元予備校講師、木彫りグマのブログ

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『堤中納言物語』に収録されている「蟲(虫)愛づる姫君」~常識を意に介さず、本質を見つめた姫君~

こんにちは、木彫りグマです。

 

木彫りグマは北海道に住んでいます。

他の地域に比べ、自然は豊かな方でしょう。

しかし、無視は決して得意ではありません。

というか、かなり苦手な方です。

男女問わず、現代は虫が苦手な方が多いでしょう。

 

昔であれば、虫が苦手な人は少ないかというと決してそうではありません。

特に、都に住む貴族であれば、虫嫌いは珍しいことではありませんでした。

 

ところが、『堤中納言物語』の一遍である「蟲愛づる姫君」に登場する“按察使の大納言の御むすめ”は、かなり変わった特徴を持った姫君でした。

 

今回は、「蟲愛づる姫君」のキャラクターに注目しつつ、他人とは違う価値観を貫く一風変わった姫君について解説します。

 

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『堤中納 言物語』とは

 

堤中納言物語』は、平安時代後期に編纂された短編物語集です。

作者・編者ともにはっきりとしたことはわかっていません。

 

物語は全部で10編。

「逢坂越えぬ権中納言」、「花桜折る少将」、「蟲愛づる姫君」、「このついで」、「よしなしごと」、「はなだの女ご」、「はいずみ」、「ほどほどの懸想」、「貝合はせ」、「思はぬ方にとまりする少将」の10編です。

 

「逢坂越えぬ権中納言」は1055年に成立した作品であることはわかっています。

しかし、他の9編については作者未詳で、時代設定もよくわかっていません。

 

10編の物語中に堤中納言という人物が登場しないという点でも、謎めいた短編物語集です。

現存する写本は全て江戸時代の物ですので、本来のものはそれ以前に失われた可能性もありますね。

「蟲愛づる姫君」の構成

「蟲愛づる姫君」は、大きく分けて2つの章段から成り立っています。

前半は、「姫君」が虫を愛でる様子や、周囲の侍女・両親が困り果てている様子を描く前半の章段。

 

後半は、怖いもの知らずの名家の美男子の御曹司が登場。

「姫君」に精巧な蛇の作り物を贈っていたずらっぽく接触を図ります。

最後は、「二の巻にあるべし」という思わせぶりな一説で締めくくりますが、続くはずの「二の巻」は収録されていません。

 

 

「蟲愛づる姫君」の特徴

「姫君」は、按察使の大納言の御むすめと書かれています。

平安時代に女性の個人名が伝わることはまれでした。

 

枕草子』の著者である清少納言は、清原の少納言の娘の短縮形。

更級日記』の著者は菅原孝標女(むすめ)と、父親の名前や官職名に関連付けられるのが当たり前でした。

そのため、蟲愛づる姫君も按察使の大納言の御むすめと表記されているのでしょう。

 

按察使も大納言も律令官職としては高位です。

つまり、蟲愛づる姫君は大貴族のお嬢様だったということがわかりますね。

 

平安時代、女性はお歯黒・引き眉が常識でした。

お歯黒は、葉を黒く染める化粧法のこと。

お歯黒は歯を目立たなくし、顔つきを柔らかに見せることを目的としたといいます。

 

引き眉は、まゆ毛を剃る、または抜くことをさしますね。

眉を剃った後に、眉よりも高い位置に墨で眉を書くのが平安時代のスタンダードでした。

この習慣は江戸時代まで続きます。

 

姫君は「人はすべて、つくろふところあるはわろし。」とて、眉さらに抜きたまはず、歯黒めさらに「うるさし、汚し。」とて、つけたまはず、とあるように、当時の常識であるお歯黒・引き眉をしていませんでした。

 

いわば、ノーメイクで過ごしていたわけです。

しかも、ノーメイクの理由が「取り繕うところがあって悪い」とか、「(お歯黒は)わずらわしい、汚い」というわけです。

さしずめ、「社会人として化粧は常識」と説教されたときに「そんなものはわざとらしくて、汚いからいやだ」と拒否したようなものでしょう。

 

これでは、同性の侍女たちに距離を置かれ、両親が眉を顰めるのも無理からぬことです。

しかし、姫君は一向に意に介することはありませんでした。

 

 

「蟲愛づる姫君」の価値観

姫君の親たちは、「人は、見目(みめ)をかしきことをこそ好むなれ。『むくつけげなる烏毛虫を興ずなる。』と、世の人の聞かむもいとあやし」と姫君に説きます。

 

人は外見・容姿が美しいことを好むもの。毛虫のような気味の悪いものを面白がっているなどというのは世間体が悪い。という意訳になるでしょうか。

 

これに対し姫君は、「苦しからず。よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ、事はゆゑあれ。いとをさなきことなり。烏毛虫の、蝶とはなるなり。」

 

姫君は「かまいません。すべてのことの本質を追求し、行く先を見つめるからこそ物事は面白いもの。それを理解できないのはとても幼稚です。毛虫だって蝶になるのです」と反論しました。

 

そして、姫君は続けます。

「きぬとて、人々の着るも、蚕のまだ羽つかぬにし出だし、蝶になりぬれば、いともそでにて、あだになりぬるをや」

 

「絹だといって人々がきるのも、蚕が羽化する前に作ったもの。蝶になってしまえば、無用のものになるものなのに」。

 

世の中で嫌われているものでも、よくよく見ていれば美しいものや役に立つものに変化する。

その時の姿だけを見て気味悪がり、排除するのはおろかである。

もっと本質を見るべきだと姫君が思っているように感じました。

 

 

情報過多の時代こそ「本質」を見失いやすい

蟲愛づる姫君は、「ずれた」感覚を持った姫君だと周りから扱われました。

現代であっても、同じように扱われるかもしれません。

 

しかし、彼女が主張する「本質」を見るべきだという主張は、現代でも一考に値するのではないでしょうか。

 

情報が世の中にあふれ、スマートフォンさえあれば望む情報が即座に手に入る現代。

その情報が「本当」なのか。

何が、情報の影に隠れているのか。

誰が流した情報なのか。

 

そういったことに無批判で受け止めることが多くないでしょうか。

 

木彫りグマはかつて小論文の指導をしていた時、学生がインターネット上の意見や根拠が薄弱な情報をもとに自分の論を構築するのを何度も見て、その都度、朱を入れて帰したものです。

 

自分にとって都合の良い情報ばかりを集め、「ほら、こんなに正しいのだ」と誇るのは情報に対する接し方として不適切ではないでしょうか。

 

人々が嫌う「烏毛虫」が蝶になり、人々が珍重する絹を生み出すことがあるように、自分にとって不都合な事柄の中に、物事の本質が隠れているかもしれません。

 

文章を書く際に、本質を見落とさないよう気を付けたいと改めて思いました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

堤中納言物語 ビギナーズ・クラシックス日本の古典 (角川文庫 角川ソフィア文庫) [ 坂口由美子 ]

 

今さら聞けない 炊飯器って何が違うの?

こんにちは、木彫りグマです。

 

昨年は水道が壊れて困ってしまった木彫りグマ家。

今年は、炊飯器が壊れてしまいました。

一つ壊れると、次々と壊れるといいますが、本当ですね。(笑)

 

他のものはいざ知らず、炊飯器となると毎日のご飯に影響が出ます。

非常用の予備の古い炊飯器を使っていますが、タイマーが壊れているので早急に買う必要が出てきました。

そこで、自分のための備忘録として、電気炊飯器について調べたことをまとめます。

 

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電気炊飯器の歴史

戦前の電気炊飯器

日本で、電気炊飯器が実用化されたのは大正時代後半から昭和初期にかけて(1920年代前半)のことです。

当時の炊飯器は、現在の電気炊飯器とかなり違うものでした。

簡単に言えば、ヒーターの上に単純に釜を乗せたようなものです。

 

1924年に発売されたタイプは「電気がま」と呼ばれていました。

しかし、自動でオンオフする機能はついていないため、炊飯中はずっとそばにいなくてはならないものです。

なかなか、大変な代物だったんですね。

 

戦後の電気炊飯器

1955年、初めて自動式の電気炊飯器が誕生しました。

東芝(当時は東京芝浦電機)から発売されたもので、自動で電源がオンオフするものです。

ただし、この時代の電気炊飯器は炊飯専用であり、炊きあがったご飯は保温ジャーに移す必要がありました。

 

1972年、三菱電機は電気炊飯器と保温ジャーの二つの機能を搭載した「ふたやくさん」という電子炊飯器を発売しました。

炊きあがったご飯をそのまま保温できるというのは、当時としては画期的なものでした。

 

1980年代から90年代にかけて、マイコンタイプの電気炊飯器が登場します。

炊き加減の好みを選べるようになったのはこのころからです。

 

1980年代末には現在主流となっているIHタイプの電子炊飯器が登場します。

ここから、各メーカーの熾烈なIH炊飯器開発競争がはじまりました。

 

1990年代初め、ついに、圧力IHタイプが登場します。

現在でも高価格帯の主流を占める圧力IHは、ご飯をおいしく食べたいという日本人の意気込みを感じますね。

 

 

電気炊飯器の加熱方式の違い

電気炊飯器と一口に言っても、加熱方式によって価格や得意なことが異なってきます。

現在、電気炊飯器の加熱方式として採用されている3つのタイプについて紹介します。

 

マイコンタイプ

最も早い段階から実用化された加熱方式。

米を炊く内釜の底をヒーターで熱することで加熱します。

底面からだけ熱するタイプなので、IHや圧力IHに比べると火力が弱いです。

そのため、炊きむらができやすく、保温性能に劣ります。

 

しかし、価格は他のタイプに比べて圧倒的に安価。

チラシやインターネット上の広告で1万円以下の炊飯器は、マイコンタイプであることが多いですね。

 

火力が弱いといっても、炊く米の量が少なければ問題なく炊きあがります。

3合炊きなど、小さめの炊飯器ならマイコンタイプでも十分美味しいとい思います。

 

IHタイプ

1990年代以降に登場するのがIHタイプ。

なべ底に電流を生じさせ、内釜そのものを発熱させる方式です。

 

内釜全体が発熱するため、釜の側面からも熱が伝わり、お米をふっくらと炊くことができます。

保温性能もマイコンタイプを上回ります。

 

現在、電気炊飯器の主流となっているタイプなので、今お使いの炊飯器もIHタイプかもしれません。

もっとも数多く開発されているタイプなので、加熱方式で迷ったIHタイプから選ぶのが無難でしょう。

 

ちなみに、壊れた木彫りグマ家の炊飯器もIHタイプでした。

 

圧力IHタイプ

圧力IHタイプは最も新しく開発された加熱方式です。

内釜全体が過熱されるのはIHと同じですが、炊飯時に発生する蒸気を逃がさないためお米に圧力がかかり、IHタイプよりも高温で炊飯することができます。

 

お米の芯まで火が通るので、ふっくらとして甘みがある仕上がりになります。

また、冷めた時にIHよりもモチモチ感を維持しているように感じました。

 

ただ、価格が高いのと手入れに手間がかかるのが難点です。

 

 

電気炊飯器に用いられる内釜の素材

加熱方式に加え、内釜の素材についても各メーカーがしのぎを削りました。

内釜でもっともよく用いられているのが多層釜。

 

現在、IHタイプの主流となっています。

いくつもの素材を層構造で組み合わせ、各素材の長所を発揮させるタイプの釜です。

 

しかし、最近は単一素材の釜も増えてきました。

そこで、今回は代表的な3つの単一素材をとりあげます。

 

鉄釜

鉄釜の一番の長所は発熱効率が高いこと。

日立や象印の炊飯器で用いられたことで有名になりました。

 

鉄釜はIHタイプと相性が良く、しっかりとお米が炊き上がります。

炊きあがりという点でこれといった欠点はありませんが、鉄釜は非常に重いです。

鉄釜を検討するときは、実際に釜を持ち上げてみたほうが良いでしょう。

 

炭素釜

他の素材に比べ、炭素は発熱効率の高さなどからIHに向いた素材でした。

しかし、加工が難しくコストがかかるのが難点でした。

 

熱を通しやすいため強い火力で炊飯することができるのが長所です。

短所はキズが付きやすいこと。

取扱注意の釜ですね。

 

土鍋

最後は土鍋。

蓄熱性が高く、遠赤外線効果があるので米をゆっくりと炊き上げることができます。

蒸らし効果もあり、冷めにくいという長所を持ちますね。

 

熱の通し方が難しい釜なので、炊きむらや硬い炊きあがりになりがちという欠点があります。

価格も高めに設定されています。

 

さいごに

 

炊飯器は、壊れてから大事さに気づく家電の一つかもしれません。

毎日、当たり前に食べていたお米ですが、炊飯器が違うとこんなに差があるのかと実感している今日この頃ですね。

 

予備の炊飯器が稼働しているうちに、新しい炊飯器を決めねばなりません。

さて、気合を入れて各メーカー比較をしてみましょうか(笑)

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

平成30年史 阪神・淡路大震災とオウム真理教の事件で日本社会が大きく揺さぶられた「震」の年、平成7年(1995年)

こんにちは、木彫りグマです。

 

平成30年史シリーズ。今回は平成七年、1995年を取り上げます。

毎年、ニュースで取り上げられる「今年の漢字」。

1995年は「震」でした。

 

1月の阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件に代表されるオウム真理教がらみの事件、相次ぐ金融機関の破綻など、日本社会を大きく揺さぶる「震」が多発した年でした。

 

日本社会が激しく動揺した「震」の1年を振り返りましょう。

なお、この年の10大ニュースは時事通信社のこちらの記事を参考にしました。

https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_general-10bignews1995

バブル景気の記事はこちら

バブル景気とは何か、バブル景気が発生した原因やバブル期のエピソードなどについて元予備校講師がわかりやすく解説

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前年の平成6年の記事をご覧になりたい方はこちらをご覧ください。

平成30年史 パンナ・コッタが流行し、短命内閣が続き、猛暑に見舞われた平成6年(1994年)

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国内政治

 

中央政界では、社会党を中心とする村山富市内閣が継続していました。

政界に衝撃が走ったのは4月に行われた統一地方選挙

東京都知事にタレントの青島幸男氏、大阪府知事横山ノック(本名、山田勇)氏が当選したからです。

 

両氏はともに「無党派」を看板に掲げて当選を果たしました。

両氏とも、参議院議員の経験があり、政治的に全くの素人というわけではありませんでした。

しかし、前年から続く政治的不安定に対し、有権者が「脱政党」の選択をしたと注目を集めましたね。

以後、選挙では「無党派層」を意識せざるを得なくなったように思えますね。

 

 

海外ニュース

 

海外ニュースも、不安定な内容が多かったように思えます。

 

一番の衝撃はイスラエルのラビン首相暗殺のニュースでしょう。

ラビン首相は第三次中東戦争の英雄で強いリーダーシップをもって中東和平を進めました。

 

前年の1994年にパレスチナ解放機構アラファト議長との間で和平合意であるオスロ合意に署名。

中東和平が一気に進むかと期待されていた矢先の出来事だっただけに、衝撃は大きいものがありました。

 

核問題という点では、フランスと中国の核実験強行のニュースがありましたね。

現在、核兵器アメリカ・ロシア・イギリス・中国・フランスの五カ国が中心となって保有しています。

核兵器保有する国は、核拡散をうたいつつも自国の核開発に余念がないということが改めて浮き彫りになった一件でした。

 

隣国の韓国では大統領経験者が次々と逮捕される事態となりました。

この年逮捕されたのは全斗煥元大統領と盧泰愚前大統領です。

 

韓国では政権が交代すると前任の大統領経験者が逮捕されるのが恒例となってしまいます。

現在の文在寅政権下でも、李明博元大統領や朴槿恵前大統領が逮捕されていますね。

 

明るいニュースとしては、ボスニア内戦の和平合意が成立したこととミャンマーのアウン・サン・スーチー女史が自宅軟禁を解除されたことがありました。

 

社会面のニュース

 

何といっても一番の事件は阪神・淡路大震災

 

1995年1月17日の朝5時46分。

明石海峡震源地とする直下型地震兵庫県南部地震阪神・淡路大震災)が発生しました。

 

連休明けの朝のニュースは、混乱する街の様子と炎上する市街地、傾いたビルが倒れる映像から始まりました。

高速道路が横倒しになっている映像は、今でも脳裏に焼き付いています。

 

死者6,434人、負傷者43,792人、被害総額10兆円以上という巨大地震は未曽有のものでした。

都市部で起きる直下型地震の恐ろしさをまざまざと見せつけた地震でした。

 

阪神・淡路大震災と同じくらい注目集めたのがオウム真理教による一連の事件です。

1983年に麻原彰晃こと、松本智津夫が開いた能力開発塾の「鳳凰慶林館」がオウム真理教のルーツとされます。

 

1884年にヨガサークルとして始まった「オウム」は、徐々に宗教団体化していったといいます。

1988年の在家信者が死亡した事件や1989年の坂本弁護士一家殺害事件などが露見しなかったため、オウム真理教の活動は継続しました。

 

1994年に松本サリン事件や信者のリンチ殺人事件などにオウム真理教の関与が疑われるようになるころ、教団ではVXガスの合成に成功。12月12日に会社員VX殺害事件でVXガスを実際に使用しました。

 

1995年、警察の捜査が徐々に上九一色村の教団施設に及びそうになるころ、教団はつぎつぎと事件を引き起こしていました。2月28日の公証人役場事務長逮捕監禁致死事件、3月20日地下鉄サリン事件が代表的なものですね。

 

地下鉄という密閉された空間で化学兵器であるサリンが散布されたことで13人が死亡、約6,000人が重軽傷を負う大惨事が引き起こされました。

 

3月22日、警視庁は公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でオウム真理教の信者の逮捕状を取り、上九一色村の教団施設を一斉捜査。捜査は全国のオウム真理教関連施設に及びました。

 

5月16日、警察は上九一色村の教団施設を一斉捜査。第6サティアンとよばれた建物にいた麻原彰晃を逮捕しました。

 

これがきっかけとなり、村山内閣はオウム真理教に対する破壊活動防止法の適用方針を承認します。

 

 

経済面のニュース

 

この年、複数の金融機関が経営危機に陥ったとのニュースが流れ人々を驚かせました。

破綻の原因はバブル期に作ってしまった巨額の不良債権

コスモ信用組合や木津信用組合などが不良債権によって破綻しました。

 

バブル崩壊により所有する土地を売却することができなくなり、貸し付けた資金の回収が困難になった末の破綻でした。

 

最も大きな問題となったのは住専(住宅専門貸付会社)の破綻です。

1970年代に生まれた住専バブル経済によって急成長。

住専7社の融資残高は11兆円以上に達しました。

政府は住専の破綻は国民経済に大きな打撃を与えるとして、公的資金6,850億円を投入します。

 

公的資金投入の是非をめぐって国会で大きな議論が巻き起こり「住専国会」とよばれましたね。

このとき、国民から大きな批判を浴びた政府は、以後の公的資金の投入に慎重になります。

 

 

スポーツ・エンターテイメント

 

スポーツ面では、新横綱貴乃花の優勝で盛り上がりました。

11月には兄の若乃花と兄弟優勝決定戦をおこないます。

この時勝ったのは兄で大関若乃花でした。

テニスの全仏オープンでは伊達公子選手が四強まで進出。

世界ランキングを四位まで上げていましたね。

 

また、近鉄の選手だった野茂英雄投手が大リーグに移籍。

30年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなって話題を呼びました。

 

1995年3月のアカデミー賞を獲得したのは『フォレスト・ガンプ』でした。

一期一会のキャッチフレーズと共に日本でも話題になった作品ですね。

 

また、ダウンタウン松本人志さんが、武道館で単独ライブ「松風95」を開催。チケットは後払い制で、かつ自己申告という破格の催しでした。最終的に赤字となったそうですが、新たな試みとして注目されましたね。

 

さいごに

 

1995年は阪神・淡路大震災オウム真理教事件というインパクトの強い事件がおきた年でした。世相がどうしても暗くなりがちな中、スポーツ面では明るい話題が多かった気がします。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

幕府権威の再興に苦心し、下剋上によって壮絶な最期を遂げた剣豪将軍足利義輝とは

こんにちは、木彫りグマです。

 

大河ドラマ麒麟が来る』の第5話で、主人公の明智十兵衛が13代将軍足利義輝と出会うシーンがありました。

大河ドラマでは向井理さんが演じていますね。

 

義輝は将軍とはいっても、畿内の最高実力者である三好長慶と緊張状態にありました。

高貴とはいえ、足利将軍家応仁の乱以来、衰退の一途をたどっています。

衰えた幕府の力を取り戻し、将軍の威光を回復させようとした足利義輝とはいったいどのような人物だったのでしょうか。

 

歴史ゲーム信長の野望にも登場する剣豪将軍足利義輝の生涯について、元予備校講師の木彫りグマが解説します。

 

なお、室町時代について興味がある方はこちらもどうぞ

 

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応仁の乱後の衰退した足利将軍家

 酒色におぼれ若くして亡くなった9代将軍足利義尚

1467年から1478年にかけて、京都を中心に応仁の乱がおきました。

応仁の乱により京都は潰滅的被害を受けます。

京都に置かれていた室町幕府の威光も地に堕ちました。

 

8代将軍足利義政の後を受け、9代将軍となった足利義尚は将軍権力の復活を目指しますが、思うようにいかず酒色におぼれてしまいます。

義尚が25歳の若さで死去すると、足利義材(義稙)が跡を継ぎました。

 

流浪の将軍足利義稙

足利義稙は、まだ存命していた足利義政日野富子の支持を得て10代将軍となりました。足利義稙は近江の六角氏討伐に成功し、将軍権威をわずかでも回復させます。

 

しかし、六角攻めに反対していた細川政元日野富子らによってクーデタである明応の政変をおこされてしまいました。

細川政元らは11代将軍として足利義澄を立てます。

 

義稙は一時的に将軍職に復帰しますが、後ろ盾となっていた大内義興が周防に帰国したことで力を失い、阿波へと脱出しました。

 

中央政局に翻弄された足利義輝の父、足利義晴

足利義稙が一時的に将軍職に復帰した時、11代将軍足利義澄は近江に脱出しました。義澄が京都帰還を果たせぬまま近江で死去します。

 

子の義晴は義澄派の播磨守護の赤松義村の下で養育されました。

ところが、義晴は赤松氏と守護代浦上氏の争いに巻き込まれ、浦上氏によって保護されます。

 

1521年、管領細川高国足利義稙を追放。

かわって、義晴を12代将軍として京都に迎えました。

1520年代、管領細川氏は有力家臣である三好氏としばしば争い、そのたびに義晴は巻き込まれ、京都やその周辺を転々としました。

 

1546年、義晴は将軍職を息子の義輝に譲ります。

1549年、義晴は細川氏綱三好長慶と対立し京都を追われました。

翌年、京都帰還を果たせぬまま40歳で亡くなります。

 

 

足利義輝の誕生と元服

1536年、足利義輝は12代将軍足利義晴の子として生まれました。

将軍の正室である御台所の子で、摂関家の血を引く義輝は血統の上では申し分のない高貴な生まれです。

 

1546年、義輝は元服の儀式を行いました。

儀式の翌日、義輝は父から将軍職を譲られ室町幕府13代将軍となります。

 

1549年、幕府の有力者である細川晴元は家臣の三好長慶に裏切られました。

三好長慶は晴元と敵対していた細川氏綱と手を結んだからです。

細川晴元は都から落ち延びる際、足利義晴・義輝父子を伴って近江に脱出します。

 

三好長慶との対立と和睦 

三好長慶暗殺未遂事件

三好長慶と対立した足利義輝は、京都に入ることができず近江で京都奪還を狙いました。1551年、三好長慶が伊勢貞孝の屋敷に招かれることを知った義輝は進士賢光に、長慶暗殺を命じます。しかし、ことは露見。進士賢光は自害して果てました。

 

三好長慶の暗殺に失敗した幕府側は軍事力で京都奪還を目指しますが、相国寺の戦いで長慶の部下である松永久秀らによって阻止されます。

 

度重なる三好長慶との和睦と戦い

1552年、足利義輝三好長慶と和睦し京都に戻りました。

いったんは落ち着いたかに見える室町幕府でしたが、義輝側近の上野信孝の台頭により、幕臣内部での対立が激化。

 

さらに、出雲などの守護職を山名氏や赤松氏から奪い尼子氏に与えたことで、内部対立は決定的なものとなりました。

 

1553年、上野信孝らは実力者の三好長慶を排除するため反三好勢力と提携。

義輝も三好長慶との和睦を破棄して東山霊山城に籠城します。

 

三好長慶は義輝のこもる霊山城を攻め落としました。

義輝は近江に脱出します。

1558年、義輝は再び三好長慶と和睦し、京都に戻ります。

 

 

諸大名との修好

京都に戻った義輝は、幕府や将軍の権威を回復するため戦国大名たちと積極的に修好を結び、和議のあっせんなどを行いました。

 

例えば、安房の里見義堯と相模の北条氏康の争いや武田晴信(信玄)と長尾景虎上杉謙信)の争い、島津貴久と大伴義鎮の争いなどの調停を頻繁に行います。

 

足利義輝が非業の死を遂げた永禄の変 

1564年、三好長慶が死去すると三好氏の家臣だった松永久秀三好三人衆が勢力を拡大します。

松永久秀三好三人衆にとって、自分で政治を行いたいと考え行動する足利義輝は迷惑な存在でした。

 

1565年、松永久秀三好三人衆足利義輝のいる二条御所に攻め込みます。

義輝は自ら薙刀や刀をとって松永・三好軍を相手に奮戦。

義輝は畳に数十本の刀を突きさし、襲い来る敵兵を次々と切り捨てました。

最終的に義輝は複数の兵士たちに囲まれ、槍で突き殺されたと伝えられます。

 

宣教師のルイス=フロイスは義輝のことを武勇に秀でた人物と評していますが、印象的な最期を迎えたことを聞き知っていたからこそそのように描いたのでしょう。

 

さいごに 

名ばかりの存在であった室町将軍の権威を高めるため、最後まで奮戦した足利義輝は、下剋上の申し子ともいえる松永久秀らによって殺害されました。

大河ドラマ麒麟が来る』で、義輝の最後が描かれるのかどうか、興味深いところですね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

バブル景気とは何か、バブル景気が発生した原因やバブル期のエピソードなどについて元予備校講師がわかりやすく解説

こんにちは、木彫りグマです。

 

今からおよそ30年前、1980年代後半から1990年代初頭まで日本は空前の好景気に沸いていました。

のちに、この好景気はバブル経済・バブル景気とよばれます。

バブル景気の期間はいつからで、何が原因で発生したのか。

バブル景気に突入した背景やきっかけは何なのか。

バブル景気の歴史や世相、エピソードなどを紹介しつつ、バブル景気とは何だったかについてまとめます。

なお、バブル経済のころの日本を知りたい方は、こちらの記事もどうぞ

平成30年史 平成元(1989)年編

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 平成30年史 平成二(1990)年編

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[:contents]平成30年史 平成三(1991)年編

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バブル景気・経済の定義

バブル景気とはそもそもどのようなものだったのでしょうか。経済現象としてのバブル経済と、日本に空前の繁栄をもたらしたバブル景気の定義や期間についてまとめます。

 

日本銀行によるバブル経済の定義

バブル景気から10年近く経過した2000年12月、日本銀行はバブルについてまとめた「資産価格バブルと金融政策」と題されたレポートを発表しました。

レポートの原文をご覧になりたい方は、下記の記事をご覧ください。

https://www.imes.boj.or.jp/research/abstracts/japanese/kk19-4-9.html

 

この中で、バブル経済の特徴を

バブル経済は、①資産価格の急激な上昇、②経済活動の過熱、③マネー・信用の膨張の3つによって特徴づけられる。

と定義しました。

 

バブル景気とは

バブル景気とは、1986年12月から1991年2月にかけて、51か月間に日本で起きた資産価値の上昇や好景気、それによってもたらされた社会現象をさす言葉です。

一般的には、バブル景気とバブル経済、バブル期、平成景気、平成バブルなどとよばれますね。

 

経済学の視点から見るとバブル景気とバブル経済は異なるようですが、一般論的解釈としてはほぼ同義と考えてよいでしょう。

 

この時代、株や土地、建物、絵画、宝石など有形無形のあらゆる資産が急騰します。

人々は争ってこれらの資産を購入し、高値で転売していました。

 

1980年代後半の「金余り」を背景に、土地の転売や財テク、ノンバンクなどによる土地関連融資やリゾート法の改正などにより、一獲千金を夢見る投機が流行します。

 

 

バブル景気の背景

バブル景気の背景には「金余り」があったという説明がなされることが多いです。では、なぜ「金余り」が発生したのでしょうか。

 

円高不況と低金利政策

第二次世界大戦後、日本は輸出産業を中心に経済成長を遂げていました。1973年、アメリカのニクソン大統領が金とドルの交換停止を発表。ドルを中心とした固定相場制(ブレトンウッズ体制)が崩壊しました。

 

それまで、1ドル360円だった為替相場は1ドル308円になります。その後も、為替相場ではドルの値下げが続き、1ドル240円前後まで下がります。

 

しかし、それでもアメリカ経済の実態から考えればドルは高すぎでした。少しでもドルを値下げし、輸出を増やすことで貿易赤字を減らしたいアメリカはフランス、イギリス、日本、西ドイツの代表と協議。ドル安を誘導するプラザ合意が結ばれました。

 

これにより、円高が急速に進行。日本の景気を悪化させます。日本銀行は低金利政策を実施し、市場にお金をたくさん供給しました。

 

お金を増やすことで、国内の消費を活発にし、日本経済を回復させることが目的です。円高不況が一段落し、景気が回復した後も日本銀行は低金利政策を継続。金余りの原因を作りました。

 

原油価格の下落

1970年代、第四次中東戦争イラン革命により、原油が急騰しました。これをオイルショックといいます。石油を輸入していた日本や欧米などの先進国は、オイルショックにより経済成長が鈍化しました。

 

1986年、原油価格は大幅に下落します。下落の原因として2つの要因があげられました。一つは、需給バランスが緩和したこと。1980年代前半の不景気により、世界的に原油の需要量が減ったことが大きな要因です。もう一つの要因は世界的な原油の増産。1970年代の高値に刺激され、中東以外の地域でも石油生産が活発化します。モノは余れば安くなります。

 

原油価格の暴落について、日本エネルギー経済研究所が出したレポートをご覧になりたい方は、こちらをご覧ください。

http://eneken.ieej.or.jp/data/6040.pdf

 

国内市場への資金流入

円高不況から脱出するため、日本銀行政策金利を大きく引き下げ、企業がお金を借りやすくしました。

政府は公共事業を活発に行い、企業や労働者にお金が行き渡るようにします。

原油価格が下落したことで、生産や輸送のコストが減ったことも好景気の背中を押しました。

 

日本全体に過剰ともいえるお金が出回ったことで、企業や投資家たちは「価値がありそうなもの」を次々に購入。

あらゆる資産の価値が向上するバブルの状態が生み出されました。

 

 

バブル景気の内容と当時の世相

「金余り」のバブル時代が到来すると、人々は日本経済の実力を過大評価。一獲千金を夢見る投機が大流行します。

 

地価の高騰

国内であり余ったお金が向かった先は土地でした。

このころ、土地の価格は上がることはあっても下がることはないという「土地神話」が流布していました。

 

実際に使うためではなく、転売のための土地購入が盛んになり、地価が高騰します。

銀行や土地購入のための資金を次々と供給しました。

銀行による貸し出しは1985年3月末から1993年3月末にかけて、251兆円から482兆円とほぼ倍増します。

 

株価の急上昇

1986年2月、分割民営化により株式会社となっていたNTTが上場。2か月後には売り出し価格の3倍の株価となりました。株価の急上昇に刺激された企業や個人は「財テク」にのめりこんでいきます。

 

1988年、来日したアメリカの中央銀行にあたるFRB議長のグリーンスパンは、日本の株価が実体経済より過大評価されている可能性を指摘します。しかし、グリーンスパンに警告に耳を傾ける人は少数派だったでしょう。

 

1986年から急上昇した日経平均株価は、1989年12月29日に38.957円を記録。1985年の約3倍へと膨張しました。

 

地上げ屋の出現

土地の価格が高騰すると、右肩上がりに上昇する土地を狙って強引な用地賠償が行われるようになりました。

細切れの小さな土地でも、近隣の土地とあわせて大きくすれば資産価値は大幅に上昇します。

 

そのため、地主や住民を強引に脅し土地を強引に買い取る「地上げ屋」が出現しました。

地上げは大きな利益をもたらすだけに、現在でも問題となることがあります。

土地の売買を行う際には、十分用心したほうが良いでしょう。

 

バブル期のエピソード

バブル期には、現在では考えられないような派手なエピソードがあったようです。

よく聞くのは、タクシー代のこと。

1万円札を振ってタクシーを止めたというのは大げさにしても、帰宅時のタクシーはお客による争奪戦だったそうです。

企業が社員に対し、タクシー券を渡していたのも、今は昔の物語といったところでしょうね。

 

バブル期は、高級住宅や高級車、高額のゴルフ会員権などが飛ぶように売れていました。リゾート開発も盛んで、クリスマスには豪華なリゾートで、という話も珍しくありません。

 

就職も超売り手市場。公務員になるのはもったいない。勤めるなら高給取りの証券会社がいいといわれていた時代です。

 

さいごに

バブル景気は、今では伝説のように語られていますが、木彫りグマが子供のころに実際に起きていたことです。

テレビ番組でも派手なのもが多く、ジュリアナ東京に代表される「イケイケ」な雰囲気が世の中に充満していたのを子供ながらに感じ取っていました。

 

しかし、そんな黄金時代は長続きしません。

不動産への資金供給規制をきっかけにバブルは急速に崩壊します。

バブル崩壊については、次の機会に書きたいと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

地獄や蛇、キツネなど様々なジャンルの説話を集め、平安初期に成立した『日本霊異記』について、元予備校講師がわかりやすく解説

こんにちは。木彫りグマです。

 

木彫りグマは何年か前まで予備校で講師をしておりました。

その時に教えていたのが社会系と小論文、そして古典です。

古典というと、どうしても読みにくく、わかりにくいというイメージが先行しますが、しっかりと現代語訳されたものを読むと現代人が読んでも面白いと思える内容の物がたくさんあります。

 

今回紹介するのは説話文学というジャンルに属する『日本霊異記』。

平安初期に書かれた最古の説話文学ですね。成立代ははっきりしませんが、蛇の話、狐の話、地獄の話、鬼の話など様々な短編物語が116話収録された文学作品でした。

 

今回は、『日本霊異記』とはどのような本か、『日本霊異記』に収録されている個人的に面白いと思った話などを紹介したいと思います。

 

なお、奈良・平安時代など古代の記事に興味を持った方はこちらの記事もどうぞ

花山院の出家:平安史上、まれにみる「手のひら返し」の物語

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雪のいと高う降りたるを 冬シーズンにピッタリな枕草子のエピソード

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[:contents]天徳の歌合 壬生忠見と平兼盛の「初恋の歌」名勝負

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日本霊異記』とは何か

 

成立年代や著者、構成について

 

日本霊異記』は、正式名称を『日本国現報善悪霊異記』といいます。

日本国に今に伝わる良いことや悪いことの報いなどの不思議な話を集めた本という意味のタイトルですね。

 

成立年代は正確にはわかっていませんが、822年の前後とされます。

822年というと、嵯峨天皇の時代で、最澄が亡くなった年。

空海はまだ健在で、真言密教の研究を続けていたころです。

 

著者は奈良右京にあった薬師寺の僧侶である景戒。『日本霊異記』の中で、景戒は俗世で妻子とともに暮らしていたとあるので、国が認めた僧侶ではなく、自分で出家する私度僧だった可能性が高いでしょう。

 

日本霊異記』は全三巻で構成されます。上巻に35話、中巻に42話、下巻に39話で収録話数は合計116話。

短編集とはいえかなりのボリュームですね。登場人物は皇族・貴族といった高貴な人々から役人、僧侶、庶民、乞食僧などあらゆる階層に及びます。

 

日本霊異記』を含む説話文学とは

 

日本霊異記』は説話文学というジャンルに区分される作品です。

説話文学とは、神話・伝説・民話・童話などを収録した文学作品の総称です。

大きくけると、仏教説話と世俗説話に2分されますよ。

日本霊異記』は仏教説話に区分されます。

 

仏教説話は仏や菩薩の奇跡、高僧に関するエピソード、世の中の因果応報などについてまとめたもの。

日本霊異記』のほかに『今昔物語集』や『発心集』、『沙石集』などが該当します。

 

悟りを得ようと仏の道を志す発心の話や俗世のわずらわしさを逃れ静かに生活する遁世、この世を去って極楽に生まれ変わる往生、仏や仏教・経典の霊力によっておこる不思議な出来事などが収録されます。

 

日本霊異記』に収録されている説話の主題と思想

 

日本霊異記』に収録されている話に共通するテーマは因果応報。

善悪は必ず報いをもたらし、自分が行った善行や悪行は現世・来世・地獄などで自分の身に降りかかるという内容の話が多く収録されました。

 

善行には貧者に対する施しや生き物を憐み放つ放生、写経や仏に対する信心が含まれます。

悪行には殺人、窃盗、動物に対する殺生、僧に対する紀がいや侮辱などが含まれます。

 

 

日本霊異記』の説話3選

 「狐を妻として子をうましめし縁」

時代は飛鳥時代欽明天皇のころ。現在の岐阜県にあたる美濃国大野郡の男が妻となる女性を探していました。

ある時、男は一人の美しい女性と出会います。

女性の美しさに惹かれた男は女に妻となるよう誘います。

すると、女は男の誘いに応じて男の妻となりました。

 

やがて、男は妻との間に一人の男の子を授かります。

妻には一つだけ気になることがありました。

家で飼っていた犬の子が、妻を見るとやたらに吠え立てるのです。

妻は犬が恐ろしく「殺してほしい」と夫に頼みますが、夫は犬がかわいそうで殺すことができませんでした。

 

あるとき、妻が納屋に入ると、犬の子が妻に襲い掛かりかみつこうとします。

慌てた妻はついに正体を現してしまいました。

なんと、妻は人ではなく「きつね」だったのです。

正体がばれてしまった妻に対し、夫はそれでも夜には来て一緒に寝てほしいと頼みました。

 

妻はそれを承知し、夫の下に「来つ寝」(きつね)したといいます。

狐との間に生まれた子が、美濃国に住む狐直の先祖となりました。

 

 

「亀の命を贖ひて放生し、現報を得て亀に助けらえし縁」

朝鮮半島にあった百済生まれの弘済禅師という僧侶がいました。

唐と新羅百済に攻め込んだ時、援軍として派遣された備後国(現在の岡山県)の三谷郡の郡長の先祖が、戦いに勝利し弘済禅師を伴って帰国します。

 

三谷郡の郡長の先祖は、戦いの前に無事に帰ってきたら立派なお寺を立てますと請願していたので、弘済禅師を住職とする寺を立てようとします。

 

弘済禅師は仏像に塗る顔料を買うため難波津(大阪の港)に赴き、目的の品を購入。

この時、禅師は亀が4匹売られているのを見て哀れに思い、亀を買い取り海に放してあげました。

 

難波からの帰路、禅師の乗った船の船乗りは禅師や連れの同時を海に投げ込み、品物を奪います。

海に投げられ絶体絶命だった禅師一行は、亀に助けられました。

その亀は、禅師が難波津で買い取った亀たちだったのです。

 

一方、顔料などを奪った船乗りは、禅師の寺に奪った品物を売りに行きました。

そうしたら、なんと、禅師が生きて姿を現したではありませんか。

船乗りたちは驚いて何も言えなくなります。

 

禅師は、船乗りたちを許しました。禅師は顔料を取り戻し、寺もしっかりとたて80歳まで生きます。

善い行いが現世で報われたとして紹介されました。

 

「非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けし奇しき事を示しし縁」

 

奈良時代文武天皇の時代(705年)、9月15日に膳臣広国という人物が死去しました。その三日後、広国は蘇生し、地獄で見た責め苦について人々に語ります。

 

死んだ広国は大人と子供の二人の従者に連れられ、黄金の橋を渡りました。橋の向こうには見たこともない素晴らしい都で、都の中に黄金の宮殿があります。従者に尋ねると、「度南の国」というを教えてくれました。

 

度南の王の前に来ると、昔に死んだ広国の妻が現れます。妻は額に鉄の釘を打たれ、頭から尻まで太い釘を打ち込まれた姿でした。妻は広国に「私は、お前に追い出されて死んだのだ」と主張します。広国はそんな事実はないと反論しました。

 

すると、度南の王は広国の所業を記した記録を手元に取り寄せ、つぶさに調べます。その結果、広国は無罪であると判定されました。広国は生き返ることを許されます。

 

この世に戻る途中、広国は父親の姿を見ました。父親は体に37本の釘を打たれ、焼けた銅の柱を抱かされています。広国の父は、鬼によって肉がちぎれ落ちるほど鞭打たれました。しかし、鬼は肉をかき集めて広国の父の体を再生。再び責め苦を加えます。

 

広国の父が犯した罪は、生活のために動物を殺し、高値で人にものを売りつけ、困っている人に米を貸して利子を取り、親孝行せず、人の物を奪い、人の妻を犯したということでした。

 

広国をエスコートした従者のうち、子供の従者は広国が子供のころに書き写した観世音経の化身。幼いころの善行が広国を救ったというお話でした。

 

さいごに

 

あまりなじみのない『日本霊異記』ですが、読み物としてとても面白いエピソードがたくさんあります。最近、『日本霊異記』の内容をマンガにした本を見つけました。読んでみると、なかなか興味深い。関心を持った方は、ぜひ、一度手に取ってみてはいかがでしょうか。面倒な古文でも、マンガなら気軽に読めるのでお勧めです。

 

最後まで読んだ頂き、ありがとうございました。

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平成30年史 パンナ・コッタが流行し、短命内閣が続き、猛暑に見舞われた平成6年(1994年)

こんにちは。木彫りグマです。

 

平成の歴史を振り返る平成30年史。第6回は平成6年(1994年)をとりあげます。

 

国際的に見ると、北朝鮮金日成主席の死去や中東和平でのノーベル平和賞南アフリカマンデラ大統領誕生、北アイルランド和平など時代の変化をうかがわせるニュースがありました。

 

その一方、ルワンダボスニアの内戦が深刻化するなど、ポスト冷戦時代の民族紛争が目立った一年でした。

 

国内では、細川内閣、羽田内閣、村山内閣と1年で3つの内閣が交替するなど、政治的に不安定な年でしたね。

 

経済面ではリストラや価格破壊など、デフレの傾向が鮮明になり、記録的な円高が輸出産業に打撃を与えた1年です。

 

前年の平成5年について知りたい方はこちらの記事をどうぞ

 

 平成30年史 政治も気候も激動に見舞われた平成5年(1993年)

kiboriguma.hatenadiary.jp

それでは、平成6年(1994年)について、振り返ってみましょう。

 

 

 

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/2411212">Colline</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

国内政治の動き

 

1993年に政権交代を果たした細川内閣は国民福祉税構想などで大きく動揺しました。

この年の4月8日、細川首相が辞意を表明。

後継首相選びが活発化します。

 

4月25日、衆議院首班指名選挙が行われ、新生党公明党社会党などを連立与党とする羽田孜内閣が成立しました。

羽田内閣成立後、新生党日本新党民社党自由党・改革の会が統一会派「改新」を結成したことで、社会党との関係が悪化。社会党の連立離脱を招きました。

 

連立が維持できなくなった羽田内閣は総辞職します。

「改新」との対立で連立を離脱した社会党と、前年下野した自民党、そして新党さきがけが連立を組むことで村山富市内閣が成立します。

 

また、細川内閣時代の3月24日に小選挙区比例代表並立制を柱とする選挙改革法案が可決されました。

 

 

社会・経済面の動き

1994年6月27日、松本市で松本サリン事件が発生しました。

オウム真理教の信者らが猛毒のサリンを一般市民に対して無差別に使用した事件です。

このとき、マスコミは第一通報者である一般人の河野義行さんをあたかも犯人であるかのように報じてしまう「冤罪」未遂の報道をしてしまいました。

 

その後の捜査で、犯人がオウム真理教の信者であることが判明。

翌年におきる地下鉄サリン事件などとも一緒に捜査されることで徐々に真相が明らかにされます。

報道の在り方について深く考えさせられると同時に、現在の「炎上」にも通じる点があると感じますね。

 

経済面では景気の落ち込みがはっきりと認識されるようになります。

バブル経済の象徴としてしばしばニュースに登場していたジュリアナ東京が閉店したのもこの年でしたね。

 

また、為替相場では1ドル100円を切る円高となり、輸出関連企業を中心に打撃を受けます。

城南信用金庫が懸賞金付き定期預金の取り扱いを開始したことも話題となりました。

徐々にではありますが、規制緩和している様子が伺えます。

 

天候・気象については、前年の冷夏とはうってかわり猛暑となりました。

全国各地で水不足が深刻化し、報道で大きく取り上げられます。

米は豊作。

前年におきた平成の米騒動は急速に鎮静化しました。

 

 

エンターテイメント、スイーツなど

 

1994年はSonyから「プレイステーション」、SEGAから「セガサターン」という新型のハードが出され、ゲームのハード戦争が過熱します。

当時はどちらもすごい人気でしたが、最終的に生き残ったのは「プレイステーション」のシリーズでした。

SEGAはハードよりもソフトの生産へとシフトしていきます。

 

1994年から95年にかけてヒットした作品が「家なき子」。

主演の安達祐実は当時12歳。作中で登場する「同情するなら金をくれ!」というセリフは新語・流行語大賞に選ばれましたね。

シリーズ2作品とも平均視聴率が20%を越えるヒット作品となり、映画も制作されました。

 

函館出身のロックバンド「GLAY」がインディーズレーベルからアルバム『灰とダイヤモンド』をリリースしたのが1994年でした。

GLAYはその後たびたびオリコン1位を獲得するヒットを連発し、日本を代表するロックバンドの一つに成長します。

 

『10秒チャージ・2時間キープ』のキャッチコピーで販売されたのが、森永製菓の「ウィダーインゼリー」。

今ではコンビニでも売られているスタンダード商品ですが、当時はとても斬新なゼリーに思えましたね。

2018年からは「ウィダー」の名前を外して森永のブランドとして販売していますよ。

 

1994年にヒットしたスイーツは「パンナ・コッタ」。

今聞くと、ちょっと懐かしい感じもしますが、当時は「いったい何?」という疑問の方が先立ちましたね。

つるりとしたくちどけの甘いデザート。

しかし、結構高カロリーだったので、体重を気にしている方はご用心。でも、おいしいんですよね(笑)

 

以上、1994年をサラッと振り返ってみました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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