信頼し合う相手にこそ、しっくりくる言葉です。

【現代語訳・書き下し文】水魚の交わり(十八史略)

ここが、この言葉の出どころです。『十八史略』に記されたエピソードを、原文・書き下し文・現代語訳の順で見ていきます。

白文(原文)

白文

琅邪諸葛亮、寓居襄陽隆中。毎自比管仲・楽毅。
備、訪士於司馬徽。徽曰、識時務者在俊傑。此間自有伏龍・鳳雛。諸葛孔明・龐士元也。
徐庶亦謂備曰、諸葛孔明臥龍也。
備三往乃得見亮、問策。
亮曰、操擁百萬之衆、挟天子令諸侯。此誠不可与争鋒。
孫権據有江東、國険而民附。可与為援、而不可圖。
荊州用武之國、益州険塞、沃野千里、天府之土。
若跨有荊・益、保其巌阻、天下有変、荊州之軍向宛・洛、益州之衆出秦川、誰不箪食壺漿、以迎将軍乎。
備曰、善。
与亮情好日密。曰、孤之有孔明、猶魚之有水也。

書き下し文(読み仮名つき)

書き下し文

琅邪(ろうや)の諸葛亮(しょかつりょう)、襄陽(じょうよう)の隆中(りゅうちゅう)に寓居(ぐうきょ)す。毎(つね)に自ら管仲(かんちゅう)・楽毅(がっき)に比す。

備(び)、士を司馬徽(しばき)に訪(と)ふ。徽(き)曰(いは)く、「時務(じむ)を識(し)る者は俊傑(しゅんけつ)に在り。此の間(かん)自(おのづか)ら伏龍(ふくりゅう)・鳳雛(ほうすう)有り。諸葛孔明(しょかつこうめい)・龐士元(ほうしげん)なり」と。

徐庶(じょしょ)も亦(また)備に謂(い)ひて曰く、「諸葛孔明は臥龍(がりょう)なり」と。

備、三たび往(ゆ)きて乃(すなは)ち亮を見るを得て、策を問ふ。

亮曰く、「操(そう)は百万の衆を擁(よう)し、天子を挟(さしはさ)みて諸侯に令す。此れ誠(まこと)に与(とも)に鋒(ほこさき)を争ふべからず。

孫権(そんけん)は江東(こうとう)に拠有(きょゆう)し、国険(けん)にして民附(つ)く。与に援(たすけ)と為(な)すべくして、図(はか)るべからず。

荊州(けいしゅう)は武を用ふるの国、益州(えきしゅう)は険塞(けんさい)、沃野(よくや)千里、天府(てんぷ)の土なり。

若(も)し荊・益を跨有(こゆう)し、其の巌阻(がんそ)を保ち、天下に変有らば、荊州の軍を宛(えん)・洛(らく)に向かはしめ、益州の衆を秦川(しんせん)に出ださば、誰か箪食壺漿(たんしこしょう)して、以て将軍を迎へざらんや」と。

備曰く、「善し」と。

亮と情好(じょうこう)日に密なり。曰く、「孤(こ)の孔明有るは、猶(なほ)魚の水有るがごとし」と。

現代語訳(わかりやすく)

現代語訳

琅邪出身の諸葛亮は、襄陽の隆中に仮住まいをしていました。いつも自分を、名宰相・管仲や名将・楽毅になぞらえていました。

劉備は、すぐれた人材はいないかと司馬徽にたずねました。司馬徽は答えます。「時代の要請を見抜ける者は、ごくわずかな傑物だけです。この地には、まさに『伏龍』と『鳳雛』と呼ぶべき二人がいます。諸葛孔明と龐士元です」。

徐庶もまた劉備に告げました。「諸葛孔明は臥龍(地に伏せた龍)です」。

そこで劉備は三度も足を運び、ようやく諸葛亮に会えました。そして、これからの策をたずねます。

諸葛亮は言いました。「曹操は百万の大軍を抱え、天子(皇帝)を擁して諸侯に命令を下しています。この相手と、正面から力で争ってはいけません。

孫権は江東を支配し、その地は要害で、民もよくなついています。同盟して味方にするのはよいですが、攻め取ろうとしてはいけません。

荊州は軍を動かしやすい土地です。益州は険しい要害に囲まれ、肥沃な平野が千里も広がる、天の恵みの地です。

もしあなたが荊州と益州の両方を手に入れ、その険しい地形を守るとします。そして世の中に大きな異変が起きたとき、荊州の軍を宛・洛へ、益州の軍を秦川へ進めれば、民は誰もが食べ物や飲み物を用意して、あなたを迎えないはずがありません」。

劉備は「よい策だ」と喜びました。

こうして諸葛亮との親しさは、日ごとに深まっていきました。劉備はこう言います。「私に孔明がいるのは、ちょうど魚に水があるようなものだ」。

重要語句の解説

伏龍・臥龍(ふくりゅう・がりょう)
まだ世に知られていない、すぐれた大人物のこと。ここでは諸葛亮を指します。
鳳雛(ほうすう)
これから羽ばたく若い逸材のこと。龐統(龐士元)を指します。
天子(てんし)
皇帝のこと。ここでは後漢最後の皇帝・献帝を指します。
諸侯(しょこう)
各地の有力者のこと。
天府の土(てんぷのつち)
天が与えた宝庫のように豊かな土地。ここでは益州を指します。
箪食壺漿(たんしこしょう)
竹の器の食べ物と、壺に入れた飲み物。民が兵を歓迎するようすのたとえです。
小説十八史略(一)

小説十八史略(一)/陳舜臣

「水魚の交わり」が収められた『十八史略』を、陳舜臣が小説として描いた名著です。神々の時代から英雄たちの興亡まで、一気に読み進められます(全6巻)。原文の世界をもっと深く味わいたい方に。

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なぜ劉備は“魚が水を得たよう”と言ったのか?

ここからは、名言が生まれた「本当の理由」を掘り下げます。教科書には載らない、意外な裏側です。

意外な事実:仲間の“嫉妬”をなだめる一言だった

🐟 驚きの事実

この言葉は、うっとりと絆をたたえた場面で出たのではありません。関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)の“やきもち”をおさめるための一言でした。

劉備は、義兄弟の関羽・張飛と固い絆で結ばれていました。ところが、新入りの諸葛亮ばかりを頼りにします。二人はおもしろくありません。

そこで劉備は言いました。「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ。どうか、もう何も言わないでほしい」。この一言で、二人は不満を口にしなくなったと伝わります。

相手はまだ無名の若者だった

諸葛亮は、この時まだ20代の若者でした。世に名を知られた実績もありません。

一方の劉備は、40代半ばの歴戦の武将です。二人の年の差は、約20歳もありました。

年上の実力者が、年下の無名青年に頭を下げる。これは当時としても、とても異例なことでした。

三顧の礼──三度も足を運んだ理由

劉備は、諸葛亮に会うために三度も草庵をたずねました。ここから「三顧の礼(さんこのれい)」という言葉が生まれます。

礼を尽くして人材を招くことのたとえです。それだけ劉備は、参謀となる人材を強く求めていました。

三国志(1)横山光輝

三国志(1)/横山光輝

巨匠・横山光輝が描いた不朽の三国志コミックです。桃園の誓いから物語が始まります。劉備・関羽・張飛の関係を、絵で一気に追えます。三顧の礼の名場面も、この続きで楽しめます。

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水魚の交わりの“設計図”──天下三分の計

じつは現代語訳のなかに、のちの歴史を決める「重大な作戦」がかくれています。

諸葛亮が示した戦略(隆中対)

諸葛亮は、荊州と益州の二つをおさえるよう進言しました。そして、強大な曹操とは正面から戦わず、孫権とは同盟する。この構想を「隆中対(りゅうちゅうたい)」と呼びます。

中国を三つの勢力に分けて生き残る。これが「天下三分の計」です。

🎨 天下三分の計

この一夜の進言が、蜀の建国につながる

この構想は、絵に描いた理想では終わりませんでした。劉備はのちに荊州と益州を手に入れ、「蜀(しょく)」という国を建てます

無名の青年が語った作戦が、十数年後に現実となったのです。水魚の交わりは、その出発点でもありました。

登場人物まとめ(相関図つき)

物語をより深く楽しむために、主な登場人物を整理します。

おもな登場人物

劉備(りゅうび)/字:玄徳
漢王室の血を引くと称した人物。義を重んじ、諸葛亮を軍師に迎えました。のちに蜀を建国します。
諸葛亮(しょかつりょう)/字:孔明
「伏龍」と呼ばれた天才軍師。劉備に仕え、蜀の建国を支えました。
司馬徽(しばき)/水鏡先生
人物を見抜く目をもつ賢人。劉備に伏龍・鳳雛の存在を教えました。
徐庶(じょしょ)
諸葛亮の友人。劉備に諸葛亮を強くすすめた人物です。
龐統(ほうとう)/鳳雛
諸葛亮とならぶ逸材。のちに劉備に仕えますが、益州攻めの途中、36歳で戦死しました。
曹操(そうそう)
中国最大の勢力を築いた英雄。劉備にとって最大の敵です。
孫権(そんけん)
長江下流の江東を支配した君主。のちに劉備と同盟を結びます。

ひと目でわかる相関図

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テスト対策・よく問われるポイント

ここでは、テストで問われやすいポイントをQ&A形式でまとめます。タップで答えが開きます。

「水魚の交わり」の出典はどこ?
『十八史略』と、正史『三国志』の「蜀志・諸葛亮伝」です。小説『三国志演義』とは区別されます。
「伏龍」「鳳雛」とは、それぞれ誰のこと?
伏龍は諸葛亮(孔明)、鳳雛は龐統(士元)を指します。どちらも「まだ世に出ていない大人物」という意味です。
「魚が水を得たよう」と言ったのは誰?
劉備です。「私(=劉備)に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ」と述べました。主語を問う問題が定番です。
「三顧の礼」とは、どんな意味?
目上の人が、礼を尽くして何度も人材を招くことです。劉備が諸葛亮を三度たずねた故事に由来します。
諸葛亮が自分をなぞらえた二人の人物は?
名宰相の管仲と、名将の楽毅です。それだけの自負をもっていたことを示します。

使い方・例文・類語

例文(日常での使い方)

並々ならぬ親しさを表すときに使います。友人・夫婦・仕事仲間など、幅広い関係に使えます。

  • 高校時代から苦楽を共にした彼とは、水魚の交わりといえる仲だ。
  • あの監督と選手は、水魚の交わりで数々の勝利をつかんだ。

類語との違い

刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)
相手のためなら首を切られても悔いはない、という深い友情。運命共同体としての強い絆を表します。
管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)
利害を超えて理解し合う、変わらぬ友情のこと。管仲と鮑叔の故事に由来します。

意外な関係:日常語「水を得た魚」も同じ由来

いきいきと活躍するようすを「水を得た魚」といいます。この言い回しも、じつは同じエピソード(如魚得水)に由来するとされています。

身近な言葉が、三国志の名場面とつながっているのです。

まとめ

「水魚の交わり」は、互いに欠かせない存在どうしの、深い信頼関係を表す言葉でした。

その由来は、劉備が古参の仲間の嫉妬をなだめた一言にあります。相手は、まだ無名の若き諸葛亮でした。

年上の劉備が、年下の青年に三顧の礼を尽くす。その真心に、諸葛亮は生涯をかけて応えました。劉備の死後は、その子・劉禅にも忠義を尽くします。

一つの言葉の裏には、これほど熱いドラマがかくれているのです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【出典・参考】
  • コトバンク「水魚の交わり」(精選版 日本国語大辞典/デジタル大辞泉/日本大百科全書〈ニッポニカ〉)
  • コトバンク「十八史略」「三国志」(日本大百科全書〈ニッポニカ〉)
  • コトバンク「劉備」「諸葛亮」「曹操」「孫権」「三顧の礼」(日本大百科全書〈ニッポニカ〉ほか)
  • コトバンク「刎頸の交わり」「管鮑の交わり」「水を得た魚(如魚得水)」(デジタル大辞泉ほか)
  • 原文出典:『十八史略』、正史『三国志』蜀志・諸葛亮伝(陳寿)

※ 書き下し文・現代語訳は、上記の出典・参考をもとに当ブログが作成しました。

古今和歌集『仮名序』とは?現代語訳・読み方・真名序との違いをわかりやすく解説

三十一文字の和歌は、SNS全盛の今こそ新鮮に響く芸術かもしれません。平安時代の歌人・紀貫之は、和歌を「人の心を種として」と表現しました。その言葉は千年以上たった今も、私たちの心に届きます。

この記事では、古今和歌集の序文「仮名序」を、読み方・現代語訳・真名序との違いまでやさしく解説します。テストに出るポイントもまとめました。

仮名序かなじょとは
古今和歌集の巻頭に置かれた、紀貫之による仮名書きの序文です。和歌の本質・歴史・すぐれた歌人を論じた、日本で最初の本格的な歌論とされます。

 

仮名序とは?読み方と基本情報

仮名序の読み方と意味

仮名序は「かなじょ」と読みます。仮名(ひらがな)で書かれた序文、という意味です。

古今和歌集には序文が2つあります。ひとつが仮名で書かれた「仮名序」、もうひとつが漢字(漢文)で書かれた「真名序(まなじょ)」です。仮名序は巻の最初に置かれています。

和歌とは何か、という本質の説明から始まり、和歌の歴史、すぐれた歌人の評価、そして古今和歌集の成り立ちまでが語られます。

作者・成立年

仮名序の作者は紀貫之(きのつらゆき)です。古今和歌集の編纂を中心となって進めた歌人でもあります。

古今和歌集は、905年(延喜5年)に醍醐天皇の命によって編纂が始まりました。成立の時期については、序文の年紀などから913〜914年頃とする説が有力です。日本で最初の勅撰和歌集(天皇の命令で編まれた和歌集)にあたります。

編纂を命じられたのは、紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の4名でした。いずれも当時トップクラスの歌人です。約1,100首の和歌が収められています。

仮名序の原文と現代語訳

冒頭「やまとうたは…」の原文

まずは、もっとも有名な冒頭部分の原文です。声に出して読むと、リズムのよさが伝わります。

やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。

現代語訳(原文と訳の対訳表)

原文と現代語訳を並べました。スマホでは表を横にスクロールできます。

原文 現代語訳
やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。 和歌は、人の心をもとにして、たくさんの言葉になったものです。
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。 世の中の人は、いろいろな出来事に関わります。だから心に思うことを、見るものや聞くものに寄せて、言葉にして表したのです。
花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。 花の枝で鳴く鶯や、水にすむ蛙の声を聞くと、生きているものはすべて歌を詠むのです(詠まないものなどいません)。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。 力を入れなくても天地を動かし、目に見えない神々をも感動させ、男女の仲をやわらげ、勇ましい武士の心さえ慰めるもの。それが歌です。

紀貫之が伝えたいのは、和歌には大きな力がある、ということです。神々を動かし、人の心をやわらげる。そんな働きを、和歌はもっているのだと語っています。

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仮名序で使われた表現技法

「種」「ことのは」の比喩

仮名序の魅力は、たとえ(比喩)の美しさにあります。

貫之は、人の「心」を植物の「種」にたとえました。その種から芽が出て葉が茂るように、心から言葉が生まれる。だから言葉のことを「言の葉(ことのは)」と呼ぶ、という発想です。

心が種、言葉が葉、そして歌が茂った言の葉。この流れをイメージすると、冒頭の一文がぐっと分かりやすくなります。

反語・対句などの技法

冒頭には、印象を強める技法がいくつも使われています。

「いづれか歌をよまざりける」は反語です。「どれが歌を詠まないだろうか、いや、みな詠む」という意味を、疑問の形で強く言い切っています。

また「天地を動かし」「鬼神をあはれと思はせ」のように、似た形の句を重ねる対句も使われています。リズムが生まれ、和歌の力が次々と示されていきます。

和歌の技法といえば、頭文字に言葉を隠す「折句」も有名です。在原業平が「かきつばた」を詠み込んだ歌は、その代表例として知られています。詳しくは在原業平「かきつばた」の折句を解説した記事をご覧ください。

仮名序と真名序の違い

一言でいう違い(比較表)

違いは、要するに「書いた言語」と「作者」です。中身はほとんど同じ内容が語られています。

  仮名序 真名序
作者 紀貫之 紀淑望(きのよしもち)
表記 仮名(和文) 漢字(漢文)
位置 巻頭(最初) 巻末(最後)
内容 和歌の本質・歴史・歌人評 仮名序とほぼ対応する内容

「真名」とは漢字のことです。当時の正式な文章は漢文で書くのが常識でした。そのため漢文の序文を「真名序」と呼びます。

なぜ二つの序文があるのか

当時、公式な文章は漢文で書くのが普通でした。その慣習にそって、漢文の真名序が添えられています。

一方で紀貫之は、仮名で仮名序を書きました。和歌という日本語の文芸には、日本語の序文がふさわしい。そんな思いがあったと考えられます。この仮名序は、日本語による文章表現の可能性を大きく広げました。

なお、二つの序文のどちらが先に書かれたかについては、古くから諸説あります。現在は、真名序が先に書かれ、それをもとに貫之が仮名序を著したとみる説が有力です。

仮名序に登場する歌人

六歌仙と貫之の辛口批評

仮名序では、手本となる歌人として柿本人麻呂と山部赤人が紹介されます。さらに、時代の近い6人の歌人「六歌仙」も取り上げられます。

おもしろいのは、貫之が六歌仙を一人ずつ論評している点です。ほめるだけでなく、はっきりと弱点も指摘します。

  • 在原業平…「心余りて詞足らず」。感情はあふれるのに、言葉が足りない
  • 小野小町…「あはれなるやうにて強からず」。しみじみとしているが、強さに欠ける
  • 大伴黒主…「そのさまいやし」。趣はあるが、品が低い

この辛口の評価は、テストでもよく問われます。誰にどんな評価をしたか、セットで覚えておくと安心です。

なお、選者のひとり壬生忠岑の子・壬生忠見も、すぐれた歌人でした。名歌「恋すてふ」で平兼盛の「しのぶれど」と競った逸話が有名です。詳しくは「しのぶれど」と歌合をめぐる記事で紹介しています。

作者・紀貫之とはどんな人物か

歌人・官人としての生涯

紀貫之は、平安時代前期から中期に活躍した歌人です。醍醐天皇の命で古今和歌集の編纂を中心的に進め、仮名序を執筆しました。

和歌の名手として知られる一方、役人としての出世は順調ではありませんでした。高い位には昇れず、地方の土佐国へ赴任した時期もあります。晩年は木工権頭(もくのごんのかみ)にとどまりました。

代表的な和歌に「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける」があります。百人一首35番、古今和歌集にも収められた、よく知られた一首です。

『土佐日記』と仮名文学

貫之は、土佐国からの帰京の旅を『土佐日記』に記しました。仮名で書かれた日記文学の先駆けとして、今も高く評価されています。

当時、男性は漢文で書くのが常識でした。しかし貫之は、あえて仮名を使い、女性のふりをして書きました。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」という冒頭は有名です。

仮名序と土佐日記。この2つで貫之が示した「仮名で書く」という道は、のちの物語文学へとつながっていきます。その先に生まれた作品のひとつが源氏物語です。物語の始まりについては「光源氏の誕生」を解説した記事もあわせてどうぞ。

定期テストで問われるポイント

よく出る一問一答

仕上げに、頻出ポイントを一問一答で確認しましょう。

Q1. 仮名序の作者は?
A1. 紀貫之

Q2. 「やまとうたは、__を種として…」空欄に入る言葉は?
A2. 人の心

Q3. 「いづれか歌をよまざりける」に使われている表現技法は?
A3. 反語

Q4. 真名序を書いたのは誰? また何で書かれている?
A4. 紀淑望/漢文(漢字)

Q5. 古今和歌集は、誰の命で作られた何番目の勅撰和歌集?
A5. 醍醐天皇の命による、最初の勅撰和歌集

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まとめ

仮名序は、古今和歌集の巻頭に置かれた、紀貫之による仮名書きの序文です。和歌の本質や力を、美しいたとえで語りました。

漢文で書かれた真名序との違いは、「書いた言語」と「作者」。中身はほぼ同じです。この点は、テストでもよく問われます。

仮名序をきっかけに、和歌の世界に触れてみてください。短い言葉に思いを込めるその形は、きっと今の私たちにも新しい発見を与えてくれます。

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出典・参考

本文中の語句・人物・作品に関する事実は、以下の信頼性の高い情報源を参照しています。

※成立年は、905年(延喜5年)に編纂の命が下り、913〜914年頃に成立したとする説が有力です(諸説あります)。
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松平定信とは?何した人かをわかりやすく解説|寛政の改革・性格・子孫

「松平定信って何した人?」「どんな人だったの?」と気になって、このページにたどり着いた方も多いと思います。まずは結論から、やさしくまとめます。

松平定信(まつだいら さだのぶ)とは?

江戸時代中期に「寛政(かんせい)の改革」を進めた老中首座(老中のトップ)です。8代将軍・徳川吉宗の孫にあたります。白河(しらかわ)藩主として天明の飢饉を乗り切り、その手腕を買われて、傾いた幕府の財政を立て直そうとしました。

▼ 何をした人か(3行でわかる)

  • 倹約令・棄捐令(きえんれい)で、幕府の財政を立て直す
  • 囲米(かこいまい)・人足寄場(にんそくよせば)で、飢饉と治安に備える
  • 寛政異学の禁で、朱子学を重んじて秩序を固める

松平定信とは?生涯をわかりやすく

生い立ち ― 将軍候補から白河藩へ

  • 1759年、御三卿(ごさんきょう)の一つ・田安(たやす)家に生まれます。祖父は、享保の改革を進めた8代将軍・徳川吉宗です。
  • 幼いころから学問が好きで、わずか12歳で『自教鑑(じきょうかん)』という道徳の書を著しました。
  • 17歳のころ、奥州白河藩の松平家へ養子に出されます。
  • これによって、定信が将軍になる道は閉ざされました。

白河藩主としての功績 ― 飢饉で餓死者を出さず

  • 1783年、天明の大飢饉が起こり、白河藩でも深刻な米不足になりました。
  • 定信は自ら倹約に努め、他藩や上方からいち早く食料を確保します。
  • その結果、白河藩では餓死者を一人も出さなかったと伝えられています。
  • のちには、身分を問わず誰もが楽しめる「南湖(なんこ)」という庭園も整えました。今の南湖公園です。

老中首座への就任

  • 1786年、10代将軍・家治が亡くなると、前の実力者・田沼意次が失脚します。
  • 御三家と一橋治済(ひとつばしはるさだ)の推挙を受け、定信は1787年に老中首座となりました。
  • こうして、田沼時代に代わる新しい政治が始まります。
あわせて読みたい 幕府は日本最大の「藩」だった?幕藩体制のしくみを基礎から解説

松平定信は何した人?寛政の改革でしたこと

定信が進めた一連の改革を「寛政の改革」といいます。祖父・吉宗にならい、商業よりも農業を重んじる政治を目指しました。ここが「何した人?」の答えの中心です。

🖼 寛政の改革の主要政策

旧里帰農令 ― 農村を立て直す

飢饉のために江戸へ出てきた農民を、援助金を渡して村へ帰す政策です。人手を戻し、荒れた田畑をふたたび耕させる狙いがありました。

囲米・七分積金 ― 飢饉と都市に備える

「囲米」は、飢饉に備えて米を蓄えさせる制度です。都市では、町の費用を節約した分を積み立てる「七分積金(しちぶつみきん)」を行い、いざという時の備えにしました。

人足寄場 ― 長谷川平蔵の進言で職業訓練

江戸に流れ込んだ無宿人(むしゅくにん)を収容し、職業訓練をほどこす施設です。石川島に設けられました。罰するのではなく、学びによって社会へ戻すという、当時としては画期的な発想でした。これを定信に進言したのが、「鬼平(おにへい)」で知られる火付盗賊改の長谷川平蔵です。

寛政異学の禁 ― 朱子学を重んじる

幕府の学問所で、朱子学以外の学問を教えることを禁じました。朱子学は上下の秩序を重んじる考え方です。定信はこれを正学とし、幕府の支配を安定させようとしました。のちにこの学問所は、昌平坂(しょうへいざか)学問所となります。

倹約令・棄捐令 ― 財政を立て直す

「倹約令」は、質素倹約によって支出を減らす命令です。もう一つの「棄捐令」は、生活に困った旗本・御家人を救うため、札差(ふださし)という金貸しへの借金を帳消しにしたものでした。

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松平定信の性格・人物像とエピソード

超マジメで秀才 ― 12歳で本を書く

定信は幼いころから読書が好きで、儒教の基本である「四書五経」を読破しました。12歳のときには、道徳や政治の理想を記した本まで自分で書いています。

このマジメさは、大人になっても変わりませんでした。町人にも「マジメ」を求め、性風俗にふれた本や、幕府に批判的な本の作者を処罰します。堅苦しい暮らしにうんざりした町人たちは、次の狂歌で田沼時代を懐かしみました。

白河の 清きに魚の すみかねて 元の濁りの 田沼恋しき

実は色白の美男子 ― 「イケメン」と言われる理由

後年の白河藩士の伝えによると、定信は色白で美男子、目つきは鋭かったとされます。口数は少なく議論を好まなかったものの、発する一言には重みがあったと言われます。堅物のイメージとは少し違う横顔です。

文化人としての顔 ― 『集古十種』『花月草紙』

定信は政治家であると同時に、すぐれた文化人でもありました。随筆『花月草紙(かげつそうし)』や自叙伝『宇下人言(うげのひとこと)』などの著述を残しています。さらに、全国の古美術を記録した『集古十種(しゅうこじっしゅ)』を編み、これは文化財保護の先がけともいわれます。

意外な素顔 ― カツオ好きと「さだのぶくん」

定信は大のカツオ好きで、これ以外にまた食べたいと思うものはない、と自ら書き残したほどでした。地元・福島県白河市には、定信をモデルにしたPRキャラクター「さだのぶくん」もいます。かたい政治家というだけではない、人間味あふれる一面です。

自画像に込めた覚悟

老中として白河を離れる際、定信は自ら描いた自画像を家臣に遺しました。自分の分身と思って、これまで通り務めに励んでほしいという願いを込めたものです。幕府の政治に命がけで向き合う、その覚悟がうかがえます。のちに実業家の渋沢栄一が定信を深く敬愛し、その顕彰に力を尽くしたことでも知られます。

田沼意次との対立

定信と田沼意次は不仲だったと伝わります。理由の一つは、政策の違いです。田沼は商業を重んじましたが、定信は農業を重んじ、綱紀粛正を進めました。

もう一つは、定信が白河藩へ養子に出された経緯です。定信は自叙伝『宇下人言』の中で、その裏に田沼の画策があったと受け止めていたことをうかがわせる思いを書き残しています。

あわせて読みたい 田沼意次はイケメンだった?「賄賂政治家」の汚名の真相を川柳・狂歌とあわせてわかりやすく解説

大河ドラマ「べらぼう」の松平定信(井上祐貴)

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)〜」にも、白河藩主・松平定信が登場しました。演じたのは井上祐貴さんです(幼少期は寺田心さんが演じました)。作中では、主人公・蔦屋重三郎(蔦重)の出版活動を厳しく統制する、宿敵のような立場として描かれています。

🖼 田沼意次と松平定信の政策比較

松平定信の最期・墓

辞任の背景と晩年 ― 尊号一件・大御所問題

厳しすぎる政治は、11代将軍・家斉との間にも溝を生みます。朝廷にからむ「尊号一件」や、家斉の実父を厚く遇そうとした「大御所問題」で対立が深まりました。こうして定信は、就任からおよそ6年で老中を辞任します。

隠居後は「楽翁(らくおう)」「風月翁(ふうげつおう)」と号し、著述や文化活動に親しみました。次に紹介するのは、その晩年の定信を描いた小説です。

物語で楽しむ
きらん風月

きらん風月

なぜこれか:隠居して「風月翁」「楽翁」と名乗る晩年の定信が、旅先で自由人・鬼卵(きらん)と出会う長編小説です。改革者のその後を物語で味わえます。

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死去と墓所 ― 霊巌寺(清澄白河)

1829年、定信は江戸で亡くなりました。数えでは72歳(満70歳)でした。墓所は、東京都江東区・清澄白河にある霊巌寺(れいがんじ)にあります。今も毎年6月14日には、定信をしのぶ慰霊祭が行われています。

松平定信の子孫・家系図

🖼 松平定信の子孫・家系図

真田幸貫 ― 松代藩の名君

真田幸貫(さなだ ゆきつら)は、定信の子です。信濃松代(まつしろ)藩の真田家へ養子に入り、藩主となりました。天保の改革では老中・海防掛をつとめます。人材育成にも力を入れ、佐久間象山(さくま しょうざん)を登用したことで知られます。

板倉勝静 ― 幕末を生きた孫

板倉勝静(いたくら かつきよ)は、定信の孫にあたります。備中松山(びっちゅうまつやま)藩主となり、陽明学者・山田方谷(やまだ ほうこく)を登用して藩の財政を立て直しました。老中として将軍・徳川慶喜を補佐します。

戊辰戦争では、宇都宮に軟禁されていたところを、大鳥圭介や土方歳三らに救出され、五稜郭へ向かいました。のちに自首して赦免され、晩年は上野東照宮の神職などをつとめました。

あわせて読みたい 土方歳三が足を撃たれた城・宇都宮城──「釣天井で将軍暗殺」は本当だったのか?

まとめ・よくある質問(FAQ)

松平定信は、御三卿・田安家に生まれ、白河藩主として飢饉を乗り切った人物です。その実績を買われて老中首座となり、寛政の改革を行いました。マジメで秀才、そして文化人でもあった一方、厳しすぎる政治は反発も招き、およそ6年で表舞台を去りました。子孫には真田幸貫や板倉勝静がいて、その血は幕末へとつながっていきます。

ゆかりの縁起物
白河だるま

白河だるま(白河だるま総本舗)

なぜこれか:白河だるまは、小峰城主・松平定信が城下の繁栄を願って作らせたのが始まりと伝わる、定信ゆかりの縁起物です。合格祈願や必勝祈願にもぴったりです。

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松平定信は何した人?

寛政の改革を行った江戸中期の老中です。財政の立て直し、飢饉への備え、学問の統制など、幅広い分野の政策を進めました。

松平定信はどんな人?

徳川吉宗の孫で、白河藩主から老中首座になった人物です。マジメで秀才、文化人でもあり、色白の美男子だったとも伝えられています。

松平定信の最期は?

1829年に江戸で亡くなりました。数えで72歳(満70歳)でした。墓所は東京都江東区・清澄白河の霊巌寺にあります。

松平定信の有名な子孫は?

松代藩主の真田幸貫、備中松山藩主の板倉勝静などがいます。いずれも幕末に活躍しました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

出典

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混同注意!「二毛作」と「二期作」の違いを一発で整理!

二毛作と二期作の違いは?覚え方を図と例で解説【中学・高校地理】

「二毛作」と「二期作」は、入試地理で必ず出てくる用語です。どちらも「同じ土地で1年に2回作物を育てる」点は同じです。そのため、意味を取りちがえる受験生がとても多い用語でもあります。この記事では、2つの違いを図と例で整理します。覚え方や地域の具体例、一問一答もそろえました。

まず結論
違いは〈作物の種類〉です。
二毛作(にもうさく)=別の作物を年2回。
二期作(にきさく)=同じ作物を年2回。
二毛作と二期作の違い 二毛作 二期作 別の作物を2回 同じ作物を2回 1回目(夏) 2回目(冬) 1回目 2回目 種類がちがう 種類が同じ

二毛作と二期作の違いを一言で

2つの違いは「作物の種類がちがうか、同じか」だけです。まずはカードで整理します。

二毛作 にもうさく
  • 別の作物を年2回
  • 例)麦+稲
  • 種類がちがう
二期作 にきさく
  • 同じ作物を年2回
  • 例)稲+稲
  • 種類が同じ

気候や地域もあわせて見ると、次のように整理できます。

項目 二毛作 二期作
作物の種類 ちがう 同じ
主な気候 温暖な温帯 高温多雨の熱帯
主な地域 筑紫平野 東南アジア

覚える核は「種類」と「回数」です。[1][2]

覚え方(毛と期で見分ける)

覚え方 =毛色が ちがう =時期が 違う 種類がちがう 種類が同じ

二毛作の覚え方「毛=毛色がちがう」[1]

「二作」の毛を「毛色」と結びつけます。毛色がちがう=種類がちがう、と覚えます。

語呂:「毛色(けいろ)がちがうから、別の作物」
豆知識:じつは「毛」は、作物や収穫の実りを表す字です。ですから語呂は「毛色がちがう」で覚え、意味は「2種類の作物」と整理すると正確です。

二期作の覚え方「期=時期がちがう」[2]

「二作」の期を「期間」と結びつけます。期をあけて、同じ作物をもう一度、と覚えます。

語呂:「期をあけて、同じものをもう一期(いっき)」
山川 一問一答 地理
暗記のおともに
山川 一問一答 地理

『地理用語集』に対応した一問一答です。重要度が★でわかります。赤シート付きで、定期テストから入試まで使えます。

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二毛作とは?表作・裏作・歴史・地域

二毛作の定義と「表作・裏作」[1]

二毛作は、同じ耕地で1年に2回、別の作物を育てる方法です。先に育てる主となる作物を「表作(おもてさく)」といいます。あとに育てる作物を「裏作(うらさく)」といいます。たとえば、夏に稲(表作)、冬に麦(裏作)を作ります。

鎌倉時代に広まった歴史[1]

二毛作は、鎌倉時代に畿内や西日本で広まったといわれます。牛や馬を使う耕作(牛馬耕)が広がったためです。草木灰や牛馬のふん(厩肥)などの肥料も普及しました。これらにより、裏作の麦を作る余力が生まれました。日本史でもよく問われる内容です。

二毛作が行われる地域[4]

二毛作は、冬でも比較的あたたかい地域で行われます。霜が少ないことが条件です。日本では筑紫平野(福岡・佐賀)が代表例で、九州最大の米と麦の二毛作地帯です。兵庫県の淡路島では、稲の裏作としてタマネギを作る二毛作も知られています。

二期作とは?気候・高知平野・再生二期作

行われる地域 行われる地域 二毛作(種類がちがう) 筑紫平野(福岡・佐賀)/淡路島(兵庫) 二期作(種類が同じ・主に稲) かつて:高知平野 → 現在は促成栽培へ 現在:東南アジア(フィリピン・タイ)

二期作の定義と気候条件[2][4]

二期作は、同じ耕地で同じ作物(主に稲)を1年に2回育てて収穫する方法です。作物を2回育てるには、1年を通して十分な気温と降水量が必要です。そのため、高温多雨の熱帯モンスーン地域で可能になります。

かつての高知平野と、現在の東南アジア[2][3]

日本では、高知平野が二期作の代表例として知られてきました。しかし現在は、促成栽培などへ切りかわりました。そのため、二期作は大きく減っています。「今も日本で盛んに行われている」と書くと、まちがいになりやすい点に注意しましょう。海外では、フィリピンやタイなどで見られます。

再生二期作・三毛作とは[5]

再生二期作は、刈り取ったあとの株から芽(ひこばえ)を伸ばし、もう一度収穫する省力の技術です。2回目の田植えがいらないため、手間を減らせます。三毛作は、1年に3回作物を育てる方法です。沖縄など、とくにあたたかい地域で見られます。

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輪作・単作との違い

輪作とは[6]

輪作は、同じ耕地で年ごとに作物の種類を変えていく方法です。土の養分のかたよりを防げます。連作障害を防ぐ効果もあります。二毛作が「1年の中で2回」なのに対し、輪作は「年ごとに変える」点がちがいます。

単作・連作との関係[6]

単作は、1種類の作物だけを作ることです。連作は、同じ作物を毎年作り続けることです。連作を続けると、連作障害が起きやすくなります。輪作は、この連作障害を防ぐための工夫です。

英語では?(豆知識)

二毛作も二期作も、英語では「double cropping」と表されることが多いです。英語では、日本語ほど厳密に区別しない場合もあります。「作物の種類がちがうか同じか」で区別するのは、日本語の学習ならではのポイントです。

試験に出る一問一答

試験では、文章で説明させる問い方が多いです。タップして答えを確認しましょう。

同じ作物を、1年に同じ場所で2回栽培・収穫する農業を何という?
答え:二期作
同じ耕地で、別の作物を1年に2回作る農業を何という?
答え:二毛作
稲のあとに麦を作るように、あとから育てる作物を何という?
答え:裏作(うらさく)
同じ耕地で、年ごとに作物の種類を変えて育てる方法は?
答え:輪作(りんさく)

練習問題

例題:二毛作と二期作

次の説明文のうち、誤っているものを選びましょう。

① 二毛作は同じ作物を1年に2回栽培する。
② 二期作は同じ作物を2回作る。
③ 二毛作は異なる作物を育てる。
④ 二期作は主に熱帯で行われる。

解答を見る
答え:①
説明が逆です。二毛作は、1年に別の種類の作物を作ります。

確認問題(追加)

問1:二期作の代表例として、かつて知られた日本の平野は?
答え:高知平野(現在は減少しています)
問2:二毛作で、あとに育てる作物を何という?
答え:裏作
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まとめ

ポイントをもう一度整理します。

二毛作は、同じ畑で別の作物を年2回。種類が「ちがう」。
二期作は、同じ畑で同じ作物を年2回。種類が「同じ」。

迷ったら「毛=毛色がちがう」「期=期をあけて同じもの」で見分けましょう。定期テストや入試前に、しっかり確認しておきましょう。

出典

  1. [1] 二毛作 - コトバンク(デジタル大辞泉・日本大百科全書ほか)
    https://kotobank.jp/word/二毛作-110356
  2. [2] 二期作 - コトバンク(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典ほか)
    https://kotobank.jp/word/二期作-591161
  3. [3] 高知平野 - コトバンク(日本大百科全書)
    https://kotobank.jp/word/高知平野-62721
  4. [4] 二期作や二毛作は全国どこでもできるか - 農林水産省
    https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0006/27.html
  5. [5] 「にじのきらめき」を活用した再生二期作 - 農研機構(NARO)
    https://www.naro.go.jp/publicity_report/press/laboratory/karc/159911.html
  6. [6] 輪作・単作・連作 - コトバンク(各用語の項)

奥州藤原氏とは?藤原三代と平泉の栄華・滅亡をわかりやすく解説

「奥州藤原氏ってどんな一族?」「藤原三代って誰のこと?」「世界遺産・平泉との関係は?」——このページをご覧のあなたは、そんな疑問をお持ちかもしれません。

奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、平安時代の中期から後期にかけて東北地方を治めた豪族です。平泉を都として黄金文化を築き、約100年にわたって栄えました。

まず結論

奥州藤原氏とは、平安時代中期~後期に東北(陸奥・出羽)を支配した豪族です。後三年の役を経て初代清衡(きよひら)が平泉を拠点に基盤を築きました。清衡・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)の三代で黄金文化が栄えます。しかし4代泰衡(やすひら)のとき、源頼朝に滅ぼされました(1189年)。

目次

奥州藤原氏とは(基本情報)

意味・読み方を一言で

奥州藤原氏は「おうしゅうふじわらし」と読みます。平安時代の中期から後期にかけて、陸奥(むつ)・出羽(でわ)といった東北地方を治めた豪族です。

京都で摂関政治を行った藤原氏の遠縁にあたります。ただし、早くから東国に土着した別の一族です。両者の違いは、記事の後半でくわしく解説します。

何をした人?何時代?

奥州藤原氏がしたことは、大きく3つにまとめられます。1つ目は、平泉を都として整備したこと。2つ目は、金や馬の富をもとに黄金文化を育てたこと。3つ目は、朝廷と適度な距離を保ち、約100年の自治を守ったことです。

活躍した時代は、平安時代の後半です。初代清衡が台頭したのが11世紀末。滅亡が12世紀末の1189年です。ちょうど、貴族の世から武士の世へと移り変わる時期にあたります。

奥州藤原氏の略年表

奥州藤原氏 略年表
おもなできごと
1051年 前九年の役が始まる(~1062年)。安倍氏が滅びる
1083年 後三年の役が始まる(~1087年)。清衡が勝者となる
1094年ごろ 清衡が本拠を平泉へ移す
1124年 中尊寺金色堂が建立される
1128年 初代 清衡が没する
1157年 2代 基衡が没し、秀衡が継ぐ
1187年 3代 秀衡が没する
1189年 奥州合戦で平泉が陥落。奥州藤原氏が滅亡する

奥州藤原氏の家系図(藤原四代の関係)

家系図でわかる清衡・基衡・秀衡・泰衡

奥州藤原氏は、清衡・基衡・秀衡・泰衡の四代が中心です。まず、家系図で全体の流れをつかんでおきましょう。

奥州藤原氏 藤原四代の家系図(経清・安倍氏・清原氏との関係)

初代・清衡の父は、陸奥の豪族の藤原経清(つねきよ)です。母は、安倍頼時(あべのよりとき)の娘でした。経清の死後、母は清原氏に再嫁します。そのため、清衡は一時「清原」を名乗りました。

その後、清衡は「藤原」に戻し、初代となります。以降は、清衡→基衡→秀衡→泰衡と受け継がれました。泰衡の異母兄・国衡(くにひら)も、滅亡の際に大きな役割を果たします。

三代の覚え方・読み方

四人の名前には、すべて「衡(ひら)」が付きます。読み方は、清衡(きよひら)・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)・泰衡(やすひら)です。「きよ・もと・ひで・やす」と、頭文字で覚えると忘れにくくなります。

順番は、栄華を築いた三代(清衡・基衡・秀衡)に、滅亡の4代・泰衡が続く流れです。滅亡の年号の覚え方は、記事の後半で紹介します。

奥州藤原氏の始まり|前九年の役・後三年の役

前九年の役とは

11世紀の半ば、陸奥では安倍氏が大きな力を持っていました。この安倍氏と、朝廷から派遣された国司が対立します。そこから起きたのが、前九年の役(1051~1062年)です。

朝廷は、源頼義・義家の父子を派遣しました。長い戦いの末、安倍氏は滅びます。このとき、清衡の父・経清は安倍方につき、敗れて処刑されました。この出来事が、のちの因縁の始まりになります。

後三年の役と清衡の勝利

前九年の役のあと、東北を治めたのは清原氏でした。ところが、その清原氏の内部で家督争いが起こります。これがきっかけとなり、後三年の役(1083~1087年)が始まりました。

清衡は、陸奥守・源義家の協力を得て勝利します。こうして東北の支配者となりました。

なぜ「藤原」を名乗ったのか

清衡は、もともと父方が藤原姓です。しかし、母の再嫁にともなって、一時は清原姓を名乗っていました。後三年の役に勝ったのち、清衡は本来の「藤原」に戻します。これが、奥州藤原氏の始まりです。

藤原三代とは|清衡・基衡・秀衡の栄華

藤原三代とは、中尊寺金色堂にまつられる清衡・基衡・秀衡の3人を指す呼び名です。奥州藤原氏を築き上げた3人を、順に紹介します。

初代 藤原清衡(中尊寺建立)

清衡は、1094年ごろに本拠を平泉へ移しました。平泉は、京都をモデルにした大規模な都市です。現在も残る中尊寺を開いたのも清衡でした。

さらに清衡は、中国の宋と独自に貿易を行います。一切経(いっさいきょう)を輸入するなど、国際的な活動も見せました。1128年、73歳でその生涯を閉じます。

中尊寺は「敵も味方も」弔うために建てられた

中尊寺の落成にあたり、清衡は願文(がんもん)をささげました。そこには、前九年・後三年の役で命を落とした人々を弔う思いがつづられています。しかも、敵味方の区別なく、さらには鳥や獣、魚の命までも供養するという内容でした。度重なる戦乱を見てきた清衡の、平和への祈りがこめられています。

2代 藤原基衡(毛越寺建立)

1128年に清衡が亡くなると、家督争いが起こります。これに勝ったのが2代・基衡でした。基衡は、信夫佐藤氏(しのぶさとうし)などの協力を得て、家臣団をまとめます。

基衡は、朝廷から派遣される国司としばしば対立しました。しかし、粘り強い交渉で自治を守ります。院の近臣とも結びつきを深めました。こうして奥州の自治を固め、平泉に毛越寺(もうつうじ)を建立します。

3代 藤原秀衡(全盛期)

1157年、基衡の死後に奥州藤原氏を継いだのが秀衡です。1170年には鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任じられ、奥羽の軍事の実権を握りました。さらに1181年には陸奥守(むつのかみ)にもなります。地方の武士が国守になるのは異例のことでした。こうして秀衡は、奥羽をほぼ独立国のように治めます。その勢力は「奥羽十七万騎」とも称されました。

そのころ、都では保元の乱・平治の乱が続きます。秀衡は、こうした争いから距離を取りました。1180年に始まった治承・寿永の乱(源平合戦)でも、およそ5年にわたって中立を保ちます。

秀衡は義経に「奥州を託そう」とした

秀衡は、都を追われた源義経をかくまいました。1185年に平氏が滅びると、頼朝との緊張が高まります。『吾妻鏡』によれば、秀衡は死に臨み、義経を主君として仕えるよう泰衡らに遺言したと伝わります。義経を大将軍に立て、奥州を一つにまとめさせようとしたのでしょう。その遺言を残した2か月ほど後、秀衡はこの世を去りました。

奥州藤原氏を支えた「金」と「馬」

奥州藤原氏の富を支えたのが、「金」と「馬」でした。東北地方は、古くから金と馬の産地として知られていました。

なぜ金が採れた?陸奥の産金

陸奥は、日本で早くから金を産出した土地です。奈良時代には、大仏づくりに陸奥の金が使われたと伝わります。奥州藤原氏は、この金を朝廷に献上し、良好な関係を保ちました。中尊寺金色堂が全面金箔で覆われているのも、豊かな砂金があったからです。

「黄金の国ジパング」と平泉

のちにマルコ・ポーロは、日本を「黄金の国ジパング」と紹介しました。その「黄金の宮殿」のモデルが中尊寺金色堂だとする説もあります。ただし、中尊寺自身は「宮殿説の歴史的な根拠は今のところない」としています(政府広報オンライン)。確かな裏づけのある話ではありませんが、東北の金の豊かさを伝える逸話として語り継がれています。

名馬の産地としての東北

東北は、優れた馬の産地でもありました。馬は、当時の移動や輸送、そして軍事の要です。秀衡の時代に「十七万騎」と称された軍事力も、豊富な馬に支えられていました。こうして、金と馬は奥州藤原氏を象徴するものとなりました。

中尊寺金色堂と藤原三代のミイラ

中尊寺金色堂とは(国宝・世界遺産)

中尊寺金色堂は、清衡が1124年に建てたお堂です。平安時代に広まった浄土の教えが、色濃く反映されています。その名のとおり、柱や壁、床、扉にまで金箔がほどこされた、まばゆいお堂です。

金色堂は、1951年に国宝建造物の第1号に指定されました。傷みが進んだため、1962年から1968年にかけて解体・修理も行われています。現在は、コンクリート製の覆堂(おおいどう)によって守られ、2011年には世界文化遺産にも登録されました。

なぜミイラに?今も見られる?

金色堂の須弥壇(しゅみだん)には、清衡・基衡・秀衡のミイラがまつられています。あわせて、4代・泰衡の首も納められています。乾燥した気候や埋葬の工夫が重なり、ミイラとして今日まで伝わりました。

加筆エピソード:泰衡の首桶から咲いた「中尊寺ハス」

昭和25年(1950年)、藤原四代の遺体は学術調査を受けました。このとき、泰衡の首桶からハスの種が見つかります。種は植物学者の大賀一郎博士に託されました。その後、平成5年(1993年)に発芽に成功します。そして平成10年(1998年)、約800年の時を超えて開花しました。「中尊寺ハス(泰衡蓮)」と名づけられ、今も平泉で花を咲かせています。金色堂の内部は、現在も拝観が可能です。

世界遺産・平泉|奥州藤原氏の都

平泉はどこ?構成資産一覧

平泉は、岩手県の南西部、西磐井郡(にしいわいぐん)にあります。奥州藤原氏の遺跡が数多く残り、2011年に世界文化遺産へ登録されました。

世界遺産を構成するのは、清衡が建てた中尊寺、基衡が建てた毛越寺と観自在王院跡(かんじざいおういんあと)です。さらに、秀衡が建てた無量光院跡(むりょうこういんあと)と、平泉のシンボルである金鶏山(きんけいさん)が含まれます。

毛越寺・無量光院跡・金鶏山

奥州藤原氏は、平泉を単なる行政の中心地とは考えていませんでした。極楽浄土をこの世に再現しようとしたのです。毛越寺の浄土庭園などには、その理想がよく表れています。京都に負けない都を築き、仏の国を地上に映そうとしたのでしょう。

平泉の観光・アクセス

平泉をより深く知りたい方には、「平泉文化遺産センター」がおすすめです。展示を通して、奥州藤原氏と平泉の歴史を学べます。

平泉町 公式サイト平泉文化遺産センターの案内はこちら
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奥州藤原氏の滅亡|なぜ源頼朝に滅ぼされたのか

義経をかくまった秀衡・泰衡

頼朝は、弟・義経の逮捕を名目に、全国へ守護・地頭を置きました。そして、義経をかくまう泰衡に、その引き渡しを迫ります。圧力に屈した泰衡は、義経のいた衣川館(ころもがわのたち)を攻めました。こうして義経は最期をむかえます。

奥州合戦と平泉陥落(1189年)

泰衡は、頼朝に「義経を討った」と伝えました。ところが頼朝は、家人を勝手に殺したとして、奥州へ攻め込みます。この戦いが、奥州合戦(奥州征伐)です。鎌倉方は畠山重忠(はたけやましげただ)を先陣に進みました。泰衡方は阿津賀志山(あつかしやま/福島県国見町)に防衛線を張りますが、これを破られます。1189年8月、平泉は陥落しました。

泰衡の首と、100年越しの因縁

『吾妻鏡』によれば、泰衡の首は八寸(約24cm)の釘で柱に打ち付けられました。これは前九年の役で、安倍貞任(あべのさだとう)の首が同じように扱われた故実にならったものと伝わります。清衡の父・経清も、前九年の役で源頼義に討たれています。源氏と奥州の因縁は、100年の時を超えて続いたのです。

なぜ滅亡した?滅亡年の語呂合わせ

滅亡の直接のきっかけは、義経をかくまったことでした。しかし本当の理由は、頼朝が全国統一を進めるうえで、独立した奥州藤原氏を残せなかった点にあります。滅亡の年は1189年。「いい(11)は(8)く(9)」で覚えておきましょう。

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奥州藤原氏の子孫・末裔は今どうなった?

泰衡の最期とその後

平泉を追われた泰衡は、北へ北へと逃げます。ついに、現在の秋田県北部(比内郡)まで落ち延びました。しかし、そこで家臣の河田次郎(かわだじろう)に討たれてしまいます。裏切って首を差し出した河田も、頼朝によって処刑されました。泰衡が葬られた地には、のちに錦神社(にしきじんじゃ)が建てられ、今に残ります。こうして、奥州藤原氏の嫡流は絶えたとされます。

生き残った一族・末裔の伝承

一方で、一族の生き残りや末裔を称する伝承は、各地に残っています。ただし、確かな史料で裏づけられるものばかりではありません。あくまで地域の言い伝えとして受け止めるのがよいでしょう。奥州藤原氏の記憶は、こうした形でも各地に息づいています。

奥州藤原氏と京都の藤原氏の違い

一覧表でわかる違い

奥州藤原氏も、京都の藤原氏も、同じ「藤原北家」に属します。しかし、平安時代を通じて、両家は別々の道を歩みました。ポイントを表で整理します。

奥州藤原氏と京都の藤原氏の違い
項目 京都の藤原氏 奥州藤原氏
系統 藤原北家(冬嗣の流れ) 藤原北家 秀郷流
拠点 京都 平泉(東北)
力の源 摂関政治(天皇の外戚) 金・馬と自治的な支配
良房・基経ら 平将門を討った藤原秀郷
関係 同じ北家だが、早くに分かれた遠縁。別の家といえます

京都の藤原氏は、良房・基経らによって摂関政治の基盤を固めました。一方、奥州藤原氏の祖先は関東に下ります。なかでも、下野国(栃木県)の藤原秀郷は、平将門の討伐で手柄を立てました。奥州藤原氏は、この秀郷の子孫「藤原北家秀郷流」に連なります。

奥州藤原氏を描いた作品|『炎立つ』とえさし藤原の郷

大河ドラマ『炎立つ』

奥州藤原氏を描いた作品といえば、NHK大河ドラマ『炎立つ(ほむらたつ)』でしょう。1993年から1994年にかけて放映されました。清衡の父・経清と、4代・泰衡を、渡辺謙さんが演じています。

大河ドラマは、中央の視点で語られることがほとんどです。しかし『炎立つ』は、地方の目線で描かれた異色の作品として話題になりました。原作は、高橋克彦さんの歴史小説です。

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ロケ地「えさし藤原の郷」

『炎立つ』のロケ地として作られ、そのまま残されたのが「えさし藤原の郷」です。場所は、岩手県奥州市の江刺(えさし)にあります。平安時代の建物を再現した、国内でも数少ないテーマパークです。

広い敷地の中を歩けば、平安の街並みを体感できます。『炎立つ』のほかにも、数々のドラマのロケ地となりました。

歴史公園 えさし藤原の郷 公式サイト平安時代の街並みを再現したテーマパーク

まとめ

今回は「奥州藤原氏」についてまとめました。奥州藤原氏は、平安時代の中期から後期にかけて東北を治めた一族です。清衡・基衡・秀衡の三代を中心に、世界遺産・平泉で黄金文化を築きました。朝廷と絶妙な距離をとりながら、約100年の自治を守ります。

しかし、義経をかくまったことをきっかけに、源頼朝によって滅ぼされました。この記事が、奥州藤原氏への疑問を解くきっかけになればうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

よくある質問(FAQ)

奥州藤原氏はいつ滅亡しましたか?
1189年です。源頼朝による奥州合戦(奥州征伐)で平泉が陥落し、4代・泰衡の敗死とともに滅びました。
奥州藤原氏は何をした人たちですか?
平泉を都として整備し、金や馬の富をもとに黄金文化を築いた一族です。中尊寺金色堂や毛越寺を建て、約100年の自治を守りました。
京都の藤原氏との違いは何ですか?
どちらも藤原北家ですが、奥州藤原氏は平将門を討った藤原秀郷の流れ(秀郷流)です。早くに東国へ下った、遠縁の別の家といえます。
奥州藤原氏の子孫は今もいますか?
嫡流は泰衡の敗死で絶えたとされます。ただし、末裔を称する伝承は各地に残ります。確かな史料の裏づけがある話ばかりではありません。

出典・参考文献

各見出しの記述は、コトバンク(辞典)および公的機関の情報にもとづいています(見出しごとに対応)。

  1. 基本情報・家系図・前九年/後三年の役・藤原三代:コトバンク「奥州藤原氏」 kotobank.jp/word/奥州藤原氏-217010 / 岩手県「平泉の文化遺産(奥州藤原氏)」 sekaiisan.pref.iwate.jp
  2. 藤原秀衡の官職(鎮守府将軍・陸奥守)・秀衡の遺言:岩手県「平泉の文化遺産」(同上)
  3. 金と馬・産金・黄金の国ジパング説(注記つき):政府広報オンライン Highlighting Japan「中尊寺金色堂」 gov-online.go.jp
  4. 中尊寺金色堂(建立1124年・国宝・世界遺産):政府広報オンライン(同上)
  5. 中尊寺ハス(泰衡蓮)・1950年の遺体調査:横手市「中尊寺ハス」 city.yokote.lg.jp / 鎌倉市「中尊寺ハスについて」 city.kamakura.kanagawa.jp / 国見町「中尊寺蓮」 town.kunimi.fukushima.jp
  6. 世界遺産・平泉(構成資産・観光):岩手県「平泉の文化遺産」(同上)/ 平泉町公式サイト town.hiraizumi.iwate.jp
  7. 滅亡(奥州合戦・畠山重忠・阿津賀志山・平泉陥落・河田次郎・泰衡の首):コトバンク「奥州征伐」 kotobank.jp/word/奥州征伐-38705/『吾妻鏡』(泰衡の首の記述)
  8. 京都の藤原氏との違い(藤原北家・秀郷流):コトバンク「藤原氏」 kotobank.jp/word/藤原氏-124584

※ 黄金の国ジパング説など、確かな史料の裏づけがない事柄については、本文でも「説」「伝承」と明記しています。

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