「朱元璋はどんな顔?」
「朱元璋はどうやって成り上がったの?」
このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。
朱元璋は14世紀後半の元末に活躍した人物で、農民反乱の中から頭角を現し出世しました。
その出世には彼の「顔」が深くかかわっていました。
大勢力を築き上げた朱元璋は農民反乱を鎮圧する側に回り、江南を中心に勢力を拡大します。
そして、居並ぶ群雄との戦いに勝利し弱体化していた元王朝を北京から追放。あらたに明を建国します。
しかし、建国後はすさまじい粛清を行い権力基盤を固めました。
今回は「異相」で貧農からの下剋上を成し遂げた朱元璋についてまとめます。
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農民から成りあがった朱元璋と劉邦
朱元璋は中国史上、最も低い身分から下克上を果たした人物です。
漢の高祖劉邦でさえ、自作農の家の子でした。朱元璋は、貧農で、しかも乞食坊主にまで身を落とした末の逆転劇です。
朱元璋がチャンスをつかんだきっかけは、彼にしかない「異相」を評価されたことでした。朱元璋が頭角を現すまでを見てみましょう。
貧農に生まれた朱元璋
朱元璋は濠州、現在の安徽省北部に生まれました。朱元璋の家は貧しい農民で、日々の食にも事欠く暮らしだったといいます。
朱元璋が生まれた元王朝の末期、国の政治はめちゃくちゃになっていて、ひとたび飢饉や干ばつが起きれば、多くの人がなすすべなく死んでいきました。
朱元璋が幼いころ、病や飢えのため家族がすべて死んでしまいます。身寄りのない朱元璋は皇覚寺の托鉢僧となりました。
托鉢僧といえば聞こえはいいですが、要するに、乞食坊主で、かろうじて毎日の食を托鉢出て命をつなぎます。
朱元璋と同じく、農民から皇帝になり天下を取った漢の劉邦
中国の歴史上、農民から天下を取った人物は2人。一人は明の朱元璋、もう一人は、漢の高祖劉邦です。
劉邦は漢の時代に自作農の子として生まれました。農民の子でありながら農作業が大嫌い。
秦の地方役人である亭長になりますが、工事現場に人足を連れて行くのに失敗し、自分自身も逃亡してしまいました。
その後、劉邦は蕭何や張良、韓信といった優秀な人材に支えられ、楚の項羽との戦いに勝利。漢王朝の初代皇帝になりました。
朱元璋は貧しいながらも寺にいたので読み書きはできました。
もしかしたら、朱元璋は『史記』などの古典に目を通したかもしれませんね。
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人と違う顔で出世した朱元璋
紅巾の乱に参加した朱元璋は反乱軍内部でメキメキと頭角を現します。
かつて、南朝の都がおかれた建康を攻め落とし本拠地を得ると、最大のライバルである陳友諒に鄱陽湖の戦いで勝利し江南を統一します。
地盤を固めた朱元璋は、北伐を開始し、元王朝を万里の長城の北に追い払いました。
元末に起きた紅巾の乱
元の時代、漢民族の間で大きな力を持った宗教団体がありました。その名は白蓮教。
白蓮教は極楽浄土に往生することを願う浄土教をベースとした宗教でしたが、そこに弥勒菩薩への信仰やマニ教が加わることで、新たな宗教となります。
白蓮教徒たちは、世の中が乱れたとき、弥勒菩薩の生まれ変わりがあらわれ、人々を救済してくれるとときました。
弥勒菩薩の下生は56億7千万年後とされますが、いつからとはいわれません。
だから、「今が、56億7千万年後で、自分が弥勒菩薩の生まれ変わりだ!」と主張することも可能だったんですね。
1351年、元王朝が農民達に黄河の氾濫で決壊した堤防を無償で修築せよと命じられ、農民達がキレました。
農民達は白蓮教のリーダー韓山童をおしたてて、反乱を起こします。これが、紅巾の乱です。
反乱軍は頭に紅い頭巾をかぶっていたので、紅巾の賊と呼ばれます。
紅巾の乱は全国のに拡大。乞食坊主だった朱元璋も紅巾の乱に参加します。
異相でチャンスをつかみ、本拠地を確保
反乱軍に参加した朱元璋は、地元の濠州で挙兵した郭子興の軍に参加しました。
最初、朱元璋はスパイとして間違われ処刑されそうになります。
このとき、首領の郭子興は朱元璋の異相が気に入り、幹部として取り立てました。いい方を変えると、あまりの「ブサイク」が相手に強いインパクトを与えたのでしょう。
反乱軍の部将として活動する中で、朱元璋は彼の仲間となる徐達や李善長らと出会います。
李善長は、朱元璋と漢の高祖劉邦がともに農民出身であることに着目。朱元璋に、劉邦のようにふるまうことを勧めました。
郭子興の死後、郭軍団を掌握した朱元璋は大都市である建康を制圧し、自分の本拠地とすることに成功。
朱元璋は占領した建康を応天府と改名しました。
『三国志演義』の赤壁の戦いのモデルとなった鄱陽湖の戦いで勝利
このころ、江南は応天府の朱元璋と湖北省や江西省を本拠地とする陳友諒、蘇州を本拠とする張士誠の3人が三巴になって争っていました。
なかでも、もっとも強大な陳友諒は張士誠と手を組み朱元璋を滅ぼそうとします。
1361年、陳友諒は朱元璋の本拠地である応天府に攻め込みました。
このとき、朱元璋は部下の一人である康茂才を偽って陳友諒に投降させます。
康茂才は、わざと陳友諒に応天府攻撃をせかしました。康茂才の偽りの進言に惑わされ、拙速な応天府攻撃を行ってしまい失敗。
大損害をこうむって西へと引き上げました。
1363年、形勢挽回を図った陳友諒は、大型戦艦を主力とする水軍を率い、朱元璋に決戦を挑みます。
朱元璋は陳友諒と決戦すべく鄱陽湖に出撃しました。朱元璋率いる船団は、陳友諒に比べ小型でしたが、火力では優れていました。
はじめ、戦いは陳友諒の優位に進みます。
しかし、徐々に遠征の疲れが出始めた陳友諒の船団に対し、機動力と火力で勝る朱元璋の船団が襲い掛かり、陳友諒の1隻1隻、炎上させていきます。
戦局が決定的となったのは、東北の強風が吹いた瞬間でした。
朱元璋は7隻の決死隊を陳友諒の船団に突入させます。風を避けるために密集していた陳友諒の船団はまたたくまに火だるまになりました。
この辺の描写は、『三国志演義』の赤壁の戦いとかなり似ていますね。
編者の羅漢中は朱元璋の同時代人ですから、鄱陽湖の戦いのことを伝え聞いていたのかもしれませんね。
陳友諒は鄱陽湖の戦いで戦死。戦いに勝利した朱元璋は蘇州の張士誠も滅ぼし江南を統一します。
どうも、このあたりで朱元璋は白蓮教徒と縁を切り、弾圧に転じたようですね。
支配者の立場に立てば、クーデタを容認しかねない白蓮教はとても危険な宗教だったので、朱元璋が弾圧に転じたのも不思議ではありません。
北伐の開始と中国統一
江南を統一した朱元璋は1368年に皇帝として即位します。国号は明と定めました。
朱元璋はいまだに華北を制している元と雌雄を決するため、歴戦の勇将徐達に命じて北伐を開始させました。
徐達率いる北伐軍は黄河流域の中原を制圧。一気に、元の首都大都に迫りました。
元の皇帝である順帝は大都を放棄し、モンゴル高原に撤退します。北に逃れた元は北元と呼ばれるようになりました。
朱元璋は国内の対立勢力や雲南方面、北元の残存部隊などに勝利し、明の天下を盤石のものとしていきました。
統一後の粛清
元を追い出し、中国を漢民族の手に取り戻した朱元璋は新たな政治システムを作り上げます。
それは、政府機関にあたる六部を全て皇帝に直結させる皇帝専制のしくみです。
全権力を皇帝に集中させた朱元璋は、少しでも怪しいそぶりを見せる臣下たちを次々と粛清します。
その始まりは1376年の空印の案です。地方官の不正をただすことを口実に、力を持ち始めていた官僚たちを更迭しました。
次の胡惟庸の獄では宰相の胡惟庸らを謀反の罪により処断します。
その後も初代宰相となった李善長をはじめとする建国の功臣たちも次々と粛清されていきました。
さいごに
朱元璋は、一回の乞食坊主から明を建国し皇帝の座に上り詰めました。
農民が、龍にもたとえられる皇帝になることなど、滅多にあることではありません。
即位後も、朱元璋は非凡さを見せますが、同時に残虐な性質もあらわになりました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。