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田沼意次とは?イケメンって本当?商業重視の新しい政治で改革を断行した政治家

田沼意次とは?

 

田沼意次ってどんな人?

田沼が行った政治・経済の改革とは?

田沼の賄賂政治を批判した狂歌や川柳って何?

 

このページを見ている人はそんな疑問を持っているかもしれません。

 

田沼意次は9代将軍家重と10代将軍家治に仕え、商業重視の経済政策を展開した人物です。

 

彼は株仲間を公認し、長崎貿易で俵物の輸出を奨励するなどして幕府財政の立て直しを図ります。

 

また、意外なことにイケメンとしても知られている人物でした。

 

今回は田沼意次が仕えた将軍、彼のおこなった改革、彼の政治を批判した狂歌や川柳、イケメンエピソードなどを中心にまとめます。

 

 

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田沼意次の年表

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田沼意次のプロフィール

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田沼意次

田沼意次は1719年に旗本田沼意行の長男として生まれました。

 

田沼家はもともと紀伊藩の藩士でしたが、紀伊藩主徳川吉宗が将軍となったことで幕臣編入された家です。

 

意次は家督相続前から9代将軍となる徳川家重の小姓として仕えます。

 

1745年、徳川吉宗が隠居し、家重が9代将軍となります。それにともなって、意次も西の丸から本丸に入りました。

 

以後、家重の側近として重用されます。そして1751年には御用取次に任じられました。

 

意次は家重の次の将軍である10代家治の御用取次にも選ばれました

 

そして、1767年に側用人が復活した時、意次がその職に任じられます。しかも、1769年には老中も兼務するようになりました。

 

しかし、意次の時代に賄賂がはやったとして反対勢力がこれを非難します。

 

賄賂自体は当時の慣習だったのですが、意次の場合、あまりに急速な出世が周囲の妬みを買ったのかもしれません。

 

1786年に家治が亡くなると、後ろ盾を失った意次は失脚してしまいました。

 

9代将軍家重、10代将軍徳川家治が田沼を信任

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田沼を信任した9代将軍徳川家重

9代将軍となった家重は意次をかなり信任したようです。その証拠が、意次を御用取次に任じたことです。

 

御用取次とは、徳川吉宗側用人を廃止して設置した役職です。主な仕事は、将軍と老中の間を取り次ぐ連絡がかかりでした。

 

御用取次に任じられるのは側衆の中でも将軍の信任が厚い人物だけです。意次がいかに家重から信任されていたかがわかります。

 

そして、自分が死ぬ間際に家治に引き続き意次を重用するよう遺言しました。

 

家治の時代になると彼は復活した側用人や幕政のトップである老中などに任じられます。

 

こうして、のちに「田沼時代」とよばれる意次の政治が展開されたのです。

 

 

田沼が行った政治改革とは?

田沼は享保の改革が農業中心の財政政策と年貢増徴を図ったのとは対照的に、商業振興や貨幣政策、俵物の輸出奨励などによる経済政策を展開しました。

 

また、蝦夷地の開拓にも乗り出します。しかし、印旛沼手賀沼干拓事業には失敗しました。

商業政策

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株仲間の公認

田沼は商人たちの同業者組合である「株仲間」を公認する代わりに、その見返りとして幕府に運上や冥加という名の営業税を納めさせる仕組みをつくりました

 

新たな財源を探していた田沼は都市の商業資本に目を付けます。

 

江戸幕府は土地や土地を耕す農民に対して幾重にも支配・課税の仕組みを整えていたのに比べると、都市での課税が軽微でした。

 

そこで田沼は都市の富裕な商人から税をとろうとします。

 

しかし、むやみやたらと商人に課税をしても彼らが衰退してしまえば財源が失われます。

 

そこで、田沼は彼らの商売を「公認」し、独占権を認める代わりに彼らから冥加金を受け取るようにしました。

 

商人たちは幕府公認となることでライバルとの競争で有利になり、幕府は収入を得られるという仕組みです。

専売制の拡充

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高麗人参朝鮮人参)

田沼時代、高い利益を上げることができる4つの産品を幕府の専売としました。

 

その産品とは、銅・鉄・真鍮・朝鮮人です。銅は長崎貿易の輸出品として重要でした。

 

鉄や真鍮は手工業の原材料として使います。朝鮮人参は高価な薬として利用されました。

 

いずれの産品も幕府の専売制にすることで確実に利益を上げることができるものです。

 

田沼はそれぞれの産品で商人たちに座を作らせ独占販売を認める代わりに、運上や冥加を得ました

 

南鐐二朱銀の鋳造

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田沼が発行させた南鐐二朱銀

 

南鐐二朱銀とは、「二朱」と額面が決められた銀貨です。江戸時代、東日本では小判をはじめとする金貨、西日本では量って使う銀貨が使われていました。

 

金貨は現在の私たちのお金と同じく額面がついていました。金1両は4分、1分は4朱でした。ということは、金1両は16朱となります。このような貨幣を計数貨幣といいました。

 

一方、銀貨は使うときに秤で重さを図って、〇〇匁(もんめ)と割り出してから使います。このような貨幣を秤量貨幣といいました。

 

商業活動が西日本・東日本の圏内にとどまっているならよいのですが、江戸時代は日本全国をまたにかけた商売が盛んになります。

 

金貨と銀貨の交換をスムーズにするため、「二朱」という額面付きの銀貨が作られました。それが南鐐二朱銀です。

 

これで、いちいち量らなくても金1両=南鐐二朱銀8枚という交換が可能となりました。

 

大坂と江戸で商売するような人にとってとても便利な通貨が誕生したことになりますね。

 

貿易政策

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俵物の輸出

田沼は長崎貿易の赤字を解消するため、俵物とよばれる海産物の輸出に力を入れました。

 

長崎貿易は中国産の生糸やオランダ船が持ち込むヨーロッパ製品を輸入し、金・銀・銅などを輸出する貿易です。

 

幕府は長崎貿易によって貨幣の原料となる金・銀・銅が輸出するのは好ましくないと考え、長崎貿易を制限するようになりました。

 

田沼はそれとは違い、新たな輸出品を作り出すことで金・銀・銅の輸出を抑えようと考えました。

 

田沼が目を付けたのは海産物、とくに干しアワビやいりこ、フカヒレなどを詰めた俵物でした。

 

これらの品物は中華料理の原料として高値が付くため、利益が出せる輸出品となります。

 

積極的な俵物輸出の奨励により長崎貿易での金・銀・銅の輸出を抑制することができました。 

農業政策

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印旛沼手賀沼干拓

印旛沼手賀沼も千葉県北部にある湖沼です。徳川吉宗の時代、新田開発の一環として開拓が試みられましたがうまくいかなかった場所でした。

 

田沼は利根川水系の開発で水運の強化と新田開発の一挙両得を狙います。

 

しかし、工事がある程度進んだ頃に関東平野を大規模な水害が襲いました。そのせいで印旛沼手賀沼干拓は失敗に終わります。

 

『赤蝦夷風説考』を読み蝦夷地探査を実行

 

田沼は仙台藩出身の工藤平助が書いた『蝦夷風説考』を読み、ロシア帝国蝦夷地に迫っていることを知りました。

 

田沼はそれまで松前藩によって独占されていた蝦夷地を本格的に探査しようと考えます。

 

松前藩について知りたい方はこちらもどうぞ! 

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こうして、最上徳内らをメンバーとする蝦夷地探検隊を組織します。

 

最上徳内らは1785年と1786年に千島列島を探査しました。田沼失脚後も蝦夷地探査は続けられ、幕府による蝦夷地直轄に繋がります。

 

田沼意次松平定信の関係

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田沼失脚後、寛政の改革を行った松平定信

松平定信田沼意次の失脚後、老中首座として寛政の改革を行った人物です。

 

彼は徳川吉宗の孫で、白河松平家に養子に出されていなければ将軍になれた可能性があった人物でした。

 

この養子縁組に田沼が関わったとする説がありますが、定かではありません。

 

将軍家治の死によって田沼が失脚したのち、定信は老中首座となり、改革を実施しました

 

この改革では質素倹約が奨励されました。しかし、 田沼政治の全てを否定したわけではありません。

 

南鐐二朱銀など先進的な経済政策は継続させています

 

田沼政治に関連する狂歌・川柳

 

狂歌年号は安く永しと変われども諸色高直いまにめいわ九

 

田沼時代の明和九年、年号が安永と改元されました。しかし、諸色=米以外の物価は高値で年号が「安く永し」となっても生活が苦しいと皮肉っています。

 

川柳「役人の子はにぎにぎをよくおぼえ

 

にぎにぎとは賄賂のことです。役人となると仕事よりも賄賂を受け取ることばかりがうまくなるという皮肉です。

 

田沼時代は幕府の保護を受けた商人や商人からわいろを受け取る役人たちにとって有利な時代で、自分たち庶民は何の恩恵もないという庶民の嘆きが聞こえてくるようです。

 

田沼意次に関するエピソード・伝説

田沼がイケメンだったって本当?

田沼意次は若いころから「イケメン」として有名でした。

 

彼は将軍付きの小姓として家重に仕えます。将軍後継者のお供ですから、当然、大奥の女性たちの目に触れる機会も多かったでしょう。

 

大奥の女性たちは豆まきのイベントの際、無礼講なのをチャンスとして将軍側近などの男性陣の中から「年男」を簀巻きにしていたずらすることをしていました。

 

ところが、意次はそのターゲットにされたことがありません。

 

その理由は、あまりにイケメン過ぎて、神々しくて近寄りがたかったからとのこと。

 

現代なら、さしずめジャニーズのアイドルのような扱いだったのかもしれませんね。

 

田沼は気遣いで出世!

田沼は気遣いの人でした。彼が仕えた9代将軍家重は病気で言葉が不明瞭な人物でした。

 

田沼は丁寧に家重の意向を聞き、気持ちを察して行動したといいます。こうした日頃の言動が家重・家治から絶大な信任を得た理由です。

 

彼が気を使ったのは目上だけではありません。部下たちにも気を使いました

 

ある寒い日、都城を控えた田沼は寒さに震える部下たちに酒をふるまい、体を温めさせます。

 

それだけではなく、酒を飲めないもののために温かい食べ物も用意したといいます。田沼は細やかな気遣いができる人だったことがわかります。

 

田沼の部下がもらった「京人形」とは

田沼の権勢を物語る伝説として「京人形」の話があります。

 

あるとき、田沼の部下である勘定奉行松本秀持は大坂の商人から大きな箱の贈り物をもらいました。

 

その箱には「京人形」が入っているといいます。あけてみると中から美しい着物を着た京人形が現れました。

 

等身大の美しい人形でしたが何か変です。よくよく見ると人形は息をしています。そう、その人形は生きた美女だったのです。

 

現代的な価値観で見れば、人間を贈り物にするというのはとてもひどい話に聞こえますが、当時としてはしゃれた贈り物のつもりだったのでしょう。 

田沼意次についてのまとめ

今回は田沼意次について紹介しました。

 

田沼は江戸時代に主流だった農業中心の改革と一線を画す商業重視の政策を行いました。

 

これにより、幕府は新たな収入源を確保することができました。

 

また、長崎貿易の収支を改善し金銀などの流出を抑えることにも成功します。

 

しかし、田沼の商業重視は賄賂政治を招いてしまい世間の反発を買ってしまいました。

 

そのため、彼を信任していた9代将軍家重、10代将軍家治がこの世を去ると後ろ盾を失った田沼は失脚してしまいます。

 

この記事を読んで田沼意次の政治やエピソードが「わかった!」と思っていただけたら幸いです。

 

『枕草子』「中納言参りたまひて」登場人物の人物像やあらすじ、敬語などの文法事項についてわかりやすく解説

中納言参りたまひての登場人物は?

中納言参りたまひてのあらすじは?

中納言参りたまひてに出てくる敬語とは?

 

この記事を見てくださっている方は、このような疑問を持っているかもしれません。「中納言参りたまひて」は清少納言の随筆『枕草子』の102段に収められているお話です。

 

この話には関白藤原道隆の子の「中納言藤原隆家彼の姉である中宮定子、定子の女房の一人である清少納言の3人が登場します。

 

あるとき、中納言隆家が定子の部屋を訪れて扇の骨を自慢します。そのときに、清少納言が機知に富む返しをしたというのがこのお話でした。

 

今回は、「中納言参りたまひて」の登場人物の人物像や話に出てくる扇の古典常識、最高敬語をはじめとする注意すべき文法事項についてまとめます。

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中納言参りたまひて」の登場人物と人物像

中納言藤原隆家

文中に出てくる中納言藤原隆家のことです。彼は時の関白藤原道隆の子でした。

 

兄は内大臣藤原伊周、妹は一条天皇中宮となった定子です。彼の一家のことを「中関白家(なかのかんぱくけ)」といいます。

 

隆家は979年に誕生しました。そして、一条天皇時代の989年に元服し11歳で従五位下侍従に任じられ貴族の一員となりました。

 

その後、父道隆の手によりどんどん位階を引き上げられ、995年には中納言に任じられます。このとき、彼は16歳の若者で、明るい未来が待っているように思われました。

 

しかし、彼が中納言になって間もなく、父道隆が亡くなります。このことは中関白家の人々に暗い影を落としました。

 

996年、伊周と隆家は伊周の女性問題に端を発して花山法皇と対立し、こともあろうに花山法皇を襲撃し、法皇の着物の袖に矢を打ち込んでしまいました。

 

花山天皇の退位のいきさつについて知りたい方はこちらをどうぞ!

 

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この事件を最大限利用したのが彼らのライバルだった藤原道長です。

 

これらの事件の責任を追及された伊周は太宰府に、隆家は出雲にそれぞれ左遷されてしまいました。

 

この中納言参りたまひて」は、若き日の隆家の屈託ない様子を描いた貴重な記録で隆家の人物像をうかがい知ることができるエピソードです。

 

また、隆家は激しい性格でしたが、一本気で政敵である道長にも評価されたといいます。

 

後年、大宰府に勤務した時は善政を施し、北方の異民族が九州を攻撃した刀伊の入寇では現地の武士を指揮し撃退に成功しています。

 

宮中での出世はかないませんでしたが、剛毅な一生を送った人物でした。

中宮定子

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枕草子』の挿絵に出てくる中宮定子

中宮定子は隆家の姉で、一条天皇の后です。清少納言にとって直接の上司にあたる女性で、『枕草子』もしばしば登場します。母譲りの漢文の素養や文学に関する深い教養があったようです。

 

定子の漢文の素養に関してはこちらの記事をご覧ください

 

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999年、定子は一条天皇の皇子を身ごもります。しかし、後ろ盾となるべき父の道隆はすでに亡くなっていました。

 

彼女を支えるべき兄の伊周と弟の隆家花山法皇襲撃事件を引き起こし、定子を頼って彼女が宿下がりしていた二条宮に逃げ込みます

 

定子は兄と弟をかくまいました。しかし、一条天皇検非違使に二条宮の捜査を命じたため庇いきれなくなります。

 

この捜査で隆家が逮捕されました。兄の伊周は逃亡後、捕まります。捕縛された二人は、結局、左遷されてしまいました。

 

仲の良かった兄たちが左遷された後、定子は自らはさみを手に取って髪を切り、出家してしまいました。

 

枕草子』の記述や、その後の生き方から定子のつつましやかで優しい人物像が伺われます。

 

その後、一条天皇が兄弟の罪を許したので、定子は再び宮中に入ります。そして1001年、媄子内親王を出産した直後に亡くなりました

 

清少納言

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清少納言は966年に生まれました。主人である定子とは24歳差です。

 

彼女の父は『後撰和歌集』の選者で梨壺の五人の一人に挙げられる歌人清原元輔でした。その後、橘則光藤原棟世らと結婚します。

 

彼女が宮中に出仕したのは993年頃のことで、一条天皇中宮となっていた定子に仕える女房の一人として採用されます

 

彼女が華やかな宮中での生活を書き記したのが『枕草子なのです。ただ、『枕草子』は全てが事実ではなく多分にフィクションを含んでいるとの指摘もありますので、読み手は注意が必要です。

 

清少納言についてはこちらの記事でも触れています。 

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1001年に中宮定子が亡くなった後、清少納言は女房を辞めて宮中を去ったと考えられています。

 

清少納言の人物像としては才気煥発という言葉がふさわしいように思いますが、同時に、宮中での敵も多かったかもしれません。

 

周囲の人々(定子付きの他の女官たち)

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官職を持ち、宮中に使える女性たちのことを女官といいます。

 

尚侍、典侍掌侍などの高位の女官から、雑事をつかさどる一般の女官まで、宮中には様々な女性が働いていました。清少納言もそうした女官の一人です。

 

作中に出てくる中宮定子は天皇の后という極めて高貴な身分の女性でした。彼女の身の回りの世話をする侍女たちは清少納言だけではありません。

 

しかも、一定水準以上の教養の持ち主が選抜されていました。

   

中納言参りたまひて」のあらすじ

ある日、中納言藤原隆家中宮定子のもとを訪れました。彼は、姉である定子に扇を献上します。そして、こんな話をしました。

 

隆家「私は素晴らしい骨を見つけました。これにふさわしい紙を張り付け、扇として献上したいのですが、ありきたりの紙を張ることなどできません。(だから、ふさわしい紙を)探してるのです。」

 

定子「(その骨は)どんなものですか?」

 

隆家「すべてが素晴らしい骨です。人々は「今まで全く見たことがない骨のようすです」と申しています。(私も)本当にこれだけの骨は見たことがありません。と声高におっしゃいました。

 

それを聞いた清少納言が隆家にいいます。

 

清少納言「それでは、扇の(骨)ではなく、くらげの(骨)のようですね」

 

隆家「(それはいい言葉だと思ったので)これは、隆家が言ったことにしてしまおう」

そういって、お笑いになりました。

 

なんだか自慢話のようで、書かないでおこうと主思ったのですが、周囲の人たち(女房達)「一つも書き漏らしてはいけない」などというので、書かないわけにはいかなくなったので書き記します。

 

中納言参りたまひて」の面白さとは?

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この話の「面白さ」は、楽しいという意味の面白さ(funny)ではなく、教養があるという点の面白さ(interesting)です。では、誰の教養なのでしょうか?それは、筆者である清少納言の教養です。

 

文中で隆家は扇の骨を「見たことがないほど素晴らしい」とほめちぎりました。

 

それを清少納言は、「見たことがない」→「存在しない」と連想し、そんな見たことがない骨なら、クラゲの骨のようですねと返したわけです。

 

しかも、そのことを隆家が褒めて、「自分のセリフにする」といいました。清少納言としては自分の機知を褒められ、とてもうれしかったのでしょう。

 

しかし、そのことをストレートに日記に書くと自慢話といわれます。だからさいごに「皆が書けっていったから」という言い訳を書いたわけです。

平安貴族のマストアイテムだった扇

扇は平安時代初期に生まれました。宮中に出入りする貴族たちにとって、扇は欠かすことができないマストアイテムです。扇には夏用の蝙蝠扇と冬用の檜扇があります。

夏の蝙蝠扇

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夏に使う扇は蝙蝠扇とよばれました。蝙蝠はコウモリのこと。開いた形が翼を広げたコウモリの形に似ていることからそのように呼ばれました。

 

骨に紙を貼るものですが、紙は扇の表面に貼られ、裏側には骨が露出していました。

 

文中で隆家はいい骨を手に入れたが、それに見合う(紙)がないといっていることから、彼が作ろうとしていたのは蝙蝠扇だと考えられます。

 

冬の檜扇

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檜扇は木製でつくられた扇のことです。特に女性の檜扇を袙扇(あこめおうぎ)とよびます。

 

檜の薄板を重ね合わせ、要の留め具に和紙を用いたものでした。貴族たちにとって檜扇は正装の一部でとても重要なものです。

 

檜扇は要を持たず、広げるときには要の少し上を持つのが作法とされました。

 

顔を見せないのが当たり前の平安女性にとって、檜扇は顔を隠すちょうどよいアイテムとなったでしょう。

 

扇についてはこちらの記事がとても参考になりました。気になる方は、こちらもご覧ください。

扇子の老舗・宮脇賣扇庵|京扇子|京都 六角富小路

   

係り結びの法則

係り結びは「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」の係助詞(係り)が文中に登場すると文末(結び)が終止形以外の形に変化する法則のことです。

 

これは古文に使われる表現の一つで、強調や疑問をあらわします。

 

私たちは文章を書くとき、「!」や「?」を用いることで強調や疑問を表現することができます。

 

しかし、平安時代にこれらの記号は存在しませんでした。そこで用いられたのが係り結びです。

 

現代文で「!」にあたるのは、「ぞ」「なむ」「こそ」、「?」にあたるのは「や」「か」です。

 

これらの言葉が入ると、文末が変化します。「ぞ」「なむ」「や」「か」は文末が連体形に、「こそ」は已然形に変化するのです。

 

このお話だと「隆家こそいみじき骨は得てはべれ」の「こそ」が係助詞、「はべれ」は「はべる」の已然形です。

 

「隆家が!素晴らし骨を手に入れた」と自分こそが素晴らしい骨を手に入れたということを強調したいがための表現なのです。

 

姉に対して「見てみて!」と珍しい骨を持ってきて、褒めてもらいたいかのような隆家の振る舞いはなんともほほえましい限りですね。

 

最高ランクの人にしか使われない「二重敬語(最高敬語)」

 

敬語には尊敬語、謙譲語、丁寧語があります。そのうち、尊敬語は相手の言動に対して尊敬の気持ちを込めて使います

 

通常、一つの動作に対し敬語は一つですが、とても偉い人に対しては二重に敬語を使います。これが二重敬語、または最高敬語です。

 

(定子が隆家に)「いかようにかある」と問ひ聞こえさせたまへば、の部分で問うという定子の行動に対し、筆者の清少納言が「聞こゆ」と「させたまふ」という2つの敬語を重ねています

 

これは、定子が天皇の后(中宮)なので、最高の敬意を払う必要があるからです。

 

この文に限らず、「中納言参りたまひて」はやたらに敬語が出てきます。

 

しかも、主語がことごとく省略されているので非常にわかりにくいです。

 

ただ、清少納言の立場からすれば定子も隆家も自分の目上にあたる人たちなので、彼らの行動すべてに敬語をつける必要がありました。

 

大まかに言って、本文を書いている清少納言中宮定子や中納言隆家の行動すべてに尊敬語を用い、清少納言自身の行動には謙譲語を用いているといってよいでしょう。

 

まとめ

 

今回は『枕草子』に収録されている「中納言参りたまひて」をとりあげました。

 

学校で教材にされることが多く、敬語問題の定番としても出題されることから古典初心者を大いに悩ませる章段です。

 

ただ、登場人物や扇についての基礎知識、最低限の敬語の知識があれば内容は難しくありません。

 

この記事を読んで、登場人物や話に出てくる扇の古典常識、最高敬語をはじめとする注意すべき文法事項について「わかった!」と思っていただけたら幸いです。

 

百人一首の名歌「しのぶれど」。意味や作者、天徳内裏歌合での対決とは?コナンやちはやふるにも登場!

 

しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで

 

この歌はどういう意味だろう?

この歌と、恋すてふ の歌とのかかわりは?

しのぶれど という名のバラがあるって本当?

 

このページに来てくれた方は、そんな疑問を持っているかもしれません。

 

「しのぶれど」の歌は『拾遺和歌集』や『百人一首』に収められた名歌です。

 

歌の出来が素晴らしく、この歌が披露された歌会でもう一つの名歌と優劣を競ったエピソードをもちます。

 

今回は「しのぶれど」の歌の作者や歌の意味、「恋すてふ」の歌と競い合った天徳内裏歌合、「しのぶれど」の歌が登場する『名探偵コナン』や『ちはやふる』など現代の作品、「しのぶれど」という名のバラについてまとめます。

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しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで

 「しのぶれど」の歌の意味

 

まず、「しのぶ」は我慢する、こらえるといった意味です。「しのぶれど」で、我慢していたけれどという意味になります。

 

次に「色」は、表情や感情といった意味です。末尾に詠嘆の「けり」がついていることから、「顔に気持ちがでてしまったのだなあぁ」という意味になります。

 

では、「色」に出てしまったのは何か?それは、「我が恋」、自分の恋心です。しかも、「ものや思ふ」、何か(誰か)を思っているのですか?と「人の問」われてしまいまで。

 

もうこうなると、恋心がバレバレで他人に見えて、しかも聞かれてしまっているということになります。

 

まとめると、我慢してきた恋心でしたが、顔に出てしまっていたのだなぁ。ほかの人に「だれか好きな人でもいるの?」と聞かれてしまうくらいに

 

となります。学生時代にそんな経験をした人は多いかもしれませんね。

 

作者は平兼盛

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「しのぶれど」の作者である平兼盛

作者の平兼盛三十六歌仙の一人に選ばれるほどの和歌の名手です。

 

彼は光孝天皇のひ孫にあたり、後撰和歌集』時代の代表的な歌人でした。

 

出世競争では報われず、かろうじて貴族とよべる「従五位下上」にとどまりました。

 

彼の歌は後撰和歌集拾遺和歌集『後拾遺和歌集などに数多く採用されました。

 

兼盛の歌風は、比較的わかりやすく素直だと評されます。そのため、平安時代の古典に疎い現代人にとっても共感しやすいのかもしれません。

 

「しのぶれど」と「つつめども」の違い

 この「しのぶれど」の歌には、初句が「つつめども」となっているものがあります。それは、鎌倉時代中期に書かれた『沙石集』です。

 

この中にある平兼盛壬生忠見が歌の優劣を競った「天徳内裏歌合」の記事で、兼盛の歌が「つつめども」と紹介されています。

 

「つつめども」も「しのぶれど」も、周囲に見えないように隠すという点では同じ意味になります。よって、どちらであっても意味に大差はありません。

 

ただ、勅撰和歌集である『拾遺和歌集』は1006年前後の成立とされていることから、もともとの歌は「しのぶれど」と考えるのが自然でしょう。

 

 

 披露されたのは「天徳内裏歌合」

 「しのぶれど」の歌が披露されたのは、村上天皇の時代にあたる天徳4年(960年)の「天徳内裏歌合」の時でした。

 

村上天皇を始め、上流貴族が勢ぞろいした豪華な歌会で、壬生忠見が詠んだ「恋すてふ」の歌と一騎打ちを演じます。

 天徳内裏歌合とは

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天徳内裏歌合が催された清涼殿

 天徳内裏歌合は、宇多天皇時代の「寛平后宮歌合」、鎌倉時代初期の「六百番歌合」などともに有名な歌会です。

 

披露される歌のお題は一か月前に告示され、歌人たちは歌合当日まで推敲を重ねました。

 

全部で20番の勝負で、勝敗の判定は判者である左大臣藤原実頼が決します。

 

補佐役には大納言の源高明がつきました。歌人たちは左右両陣営に分けられ、それぞれの歌を披露します。

 

ちなみに、右方の講師(歌を詠む人)は小説『陰陽師』で有名になった源博雅です。

 

左右両陣営には応援の女房達が割り振られ、左方は赤、右方は青をベースとした衣装で聞かざるなど、非常にきらびやかな演出がなされます。

 

こうして、村上天皇臨席のもと、天徳内裏歌合がスタートしました。

 

しのぶれど(つつめども)」VS「恋すてふ

 

歌合は、それぞれの歌を交互に披露して行われます。そして、優れている方を判者が決定して次の歌に進みました。

 

勝敗が決することもあれば、持といって引き分けになることもあります。歌合はどんどんすすみ、ついに最後の20番目の勝負となりました。

 

左方の講師は壬生忠見の歌を詠みます。

 

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

 

恋すてふ、というのは恋しているというのはという意味です。まだきは、もうすでにという意味です。

 

ですから、(あなたに)恋しているという私の名前が、すでに知られてしまった(噂になってしまった)なぁという訳になります。

 

人知れずこそは、人が知らないようにという意味で、思いそめは想い初め、つまり想い始めたばかりという意味になります。

 

ということで、人に知られないように、(あなたのことを)想い始めたばかりなのにという訳になります。

 

奇しくも、「しのぶれど」の歌と同じように秘めていた恋心があらわになった瞬間を詠んだ和歌となりました。

 

どちらの歌がよいか、左大臣実頼は判定がつかず、引き分けにしようとします。

 

ところが、村上天皇が納得しません。実頼はなんとしても勝負をつけるしかなくなりました。 

 

勝ったのは「しのぶれど」の歌

実頼が勝敗をつけかねていると、大納言の源高明がアドバイスします。

 

帝(村上天皇)がしのぶれどの歌を口ずさんでいる」と教えてくれたのです。これで意を決した実頼は、右方を勝者と認定します。

 

こうして、歌合では「しのぶれど」が勝利しました。

 

敗れた壬生忠見は激しく落胆します。そして食が細くなり、ついには死んでしまったといいます。

 

『沙石集』では「歌ゆゑに命を失ふ事」というタイトルをつけ、天徳内裏歌合と壬生忠見の死のエピソードを紹介しました。 

「しのぶれど」が登場する作品

名探偵コナンから紅の恋歌


 

 から紅の恋歌」は、2017年に上映された名探偵コナンシリーズの映画です。劇場版第21作にあたるこの作品は、関西圏を舞台としています。

 

作中には「しのぶれど」の歌のほかに、

 

在原業平の「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」や

 

崇徳上皇の「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

 

など百人一首の他の歌も登場します。

 

和歌を題材にしたミステリーはいろいろな作品に登場しますが、メジャーなアニメ作品に登場するとまた趣が異なる気がします。

 

ネタバレを延々と書くのは無粋なので、詳しい内容は同作品をご覧になってお楽しみください。 

小説 『ちはやふる』 中学生編(3) 

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ちはやふる』は末次由紀作の少女漫画です。2020年の段階で全45巻で、競技カルタをテーマとしています。

 

タイトルの『ちはやふる』は、崇徳上皇の歌の「ちはやぶる」に由来します。

 

漫画では描かれなかった中学時代を小説化したこの作品では、主人公綾瀬千早(あやせちはや)のライバルとして登場する若宮詩揚(わかみやしのぶ)について描かれています。

 

彼女の名のもととなったのが「しのぶれど」の和歌でした。

 

そのため、彼女をメインにした章段の名は「詩揚の章 しのぶれど色に出でにけり」となっています。

 

かるた以外に興味がない彼女と、転校生笹原美稀、主人公の幼馴染の真島太一(ましまたいち)の中学生時代を描いた作品です。興味がある方は、ぜひ読んでみてください。 

「しのぶれど」の名を持つバラ 


 

 「しのぶれど」は、あまり見かけることがない藤色のバラです。

 

兼盛の歌から名を取られたこのバラは、2006年に生み出された新しいバラです。

 

華やかなイメージが強いバラですが、この「しのぶれど」は周囲に調和するとても奥ゆかしいバラです。

 

見た目は奥ゆかしいですが、香りが強く「恋」を隠し切れない歌のように、芳香を周囲に放ちます。庭があったら植えてみたいと思わせるバラですね。

 

まとめ

今回は百人一首に登場する「しのぶれど」の和歌について紹介しました。

 

この歌は、内に秘めた恋心を詠んだ名歌です。天徳内裏歌合では、同じく恋心を詠んだ壬生忠見の「恋すてふ」の歌と激しいつばぜり合いを演じました。

 

また、この歌は現代の作品にも影響を与えています。名探偵コナンや『ちはやふる』には「しのぶれど」の歌にちなんだエピソードが登場します。

 

千年たってもリバイバルされるとは詠んだ平兼盛も思わなかったでしょうね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

   

松前藩とは?アイヌ交易や場所請負制度についてわかりやすく解説!

松前藩ってどんな藩?

松前藩の場所はどこ?

松前藩の歴史やアイヌとの関係が知りたい!

 

このページを訪れた皆さんは、そのようにお考えかもしれません。

 

松前藩は江戸時代に現在の北海道にあたる蝦夷地を支配した藩でした。米がとれない松前藩アイヌとの交易を財源とするとても珍しい藩です。

 

江戸時代の中頃になると、松前藩アイヌと交易する場所の経営権を商人たちに委ねる場所請負制度をはじめます。

 

松前藩の支配が蝦夷地各地に及ぶようになると和人とアイヌの摩擦が起きるようになり、たびたび、戦いとなりました。

 

今回は、松前藩の歴史やアイヌとの関係、松前藩蝦夷地支配や松前藩アイヌを通じて行った山丹交易についてまとめます。

 

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復元された松前城天守

江戸時代に興味がある人は、こちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

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松前藩とは?

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松前の白神岬から函館方向の景色

松前藩蝦夷地、現在の北海道に唯一成立した藩です。

 

渡島半島南部の松前周辺に福山城を築城し居城としました。そのため、福山藩とも呼ばれます。

 

松前藩は江戸時代を通じて松前氏が支配しました。1719年に松前藩は1万石の扱いとなり、大名として格付けされます。

 

幕末には北方警備の関連もあり3万石の扱いとなります。

 

松前藩は米を産しない特殊な藩でした。米のかわりに松前藩の収入源となったのがアイヌとの交易です。

 

1593年に豊臣秀吉から船役(交易船から税を取る権利)を、1604年に徳川家康からアイヌ交易の独占権を認められました。

 

江戸時代の初め、松前藩の支配領域は松前周辺から渡島半島にかけての地域に限られていました。

 

しかし、徐々に松前藩は支配を強化します。

 

17世紀後半になると、松前藩による交易独占や不公平な交易、場所請負制度に対するアイヌ側の不満が高まります。

 

1669年にはアイヌ内部の部族対立などをきっかけに、松前藩アイヌが武力衝突するシャクシャインの戦いが起きました。

 

その後、松前藩アイヌが住む蝦夷地に対する支配を強化します。

 

アイヌと和人(日本人)との対立はたびたび起きましたが、1789年のクナシリ・メナシの戦いをさいごに大規模な戦いは終わりました。

 

今回は江戸時代に北海道に成立した松前藩の歴史や松前藩蝦夷地支配、松前藩アイヌとの戦い、松前藩アイヌを通じて行った山丹交易についてまとめます。

 

松前藩はどこ?

渡島半島に道南十二館が成立

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鎌倉時代から室町時代にかけて道南に成立した和人の拠点「道南十二館」

室町時代、東北地方北部と蝦夷地は交易をおこなっていました。

 

東北地方から蝦夷地に移り住んだ人々は蝦夷地の南西部にあたる渡島半島の沿岸に交易拠点を置きました。この拠点を道南十二館といいます。

 

道南十二館を支配したのが蝦夷管領ともよばれた津軽の安東氏です。

 

道南十二館は上之国(現上ノ国町)、松前(現松前町)、下之国(現北斗市)に分けられ、それぞれに守護が置かれたといいます。

 

当時の交易を物語る遺物が「下之国」の一部にあたる函館市銭亀沢の志海苔地区で見つかりました。

 

出土したのは室町時代の商人が埋めたと思われる古銭がつまった大きな甕2つです。

 

室町時代、取引に使われたのは中国から渡ってきた宋銭でした。

 

銭亀沢から出土した古銭の大半も宋銭です。銭の重量は5トン、合計374,436枚もの古銭が入っていました。

 

志海苔地区には道南十二館の一つである志苔館が置かれていました。

 

この地区で盛んに交易がおこなわれていたことをうかがわせる資料です。

コシャマインの戦いと武田信広

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%8B%94%E9%A4%A8

1456年、志苔に住んでいた和人の鍛冶屋と客としてやってきたアイヌの男が製品をめぐって口論になりました。

 

やがて、口論はエスカレートし、和人の鍛冶屋はアイヌの客を殺してしまいます。

 

1457年に入ると、渡島半島東部のアイヌの首長コシャマインを中心にアイヌが団結し和人たちと武力衝突しました。

 

各地から集まったアイヌたちは志苔館をはじめ、道南十二館のうち十を攻め落とします

 

劣勢となった和人側は、若狭(現在の福井県西部)武田氏出身と称する武田信広を中心に団結します。

 

武田信広は武士たちを率いてアイヌに反撃し、七重浜コシャマイン父子を討ち取りました。

 

コシャマインの戦いが終結したのち、武田信広は上之国守護で花沢館を支配していた蠣崎氏の養子となり家督を相続します。

 

のち、蠣崎氏が松前藩をつくるので、武田信広松前藩の始祖とされます。

 

蠣崎氏による道南支配

コシャマインの戦いに勝利した武田信広勝山館を築城し、拠点とします。信広の跡を継いだ蠣崎光広は本拠地を松前に移しました。

 

光広の子の蠣崎義広は、アイヌショヤコウジ兄弟と戦って勝利します。主君の安東氏は義広に蝦夷地を訪れる交易船から税を取る権利を認めます。

 

これにより、蠣崎氏は他の道南十二館の館主よりも強い立場となりました。

 

ショヤコウジ兄弟との戦いの後も、義広とアイヌの戦いは続きます。

 

義広の跡を継いだ季広は、主君である安東氏の要請でたびたび本州に派兵しました。

安東氏から独立を果たした松前

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蠣崎慶広が家督を継いだ1582年は、日本史で重要な年です。天下統一を目前にした覇王織田信長本能寺の変で斃れた年だからです。

 

信長の後継者として頭角を現したのが羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉です。

 

1590年、小田原攻めに勝利した豊臣秀吉は奥羽仕置と称して東北地方の支配固めを行いました。

 

蠣崎慶広は主君である安東実季に従い上洛しました。このときの慶広の立場は安東氏の支配下にある蝦夷地代官です。

 

慶広は前田利家らをつてとして、直接秀吉に会うことに成功します。

 

そして、秀吉から所領を安堵され、朝廷から従五位下の官位を与えられました。

 

これで、蠣崎慶広は安東氏から独立した存在として世間に認められました

 

慶広は1591年に起きた九戸政実の乱のとき、アイヌを率いて討伐軍に参加します。

 

また、朝鮮出兵の時にも手勢を連れて参陣しました。その功績で、秀吉から蝦夷地で徴税する権利を認める朱印状を与えられます

 

慶広は秀吉から与えられた朱印状をアイヌに示し、自分に背けば秀吉が10万の大軍を率いて蝦夷地に乗り込んでくるとアイヌを威圧しました。

 

松前藩による蝦夷地支配

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E8%97%A9

家康の黒印状

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http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html

1598年、豊臣秀吉がなくなると慶広は徳川家康蝦夷地の地図を献上し、支配権の継続を図りました。

 

また、自分の子供たちには「松前」と名乗らせます。1604年、慶広は家康から蝦夷地交易独占を認める「黒印の制書」を与えられました。

 

黒印状では、松前氏の許可なく蝦夷地で交易をおこなってはならないことや、日本人が松前氏に無断で蝦夷地にわたることの禁止、アイヌに非道なことを行ってはならないことなどが記されています。

 

同時に、アイヌについては移動制限を設けず、自由に移動してよいと定められました。

 

松前藩の参勤交代はどうなっていたのか?

 

江戸時代、ほとんどの藩に参勤交代が義務付けられていました。蝦夷地にある遠隔地の松前藩といえども例外ではありません。

 

しかし、一般的な1年おきの参勤交代ではありませんでした。

 

元禄年間、松前藩主は3年に1度の割合で江戸に上っていましたそれ以後は5~6年に一度と改められます

 

参勤交代で、松前藩主が使っていた街道を松前街道といいます。

 

松前藩主は松前街道を伝って津軽半島三厩から陸奥湾沿いに南下し、青森から奥州街道を経て江戸に向かいました。

和人地と蝦夷

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http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html

松前氏が道南の支配を固めていったころ、北海道は日本人が住む和人地とアイヌが住む蝦夷地に分けられていきました。

 

和人地の西の端である熊石(現八雲町熊石)と東の端である亀田(現函館市)には関所がおかれ、往来を監視します。

 

アイヌが住む蝦夷地は熊石よりも西(地図上は熊石以北)の西蝦夷と、亀田より東の東蝦夷地に区分けされます。

 

西蝦夷地は積丹や石狩方面から宗谷に連なります。蝦夷噴火湾から日高、釧路方面に達しました。

松前藩は上級家臣に交易権を与えた(商場知行制)

米がとれない松前藩にとって、収入元はアイヌとの交易でした。

 

江戸時代の初めごろ、アイヌの酋長(乙名:おとな)は毛皮や海産物、アイヌの工芸品などを松前城下に持ち込み、松前藩主にこれらの品物を献上します。

 

松前藩側からは酒や生活必需品が与えられました。

 

江戸時代の中頃になると、松前藩主は上級家臣に蝦夷地各地の交易場(商場・場所)の経営権を与えるようになりました。

 

この仕組みを商場知行制といいます。

 

この仕組みがはじまると、アイヌ松前城下まで来ず、各地の商場で商場の所有者(知行主)と交易するようになりました。

 

商場は蝦夷地全体で60カ所以上作られます。アイヌ側は鮭やニシン、コンブ、オットセイ、クマ皮、ラッコ毛皮などを持ってきました。

 

松前藩側は米や古着、酒、生活用具(ナベ、お椀、糸など)、タバコなどの嗜好品を持ち込みます。

場所請負制でアイヌを漁場労働者として支配

18世紀になると、松前藩主や上級家臣は、自ら場所での交易を運営するのではなく商人たちに場所の経営を任せるようになりました。

 

商人は運上金を藩主や知行主に納め、残りを自分の収入とします。

 

蝦夷地の場所請負に乗り出したのは、資本力がある近江商人たちでした。

 

商人たちは交易をおこなうだけではなく、アイヌを労働力とした漁業を場所で行います

 

商人たちが熱心に漁業に取り組んだ背景には、江戸時代に需要が急増した肥料の存在がありました。

 

場所でとれた大量のニシンを煮て魚油を搾り取る一方、残った搾りかす(鰊粕)を肥料として販売しました。

 

魚油や鰊粕は昆布やアワビなどの海産物と共に北前船で本州各地に出荷され、近江商人をはじめとする場所請負商人は巨額の利益を上げます。

 

その陰で、アイヌたちは低賃金労働者として場所で働かされるようになりました

「ウイマム」と「オムシャ」

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%A3

松前藩アイヌ支配を固めるため行っていた儀礼が2つあります。

 

一つは「ウイマム」です。

 

もともと、ウイマムはアイヌと和人との交易そのものを指す言葉でした。

 

その後、ウイマムはアイヌ松前藩主やその代官である上級家臣、幕府が派遣する巡検使に拝謁するときの儀礼へと変化します。

 

もう一つは「オムシャ」です。

 

オムシャは交易相手へのあいさつを意味する言葉だったようです。次第に、交易や漁業を慰労する行事となります。

 

その際、場所で働くアイヌたちは松前藩からの掟を読み聞かせられます。

 

松前藩アイヌの戦い

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

シャクシャインの戦い

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

江戸時代初めにあたる17世紀中ごろ、アイヌの中で部族対立が激しくなっていました。

 

対立していたのは日高から道東の太平洋沿岸にかけての集団であるメナシクルと現在の苫小牧や白老、千歳方面の集団であるシュムクルです。

 

メナシクルの指導者はシャクシャイン、シュムクルの指導者はオニビシです。

 

松前藩は両者の対立を仲裁するなどしていました。1668年、オニビシがシャクシャインによって殺されると両集団の対立は一触即発の状態になります。

 

シュムクルの首長の一人ウタフが松前を訪れ、支援を要請しましたが松前藩は拒否します。その帰路でウタフが疱瘡でなくなりました。

 

ウタフの死は松前藩による毒殺であるといううわさがたちまちアイヌの中で流布し、アイヌの中での反和人感情がたかまります。

 

もともと、アイヌは交易が自分たちに不利で、年々、対価として支払われる米などが少なくなっていることに強い不満を持っていました。

 

シャクシャインはメナシクルだけではなく、シュムクルの首長たちにも反松前藩の挙兵を訴えました。

 

シャクシャインの呼びかけに応じた2000の軍勢が蝦夷地各地で和人を襲撃します。東西蝦夷地で300人以上の和人が殺害されました。

 

シャクシャインの蜂起を知った松前藩国縫に出陣しシャクシャインの南下に備えます。

 

松前藩からの報せを聞いた幕府は弘前藩南部藩久保田藩(秋田)に出兵を命じ、旗本の松前泰広(藩主松前矩広の大叔父)を派遣します。

 

クンヌイでの戦いは一進一退でしたが、鉄砲を装備する松前藩軍が有利で、シャクシャインは一時後退します。

 

松前藩側はアイヌの中でもシャクシャインと距離がある部族などを切り崩し、シャクシャインの力を弱めます。

 

不利を悟ったシャクシャインは償いの宝物を差し出し和睦を申し出ます。

 

シャクシャインは和睦の宴に出向きましたが、その酒宴の場で殺害されます。その他の有力な首長も謀殺されたり捕らえられたりして各個撃破されました。

 

シャクシャインの戦いの後、松前藩アイヌに「七カ条の起請文」を提出させ服従を誓わせます。その結果、松前藩の支配は強化されました。

クナシリ・メナシの戦い 

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クナシリ・メナシの戦いの犠牲者への追悼

18世紀になり場所請負制度が本格的に運用されるようになると、アイヌは場所の低賃金労働者として働かされるようになりました。

 

そればかりか、場所の番人たちはアイヌに暴力や脅迫、婦女暴行などの蛮行を行っていたといいます。

 

現在の道東にあたるクナシリ・メナシの地域でも、場所請負制度に対するアイヌの不満が高まり、いつ何が起きてもおかしくない状態となります。

 

1789年、クナシリ島の首長のサンキチが病にかかりました。サンキチが場所の支配人勘兵衛が持ってきた酒を飲んだところ、ほどなく亡くなってしまいます。

 

同じころ、クナシリの別の首長の妻が和人からもらった飯を食べて亡くなりました。

 

和人が毒でアイヌを根絶やしにしようとしていると考えたアイヌの人々は場所の支配人や通訳、番人を襲撃します。

 

また、たまたま忠類に来ていた飛騨屋の船(大通丸)も襲われました。蜂起したアイヌは130人程度で道東地域にいた和人71人が殺害されます。

 

松前藩はただちに鎮圧部隊を送り込みました。松前藩は取り調べの結果、37人のアイヌを死罪とします。以後、アイヌの大規模な抵抗はなくなりました。

 

松前藩アイヌを通じて行った山丹交易

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https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p151215/index.html

江戸時代、松前藩アイヌを通じてユーラシア大陸の人々(山丹人)と交易をしていました。これを山丹交易といいます。

 

山丹人とは、黒竜江流域に住むウリチ族やニヴフ族などのことです。彼らは中国本土を支配する清朝の産品を樺太蝦夷地のアイヌと交易しました。

 

山丹人は清朝に貂皮を上納し、かわりに役人が着る絹の服(官服)や布地、鷲の羽、青玉などを与えられました。

 

山丹人はこれらの品物を蝦夷地に持ち込みます。アイヌは和人から得た鉄製品や米、酒などと山丹人が持ち込んだ品物を交換しました。

 

松前藩や場所請負商人は、山丹交易で得られた品物を江戸・大坂に運び利益を得ます。特に清朝の官服は「山丹服」・「蝦夷錦」として珍重されました。

まとめ

松前藩は現在の北海道に成立した藩です。米を算出しない松前藩アイヌとの交易を収入源とする特殊な藩でした。

 

松前慶広は豊臣秀吉徳川家康といった中央の権力者と巧みに結びつくことで安東氏の支配から独立します。

 

江戸幕府からアイヌ交易独占権を認められた松前藩は、上級家臣たちに各地で交易する権利を分け与える商場知行制を行いました。

 

やがて、商場知行制は場所の経営そのものを商人に委ねる場所請負制度へと変化します。

 

和人が蝦夷地に深くかかわるにつれ、和人とアイヌの対立も激しくなりました。

 

17世紀中ごろのシャクシャインの戦いや18世紀後半のクナシリ・メナシの戦いで、松前藩は武力や謀略を用いてアイヌを屈服させます。

 

松前藩の歴史や松前藩蝦夷地支配、松前藩アイヌの戦い、山丹交易などにつて、「そうだったのか」と思っていただけたら幸いです。

 

長時間、この記事にお付き合いいただきありがとうございました。

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保元の乱とは誰と誰の戦い?平治の乱との違いや登場人物、原因、結果、勝者などについてわかりやすく解説!

保元の乱って何?

保元の乱で戦ったのは誰と誰?

保元の乱平治の乱の違いは?

保元の乱の原因や結果についてわかりやすく解説してほしい!」

 

このページに来てくださった皆さんは、そんな風にお思いかもしれません。

 

保元の乱とは平安時代末期の1156年に崇徳上皇後白河天皇が日本の支配権をめぐって争った戦いです。

 

藤原氏や源氏、平氏崇徳上皇側と後白河天皇側に分かれて争います。

 

戦いは後白河天皇側の勝利に終わります。

 

その3年後、勝った後白河上皇保元の乱後、後白河天皇は退位して上皇となりました)の側近たちの内輪もめが原因でおきたのが平治の乱です。

 

今回は保元の乱の内容や乱の登場人物、平治の乱との違い、乱の原因や結果などについてわかりやすく解説します。

 

平安時代末期から鎌倉時代初期について関心がある方はこちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp 

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保元の乱とは

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保元の乱を描いた保元合戦図屏風

保元の乱とは1156年(保元元年)に京都でおきた政変のことです。

 

それまで、「治天の君」(朝廷の最高指導者)として日本の頂点に君臨してきた鳥羽上皇が亡くなると、次の治天の君の座をめぐって崇徳上皇後白河天皇が争います。

 

治天の君について知りたい方はこちら

治天の君 - Wikipedia

 

同じころ、摂関家では藤原忠通藤原頼長の兄弟が争っていました。

 

皇室の争いと藤原氏の争いに源氏や平氏といった武士たちが絡むことで、二つの勢力が武力衝突します。

 

戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐に流されます。

 

保元の乱平治の乱の違いとは?

保元の乱は皇室と藤原家の内紛でした。一方、平治の乱保元の乱で勝利した後白河上皇の側近(院近臣)たちの争いです。

 

平治の乱後白河上皇の側近ナンバー1を決める争いだったといってよいでしょう。

 

平治の乱に勝利した平清盛はライバルの源氏を排除し、後白河上皇院政を補佐します。

 

そして、武士でありながら貴族の最高官職である太政大臣にのぼりつめました。

 

平治の乱平清盛が権力を握るスタートといってもよい戦いだったのです。

 

保元の乱の登場人物

天皇家

 

鳥羽上皇に疎まれ、政権中枢から外された崇徳上皇

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後白河天皇を打倒するため挙兵した崇徳上皇

崇徳上皇は1123年から1141年まで天皇として在位しました。

 

この間、父の鳥羽上皇が「治天の君」として政治のトップに君臨していたため、彼は天皇でありながら実権はありませんでした。


1141年、崇徳天皇近衛天皇に譲位し、崇徳上皇となります。といっても、鳥羽上皇が健在のため、上皇になってからも実権はありません。

 

1155年に近衛天皇が死去した際、鳥羽上皇崇徳上皇の子ではなく、自分の子を後白河天皇としてたてました。

 

政権から排除され、鳥羽法皇との関係が良くない状態で1156年に鳥羽上皇が死去します。

 

鳥羽上皇の死後、崇徳上皇藤原頼長とともに挙兵するといううわさが流れます

 

後白河天皇側が武士を呼び寄せ、追い詰められた崇徳上皇は挙兵せざるを得なくなります。

 

保元の乱で敗北したのち、崇徳上皇は讃岐に流されました。その後、彼は都に帰りたいと切実に願いますが果たされず讃岐で亡くなります。

 

後白河上皇のあまりの仕打ちに、崇徳上皇は怨霊となったという伝説が生まれました。 

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「今様」を愛する風流人、後白河天皇

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のちに源頼朝から「日本一乃大天狗」と評された後白河天皇上皇

後白河天皇崇徳上皇近衛天皇と同じく鳥羽法皇の子です。

 

崇徳上皇近衛天皇に比べ皇位継承の可能性は低いとみられ、「今様」に明け暮れる生活を送っていました。

 

それが高じて梁塵秘抄という今様の歌曲集まで編集してしまいます。

 

そんな趣味人だった彼の転機は異母弟である近衛天皇の死でした。

 

父である鳥羽上皇崇徳上皇の子ではなく、彼を次の天皇に指名します。こうして後白河天皇は即位しましたが、当然、兄である崇徳上皇との溝は深まります

 

崇徳上皇と藤原家トップの藤原頼長が挙兵するとのうわさを聞いた後白河天皇とその側近たちは、素早く平清盛源義朝らの武士を動員し崇徳上皇側の先手を打ちます

 

保元の乱に勝利した後白河天皇二条天皇に譲位し、院政を始めました。その後、34年にわたって治天の君として君臨します。

 

摂関家

悪左府」とあだ名された切れ者藤原頼長

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悪左府」とあだ名された藤原頼長

藤原頼長は1130年に11歳で宮中に出仕すると、1131年には従三位、1134年に権大納言、1136年に内大臣になりました。

 

そして、1149年には左大臣に登ります。いかに摂関家の人間とはいえ、頼長は異例の昇進を遂げました。その背景には父のひきたてや本人の才能があります。

 

幼いころから博学多才で知られた頼長左大臣となり朝廷のトップとなると、学術の再興や弛み切った朝廷の政治の引き締めをおこないます。

 

また、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人の捕縛騒動や仁和寺興福寺の僧侶を捕らえようとしたことなどで寺社勢力と対立します。

 

現状よりも理想を重視し妥協を知らない厳しい姿勢は人々の反発を呼びます。

 

そのため、悪左府」とあだ名され、次第に鳥羽法皇の信任を失いました

 

鳥羽上皇から遠ざけられた頼長は近衛天皇死後の次の天皇決定にかかわることができません。

 

政権から追われつつあった頼長は一発逆転を狙わざるを得ない立場となっていたのです。

 

家督争いに勝利するも、摂関家衰退を止められなかった藤原忠通

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父や弟と対立した藤原忠通

藤原忠通藤原忠実の長男です。父が白河上皇と対立して失脚したのち関白に任ぜられました。

 

白河上皇がなくなり鳥羽上皇治天の君となると、父の忠実が復権します。

 

忠実は忠通よりも弟の頼長を偏愛したため、父子関係は悪化し、藤原氏のトップの座である「一の長者」の地位を忠通からとりあげ弟の頼長に与えてしまいました

 

また、忠通は長い間男子に恵まれなかったため、弟の頼長を養子に迎えます。

 

しかし、実子が生まれると頼長との養子縁組を破棄してしまいました。

 

こうして、忠通と忠実・頼長の関係は修復不可能な対立関係となったのです。 

 

源氏 

 
粗暴ゆえに出世の機会を失った源為義

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検非違使以上に出世できなかった源為義

源為義白河上皇の引き立てにより京中の警備を担当する検非違使に任じられました。

 

同じころ検非違使だった平忠盛は昇進し国司になったのに対し、源為義検非違使のまま据え置かれます。

 

かねてから本人や郎党たちが粗暴な振る舞いをしていたのが出世できない理由でした。

 

鳥羽上皇の信任がない為義は摂関家に近づきます。1154年に子の一人である為朝の乱暴の責任をとって為義は官職を解かれ、家督源義朝に譲ります。

 

さらに、朝廷でおきていた藤原忠実・頼長への圧迫に巻き込まれ鳥羽上皇の怒りを被ってしまいました。

 

追い詰めらえた為義は事態打開のため忠実・頼長に味方します

 

乱に勝利したものの、父や弟を切らねばならなかった源義朝

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平治の乱に敗れ、敗走する源義朝

為義の子の源義朝は関東で少年時代を過ごします。彼は鎌倉周辺を本拠地とし、20代前半には現在の神奈川県にあたる相模国に強い基盤を築きました

 

東国の勢力基盤を子の義平に任せた義朝は京都に戻ります。

 

帰京した義朝は鳥羽上皇藤原忠通と結びつき、出世の糸口を探ります。

 

そして、1153年に従五位下となり下野守と右馬頭を兼任しました。これは、父為義の地位を大きくしのぐものです。

 

保元の乱とき、父や他の一族と袂を分かち後白河天皇側につき勝利します。

 

しかし、3年後の平治の乱では平清盛に敗れてしまいました。この義朝の子が、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝です。

 

平氏

伊勢平氏の本流から外れた平忠正

平忠正平正盛の子で、清盛から見れば叔父にあたります。はじめ、父の正盛とともに朝廷の武士として仕えていました。

 

しかし、鳥羽上皇の怒りをかって官職を辞任します。その後は摂関家の家人として活動していました。

 

鳥羽上皇の信任が厚かった兄弟の平忠盛やその子の平清盛とは不和だったともいわれます。

 

保元の乱の時は頼長にしたがって崇徳上皇方として参戦します。乱後、平清盛の手によって斬首されました。

 

保元の乱平治の乱に勝利し、平氏政権をつくった平清盛

平清盛院政と深く結びついて勢力を拡大した伊勢平氏の棟梁です。

 

伊勢平氏は父の忠盛の代から院政と近い関係を持ち、鳥羽上皇から絶大な信任を受けた一族でした。

 

父忠盛から引き継いだ瀬戸内海交易は清盛に莫大な富をもたらします

 

保元の乱では源義朝とともに後白河天皇側の主力として活動しました。

 

3年後におきた平治の乱では対立していた院の近臣や源義朝の排除に成功し、後白河上皇の側近筆頭となりました。

 

その後、武士出身としては異例の昇進を遂げ最高官位である太政大臣に上り詰めます。

 

登場人物についてより深く知りたい方は、大河ドラマ平清盛』がオススメ!保元の乱平治の乱についてもわかりやすく描かれています。

 

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保元の乱の原因は天皇家摂関家のあとつぎ争い

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保元の乱の原因は天皇家摂関家の跡継ぎ争いです。

 

白河上皇院政を始めてから、政治の最終決定権を持つ人物を「治天の君」とよびます。治天の君の地位は白河上皇から鳥羽上皇へと受け継がれました。

 

鳥羽上皇の死後、上皇と関係が悪化していた崇徳上皇治天の君の座をめぐって後白河天皇と対決します。

 

その崇徳上皇と結びついたのが鳥羽上皇やその側近と対立し、事実上失脚していた藤原頼長でした。

 

源氏や平氏は朝廷・貴族に仕える立場で、それぞれの主のために戦います。その意味では、保元の乱は貴族たちの戦いと言えるでしょう。

 

保元の乱後白河天皇の勝利で決着

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保元の乱について書かれた『保元物語

鳥羽上皇の死後、都で「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞が流れます。

 

上皇とは崇徳上皇のこと、左府とは左大臣藤原頼長のことです。彼らが共謀して国を傾ける、つまりクーデタを起こすといううわさが流れたのです。

 

これにもとづき、後白河天皇側が兵を集めたため、拘束されると恐れた崇徳上皇は京都郊外の白河に逃れます。

 

まもなく、藤原頼長も白河で崇徳上皇と合流しました。そして、彼らは兵を集めます。このとき、源為義平忠正らも崇徳側に加わりました。

 

後手に回った崇徳上皇側では、源為義が後白河側への夜襲を提案します。

 

しかし、頼長は興福寺の援軍を待つとしてこの提案を退けました。 

そうこうしているうちに、今度は源義朝平清盛が崇徳側への先制攻撃を主張し、これが採用されます。

 

1156年7月11日未明、後白河方の源義朝平清盛が白河の崇徳上皇方を攻撃し戦いの幕が上がりました。戦いは一進一退でした。

 

崇徳上皇方で最も奮戦したのは源為義です。彼は得意の強弓で次々と後白河側の武士を討ち取ります。

 

しかし、最終的に崇徳上皇方の防衛ラインは突破され保元の乱後白河天皇勝利に終わりました。

 

保元の乱の結果

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讃岐に流され、怨霊と化した崇徳上皇

戦いは後白河天皇の勝利に終わりました。崇徳上皇後白河天皇側に投降したのち、讃岐に島流しにされます。

 

天皇経験者の配流は奈良時代淳仁天皇以来、400年ぶりの出来事でした。

 

藤原頼長は戦いで首に矢を受ける重傷を負います。奈良に逃れていた父の忠実に面会しようとしましたが、乱に無関係な立場を取りたかった父は頼長との面会を拒否します。

 

それから間もなく、頼長は死去しました。これにより摂関家家督は忠通で確定します。

 

後白河天皇側の主力として活動した源義朝平清盛は恩賞として官位の昇進を果たします。

 

しかし、二人の待遇は徐々に差がつき、やがて両者の確執は平治の乱の原因の一つとなりました。

 

また、源為義平忠正らは朝廷の命により反逆者として処刑されます。

 

この時処刑された数が多かったのは源氏でした。平氏に比べると相対的に源氏の勢力が弱体化したといえるでしょう。

 

まとめ 

いかがでしたか?

 

今回は保元の乱についてまとめました。保元の乱崇徳上皇後白河天皇による日本の支配権をめぐる争いでした。

 

これに、藤原摂関家家督争いが加わることで争いの規模が大きくなります。

 

双方とも源氏や平氏といった武士たちを動員し、京都周辺で激しく戦いました。

 

戦いは後白河天皇の勝利でおわります。敗れた崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は敗死しました。

 

3年後、この時の勝者である後白河上皇の近臣同士が争う平治の乱がおきました。

 

これに勝利した平清盛は出世街道を駆け上がり、太政大臣に上りつめます。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

「大西洋三角貿易」とは? 三角貿易の意味や黒人差別との関連をわかりやすく解説!

三角貿易って何?

大西洋三角貿易と奴隷の関係は?

大西洋三角貿易アヘン戦争三角貿易は違うの?

 

このページに来てくれた皆さんは、そんな疑問を持っているかもしれません。

 

大西洋三角貿易とは、17世紀から18世紀にかけてイギリスがおこなった貿易です。

 

イギリスはヨーロッパからアフリカに武器を輸出し、アフリカで黒人奴隷を乗せ、南北アメリカプランテーションに売却しました。

 

そして、この黒人奴隷の「輸出」が現在、アメリカで起きている黒人差別の根源となります。

 

黒人に対する差別は過去のものではありません。

 

2020年5月25日にはミネソタ州ミネアポリスで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警察官に取り押さえられ、手錠をかけられた状態で首を圧迫され死亡しました。

 

こうした白人警察官による黒人への暴力は、かつてのアメリカでは日常的に発生していました。

 

いったいなぜ、このような白人警察官による黒人容疑者への暴力が繰り返されるのでしょうか。

 

の起源はアメリカ大陸にアフリカ系の人々が奴隷として連れてこられた「大西洋三角貿易」にさかのぼることができるでしょう。

 

人間を商品として売買するという非人道的な奴隷貿易である大西洋三角貿易を知ることは、現在のアメリカで起きている黒人差別問題を知るうえで必要な知識ではないでしょうか。

 

奴隷貿易について知りたい方は、こちらのリンクもご参照ください

 

ja.wikipedia.org

www.y-history.net

 

今回は、大西洋三角貿易の背景や内容、貿易によってもたらされた影響についてまとめます。

 

欧米の歴史について知りたい方は、他の記事もどうぞ!

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93より

 

三角貿易とは

三角貿易とは、三つの地域を結ぶ国際貿易のことです。

 

二国間貿易では利益を出しにくい場合、もう一つの国を加えることで貿易の効率を上げることができます。

 

たとえば、大西洋三角貿易の場合、ヨーロッパからアフリカに輸出して利益を上げられる商品は武器です。

 

武器を輸入した沿岸部の黒人部族はは内陸部の黒人部族を襲撃し住民を捕らえます。

 

しかし、ヨーロッパでは黒人奴隷を必要としません。したがって、武器を持ってきた船は高い利益を上げる商品を持ち帰ることができません。

 

そこで、ヨーロッパの船は奴隷を農場労働力として必要としている南北アメリカに運びます。

 

南北アメリカで生産された砂糖や綿花はアフリカに運ぶよりヨーロッパに運んだ方が高値で売ることができます。

 

奴隷を運んだ船は砂糖や綿花をヨーロッパに持ち帰ります。そうすると、船は常に利益率が高い商品を積むことができるのです。

 

この仕組みは19世紀に行われたイギリス・清・インドの三角貿易でも同じでした。

 

大西洋三角貿易の中心を担ったのはイギリス

大西洋三角貿易の主役となったのはイギリス人です。なぜ、イギリスが大西洋の制海権を取ることになったのでしょうか。

 

大航海時代の当初、大西洋はスペインの海でした。中南米を征服したスペインは大量の銀を本国に運びます。スペインの銀船隊はスペインの富の象徴でした。

 

しかし、17世紀以降、オランダやイギリスが台頭すると制海権はオランダやイギリスに移ります。

 

17世紀半ば、イギリスとオランダは貿易の利権などをめぐって激しく戦いました。これが英蘭戦争です。戦争に勝利したのはイギリスでした。

 

こうしてイギリスは大西洋の制海権を手中にし、大西洋三角貿易の主役となったのです。

 

大西洋三角貿易の背景とは

 

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大西洋三角貿易の背景には、大航海時代の始まりと、ヨーロッパ人による南北アメリカ大陸の植民地化がありました。

 

ヨーロッパ人は原住民のインディアンやインディオから土地をとりあげ、大農園を開きます。

 

過酷な労働や白人との争い、白人が持ち込んだ天然痘などの病気が原因でインディオやインディアンたちの人口は激減してしまいます。

 

大航海時代の始まり

 

15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパ諸国の航海技術が一気に発達し、「大航海時代」が始まりました。

 

航海技術が発達したことで、これまで、陸地の近く中心で航行していた船が、陸地を遠く離れた外洋まで航行できるようになります。

 

ヨーロッパの船乗りたちが目指したのは、インドでした。インドにはヨーロッパ人が求める香辛料があったからです。

 

1488年、ポルトガルバルトロメウ・ディアスはアフリカ南端の喜望峰に到達します。

 

アフリカ廻で先を越されたスペインは、コロンブスが提案した西廻り航路でインド到達を狙います。

 

1492年、コロンブスカリブ海サンサルバドル島に到達しました。ここから、スペインによる中南米の植民地化が始まります。

 

南アメリカの植民地化とインディオ人口の激減

中南米に進出したスペイン人たちは、もともとあったアステカ王国マヤ文明インカ帝国などを滅ぼし、中南米をスペインの植民地とします。

 

スペイン人たちは原住民のインディオたちをキリスト教に改宗させる一方、彼らを農園や鉱山の労働力として強制的に働かせました。

 

過酷な環境で働かされたインディオたちはどんどん死んでしまい、あっという間に人口は10分の1以下に激減したといいます。

 

カリブ海で本格的にサトウキビ生産がはじまると、農場主のスペイン人たちは労働力を確保するため、奴隷を欲しがりました

 

アメリカの植民地化

中南米だけではなく、北米にもヨーロッパ人たちがやってきました。北米に進出したのはイギリスとフランスです。

 

最初、イギリス人やフランス人は大西洋の沿岸部を植民地としました。毛皮取引が中心で、商人など少数の人たちが渡ってきただけでした。

 

ところが、イギリス人は家族ぐるみで移住し、大西洋沿岸に強い植民地をつくりあげます。

 

イギリス本国で清教徒革命などの内乱がおき、宗教的に迫害された人々がアメリカにやってきたことも、植民地拡大の理由となりました。

 

イギリスは17世紀から18世紀にかけて、世界各地でフランスと戦います。

 

どちらがより大きく植民地を獲得するかで、イギリスとフランスは何度も戦争しました。

 

戦争の結果、勝ったイギリスは世界各地で広い植民地を手に入れました。

 

1775年、イギリスの植民地だった13州植民地はイギリス本国と税金や貿易などをめぐって対立し、戦争となりました。アメリカ独立戦争です。

 

戦争に勝利した13州植民地は、アメリカ合衆国となりました。

 

アメリカ合衆国は原住民のインディアンと戦い領土を広げます。アメリカ南部ではイギリス系の白人が広い土地を所有する大農園が発達しました。

 

広い農地を手に入れた白人農場主は、労働力として奴隷を欲しがります。

 

大西洋三角貿易の内容とは

 

大航海時代後に、ヨーロッパ人が大西洋沿岸で行った貿易を大西洋三角貿易といいます。

 

ヨーロッパ人(主にイギリス人)たちはヨーロッパの港を出るとき、武器や酒、綿織物などを積み込みました。彼らの行き先はアフリカ大陸です。

 

西アフリカにたどり着いたヨーロッパ人たちは、沿岸部の黒人たちと取引します。ヨーロッパ人たちは黒人たちに武器を与え、内陸部に住む黒人を「狩らせ」ました。

 

ヨーロッパ製の武器で武装した沿岸部の黒人たちは内陸部の黒人との戦いに勝ち、彼らを捕虜として沿岸部に連れてきます。

 

ヨーロッパの商人たちは、彼らのうち、長距離の航海に耐えられる屈強なものを選んで買い取りました。

 

黒人奴隷を乗せた船は「奴隷船」とよばれます。奴隷は「黒い積み荷」としてすし詰め状態で船に詰め込まれます。

 

栄養失調や病気の流行で多くの黒人たちが亡くなりました。

 

黒人たちの中には前途を悲観して自殺する者や、反乱を起こすものもいたので到着する前にかなり多くの人が命を落としたと思われます。

 

奴隷船は死者や病気の感染が疑われる奴隷、病人を海に投げ捨てました。そのため、奴隷船の周囲にはサメがまとわりついていたといいます。

 

南北アメリカにたどり着いた黒人たちは、沿岸部で競売にかけられ、それぞれの農場に連れていかれました。

 

奴隷は人間ではなく道具として扱われ、農場では劣悪な小屋に押し込まれます。このことを描いたのが「アンクルトムの小屋」でした。

 

彼らはサトウキビやコーヒーの農園で奴隷労働をします。北アメリカに運ばれた奴隷たちは、アメリカの南部で綿花栽培をしました。

 

奴隷の労働力によって生み出された安い農産物は、ヨーロッパ人商人の手によってヨーロッパに運ばれ大きな利益を生み出します。

 

大西洋三角貿易が各地に与えた影響

 

大西洋三角貿易は、16世紀から19世紀まで盛んにおこなわれます。大西洋三角貿易は、各地域にどんな影響を与えたのでしょうか。

 

大もうけしたイギリス

イギリスは奴隷貿易を独占し、巨額の利益を上げます。

 

アフリカで買った奴隷をアメリカで売りさばき、アメリカの綿花や砂糖をヨーロッパで高く売り払うことで、イギリスはお金を貯めました。

 

貯めたお金は、産業革命のもとてになります。

 

同じく、大もうけした北アメリカ植民地(白人の農園主を中心に)

 

サトウキビを原料とするラム酒や綿花や砂糖、ラム酒を運ぶ船を作る造船業、船でモノを運ぶ海運業が発達しました。

 

ニューヨークやボストンといった街は、奴隷貿易の港として栄えます。奴隷貿易で蓄えた貯金は、アメリカ独立戦争の資金源となりました。

 

サトウキビの島になってしまった西インド諸島

カリブ海に浮かぶ西インド諸島では、サトウキビ生産が盛んになりました。

 

しかし、サトウキビ以外にこれといった特産品がありません。

 

欧米の砂糖業界の景気次第で、西インド諸島の経済が良くなるか悪くなるか決まってしまうというサトウキビに頼りきりの経済になってしまいました。

 

経済が衰退した西アフリカ

 

1000万人近くの人々が生きたままアフリカからアメリカ大陸に奴隷として送られたといいます。

 

途中で亡くなった人などを含めると、数千万人が奴隷狩りの犠牲になったともいわれます。

 

あまりに多くの人口を失った西アフリカ地域は、経済発展が止まってしまいました。

 

奴隷解放宣言後も続いたアフリカ系住民への差別

 

南北戦争中に出された「奴隷解放宣言」により、アメリカでは黒人奴隷が解放されました。

 

しかし、その後も差別が継続します。特に南部の州では「ジム・クロウ法」とよばれる人種差別的な内容を含む州法が力を持っていました。

 

黒人が白人と平等になってしまえば困ると考えた、南部の白人農園主たちが奴隷解放宣言を骨抜きにするために作らせたといってもよいでしょう。

 

合法的に黒人や有色人種を差別するジム・クロウ法が1964年の公民権法によって廃止されるまで存在していたことは、しっかりと覚えておかなければなりません。

 

アメリカは、良い点もたくさんある国です。

 

しかし、人種差別など日本人にとってなじみがなくても注意しなければならないことが、最近まで行われ、今も続いているということを忘れるべきではありません。

 

歴史を学ぶことで、自分の国や相手の国の良いこと、悪いことを知るのはとても大事なことではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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もう二度と間違えない!安史の乱と黄巣の乱の違いを分かりやすく解説!

安史の乱黄巣の乱って何が違うの?

どっちが先におきたの?

それぞれの乱の登場人物は?

 

このページに来て下さった方は、こうした疑問を持っているかもしれません。

 

安史の乱は唐の中期の755年におきた節度使安禄山による反乱です。

 

黄巣の乱は874年におきた塩の密売商人の王仙芝黄巣による反乱です。

 

今回は、安史の乱黄巾の乱の違いを反乱の範囲や人物、日本とのかかわりなどを中心にまとめます。

 

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安史の乱とは?

安史の乱とは、755年から763年にかけて唐で起きた大反乱のことです。

 

反乱の首謀者は北東部の3節度使を兼ねていた安禄山と彼の部下である史思明です。

 

安禄山は唐の副首都といってもよい洛陽を占領し、大燕皇帝を自称しました。

 

反乱軍の勢いはすさまじく、唐軍は敗退を重ねます。これに驚いた玄宗は都の長安を捨てて守りが固い蜀へと逃れました。

 

その逃避行の途中で兵士の反乱にあり、兵士が要求した楊貴妃殺害を受け入れざるを得なくなります。

 

 反乱は8年にわたって続き、唐王朝は大きなダメージを受けました

 

唐はウイグルの力を借り、ようやっと反乱を鎮圧することができました。

 

反乱の範囲

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安史の乱の関連地図

安禄山の乱安禄山節度使をつとめていた中国北東部から洛陽などの黄河流域、首都長安を含む渭水盆地一帯に広がりました。

 

これは、中国の北半分にわたる広大な範囲です。華北全域を巻き込んだ反乱により唐は大混乱に陥りました。

   

安史の乱の登場人物

唐の皇帝、玄宗

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安史の乱のころの唐の皇帝、玄宗

安史の乱のころの唐の皇帝。安史の乱が起きた時は60歳でした。

 

若いころ、玄宗は非常に有能な君主でした。クーデタで実権を握り父から皇帝の位を譲り受けると矢継ぎ早に国内改革を実行します。

 

若いころ、玄宗が行った政治改革を開元の治といい善政の模範とされました。

 

しかし、40代後半になると玄宗は政治への関心を失います。その時、玄宗の心を奪ったのが楊貴妃でした。

 

玄宗楊貴妃との逢瀬にいそしみ、政治を宰相の李林甫に委ねます。

 

李林甫の死後、宰相の地位に就いたのは楊貴妃の一族である楊国忠でした。

 

玄宗は開元の治で名君とされる一方、後半は楊貴妃におぼれ皇帝としての責務を怠ったと批判されます。

 

安史の乱玄宗の治世後半の失政の結果起きたといってもよいでしょう。 

玄宗の寵姫、楊貴妃

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玄宗の寵姫となった楊貴妃(画面中央)

楊貴妃は719年に生まれました。彼女を寵愛した玄宗とは34歳差です。

 

本名は楊玉環といいます。玄宗の寵愛を受け貴妃の称号を受けたので楊貴妃と呼ばれるようになりました。

 

楊貴妃は歌舞音曲の才に優れ、自ら琵琶を弾いたといいます。

 

陳鴻作の伝奇小説『長恨歌伝』で、楊貴妃は髪やつややかできめの細かい肌、程よい体形で柔らかい物腰だったと評されています。

 

もともとは玄宗の子である寿王李瑁の妃でした。しかし、玄宗楊貴妃を見て一目惚れしてしまいます。

 

そして、玄宗楊貴妃道教の女道士にして息子の嫁という立場でなくさせます。その上で、745年に自分の妃の一人としました。

 

玄宗の寵愛を受けたソグド人武将、安禄山

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反乱の首謀者となった安禄山


安禄山漢民族ではなく、西域出身のソグド人でした。若いころから北方の最前線で勤務し、徐々に昇進を果たします。

 

安禄山はそれだけで満足せず、様々な人物に賄賂を贈って自分の評判を高めました。

 

その結果、玄宗皇帝から3つの節度使に任じられます。

 

節度使は軍隊の司令官のことで、3つの節度使を兼任した安禄山は唐の国内で最大の軍を率いていたことになります。

 

 また、彼は玄宗楊貴妃に取り入るため、楊貴妃の養子になりたいと願い出ました

 

そして、その願いが叶うと、皇帝よりも先に楊貴妃に礼を施し、非礼をとがめた玄宗に「胡人(漢民族ではない異民族)では、母を貴ぶ」と弁明し、かえって彼らの信任を得ました。

   

安史の乱の原因

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安史の乱の原因は安禄山と宰相となった楊国忠の対立です。

 

玄宗安禄山に対する寵愛ぶりを見た楊国忠は、安禄山を自分のライバルとして強く意識し、玄宗に「安禄山は必ず謀反を起こす」という讒言を繰り返しました

 

また、皇太子も安禄山を危険視します。

 

都に部下を置き、常に宮中の動向を監視していた安禄山は繰り返される楊国忠の讒言と皇太子の反感に、次第に身の危険を覚えるようになりました

 

そのため、先手を打って挙兵します。安禄山としては自己防衛だったのかもしれません。

 

安史の乱の結果

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西安に再建された唐代の宮門

安禄山は10万とも20万ともされる軍を率いて都の長安を目指しました。

 

彼の部下は国境警備兵士で唐軍の主力部隊です。そのため、連戦連勝を続けて唐の副首都だった洛陽を攻め落としました

 

ここで、安禄山は燕の建国を宣言し皇帝となります

 

勢いに乗った反乱軍は長安を目指しました。軍事的に長安を守ることができないと判断した玄宗は守りが固い蜀を目指します。

 

その途中で部下たちの反乱に遭いました。部下たちは戦乱の元凶は楊貴妃楊国忠だと主張し、彼らの誅殺を望んだのです。

 

結局、玄宗は部下たちを抑えるため楊貴妃楊国忠の殺害を許可しました。

 

玄宗都落ちした後、皇太子が即位し粛宗となります。粛宗ウイグルの手を借りて反乱軍に立ち向かいました

 

その一方、反乱軍側では内輪もめが発生し安禄山が殺害されます

 

その後、部下の史思明が反乱を引き継ぎましたが唐を倒すことができず、鎮圧されます。

 

安史の乱に関連する文化人

荒れ果てた都で『春望』を詠んだ杜甫

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『春望』の作者、杜甫

杜甫は開元の治の時代に生まれた唐を代表する詩人で、官僚として唐王朝に仕えていました。

 

安史の乱の時、粛宗のもとにはせ参じようとしましたが、反乱軍に見つかり長安にとどめ置かれます。

 

特に拘束されたわけではなかったのですきを見て脱出し粛宗のもとに向かいました。

 

『春望』が書かれたのは長安に抑留されていたころか、粛宗のもとにはせ参じた後と考えられています。

 

国破れて山河在り」というのは、安史の乱で荒廃した長安を現すのにふさわしい表現でしょう。

 

この五言律詩は日本人にも愛され、現代も多くの国語の教科書に掲載されています。

 

玄宗皇帝と楊貴妃について詠んだ白居易の『長恨歌

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長恨歌」の作者、白居易(白楽天

白居易安史の乱後に生まれた詩人で、字(あざな)は楽天です。そのため、楽天ともよばれます。

 

彼が生きた時代は唐が衰退から立ち直るため改革を行っていた時代でした。彼の代表作が『長恨歌です。

 

長恨歌玄宗楊貴妃の話をもとにして作られた漢詩です。

 

ただし、物語の主人公は漢の武帝と李夫人に置き換えられています。

 

これは、唐の皇帝である玄宗を批判すると罰せられる可能性があったからだと考えられます。

 

長恨歌の本文について知りたい方は、こちらをどうぞ。

長恨歌 - Wikipedia

 

安史の乱と日本の関係

安史の乱を日本に伝えたのは派遣されていた遣唐使でした。

 

渤海国(中国東北地方にあった国)経由で帰国した遣唐使は、安禄山の乱の発生と首都長安の陥落など衝撃的な知らせを朝廷にもたらしました。

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藤原仲麻呂の屋敷である田村第の跡地

そのころ、朝廷で政治の実権を握っていたのは藤原仲麻呂でした。

 

彼は官名を問う風に改めるほど、唐びいきの政治家だったので、安禄山の乱にとても大きな衝撃を受けたかもしれません。

 

この乱の余波が日本に及ぶのを懸念した藤原仲麻呂大宰府に防備の強化を命じます。

 

また、鎌倉時代初期に成立した平家物語』の冒頭で、君主をおろそかにした逆臣として「秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の(安)禄山」と紹介されています。

 

安禄山の乱の400年後でも反逆者の代表として語り継がれるというのは、驚くべき影響力ではないでしょうか。

   

黄巣の乱とは?

黄巣の乱は875年に、塩の密売商人だった黄巣らが中心となって起こした農民反乱です。

 

反乱は10年近くにわたって続き、唐の衰退に拍車をかけます。

 

そして、唐は黄巣の元部下で節度使となっていた朱全忠によって滅ぼされます。

 

反乱の範囲

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黄巣の乱の関連地図

黄巣の乱華北だけではなく中国南部も含む唐全土を舞台とした大反乱です。

 

黄巣率いる反乱軍は南部沿岸地帯の貿易都市である広州を襲撃し、富を蓄えていたイスラム商人やユダヤ商人を殺害してその富を奪いました。

 

勢力を拡大した反乱軍は唐の都である長安を攻め落とします。皇帝は玄宗と同じく蜀に逃れます。

 

その後、黄巣に見切りをつけた朱温が唐に投降し、節度使李克用とともに黄巣の乱を鎮圧しました。

 

そして、朱温は名を朱全忠と改め907年に唐を滅ぼします。

 

黄巣の乱の登場人物

反乱指導者、王仙芝と黄巣

安史の乱が起きたことで、唐の政治システムは大きく変化しました。

 

収入源を失った唐王朝は税法を租庸調制から両税法に変更し、塩の専売制度を行います。

 

塩は人の生活に必要不可欠です。塩の専売制度は唐王朝に莫大な利益をもたらしました

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黄巣の郷里である山東省菏沢市にある百寿坊


その一方、国による塩の専売をかいくぐる密売商人も現れました。

 

反乱に指導者となった王仙芝黄巣はそうした専売商人たちの一員でした。

 

黄巣が塩の密売商人となったのは国家公務員試験にあたる科挙に何度も失敗したからでした。

 

その後、唐王朝が密売商人の摘発が進められると、彼らは塩の密売で築き上げたネットワークを生かして反乱を起こします。

 

巨大化した反乱軍を弱体化させるため、唐王朝は彼らに官職を与えて懐柔しようとしました。

 

王仙芝はこれに応じようとしますが、黄巣は反対。唐王朝の思惑通り、彼らは分裂しました。 

 

ところが、王仙芝が唐王朝の謀略によって暗殺されると、反乱軍は黄巣の下で一本化され、さらに強大化してしまいました。

 

独眼竜の異名を持つ唐の節度使、李克用

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沙陀族が根拠地とした中国の山西省

指揮系統が一本化され、かえって勢力を増した黄巣軍は唐の都長安を攻め落とします。

 

皇帝の僖宗は蜀に逃れ、トルコ系の沙陀族に援軍を求めます。

 

これを受け、沙陀族の長だった李克用は唐軍を率い長安を攻撃、奪還に成功しました。

 

李克用は生まれつき片目が斜視だったようで不自由でした。そのため、「独眼竜」の異名を持ちます

 

彼が率いる軍はとても勇猛で黒一色に軍装をしていたことから、鴉軍(あぐん)とよばれ恐れられます

 

長安の戦いで完敗した黄巣軍は鴉軍を見ただけで浮足立ったといいます。

 

黄巣に見切りをつけた部下、朱温

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唐を滅ぼし、後梁を建国した朱全忠

朱温黄巣の乱に参加した人物です。長安陥落後も、各地の節度使と戦い勇名を馳せました。

 

李克用の参戦などで黄巣軍が劣勢となると、黄巣が派遣していた監視役を殺害し、唐軍に投降します。

 

その後、朱温は黄巣軍を滅ぼすのに活躍しました。その功で朱全忠」の名を唐王朝から与えられます。

 

黄巣が弱体化した後、李克用との激しい権力闘争に勝ち抜いた朱全忠は、皇帝の昭宗を殺害し、あとを継いだ最後の皇帝である哀帝から禅譲を受けることで新たに後梁を建国しました。

   

黄巣の乱の3つの原因

 

黄巣の乱の原因は大きく分けて3つあります。1つ目は藩鎮(力を増し、行政権も行使した節度使)どうしの内戦です。これにより、地方は大きく疲弊しました。

 

2つ目は中央政府の権力争いです。宦官や官僚が権力をめぐって激しく争いました。そして3つ目は民衆からの過酷な収奪です。

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たびたび中国の農民を苦しめてきたトノサマバッタ

唐王朝の政治に対し民衆が強い不満を持っていた時に、河北一帯をイナゴが襲いました。

 

生活苦に陥った人々は田畑を捨て群盗となりました。こうした人々を黄巣らが結びつけることで大反乱に発展させました。

 

黄巣の乱の結果

黄巣軍がもっとも強い力を誇ったのは長安を攻め落とした880年です。

 

その後、僖宗の救援要請を受けた李克用が援軍として駆けつけると、形勢が逆転します。

 

流れが決定的となったのは朱温の裏切りでした。

 

長安を追い出された黄巣はふるさとの山東半島に逃げのびようとします。

 

しかし、その逃避行の途中で部下の裏切りにあい殺害されてしまいました。

 

黄巣の乱唐王朝の弱体化を決定的なものとし、朱全忠による新王朝建国の下準備となります

 

黄巣の乱と日本の関係

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遣唐使に任命されながら、宇多天皇に中止を進言した菅原道真

黄巣の乱に関連する人物として菅原道真がいます。道真は894年に遣唐使に任命されました。

 

しかし、2つの理由をあげて遣唐使を中止するべきだとする意見書を出します。

 

一つは、黄巣の乱後も唐王朝が混乱し、衰退がはなはだしいことでした。

 

もう一つは遣唐使の航海が非常に危険だったということです。

 

この道真の意見は採用され、道真の派遣は中止となりました。以後、日本の朝廷が遣唐使を派遣することはなくなりました。

 

まとめ

 

今回は、安史の乱黄巣の乱の違いについてまとめました。

 

安史の乱は755年に安禄山が起こした反乱です。玄宗は都を捨て、逃げる途中で楊貴妃を見殺しにせざるを得なくなりました。

 

唐軍は単独で安禄山に勝てなかったのでウイグル人の支援を受けて鎮圧します。

 

その一方、黄巣の乱は875年に塩の密売商人である王仙芝や黄巣が起こした反乱でした。

 

王仙芝の死後、黄巣が反乱軍を引き継ぎ、一時は長安を占領するほどの勢いを示します。

 

しかし、沙陀族の李克用の力を借りて唐軍は黄巣に勝利します。

 

ところが、投降した黄巣の元配下の朱全忠が李克用との権力闘争に勝利し、唐王朝を滅ぼします。

 

この記事を見て、少しでも「わかった」と思っていただけたら幸いです。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

   

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