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幕藩体制って何?幕府と藩は何が違う?幕藩体制の成立・動揺・崩壊や幕藩体制のしくみについて一挙解説!

幕藩体制って何?」

「幕府と藩は何が違うの?」

このページを見ている皆さんは、このようにお考えではないでしょうか。

幕藩体制とは、江戸幕府を中心に幕府と藩が日本各地を支配する政治体制のことです。江戸幕府は日本全国に命令を出せるというだけではなく、日本で一番広い土地を支配する領主でもありました。

この記事では、幕藩体制の成立から崩壊までの大まかな流れや、江戸幕府のしくみ、江戸幕府と諸藩の違い、江戸幕府による大名統制などについて解説します。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/707039">松波庄九郎</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

江戸時代に興味がある方は、こちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

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幕藩体制とは何か 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Edo_l122.jpg

幕府や藩などが全国各地を支配するしくみを幕藩体制といいます。

幕府のトップは征夷大将軍で代々徳川氏が独占しました。

幕府の領地を天領といいます。幕府は江戸や京都・大坂周辺などの重要地域や金銀山を天領に組み込みます。そのため、幕府の経済力は諸藩に比べはるかに強大でした。

天領以外の4分の3はが支配します。藩のトップは大名、または藩主といいました。「志村けんのバカ殿様」で出てくる「殿」は、藩主のことです。

藩は幕府と別に武士たちを配下としました。幕府に仕える武士は幕臣、藩に仕える武士は藩士とよばれ区別されます。

それ以外に、天皇家や公家、寺社が所有する土地もありましたが幕府や藩に比べると微々たるものでした。

幕藩体制の確立・動揺・崩壊

 

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幕藩体制の確立

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1600年、徳川家康関ヶ原の戦いで勝利し、1603年に征夷大将軍となりました。家康は武家諸法度禁中並公家諸法度などを定め、幕藩体制の基礎固めをします。

幕藩体制が確立したのは3代将軍徳川家光のころです。家光は武家諸法度に参勤交代を追加し、幕府による大名統制を強化し、幕府による全国支配を確立します。

家康から秀忠、家光までの時代は武力で諸大名を押さえつける武断政治の時代だとされます。幕府は大名たちが力をつけるのを警戒し、有力大名を次々と取り潰します。

しかし、行き過ぎた大名の取り潰しは多くの藩士たちを失業させ、「浪人」を全国各地に出現させます。刀を持った浪人たちが増えすぎると、秩序維持の点で問題となります。

4代将軍家綱から5代将軍綱吉の時代にかけて、武断政治は徐々に改められ、朱子学を中心とする文治政治へと移行します。そのため、上下秩序を重んじる朱子学が武士たちの基礎教養となりました。

幕藩体制の動揺

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17世紀の後半になると幕府財政は行き詰まります。それまでたくさん採れていた金銀の採掘量が減ったにもかかわらず、幕府の出費が増え続けたからでした。

財政難に拍車をかけたのが5代将軍綱吉による巨額の出費です。綱吉のもとで勘定奉行を務めた荻原重秀は金銀の純度をおとした貨幣を発行し、貨幣の流通量を増やしますが、一時しのぎにしかなりませんでした。

18世紀初めに将軍となった8代将軍吉宗は新田開発や増税により財政難を解決します。吉宗の改革は享保の改革と呼ばれました。しかし、増税に反発する農民は各地で一揆をおこします。

以後、寛政の改革天保の改革でも財政立て直しが目指されましたが、十分な成功とはならず、幕府財政は苦しいままでした。

幕藩体制の崩壊

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19世紀になると、ヨーロッパ列強の船が日本近海に出没します。諸外国は幕府に鎖国をやめて開国するよう圧力をかけます。

幕府の力が衰える一方、諸藩では藩政改革が進み強い力を持つ藩が現れました。こうした藩を雄藩といいます。

やがて、薩摩藩長州藩といった討幕勢力は朝廷と結びつき、戊辰戦争で勝利して江戸幕府を滅亡に追いやりました。その結果、幕藩体制は崩壊します。

 

江戸幕府のしくみ

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/707039">松波庄九郎</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

江戸幕府の主な役職

江戸幕府は将軍を頂点とする全国組織です。諸藩と比べ物にならないほど大きな幕府を機能させるため、様々な役職が置かれました。江戸幕府の主な役職について紹介します。

大老

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大老将軍を除くと江戸幕府の最高職です。複数選ばれるのが普通の江戸幕府の中で、珍しく一人だけ選ばれます。

将軍の代理ともいえる存在で江戸時代を通じてのべ10人だけ選出されました。5代将軍徳川綱吉の治世前半を支えた堀田正俊日米修好通商条約を結んだ井伊直弼が有名です。

老中

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老中政治全体を統括する役職で、現代でいう内閣にあたります。総理大臣にあたるのは老中の中でもトップの人という意味で老中首座とよばれました。松平定信水野忠邦も老中首座として改革の指揮を執ります。

三奉行

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老中のもとで行政や裁判に携わったのが三奉行です。三奉行は寺社奉行町奉行勘定奉行をさします。老中と三奉行で構成され、重要事項について合議や採決を行うのが評定所でした。

寺社奉行は4名選出され全国の自社と寺社領を管理します。宗教活動をコントロールするのが寺社奉行の主な仕事だといえます。

町奉行は、江戸市中の行政や裁判を担当しました。時代劇の大岡越前遠山金四郎江戸町奉行でしたね。南北2名選出されます。江戸町奉行は現在でいう東京都知事と東京地方裁判所の裁判官を兼ねる役職でした。

勘定奉行は幕府の財政を司る役職です。天領からの租税収入や幕府財政の管理を行いました。徳川綱吉時代の勘定奉行荻原重秀は小判の質を下げて発行量を増やし幕府の収入を増やします。その一方で物価高騰を招いてしまいました。

京都所司代

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京都所司代
京都の護衛と宮中・西国大名の監視をおこないます。西国には有力な外様大名が多いので幕府としては目が離せませんでした。また、朝廷を幕府がしっかりと抱え込むことで天皇や朝廷の政治利用を防ぐことも京都所司代の仕事となります。

幕末、幕府の京都掌握力が弱まると雄藩が朝廷の公家たちと接触するようになり、朝廷が政治の表舞台に出るきっかけとなりました。

 

江戸幕府の財政基盤

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江戸幕府は全国各地に天領を所有していました。天領の石高は400万石で、日本全国3000万石の13.7%に相当します。最大の藩が前田家の100万石ですから、幕府は日本最大の藩だともいえます。

幕府の強みは重要な鉱山の手中に収めていたことでした。戦国大名たちの財源だった佐渡金山や石見銀山など主な鉱山は幕府が支配します。また、全国で流通する金貨(小判)や銀貨(丁銀など)、銭貨(寛永通宝などの銅銭)を鋳造する権利も幕府が独占しました。

加えて、商業が盛んな江戸・京都・大坂・長崎・堺なども幕府直轄地に組み入れます。中でも長崎で行われる長崎貿易は完全に幕府が独占しました。

江戸幕府の軍事力

幕府には将軍直属の旗本御家人がいました。旗本は将軍に直接謁見できる高位の直属家臣で、それ以下のものは御家人とされます。

彼らは戦時になると兵力として動員されます。その数約8万人とされます。これが、旗本八万騎の語源ですね。

これに徳川一族の親藩関ケ原以前から徳川氏に従っていた譜代大名などの兵力を合わせると幕府の動員兵力は25万人以上となります。十分、諸大名を圧倒できる兵力でした。

 

藩のしくみ

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藩とは、江戸時代に大名(1万石以上の領地を支配する領主)が支配した領地、支配のしくみを表す言葉です。大名は藩主、大名の家臣は藩士とよばれます。

藩士たちは藩主の居城周辺にある城下町に集められ、藩からの俸禄をもらうのが一般的でした。中には藩主から土地を与えられるものもいましたが全体の中では少数派です。

藩はトップである大名のもとに家老や奉行、代官などが置かれ、幕府に認められた領地を統治しました。諸藩は幕府に従いますが、藩内の政治はある程度の自治を認められました。

江戸幕府による大名統制

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/1931971">ラテすけ</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

大名の配置

江戸幕府は全国の大名を3つのランクに分けます。一つは、尾張藩紀伊水戸藩の御三家を筆頭とする親藩です。親藩には松平姓を名乗る徳川家の親族大名も含まれます。

関ヶ原以前から徳川氏に従っていた大名を譜代大名といいます。譜代大名は大きな領地をもちません。しかし、政治・経済的に重要な場所を領地として与えられました。また、譜代大名は老中など幕府の要職に就くことができました

重要地域から最も遠い場所には外様大名が配されます。外様大名は領地こそ大きいですが、幕府の要職に就くことはありません。江戸幕府は身内ほど重要地域に、外様ほど遠隔地に配置したのです。

武家諸法度

江戸幕府が大名をコントロールするために定めた法令を武家諸法度といいます。1611年に家康が各大名から取り付けた誓紙三カ条をもとに、金地院崇伝が10カ条を追加して1615年に諸大名に申し渡されました。

一国一城令や参勤交代などは武家諸法度の一部として発布されます。武家諸法度は1615年の二代将軍秀忠によるものをはじめとし、将軍が変わるたびに何度も改訂されました。

一国一城令

1615年、江戸幕府武家諸法度の中で大名たちに居城以外の城を破壊するよう命じました。大名の軍事力を削減するのが目的で西日本を中心に多くの城が廃城となります。同時に、無断で新たな城を築城することも禁止します。

1619年、広島藩福島正則広島城を無断で修築したことが武家諸法度違反だとしてとがめられました。その結果、福島正紀は安芸・備後50万石を没収されてしまいます。

参勤交代

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参勤交代は三代将軍徳川家光武家諸法度寛永令)で公布されます。大名は領地に1年、江戸に1年滞在すると定められました。また、大名の妻子は江戸居住が義務付けられます。

参勤交代は大名にとって莫大な費用負担となりました。その一方で、江戸と地方を往来する交通が発達し、文化の地方普及が促進されます。

手伝普請

参勤交代と同じく、諸大名を財政的に苦しめたのが手伝普請でした。手伝普請は幕府の命令で大名が築城や治水工事を請け負うことです。諸大名は江戸城駿府城など幕府の城をつくるたびに動員されます。

江戸時代中期になると、治水対策の手伝普請が多くみられます。

1750年代から1760年代にかけて、薩摩藩が幕府から命じられた木曽川長良川揖斐川の治水工事は51名が自害し33名が病死、工事完了後に責任者の家老が自刃するなど壮絶なものでした。巨額の費用は諸藩の財政を圧迫します。

まとめ

幕藩体制は幕府と藩が日本全国を支配するしくみです。全国組織である幕府は日本で最も経済力と軍事力を持つ組織でした。藩は大名が支配する領地・支配のしくみなどを表す言葉です。重要地点は幕府が、その他の地域を藩が支配していたと考えるとわかりやすいですね。

江戸幕府武家諸法度などの法令を出し諸大名をコントロールします。江戸幕府を中心とする幕藩体制大政奉還まで270年近く継続します。

この記事を読んで、幕藩体制とは何か、幕藩体制の成立から崩壊までの大まかな流れや、江戸幕府のしくみ、江戸幕府と諸藩の違い、江戸幕府による大名統制などについて少しでも疑問が解けたらありがたいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

織田信長が妹のお市を嫁がせてまで味方につけたかった北近江の雄、浅井氏とは!?

この記事をご覧の方は、

浅井氏とはどんな一族?

浅井長政とはどんな人物?

「信長は、なぜお市浅井長政に嫁がせたのか?」

といった疑問を持っているかもしれません。

 

なぜ、信長は浅井氏を同盟者として選んだのでしょうか。

そこには、浅井氏の支配する北近江の重要性や、勇将浅井長政の存在があったのではないでしょうか。

 

今回は、浅井氏とはどんな一族か、浅井長政をはじめとする浅井三代とは人々か、信長がお市浅井長政に嫁がせた理由などについてまとめます。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/2571140">Airchariot</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

浅井氏の血筋 

浅井氏は北近江の国人領主でした。

国人領主とは、地域を支配する地方領主のことですね。

 

浅井氏は古代の豪族物部氏の末裔を名乗っていました。

浅井氏の祖となった浅井重政が藤原氏の一員です正親町三条家の御落胤だったとする説もあります。

 

室町時代には、北近江を支配した京極氏の中堅家臣だったようです。

北近江を支配した京極氏は、一時、南近江を支配した六角氏を凌ぐ勢いとなりましたが、家督争いなどで衰退します。

京極氏が衰退すると北近江では浅井氏などの国人たちの力が強まりました。 

 

浅井三代とは 

浅井氏飛躍の土台を作った浅井亮政

浅井亮政は1491年に浅井氏庶流の家に生まれました。

年代は定かではありませんが、のちに本家の娘と結婚し、浅井本家を相続します。

 

亮政が当主だったころ、北近江は京極氏支配下にありました。

京極高清の長男京極高延ではなく、弟の高吉に家督を継がせようとします。

このため、京極氏内部でお家騒動が起きました。

 

亮政は高延を支持し、高清と高吉を尾張へ追放しました。

京極高清を追放後、北近江では京極氏よりも浅井亮政をはじめとする国人たちが政治の主導権を握りました

 

北近江で浅井氏の勢力が強まると、南近江の六角氏との対立が激しくなります。

六角氏は京極氏の本家筋にあたる家で、北近江にも影響力を持っていました。

亮政は北近江の国人たちをまとめ、六角氏や復権をはかる京極氏と対決します。

 

亮政は六角氏や京極氏に対抗するため、越前の朝倉氏と同盟を結びました

朝倉氏からすれば、越前から京都に向かう重要な場所を治める浅井氏を味方につけたかったのでしょう。

 

1542年、浅井亮政は亡くなりました。

京極氏や六角氏との対立関係は次代の当主浅井久政に引き継がれます。

 

六角氏の攻勢にさらされ苦戦する浅井久政 

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E4%B9%85%E6%94%BF

 

浅井久政は父の亮政や子の長政に比べて地味な印象が強い人物です。

1526年、久政は浅井亮政の子として生まれました。

1542年に父の死によって家督を相続します。

 

久政が家督を継いだ時、浅井氏は主家の京極氏と対立関係にありました。

その上、南近江の六角氏にも押し込まれ、久政は六角氏に従うことを余儀なくされます

 

亮政に比べると武勇の点で見劣りする久政に対し、家臣たちは不満を募らせました。

 

浅井氏を戦国大名に成長させた浅井長政 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E9%95%B7%E6%94%BF

 

久政が六角氏に服従していた1545年、六角氏の本拠地である観音寺城の城下町で浅井長政は生まれました。

 

長政が生まれたころ、浅井氏は多くの領土を六角氏に奪われ亮政時代の勢いを失っていました。浅井氏の家臣たちは弱腰の久政を見限り、嫡子の長政に期待をかけます。

 

1559年、久政の弱腰に不満を持っていた家臣たちは長政を擁立し久政を引退に追い込みます。このとき、長政はまだ14歳でした。

 

家督を相続した長政は、政略結婚で六角氏家臣の平井氏から迎えていた妻を実家に送り返し、六角氏側の国人領主を調略して寝返らせました。

 

このことを知った六角承禎は直ちに浅井領に出兵しました。両軍は野良田(のらだ)で激突しました。六角軍は25,000、対する浅井軍は11,000と兵力では六角軍が有利です。

 

序盤は数的に有利な六角軍が優勢でした。ところが、序盤戦の優勢に気を緩めていた六角軍に対し、浅井長政は果敢に切り込み戦をしかけ六角軍を総崩れさせます

 

さらに、1563年におきた観音寺騒動によって六角氏が衰退すると浅井氏の江北支配が決定的になりました。

 

若いうちから頭角を現し、浅井氏の勢力を拡大させた浅井長政の才覚に織田信長も注目したのではないでしょうか

 

浅井氏が支配した北近江

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/537264">あけび</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

 

浅井氏が支配した北近江とはどのような土地だったのでしょうか。北近江の特徴と、浅井氏の居城である巨大山城、小谷城についてまとめます。

 

北近江の特徴とは

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C

北近江とは、文字通り近江国の北半分で、伊香郡浅井郡坂田郡の3郡からなります。江北・湖北とも呼ばれる地域で、現在は滋賀県長浜市米原市彦根市の一部となっています。

 

室町時代近江国の守護は佐々木流源氏が治めていました。南半分は佐々木流源氏の嫡流六角氏が、北半分は佐々木源氏庶流の京極氏が支配します。

 

近江国は琵琶湖を中心とし、京都と北陸地方、東海地方をつなぐ交通の要衝です。そのため、たびたび戦乱の舞台となり近江を支配することは天下統一にとって必須の条件でした。

 

浅井長政との戦いに勝利した織田信長は、近江国の南東部に安土城を築き天下に号令しました。信長が近江を重要視していたことがよくわかります。

 

難攻不落の山城、小谷城

小谷城は浅井氏の本拠地である浅井郡にあった山城です。大規模で堅牢な山城として知られました。

 

小谷城は小谷山一帯に複数の郭をもつ巨大山城です。籠城時に当主が立て籠もる本丸をはじめ、京極丸や小丸、大嶽城、福寿丸、山崎丸など多数の郭で小谷山の尾根を守っていました。

 

本丸を攻め落とそうとすれば、正面のいくつもの郭を突破しなければなりません。側面から回り込むにも、向かい側の尾根には福寿丸や山崎丸があって侵入を阻止されます。背後から攻めようとすれば大嶽城が立ちはだかりました。

 

複数の郭を持ち、尾根全体を要塞化した山城を攻め落とすのは並大抵の苦労ではありません。小谷城はまさに鉄壁のディフェンスを誇る山城だったのです。

 

織田信長との関係 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

桶狭間の戦い今川義元を打ち取った織田信長は、1565年に尾張を統一します。1567年には美濃稲葉山城を陥落させ、尾張・美濃の二カ国を手中に収めました。

 

足利義昭を保護した織田信長は上洛の大義名分を手に入れます。この時、信長は北近江の浅井氏と同盟し、南近江の六角氏を攻撃しました。

 

信長は同盟の証として妹のお市浅井長政に嫁がせます。しかし、信長は浅井氏の同盟者である朝倉氏を攻めたため、織田・浅井の同盟は破綻してしまいました。信長と浅井氏の関係についてみてみましょう。

 

お市の方の輿入れ 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%96%B9

美濃から京都に行くためには、北近江を通らなければなりません。信長は北近江の浅井長政と同盟を結び、上洛時の背後の安全を確保します。この時、同盟の証として織田家から輿入れしたのが信長の妹であるお市の方でした。

 

尾張にいたころのお市の方については、資料が不足しているためよくわかっていません。浅井長政に輿入れした年も1567年説と1568年説があるくらいです。

 

信長からすれば、浅井氏に自分の妹を嫁がせることは、人質を出しているともいえます。濃尾二カ国を支配する信長が、格下ともいえる浅井長政に妹を嫁がせたのは、短期間で勢力を拡大した長政の才覚を買っていたからではないでしょうか

 

浅井長政お市は仲睦まじい夫婦だったと伝えられます。彼らの間に生まれたのがのちに浅井三姉妹とも呼ばれた、茶々お初お江です。

 

茶々はのちに豊臣秀吉の側室となり、淀君とよばれます。お初は京極家へ嫁ぎました。そしてお江は徳川秀忠に嫁ぎます。お江と秀忠の間に生まれた娘が天皇家に嫁いだため、浅井氏の血が天皇家に入りました

 

信長の朝倉攻めと同盟の破綻 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%83%B6%E5%B4%8E%E5%9F%8E

足利義昭を擁して上洛した織田信長は、畿内や諸国の大名に上洛するよう促しました。しかし、越前の朝倉義景は信長の上洛要求を拒否します。そのため、信長は1570年に朝倉攻めを開始しました。

 

浅井氏にとって朝倉氏は亮政のころからの盟友です。浅井長政の父、浅井久政は朝倉との同盟を守るため、織田家と戦うべきと主張しました。

 

長政は妻の実家と戦うことをためらったことでしょう。しかし、次々と新しいことを行い、将軍をはじめとする旧勢力と争う信長は長政の目にどう映ったでしょうか。おそらくは、秩序を乱す恐ろしい人物と思ったのではないでしょうか

 

浅井長政は恐ろしい信長を倒すには、一撃で仕留めなければならないと考えたでしょう。信長軍が浅井領を通過し、朝倉領の越前金ヶ崎まで攻め込んだ時、突如として浅井軍は信長軍の背後をふさぎます

 

前門の虎、後門の狼の例え通り、信長は浅井・朝倉連合軍に包囲され危機に陥りました。それを知った信長の行動は浅井長政の予想を超える速さでした。主力部隊を置き去りにしたまま、少数の家臣だけを連れて琵琶湖西岸を駆け抜け、京都に戻ったのです。

 

千載一遇のチャンスを逃した浅井長政は、信長による怒涛の反撃にさらされることになります。

 

浅井氏の滅亡

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 

金ヶ崎の戦いから2か月後の1570年6月、信長は浅井長政を打つべく北近江に進軍しました。信長・家康連合軍は浅井・朝倉連合軍と姉川の地で激突しました。

 

この戦いで浅井軍の士気は非常に高く、浅井長政自ら軍を率いて織田信長の本陣を目指します。合戦場付近には「血原」や「血川」といった地名が残され、姉川の戦いの激しさを物語っています。

 

序盤は浅井・朝倉軍が優位でした。しかし、徳川軍が朝倉軍を横撃し、横山城を包囲していた織田軍が増援に駆け付けると、浅井・朝倉連合軍は劣勢となり退却しました。

 

姉川の戦いのあと、すぐに浅井氏が滅んだわけではありません。

 

信長と完全に敵対した浅井長政朝倉義景だけではなく、足利義昭比叡山延暦寺、甲斐の武田信玄などと手を組み信長包囲網に参加します。

 

信長は足利義昭を京都から追放し室町幕府を滅ぼしました。さらに、浅井・朝倉と手を組んだ比叡山延暦寺を焼打ちします。こうして、信長は浅井・朝倉に味方する勢力を各個撃破しました。

 

その一方、羽柴秀吉に命じて浅井氏配下の武将たちを調略で寝返らせます。浅井長政小谷城の向かい側にある虎御前山城にいた羽柴秀吉を攻撃しますが、撃退されてしまいました。

 

1573年、信長は浅井氏の本拠地である小谷城に総攻撃をかけます。朝倉義景は2万の兵を率いて救援に駆け付けましたが、朝倉軍から寝返りが相次いだため総崩れとなり撤退。織田軍はその勢いで朝倉氏の本拠地一乗谷を攻め落とし、朝倉氏を滅ぼしました

 

小谷城は2か月近くの籠城戦に耐えました。しかし、1573年9月1日、浅井長政は自刃し小谷城は陥落します。

 

陥落直前、浅井長政は嫡子の万福丸を逃がし、お市と3人の娘を織田方に預けました。戦後、万福丸は探し出され処刑されます。しかし、徳川秀忠と結婚したお江の娘は皇室に嫁ぎ、浅井氏の血が皇室に入ることになりました

 

まとめ

 

浅井氏は北近江の国人領主でしたが、浅井亮政の時代に力をつけ、主家の京極家を凌ぐようになります。浅井久政の時代は六角氏に従いましたが、浅井長政が六角氏から独立し浅井氏は戦国大名として成長します。

北近江の重要性を知り、浅井長政の才覚に着目した織田信長は妹のお市を嫁がせ、浅井長政と同盟結びます。

しかし、信長が朝倉氏を攻めると浅井長政は同盟を破棄し、信長と敵対します。その後、姉川の戦いなどで敗れ、信長包囲網が失敗に終わることで浅井氏は徐々に追い詰められます。

そして、1573年9月1日に小谷城が陥落し浅井氏は滅亡しました。

 

今後、放送が再開される「麒麟が来る」でも浅井氏は登場すると思います。その時に、浅井氏のことを知っていたらドラマをより楽しめるかもしれませんね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

今なお続くアメリカの黒人に対する差別。その起源となった大西洋三角貿易について、元予備校講師がわかりやすく解説!

2020年5月25日にはミネソタ州ミネアポリスで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警察官に取り押さえられ、手錠をかけられた状態で首を圧迫され死亡しました。

こうした白人警察官による黒人への暴力は、かつてのアメリカでは日常的に発生していました。

 

いったいなぜ、このような白人警察官による黒人容疑者への暴力が繰り返されるのでしょうか。

そこには、制度的な人種差別があると指摘されます。

その起源はアメリカ大陸にアフリカ系の人々が奴隷として連れてこられた「大西洋三角貿易」にさかのぼることができるでしょう。

 

人間を商品として売買するという非人道的な奴隷貿易である大西洋三角貿易を知ることは、現在のアメリカで起きている黒人差別問題を知るうえで必要な知識ではないでしょうか。

 

奴隷貿易について知りたい方は、こちらのリンクもご参照ください

 

ja.wikipedia.org

www.y-history.net

 

今回は、大西洋三角貿易の背景や内容、貿易によってもたらされた影響についてまとめます。

 

欧米の歴史について知りたい方は、他の記事もどうぞ!

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93より

 

大西洋三角貿易の背景とは

 

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大西洋三角貿易の背景には、大航海時代の始まりと、ヨーロッパ人による南北アメリカ大陸の植民地化がありました。

ヨーロッパ人は原住民のインディアンやインディオから土地をとりあげ、大農園を開きます。

過酷な労働や白人との争い、白人が持ち込んだ天然痘などの病気が原因でインディオやインディアンたちの人口は激減してしまいます。

 

大航海時代の始まり

 

15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパ諸国の航海技術が一気に発達し、「大航海時代」が始まりました。

 

航海技術が発達したことで、これまで、陸地の近く中心で航行していた船が、陸地を遠く離れた外洋まで航行できるようになります。

 

ヨーロッパの船乗りたちが目指したのは、インドでした。

インドにはヨーロッパ人が求める香辛料があったからです。

 

1488年、ポルトガルバルトロメウ・ディアスはアフリカ南端の喜望峰に到達します。

アフリカ廻で先を越されたスペインは、コロンブスが提案した西廻り航路でインド到達を狙います。

 

1492年、コロンブスカリブ海サンサルバドル島に到達しました。

ここから、スペインによる中南米の植民地化が始まります。

 

南アメリカの植民地化とインディオ人口の激減

 

中南米に進出したスペイン人たちは、もともとあったアステカ王国マヤ文明インカ帝国などを滅ぼし、中南米をスペインの植民地とします。

 

スペイン人たちは原住民のインディオたちをキリスト教に改宗させる一方、彼らを農園や鉱山の労働力として強制的に働かせました。

過酷な環境で働かされたインディオたちはどんどん死んでしまい、あっという間に人口は10分の1以下に激減したといいます。

 

カリブ海で本格的にサトウキビ生産がはじまると、農場主のスペイン人たちは労働力を確保するため、奴隷を欲しがりました。

 

アメリカの植民地化

 

中南米だけではなく、北米にもヨーロッパ人たちがやってきました。

北米に進出したのはイギリスとフランスです。

 

最初、イギリス人やフランス人は大西洋の沿岸部を植民地としました。

毛皮取引が中心で、商人など少数の人たちが渡ってきただけでした。

ところが、イギリス人は家族ぐるみで移住し、大西洋沿岸に強い植民地をつくりあげます。

 

イギリス本国で清教徒革命などの内乱がおき、宗教的に迫害された人々がアメリカにやってきたことも、植民地拡大の理由となりました。

 

イギリスは17世紀から18世紀にかけて、世界各地でフランスと戦います。

どちらがより大きく植民地を獲得するかで、イギリスとフランスは何度も戦争します。

戦争の結果、勝ったイギリスは世界各地で広い植民地を手に入れました。

 

1775年、イギリスの植民地だった13州植民地はイギリス本国と税金や貿易などをめぐって対立し、戦争となりました。

アメリカ独立戦争です。

 

戦争に勝利した13州植民地は、アメリカ合衆国となりました。

アメリカ合衆国は原住民のインディアンと戦い領土を広げます。

アメリカ南部ではイギリス系の白人が広い土地を所有する大農園が発達しました。

 

広い農地を手に入れた白人農場主は、労働力として奴隷を欲しがります。

 

大西洋三角貿易の内容とは

 

大航海時代後に、ヨーロッパ人が大西洋沿岸で行った貿易を大西洋三角貿易といいます。

 

ヨーロッパ人(主にイギリス人)たちはヨーロッパの港を出るとき、武器や酒、綿織物などを積み込みました。

彼らの行き先はアフリカ大陸です。

 

西アフリカにたどり着いたヨーロッパ人たちは、沿岸部の黒人たちと取引します。

ヨーロッパ人たちは黒人たちに武器を与え、内陸部に住む黒人を「狩らせ」ました。

 

ヨーロッパ製の武器で武装した沿岸部の黒人たちは内陸部の黒人との戦いに勝ち、彼らを捕虜として沿岸部に連れてきます。

 

ヨーロッパの商人たちは、彼らのうち、長距離の航海に耐えられる屈強なものを選んで買い取りました。

 

黒人奴隷を乗せた船は「奴隷船」とよばれます。

奴隷は「黒い積み荷」としてすし詰め状態で船に詰め込まれます。

栄養失調や病気の流行で多くの黒人たちが亡くなりました。

 

黒人たちの中には前途を悲観して自殺する者や、反乱を起こすものもいたので到着する前にかなり多くの人が命を落としたと思われます。

 

奴隷船は死者や病気の感染が疑われる奴隷、病人を海に投げ捨てました。

そのため、奴隷船の周囲にはサメがまとわりついていたといいます。

 

南北アメリカにたどり着いた黒人たちは、沿岸部で競売にかけられ、それぞれの農場に連れていかれました。

奴隷は人間ではなく道具として扱われ、農場では劣悪な小屋に押し込まれます。

このことを描いたのが「アンクルトムの小屋」でした。

 

彼らはサトウキビやコーヒーの農園で奴隷労働をします。

アメリカに運ばれた奴隷たちは、アメリカの南部で綿花栽培をしました。

 

奴隷の労働力によって生み出された安い農産物は、ヨーロッパ人商人の手によってヨーロッパに運ばれ大きな利益を生み出します。

 

大西洋三角貿易が各地に与えた影響

 

大西洋三角貿易は、16世紀から19世紀まで盛んにおこなわれます。

大西洋三角貿易は、各地域にどんな影響を与えたのでしょうか。

 

大もうけしたイギリス

 

イギリスは奴隷貿易を独占し、巨額の利益を上げます。

アフリカで買った奴隷をアメリカで売りさばき、アメリカの綿花や砂糖をヨーロッパで高く売り払うことで、イギリスはお金を貯めました。

貯めたお金は、産業革命のもとになります。

 

同じく、大もうけした北アメリカ植民地(白人の農園主を中心に)

 

サトウキビを原料とするラム酒や綿花や砂糖、ラム酒を運ぶ船を作る造船業、船でモノを運ぶ海運業が発達しました。

ニューヨークやボストンといった街は、奴隷貿易の港として栄えます。

奴隷貿易で蓄えた貯金は、アメリカ独立戦争の資金源となりました。

 

サトウキビの島になってしまった西インド諸島

 

カリブ海に浮かぶ西インド諸島では、サトウキビ生産が盛んになりました。

しかし、サトウキビ以外の生産が減少したため、飢饉が起きて多くの人が飢え死にしてしまいます。

欧米の砂糖業界の景気次第で、西インド諸島の経済が良くなるか悪くなるか決まってしまうというサトウキビに頼りきりの経済になってしまいました。

 

経済が衰退した西アフリカ

 

1000万人近くの人々が生きたままアフリカからアメリカ大陸に奴隷として送られたといいます。

途中で亡くなった人などを含めると、数千万人が奴隷狩りの犠牲になったともいわれます。

あまりに多くの人口を失った西アフリカ地域は、経済発展が止まってしまいました。

 

奴隷解放宣言後も続いたアフリカ系住民への差別

 

南北戦争中に出された「奴隷解放宣言」により、アメリカでは黒人奴隷が解放されました。

しかし、その後も差別が継続します。

特に南部の州では「ジム・クロウ法」とよばれる人種差別的な内容を含む州法が力を持っていました。

 

黒人が白人と平等になってしまえば困ると考えた、南部の白人農園主たちが奴隷解放宣言を骨抜きにするために作らせたといってもよいでしょう。

 

合法的に黒人や有色人種を差別するジム・クロウ法が1964年の公民権法によって廃止されるまで存在していたことは、しっかりと覚えておかなければなりません。

 

アメリカは、良い点もたくさんある国です。

しかし、人種差別など日本人にとってなじみがなくても注意しなければならないことが、最近まで行われ、今も続いているということを忘れるべきではありません。

 

歴史を学ぶことで、自分の国や相手の国の良いこと、悪いことをしるのはとても大事なことではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

ペストの猛威を描いた「死の勝利」や風刺画、歌川国芳の浮世絵など、絵が持つ人々に訴える力とは

こんにちは、木彫りグマです。

 

2020年5月25日、アメリカで衝撃的な事件が起きました。

ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警官に殺害される事件のことです。

 

この事件をきっかけに、全米各地で抗議デモが拡大。

トランプ大統領が軍の動員も辞さずとの姿勢を示したことから、抗議デモはさらに激化しました。

 

ミネアポリス市議会のリサ・ベンダー議長は、ミネアポリス市警察への予算拠出を打ち切ると表明しました。

 

今回の事件に対し、覆面アーティストとして有名なバンクシーは、黒人男性と思われる遺影のような写真と、上部に飾られた星条旗、その星条旗にロウソクの火が燃え移る様子を描いた新作を発表しました。

 

暗いタッチで描かれたバンクシーの絵は、見るものにアメリカが抱える黒人問題の深刻さを訴えているように感じました。

 

実は、歴史上、事件を象徴するような絵画や風刺画が数多く描かれてきました。

今回は、絵画や風刺画がもつ伝える力について考えてみます。

 

美術や絵画について興味がある方は、こちらの記事もどうぞ!

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ブリューゲル作「死の勝利」

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%AE%E5%8B%9D%E5%88%A9_(%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB)より引用

新型コロナウイルスが流行した時、カミュの『ペスト』の売り上げが伸びたといいます。

ペストは黒死病とも呼ばれる恐ろしい感染症で、14世紀中ごろのヨーロッパでもっとも猛威を振るいました。

 

世の中にいるありとあらゆる人が、老いも若きも貴賤問わずペストの餌食となります。

死を身近に感じた人々は「死を記憶せよ!(メメント・モリ)」と口々にいいました。

ペストの猛威の前では、立派な甲冑を着て王冠をかぶる王といえども無力です。

 

その一方で、死の間際まで「快楽」を忘れられない人々は骸骨が暴れまわっていてもなお、テーブルでトランプをしようとしています。

人間の本質に対する皮肉も読み取れるような気がしませんか?

 

 

身分制度の不条理を描いた風刺画:フランスのアンシャンレジー

 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%A0#:~:text=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%A0%EF%BC%88%E4%BB%8F%3A%20Ancien,%E6%94%BF%E6%B2%BB%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82より引用

18世紀後半、フランスは国王を頂点として一握りの聖職者や貴族が国を支配する旧制度(アンシャン・レジーム)の時代でした。

 

年老いた鍬を持った男が、貴族や聖職者といった特権階級を背負っている様子を描いた絵ですね。

どこからどう見ても、不公平かつ不合理な身分制度であることが一目でわかります。

こうした古い仕組みはフランス革命によって破壊されました。

 

セリフもなく、一文字の解説がなくても、絵の示すことがすぐにわかるというのは風刺画の長所ではないでしょうか。

 

 

政治への皮肉を込めた浮世絵「源頼光公館土蜘作妖怪図」

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E8%8A%B3より引用

江戸時代、政治を庶民が批判するのはご法度でした。

そんな中、江戸の庶民たちが憂さを晴らしたのが浮世絵です。

 

江戸時代の三大改革の一つである天保の改革は、ひときわ厳しい改革として知られます。

改革の責任者である水野忠邦は、人々の贅沢を徹底的に禁じ、浮世絵や読み本といった娯楽まで統制します。

 

浮世絵師歌川国芳は、表向きは平安時代の武将源頼光の土蜘蛛退治を題材としつつも、その実は水野忠邦天保の改革を批判するという非常にリスクのある作品を描きました。

 

土蜘蛛が作り出す妖怪に頭を悩ます右上の源頼光は、時の将軍徳川家慶

一方、家来たちは主君の苦悩をよそに見て見ぬふりをしてそれぞれ自分のことをしています。

 

もし、これがばれると良くて財産没収、悪くすれば遠島や死罪になりかねません。

娯楽にまで手を出してくる水野に対し、国芳は相当腹に据えかねるものがあったのでしょうね。

 

さいごに

 

今回のジョージ・フロイドさんの死に対する全米の反応は非常に激しいものがあります。

新型コロナウイルス感染の恐怖を上回る怒りが人々をデモへと突き動かしているのでしょう。

今後の動向に注目したいと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

これを知ると、『平家物語』「敦盛の最期」の意味がよく分かる!

こんにちは、木彫りグマです。

 

多くの学校の国語の教材で扱われる『平家物語』。

那須与一が扇を射落とす「扇の的」とともに、よく取り上げられるのが「敦盛の最期」です。

 

木彫りグマが塾講師だったとき、この単元を教えるのに苦労しました。

高校古典ほどしっかりした文法を習っておらず、係り結びなどよく出題される部分を扱うのですが、肝心の物語の面白さは伝えきれていなかったように思います。

 

そこで、今回は「敦盛の最期」の登場人物や源平合戦の全体像、「敦盛の最期」が起きる一の谷の戦い、木彫りグマ風の意訳や戦後の熊谷直実などについてまとめます。

 

この記事で分かること

 

  • 登場人物二人のプロフィール
  • 源平合戦全体の中で、一の谷の戦いがいつ起きたのか
  • 一の谷の戦いでの「敦盛の最期」の位置づけ
  • 「敦盛の最期」の意訳
  • 戦いが終わった後の熊谷次郎直実
  • 信長と敦盛の関り

 

平家物語平安時代の物語に興味がある方は、こちらの記事もどうぞ!

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「敦盛の最期」の登場人物二人

敦盛の最期は、平家の公達「平敦盛」と、義経軍の一員として参戦した東国武士「熊谷次郎直実」の二人です。

 

平家の美しい公達「平敦盛

 

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%95%A6%E7%9B%9B

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平敦盛は、平氏の棟梁である平清盛の弟である平経盛の子。

つまり、清盛の甥にあたる人物です。

 

清盛が天下の政治を担っていたころ、平時忠(清盛の妻の弟)は「平家にあらずんば人にあらず」と言い切りました。

それだけ、平氏に権力が集まると、平氏一門の男子は無条件で位を与えられるようになります。

 

敦盛は、源平合戦のころは官職についていなかったため「無官大夫」とよばれました。

しかし、位は従五位下で貴族の一員となっています。

 

敦盛は若くして笛の名手として知られていました。

そのため、敦盛は祖父の平忠盛鳥羽上皇から与えられた「小枝(さ枝)」という名の笛を与えられます。

この笛が、のちに、討ち取られた若武者が平敦盛であるという証拠となりました。

 

武蔵国の住人、熊谷次郎直実

 

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引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F

熊谷次郎直実は武蔵国熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)を本拠地とした武士。

若いころ、自立して一人前の武士として所領を持ちたいと考えた熊谷は京都で平知盛(清盛の四男)に仕えますが、関東に戻り頼朝の挙兵に参加します。

 

直実は京都に派遣された源範頼源義経軍の一員として平氏討伐戦に参戦しました。

直実は、名のある武将を討ち取って手柄を上げ、自分の所領を得ようと躍起になります。

 

 

源平合戦(治承寿永の乱)の全体像

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1180年の以仁王の令旨から、源平合戦(治承寿永の乱)が始まりました。

最初は平氏が優位でしたが、棟梁の平清盛が死んでから、平氏は劣勢となります。

 

倶利伽羅峠の戦い木曽義仲に敗れた平氏安徳天皇を連れて都落ち

西国で再起を期しました。

 

都にいた後白河法皇は、木曽義仲の扱いに困り源頼朝に義仲討伐を依頼。

頼朝の命令で源範頼源義経が上洛し、宇治川の戦い木曽義仲に勝利しました。

 

その後、範頼・義経軍は平氏を討伐するため西国に向かいます。

1184年に平氏軍が守る一の谷を、範頼・義経軍が攻めて起きたのが一の谷の戦いです。

敦盛は守備側の一員として、熊谷次郎直実は攻撃側の一員として参戦します。

 

一の谷の戦い

1184年、範頼・義経軍は平氏が守る一の谷を攻めました。

東から主力軍を率いる範頼軍が、平知盛平重衡の軍と正面からぶつかります。

 

一方。義経は一の谷を迂回し、山の中の抜け道から一の谷の背後に回り込みます。

熊谷次郎直実は、義経率いる別動隊に所属していました。

 

迂回に成功した義経は、平氏軍の背後にそびえたつ断崖「鵯越(ひよどりごえ)」を馬で駆け降りる作戦を決行!

襲ってくるはずがない、背後のがけからの急襲に平氏軍は大混乱に陥ります。

 

熊谷次郎直実は、先陣争いを急ぐあまり、敵に包囲され殺されかけますが、何とか生き延びて大将首を探します。

 

「敦盛の最期」の現代風意訳(筆者の解釈込み)

戦いは、源氏の勝利に終わりそうだ。平氏の位の高い武将が助け舟に乗ろうと海岸に行くはず。だれか、討ち取って手柄にできる対象はいないだろうか…

そう思いながら熊谷が海岸線で敵を探していると、見るからに「キラキラ」とした軍装の若武者が、海に馬を乗り入れているではないか。

 

戦いは、源氏の勝利に終わりそうだ。平氏の位の高い武将が助け舟に乗ろうと海岸に行くはず。だれか、討ち取って手柄にできる対象はいないだろうか…

そう思いながら熊谷が海岸線で敵を探していると、見るからに「キラキラ」とした軍装の若武者が、海に馬を乗り入れているではないか。

 

熊「(逃げている若武者に向かって)、あなたは大将軍のはずなのに、敵に背を見せて恥ずかしくないか!戻ってきて勝負しろ!

と扇で若武者を招きました。

 

すると、挑発に乗ってしまった若武者が馬を返してくる。

熊谷はすかさず、若武者に組み付き、あっというまに組み伏せます。

首を取ろうと、甲を押しのけてみれば、まだ、十六・七歳くらいの若者だった。

 

その若者は、息子の小次郎と同じくらいの歳で、あまりに「イケメン」だったので、どこに刀を突きさせばよいかわからなくなってしまいました。

 

熊「そもそも、あなた様はどのような方でしょう。助けて差し上げるので、名前を教えてください

 

若「お前は誰だ

 

熊「武蔵国住人、熊谷次郎直実

 

若「(身分が圧倒的に低い)お前には私の正体はしゃべらないぞ。首を取って人に聞け。きっと誰かが知っているはずだ(そのくらい、私は有名だ)。」

 

熊「ああ、なんと素晴らしい大将軍か(命乞いをせず、堂々としているから)。この人を討ち取っても討ち取らなくても、戦いの結果は変わらない。なら、いっそ助けようか

 

そう思って、熊谷が振り返ると、土肥・梶原ら関東側の軍勢が50騎ばかりで迫っていました。

 

熊「助けようと思いましたが、味方の軍が迫っているので、助けることはできません。ほかの人に討ち取られるより、私があなたを討ち取りましょう。

 

若「さっさと、私の首を取れ

 

熊谷は、どうしても首を斬ることができず動揺してしまいましたが、ついには泣く泣く若武者の首を取りました。

 

熊「武士とはなんと残念なことか。武士の家に生まれなければ、こんなことをしなくてもよかったのに

と話した後、さめざめと泣いてしまいました。

 

熊谷次郎直実が敦盛の首を、直垂で包もうとしていると、錦の袋に入れた笛が敦盛の腰に刺さっているのを見つけた。

 

熊「ああ、なんと気の毒なことだ。戦いの最中に音楽の宴を催していたのはこの人たちだったのだ

(中略)

 

戦いの後、熊谷次郎直実は大将の義経に首と笛を見せたところ、周囲の人々で涙しないものはいなかったといいます。

 

 

 戦後の熊谷直実

敦盛を討ち取ったのち、熊谷次郎直実は浄土宗の開祖である法然と出会います。

熊谷次郎直実は法然に「後生(死後、どのようにすれば成仏できるか」について尋ねました。

 

法然は「罪の軽い想いに関わらず、ひたすら念仏を唱えるとよい。それ以外に道はない」と説きました。

熊谷次郎直実は号泣。

その後、熊谷次郎直実は出家し、法然の弟子となり、蓮生と名乗りました。

 

 

織田信長が好んだ幸若舞の「敦盛」

 

源平合戦の一幕である、「敦盛の最期」を題材としたのが室町時代に流行した幸若舞です。

信長も幸若舞を愛好したことで知られます。

 

信長が好んだのは、出家した直実が心中を語るシーン。

 

原文を引用すればこうなります。

 

此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、たちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる。-『信長公記

 

人生は五十年。生きている人間の一生など夢幻のようだ。一度性を受けて、滅びないものなどあるものか。

 

この一節を舞った後、信長は桶狭間に出陣します。

 

信長にとって、敦盛は一瞬の光輝く生の象徴だったのかもしれません。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

マンガ『キングダム』の重要人物!不遇の王子に投資し、一国を手に入れた先行投資の達人「呂不韋」とは!

こんにちは、木彫りグマです。

 

2006年9月から『週刊ヤングジャンプ』に連載されている原泰久氏が描く『キングダム』は、累計6,400万部を販売した大ベストセラーマンガです。

2011年にはテレビアニメ化、2019年には実写映画化とその勢いはとどまるところを知りません。

 

 

kingdom-the-movie.jp

 

 

kingdom-anime.com

 

『キングダム』の中に登場する人物の中でも、非常に重要なのが呂不韋

もともと、一介の商人に過ぎなかった呂不韋は、秦王政(始皇帝)の父に「投資」することで、秦国の右丞相へとのし上がります。

 

今回は、呂不韋が行った先行投資と、呂不韋の名言「奇貨居くべし」、司馬遷の評価などについてまとめます。

 

  • 呂不韋は子楚に目をつけ「奇貨居くべし」と先行投資の対象とした
  • 呂不韋はキーパーソンの華陽夫人の攻略に全力を尽くした
  • 子楚が秦王になると、呂不韋は丞相となり投資分の以上のリターンを得た

 

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呂不韋が行った先行投資とは

 

前漢の歴史家司馬遷は、中国史上最も有名な歴史家で、いわば、中国史の父といっても過言ではないでしょう。

司馬遷は『史記』の中で、国や帝王の歴史を記す「本紀」だけではなく、司馬遷が「これは!」と思った人物について書く「列伝」などから成り立っています。

その際、司馬遷はどうしてこの人物をとりあげたかということについて、「太史公自序」に記しました。

 

司馬遷

「子楚と親しみをむすび、諸侯の士の名のある者を、きそって秦に仕えさせるようにした。ゆえに呂不韋列伝第二十五を作る」(『史記』「太史公自序」)

と述べています。

 

呂不韋と子楚の出会いや呂不韋が行った先行投資についてみてみましょう。

 

子楚との出会い

 

司馬遷によれば、呂不韋は韓の国の陽翟(ようてき)出身の大商人でした。

呂不韋は諸国を移動しながら、安値で買い取ったものを高く売る商売し、千金の富を蓄えます。

 

呂不韋が商売で富を得ていたころ、中国で最も力を持つ秦国では、昭王が40年以上にわたって王位にありました。

昭王の後継者である太子には、安国君という人物が指名されます。

 

安国君には20人以上の王子がいて、そのうちの何人かは諸国に人質として出されていました。

呂不韋が出会ったのは、人質として趙国の都の邯鄲に送り出されていた子楚でした。

人質にされていることからわかるように、子楚は王位継承レースから外れた存在です。

 

子楚の母親は安国君の数多くいる側室の一人で、それほど厚い寵愛を得ていたわけではありません。

子楚が冷遇され、人質として出されてしまうのも無理のないことでした。

 

「奇貨居くべし」

 

呂不韋は子楚と出会うなり、一目で気に入り「奇貨居くべし」とつぶやいたといいます。

奇貨とは、珍しい品物のこと。

居くべしとは、手元に置いておくべきだ、という意味ですね。

 

呂不韋は子楚に語り掛けます。

「私は、あなた様の門を大きくすることができます」

門を大きくするとは、勢力を強めること。

つまり、あなたの地位を上げることができますよと子楚に告げたのです。

 

しかし、子楚は笑いながら

「まずは、あなたの門を自分で大きくするのが先で、私の門はそのあとで大きくしてもらおう」といいました。

 

すると、呂不韋

「あなたはご存知でいらっしゃらない。私の門はあなた様の門のおかげで大きくなるのです」

 

呂不韋の真意を知った子楚は、呂不韋奥座敷に招き入れ密談を始めました。

 

呂不韋の工作

 

呂不韋の分析は以下の通りです。

  • 秦王は高齢で余命はそれほどなく、まもなく安国君が次の王として即位する
  • 安国君は、自分の後継者をまだ決めていない
  • 安国君が寵愛する華陽夫人には子がいない
  • 華陽夫人を味方につけることができれば、子楚が安国君の後継者になることができる

 

呂不韋は千金の財産のうち、半分を子楚に与えます。

呂不韋は、「この500金を使って、有名人との交際を広め評判を高めてください」と子楚に依頼しました。

 

呂不韋と子楚の仲が深まっていたころ、呂不韋の家を訪れた子楚は一人の女性に心を奪われます。

彼女の名は趙姫。

秦王政(始皇帝)の母親となる女性です。

 

趙姫は、もともと呂不韋の愛人でした。

そんなことを知らない子楚は、呂不韋に趙姫が欲しいと頼みます。

呂不韋は腹を立てましたが、これまでの投資が無駄になると思い、趙姫を子楚に譲ります。

 

ちなみに、この時すでに趙姫は身ごもっていました。それゆえ、始皇帝呂不韋の子であるという話が出てくるのですね。

 

呂不韋自身は残りの500金で珍奇な財宝を買い、秦国に乗り込みます。

呂不韋は、すぐに華陽夫人に接触しませんでした。

彼が目を付けたのは華陽夫人の姉に接触します。

 

呂不韋は500金で買った財宝を華陽夫人の姉に全て献上すると、趙で人質となっている子楚が、日々、安国君や華陽夫人のことを「天」のようにあがめていると伝えました。

 

華陽夫人の姉は、すぐに華陽夫人にこのことを話します。

誉め言葉は、直接聞くより、間接的に聞いた方が、効果があるものです。

華陽夫人は非常に喜びました。

 

印象を良くしたうえで、呂不韋は本題に入りました。

華陽夫人の姉に「忠告」を与えたのです。

 

呂不韋曰く

『色を以って人に事える者は、色衰えれば愛弛む』

 

色、つまり容姿の美しさで王に仕えている人は、容姿の美しさが衰えると寵愛を失うという意味ですね。

これは、華陽夫人が最も心配していることでした。

 

そして、呂不韋は続けます。

「あなた様(華陽夫人)がこれからも無事に過ごすためには、あなた様を慕っている人物を安国君の後継者に指名すればよい」と。

そうすれば、安国君が亡くなっても華陽夫人の地位は安泰だと「助言」したのです。

華陽夫人の姉はすぐさま華陽夫人のもとにいき、呂不韋の言葉を伝えました。

 

呂不韋の策は、将来を不安に思っている華陽夫人の心を捉えました。

華陽夫人は安国君に、趙で人質になっている子楚を後継者とするよう進言。

寵姫の言葉に、安国君は一も二もなく同意しました。

 

子楚を襲った大ピンチ!

 

着々と子楚を王位につける工作が進む中、子楚の命を危うくする事件が起きました。

紀元前257年、秦軍が趙の都邯鄲を包囲したのです。

趙は人質である子楚を殺して見せしめにしようとしました。

 

呂不韋は子楚の命が危険にさらされていると判断。

子楚を監視していた役人に賄賂を与えて、子楚をただちに邯鄲から脱出させます。

 

しかし、子楚の妻となった趙姫や趙姫の子(後の始皇帝)は脱出できません。

趙姫らは邯鄲の町に潜伏します。

最終的に、趙姫らは生き残ることができました。

 

子楚の即位

 

秦国に逃げ延びた子楚は、華陽夫人の引き立てもあり安国君の太子としての地位を固めます。

昭王が亡くなると、安国君が即位(孝文王)し、華陽夫人が后となりました。

翌年、孝文王が死去し、太子の子楚が即位します(荘襄王)。

 

子楚の即位を知った趙国は子楚の報復を恐れ、趙姫と子を丁重に秦に送り返しました。

子楚は、かつて「お考え通りになった暁には、秦国はあなたと共有しましょう」と呂不韋に述べたといいます。

その言葉通り、荘襄王となった子楚は、呂不韋を首相にあたる宰相に取り立てます。

呂不韋は先行投資した千金以上の利益を得ることができました。

 

先行投資を成功させるコツとは、投資を無駄にしないため行動し続けること

 

先行投資は単なる賭博ではありません。

先を見据え、自分が予想する未来が実現する可能性を少しでも高めるべく行動しなければなりません。

呂不韋は子楚を王とするために、たとえ愛人でさえも差し出しました。

 

丞相となった呂不韋は、諸国から人を集め『呂氏春秋』を編纂します。

この編纂事業は、知識を集めるだけではなく人材を集めるのにもつながりました。

ここでも、呂不韋は先行投資を実施しているのです。

 

しかし、呂不韋はどんなに功績を積み重ねても臣下です。

優秀な人物が国王となり、呂不韋と対立した時、呂不韋は歴史の表舞台から去らなければなりませんでした。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました

 

桶狭間の戦い、河越の戦い、厳島の戦い。三大奇襲に共通する「弱者の戦術」とは

こんにちは、木彫りグマです。

 

大河ドラマ麒麟が来る」もほぼ折り返しの6月に入りました。

主人公明智光秀に大きな影響を与えた織田信長にとって、人生の転機ともなった桶狭間の戦いがドラマで描かれます。

 

桶狭間の戦いは、戦国三大奇襲に数えられます。

桶狭間以外の戦いは、河越の戦いと厳島の戦い

いずれの戦いも、数的に不利だった「弱者」が数的に有利な「強者」に勝った戦いでしたね。

 

今回は、戦国三大奇襲の共通点についてまとめます。

 

今回のポイント

・三大奇襲は、数倍の兵力差があり、正面から戦っても勝算が低かった

・三大奇襲の勝者は、相手方の動向を徹底的に調べて奇襲を実行した

・三大奇襲の勝者は、地形や天候、時間帯を最大限利用し勝利した

・三大奇襲の勝者は、相手の油断を突いて勝利した

 

 

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戦国三大奇襲とは

 

日本三大奇襲とされるのは、北条氏康が勝利した河越城の戦い毛利元就が勝利した厳島の戦い、そして織田信長が勝利した桶狭間の戦いです。

 

ja.wikipedia.org

 

それぞれの戦いについてみてみましょう。

 

1546年 河越城の戦い北条氏康VS山内上杉憲政・扇谷上杉朝定足利晴氏

 

戦国時代、関東は鎌倉府の支配が崩壊し、関東管領上杉氏による支配が強まっていました。

上杉氏は北関東に拠点を持つ山内上杉氏南関東に拠点を持つ扇谷上杉氏に分かれます。

 

そのころ、混乱する伊豆国を制し、関東進出を狙ったのが北条早雲(伊勢宗瑞)でした。

早雲の死後、2代目の北条氏綱駿河の今川氏との戦いを優位に進め、扇谷上杉氏の領土を確実に削っていき、相模(神奈川県)から武蔵(東京都・埼玉県)方面に進出します。

 

南関東での戦いの中心は、武蔵国で最も重要といえる河越城周辺で起きます。

幾度かの合戦で、河越城を手に入れた北条氏康(3代目当主)は河越城に義理の弟である北条綱成に3,000の兵を預けて守らせました。

 

1546年、山内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方三者が連合し北条氏康に奪われた河越城の奪還を目指し、河越城を80,000もの大軍で包囲します。

食料をしっかりとため込んでいた北条綱成は半年もの間、包囲に耐えてひたすら氏康の救援を待ちました。

 

北条氏康は、今川氏に占領していた駿河の東半分を返還し、河越城救援に駆け付けます。

しかし、氏康は一向に戦いを仕掛けません。

氏康が連れていた兵はわずか8,000で、正面から戦っても勝算が低かったからでしょう。

 

その間、氏康は連合軍にわび状を出し続け、なんとか兵を引き上げてもらえないかと懇願します。

連合軍は申し出を拒否。

氏康は、包囲軍との数の差で手も足も出ないと思ったのか、しだいに軍紀が緩んでいきました。

 

氏康が狙っていたのは、まさにその瞬間。

1546年4月20日、氏康は8,000の兵を四隊に分け、そのうちの一つを後詰めに、それ以外の3隊を動かして敵陣に奇襲攻撃を仕掛けます。

 

思いもよらない氏康軍の突入に、包囲していた連合軍は慌てふためくばかりでまともに反撃できません。

もっとも大きな打撃を受けたのは扇谷上杉軍。

なんと、対象の上杉朝定が討ち取られてしまいました。

山内上杉軍も古河公方軍も大打撃を受け、それぞれの本拠地に逃げ帰ります。

 

 

1555年 厳島の戦い毛利元就VS陶晴賢

 

毛利氏は安芸国広島県)の一国人領主に過ぎませんでした。

毛利元就は、西の大国である大内氏の傘下に入ることで勢力を拡大し、安芸国をほぼ手中に収めます。

 

1551年、大内氏で大事件が起きます。

当主の大内義隆重臣陶晴賢に討ち取られてしまいました。

陶晴賢は大内晴英を当主とし、自分は大内氏の実権を握ります。

 

毛利元就陶晴賢との対決を決意し、安芸国内の大内方の拠点を占領しました。

陶晴賢は家臣を安芸に派遣し、元就を抑え込もうとしますが折敷畑の戦いで敗北してしまいます。

 

1555年9月、陶晴賢は20,000にも及ぶ大軍で毛利元就を攻撃しました。

対する毛利軍は4,000から5,000と推定されます。

兵力差は4倍以上ありました。

 

陶軍は厳島にある宮尾城を包囲します。

合戦の直前、戦場周辺は激しい嵐となりました。

陶軍は毛利軍の攻撃はないものと考え、油断していたのかもしれません。

元就は、嵐を利用して陶軍に気づかれずに厳島に上陸しました。

 

1555年10月1日、毛利軍は朝の6時ころから陶軍に奇襲攻撃をおこないます。

毛利軍は厳島の対岸にいると思っていた陶軍は大混乱しました。

なまじ、大軍だったせいで陶軍は毛利軍の奇襲攻撃に対応することができず、右往左往するばかり。

追い詰められた陶晴賢は自刃。

陶軍主力は潰滅しました。

 

1560年 桶狭間の戦い織田信長vs今川義元

 

駿河静岡県東部)・遠江静岡県西部)を制する戦国大名今川義元は甲斐(山梨県)の武田晴信、相模の北条氏康三国同盟を結び、東や北から攻められない状況を作りました。

 

その上で、西の三河(愛知県東部)に進出。

さらに、西の尾張(愛知県西部)への進出をはかりました。

 

1560年、今川義元駿河遠江三河の兵を率いて尾張に侵攻します。

その数、およそ25,000。

対する織田方は総動員したところで5,000程度、兵力差は5倍以上ありました。

 

織田家の家臣たちは、今川軍と正面から戦っても勝機はないと考え、清洲城での籠城を主張します。

しかし、籠城戦は援軍があるときこそ有効な戦法。

今川の大軍をものともせず、援軍に来てくれる勢力など誰もいませんでした。

 

1560年5月18日、今川軍先鋒の松平元康は大高城に兵糧を運び込みます。

翌日、今川軍は丸根砦と鷲津砦に攻撃を開始しました。

 

丸根・鷲津の両砦が攻撃されていることを知った信長は、明け方の4時であるにもかかわらず、わずかの伴と共に熱田神宮に向かいました。

熱田神宮での戦勝祈願後、信長は前線に近い善照寺砦に入りました。

この時、信長のもとに集まったのは2,000から3,000の兵だと考えられます。

 

今川軍の猛攻で丸根砦・鷲津砦は陥落し、大高城周辺の織田軍は掃討されました。

信長は、11時ころに善照寺砦を出発します。

 

旧暦の5月19日は今の暦だと6月12日で、ちょうど梅雨が始まったころでした。

13時ころ、視界を遮るほどの激しい雨が降りました。

これにより、今川軍の索敵能力は大きく低下します。

織田軍は今川軍の偵察部隊に見つかることなく、義元本隊が休息していた桶狭間周辺に到着しました。

 

今川軍は各所に兵力を展開していたため、義元の周辺には5,000程度しかいなかったと考えられます。

しかも、悪天候であったことから、隊を整えず、木陰で雨をよけていた可能性も高いでしょう。

 

篠突く雨の中、織田軍は総大将今川義元めがけて襲い掛かります。

不意を突かれた今川軍は大混乱。

義元は後退して立て直そうとしましたが、織田軍に追いつかれ討ち取られてしまいます。

 

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三大奇襲の共通点とは

 

河越の戦い、厳島の戦い桶狭間の戦いは、いずれも兵力差の不利を補うため奇襲攻撃を行い勝利したという点で共通しています。ほかに共通点はなかったのでしょうか。

 

共通点その1 入念な情報収集

 

戦国時代に限らず、戦闘を開始する前には入念な情報収集をおこないます。

勝利した側はもちろん、敗北した側もことさら情報を軽視していたとは思いません。

しかし、勝利した3者は相手よりきめ細かい情報を集めていたのではないでしょうか。

 

北条氏康は、連合軍が数は多くても結束が弱いことを知っていました。そのため、最も河越城に執着している扇谷上杉氏(河越城は扇谷上杉氏の城でした)さえ倒せれば連合軍は瓦解すると読んだのではないでしょうか。

 

毛利元就陶晴賢の基盤が脆弱であることを理解し、短期決戦を仕掛けてくることを予測していたでしょう。

そして、織田信長は今川軍の侵攻ルートを調べ上げ、義元本隊の位置を正確に割り出していました。

 

勝利した3人は、いずれも自分たちが勝利するために必要な情報を、相手よりも入念に調べていたのではないでしょうか。

 

共通点 その2 地形や天候、時間帯を巧みに利用

 

三大奇襲が行われた場所を見てみると、厳島桶狭間は大軍が展開しにくい地形であることがわかります。

毛利元就織田信長も、大軍の長所が生かせない狭い場所で奇襲を行い、相手を混乱させて勝利しています。

 

河越城は平野の中の城なので、大軍に有利な地勢でした。

しかし、河越城自体が築城の名手といわれる太田道灌がつくった城で、もとの持ち主である扇谷上杉朝定でさえ攻めあぐねてしまうものでした。

実際、連合軍は力攻めで河越城を落とせず、半年にわたって包囲しています。

 

次に天候や時間帯を見てみましょう。

厳島の戦い桶狭間の戦い悪天候の中行われました。

悪天候は相手の視界を奪い、索敵能力を低下させます。

 

時間帯についてみてみると、河越城の戦いは夜です。

他の二つは昼ですが、悪天候などにより視界が悪い状態でした。

 

奇襲を成功させるポイントの一つは、相手に発見されないこと。

三つの戦いで勝利した側は天候や地形、時間帯などを利用し相手に悟られずに兵力移動に成功していました。

 

共通点 その3 相手の油断を突く

 

圧倒的な兵力差は、自信にもなりますが、過信にもつながる危険性を持っています。

北条氏康は、名門の上杉氏や古河公方(足利氏)に対し、へりくだり、何度も許しを請う書状を出すことで相手の油断を誘いました。

 

厳島の戦い悪天候が陶軍を油断させたでしょう。

桶狭間の戦いは、緒戦で今川軍が勝利し、今川軍が勢いに乗って兵力を分散した瞬間を狙われます。

 

 

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三大奇襲の勝者のその後

 

北条氏康毛利元就織田信長は戦いに勝利した後、どのように勢力を伸ばしたのでしょうか。

 

まず、北条氏康河越城を守り抜き、扇谷上杉朝定を討ち取ったことで武蔵の支配を完璧にします。

毛利元就陶晴賢を討ち取った勢いに乗り、大内領の全てを併呑しました。

織田信長は、三河の松平元康(のちの徳川家康)と清洲同盟を締結し、北の斎藤氏との戦いに専念し、美濃を攻略します。

 

いずれも、少数で多数に勝利したのはその時限りで、その後は兵力をしっかり整え戦略レベルで勝利できるよう努めています。

一度の敗北ですべてを失ってしまう奇襲攻撃の危険性を認識し、大博打を打たなかったことで勢力拡大に成功したともいえるでしょう。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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