「永楽帝ってどんな人?」
「永楽通宝とのかかわりは?」
このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。
永楽帝は明の初代皇帝となる洪武帝(朱元璋)の4男として生まれました。
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洪武帝の死後、永楽帝は2代皇帝となっていた甥の建文帝と戦い、帝位を簒奪しました。
皇帝となった永楽帝は鄭和の南海大遠征やモンゴル討伐を成功させ威信を高めます。
その一方、秘密警察を作って反対派を容赦なく弾圧しました。
今回は優秀な軍人・政治家と容赦ない独裁者の二つの顔を持つ永楽帝について紹介します。
永楽帝ってどんな人?
永楽帝のプロフィール
永楽帝は1360年に明の初代皇帝である洪武帝の4男として生まれました。
本名を朱棣(しゅてい)といいます。
幼いころから高い記憶力を誇り、一度読んだ本の内容は忘れませんでした。
1380年、朱棣は燕王(以後、燕王)となり、対モンゴル戦争の拠点である北平(今の北京)に赴任します。
燕王はモンゴルとの戦いでたびたび武勲をあげ、父を満足させました。
ところが、洪武帝が1398年に亡くなると、燕王の立場は微妙なものとなります。
2代皇帝に即位した建文帝と側近たちは、強大な軍事力を持つ燕王を警戒しました。
燕王はやがて自分が粛清されるのではないかと考え、先手を打って挙兵(靖難の変)。
建文帝を倒して自ら皇帝となりました。(以後、永楽帝)
即位後、永楽帝は南京から北京に遷都し、モンゴルやベトナムに出兵して領土を拡大します。
さらに、宦官の鄭和に大艦隊を与え、東南アジアやアフリカをめぐらせる「鄭和の南海大遠征」を実行し、明の威信を高めました。
1424年、永楽帝は5度目のモンゴル遠征のさなかに亡くなります。
享年65歳。
彼の亡骸は北京の北西にある十三陵に葬られました。
優秀な武人・政治家
その証拠に、彼は燕という重要地点を与えられました。
燕は現在の北京周辺の地域のことで、対モンゴル戦争では最前線といってもよい場所です。
モンゴルは、中国から北に退いたといっても強敵であることに変わりありません。
強敵と相対した永楽帝は、明軍の中でも精鋭部隊を指揮。
モンゴルとの戦争でたびたび勝利しました。
また、皇帝即位後は内閣大学士の制度を新設するなど、洪武帝の仕組みを補完する制度を考案。
さらに、文化事業にも熱心で『永楽大典』や『四書大全』『五経大全』など朱子学の整備に努め、優秀な管理を登用する科挙試験に役立てます。
文武両道の活躍を見せたといってよいでしょう。
クーデタ(靖難の変)で帝位を簒奪
洪武帝の死後、2代皇帝となった建文帝の側近たちは、各地に封じられた洪武帝の子たち(建文帝からみれば叔父たち)を取り潰そうとします。
彼らは洪武帝の5男、7男、13男から王位をはく奪し庶民に落としました。
また、12男は自殺に、18男は流刑に追い込まれます。
兄弟たちが次々と陥れられる中、粛清の手は燕王周辺に伸び始めました。
「このままでは、自分も粛清される。そのくらいなら、挙兵して天下を狙うべきだ!」
追い詰められた燕王がそのように考えても、何の不思議もなかったでしょう。
1399年、燕王は麾下の兵を率いて挙兵します。
このとき、皇帝に対する反逆といわれないため、燕王は「君側の奸を討つ」として挙兵します。
燕王は自らの軍を「国を靖んじ、難を鎮める軍」という意味で靖難軍と称しました。
それで、この戦いは靖難の役とよばれるようになります。
数万の燕王軍に対し、皇帝軍は50万以上。
兵数差でいえば勝負になりません。
しかし、燕王軍はモンゴルと戦い続けた精鋭ぞろい。
しかも、燕王はモンゴル相手に武勲を重ねた名将でした。
皇帝軍は圧倒的な兵力差を生かせず後退を重ね、ついに、首都南京が攻め落とされます。
建文帝は南京陥落の混乱の中で行方を絶ちました。
勝利した燕王は皇帝となり、死後、永楽帝と呼ばれます。
鄭和に南海遠征を命じる
永楽帝は1405年から1430年にかけて、東南アジアやインド、アフリカ沿岸に大艦隊を派遣しました。
この艦隊を率いたのは、イスラーム教徒で永楽帝に仕える宦官だった鄭和です。
詳しい経歴は不明ですが、靖難の変で武功を立てたことが知られています。
鄭和率いる明の艦隊は200隻以上、2万人以上の大艦隊でした。
のちの大航海時代にコロンブスが率いた船隊が3隻、60名だったことと比べると、鄭和の艦隊がいかに空前絶後の規模だったかがわかりますね。
鄭和の艦隊を見た東南アジアやインド、アフリカの国々の王は次々と貢物を献じたといいます。
もしかしたら、日本人にとっての「黒船」に近い印象だったかもしれません。
鄭和の南海遠征は7度にも及び、訪れた国々に明の国威を示しました。
永楽帝のエピドード3選!
秘密警察をつくり、反対派を粛清
1420年、永楽帝は宦官を長とする東廠(とうしょう)を設置しました。
東廠の任務は陰謀の摘発から、市井の噂の収集まで様々な情報を集めることでした。
皇帝直属のスパイ組織といってもよいですね。
永楽帝は東廠をつかって情報を集め、批判勢力を弾圧・粛清しました。
永楽帝が秘密警察を作ったのは、クーデタでの政権奪取という弱みがあったからかもしれません。
のちに、この東廠は明を弱める原因の一つになりました。
明の後半に現れた宦官の魏忠賢はもとは無頼の徒でしたが、権力を得るため自ら望んで宦官となります。
そして、永楽帝が作った東廠の長官として権勢をふるいました。
魏忠賢による官僚たちへの弾圧は常軌を逸しており、明滅亡の一因となります。
南京から北京に遷都
皇帝に即位した永楽帝は都を南京から北平に移します。
都となった北平は北京と改称されました。
北京は燕王だった時代の永楽帝の本拠地であり、彼にとって気心が知れた土地です。
遷都を決めた永楽帝は北京に壮麗な宮殿を建造しました。
それが、今に残る紫禁城です。
現在の紫禁城は清の時代のものですが、その原型は永楽帝により作られました。
信長も採用?日本に影響を与えた永楽通宝
永楽通宝は永楽帝の時代につくられた明の銅銭です。
経済が発展し、貨幣が必要となっていた日本は日明貿易などを通じて大量の中国銭を輸入します。
永楽通宝もこの時輸入されました。
経済を重視し、永楽通宝を自分の旗にしてしまった戦国大名がいます。
かの有名な織田信長。
彼は、黄色地に黒で永楽通宝を描かせた旗を織田軍の旗の一つとして採用しました。
理由は定かではありませんが、経済を重視した信長らしいですね。
永楽帝の同時代人とは?
中央アジアの覇者ティムール
永楽帝が活躍した14世紀後半、中央アジアの覇者だったのがティムールです。
ティムールはサマルカンドを都とし、中央アジアから西アジアにかけて支配。
モンゴル帝国の後継者を自任するティムールは、モンゴルを中国から追い払った永楽帝を敵視していました。
オスマン帝国を叩くことで西方を安全にしたティムールは、1404年に明に向けて遠征を開始します。
ところが、遠征の途中でティムールは亡くなってしまいます。
歴史にifはありませんが、ティムールと永楽帝、二人の英雄の対決は見てみたかった気がしますね。
室町幕府を開いた足利義満
足利義満は南北朝の統一を成し遂げ、室町幕府の最盛期を作った人物でした。
有力大名を武力で抑え、政治を安定化させます。
義満は日明貿易を活発に行うことで不足する財源を補おうとしました。
鎌倉幕府と室町幕府の財源の違いを知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
義満が始めた日明貿易は文化交流の役割を果たします。
日本に入ってきた明の文化はやがて北山文化や東山文化の一部となりました。
ドラマ『大明皇妃』
ドラマ『大明皇妃』は、明の前半を扱った中国の歴史ドラマです。
ドラマの始まりは靖難の変。
建文帝から永楽帝、洪煕帝、宣徳帝、正統帝までの時代を描いた長編ドラマです。
主人公の女性は、明王朝を何代にもわたって支えました。
とにかく、最近の中国の歴史ドラマはすごい!
見ていて、ついつい引き込まれてしまいました。
個人的には、ベテラン俳優たちの重厚な演技がとても素敵に思えます。
華流はちょっと…と敬遠することなく、一度見てほしいなと思い紹介しました。
まとめ
いかがでしたか?
今回は明の3代皇帝である永楽帝についてまとめました。
優秀な武人・政治家でありながら、秘密警察を使った反対者の弾圧を行う非常な独裁者という一面を併せ持っていた人物です。
彼が生きた14世紀後半から15世紀前半は鄭和の南海大遠征やティムールの勢力拡大、足利義満による南北朝の統一などドラマチックな時代でした。
世界史上でもとても重要な時代で、面白い時代なので取り上げました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。