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傍若無人の語源となり、秦王政(後の始皇帝)暗殺を試みた荊軻とは?

このページを訪れた人は、

 

荊軻(けいか)って誰?」

「どうやって始皇帝を暗殺しようとしたのか?」

「傍若無人荊軻は関係があるの?」

 

このページを訪れた人は、そういった疑問を持っているかもしれません。

 

荊軻は古代中国の戦国時代に生きた「刺客」、つまり暗殺者です。燕の太子丹の依頼を受けた荊軻は燕に亡命していた秦の将軍樊於期(はんおき)の首を持参して秦王政(のちの始皇帝)に謁見し、暗殺を試み失敗しました。

 

なぜ、燕の太子丹は荊軻始皇帝暗殺を依頼したのでしょうか?また、荊軻とはいったいどんな人物だったのでしょうか?そして、どうやって荊軻は警固が厳重を極めた秦王政に近づき、暗殺の一歩手前まで追い詰めたのでしょうか?

 

今回は、始皇帝をあと一歩のところまで追い詰めた荊軻についてまとめます。

 

古代中国史に興味がある方はこちらの記事もどうぞ!

 

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 荊軻とは

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史記』の著者、司馬遷

引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ab/Si_maqian.jpg


荊軻について詳しく書き記したのは『史記』の編纂者である司馬遷です。司馬遷は、荊軻をはじめ戦国時代の著名な暗殺者5人をとりあげ「刺客列伝」を書きました荊軻の経歴はこの「刺客列伝」の内容によります。

 

荊軻は現在の河南省の一部にあたる衛の国に生まれました。衛は歴史の古い国でしたが国力は弱く、荊軻の時代には韓や魏の属国状態となっていました。

 

「刺客列伝」によると荊軻は若いころから読書と酒を好み、諸国を放浪して遊説術を学んだといいます。放浪の旅から戻った荊軻は衛の君主に謁見しましたが、衛の君主は荊軻の策を採用しませんでした。

 

祖国の官僚になることをあきらめた荊軻は街中で酒を飲みつつ、様々な人物と交わりました。酒が入ればケンカ沙汰になりやすいのは古今東西の常です。荊軻は剣術論や博打などについてケンカになりかけますが、そのたびに争いを避けます

 

荊軻とケンカした者たちは荊軻のことを臆病者とそしりましたが、荊軻としては些細なケンカで命をかけるような真似をしたくなかったのでしょう。

 

荊軻の行動が語源となった「傍若無人」とは

 各地を放浪した荊軻は中国北東部の国である燕にたどり着きました。燕は現在の北京周辺を支配する国です。そこで荊軻高漸離(こうぜんり)という人物と親しくなりました。高漸離は筑とよばれる弦楽器の名手です。

 

荊軻は燕の街の中で高漸離と酒を飲んでは筑の演奏でともに歌い、ときに大声で泣いたといいます。その様子はまるで周囲に人がいないかのようでした

 

「傍らに人無きが若し」司馬遷は記しています。このエピソードから、他人のことなどまるで気にかけず、遊び騒いで勝手にふるまうことを「傍若無人というようになりました。

荊軻が生きた古代中国の春秋・戦国時代

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春秋時代の中国

引用: 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/a/ab/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3.PNG


覇者が諸国をリードした春秋時代

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春秋時代の覇者の一人、斉の桓公

引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/92/Qihuangongguanzhong.jpg

 

古代の中国は「殷」や「周」とよばれた国を中心に緩やかにまとまっていました。紀元前770年に周が異民族に敗れ都を東に移すと周の権威が一気に衰えます。

 

かわって力をつけたのが各地を支配する諸侯たちでした。諸侯たちのうち、リーダー格の人物を覇者といいます。こうして周王にかわって覇者が諸国をリードする春秋時代が始まりました。かの有名な孔子春秋時代の人物です。

実力主義の戦国時代に台頭した戦国の七雄

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戦国の七雄の地図

引用:

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/ZH-%E6%88%98%E5%9B%BD%E4%B8%83%E9%9B%84%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg/1024px-ZH-%E6%88%98%E5%9B%BD%E4%B8%83%E9%9B%84%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg

 

春秋時代は血筋が重んじられ、周の王を尊ぶ尊王攘夷の考えが強い時代でした。しかし、戦乱が続くと血筋よりも実力が重視されるようになります。

 

紀元前453年、春秋時代の有力諸侯だった晋では有力家臣である韓氏、魏氏、趙氏の力が強まり、晋を三分割して支配しました。こうして、強いものが上にのしあがり、弱い主君や弱い国を凌ぐ下剋上の風潮が世の中を支配する戦国時代が始まります。

 

最終的に、七つの国が大国として成立しました。これを戦国の七雄といいます。戦国の七雄とは、北東部の燕、山東半島の斉、晋の北部の趙、晋の中部の魏、晋の南部の韓、長江流域の楚、西方の異民族を抑えた秦の七国です。

 

 

秦の強大化

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秦を強大化させた商鞅

戦国の七雄の中で、圧倒的な力を持ったのが西方の秦でした。秦の支配する地域は中国全体から言えば西の辺境です。なぜ、秦が力を強めたのでしょうか。

 

秦の国力を飛躍的に高めたのは商鞅という人物です。商鞅は法を中心とする法治国家として秦を再編します。商鞅は厳しい法律を課す一方、身分が低くても功績をあげれば出世できる仕組みを整えます。商鞅の改革により秦は国王の権力が非常に強い国となりました。

 

秦王政による六国征服

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始皇帝(秦王政)

引用:

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/27/Qinshihuang.jpg/800px-Qinshihuang.jpg
 

紀元前247年、秦の国で13歳の若き王が即位しました。のちに始皇帝と呼ばれる嬴政(えいせい)です。母親の趙姫に寵愛された嫪毐(ろうあい)が起こした反乱を鎮圧すると、宰相の呂不韋を退け自ら政治をおこないます。

秦王政は李斯をはじめとする秦の国以外の出身者を積極的に登用することで国力を強めました。国力を強めた秦は周辺諸国を次々と併合します。荊軻が滞在していた燕は、秦の侵攻を避けるため太子の丹を人質として差し出します

秦王政の暗殺計画

 

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始皇帝墓所ちかくに埋められていた兵馬俑

引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/Xian_museum.jpg/1280px-Xian_museum.jpg

太子丹の秦国脱出

人質として秦の都咸陽に滞在していた丹は、かつて趙国に人質に出されたことがあり、その時に秦王政と面識がありました。その時のよしみでよく扱ってくれるだろうと期待していましたが、丹の期待は裏切られてしまいます。

 

秦王政に冷たくあしらわれた太子丹は秦国を脱出して燕に帰ってしまいました。このままでは、秦に攻められると考えた太子丹は重臣に秦の打倒を相談します。しかし、重臣は秦にはかなわないから抵抗すべきでないと説きます。進退に窮した太子丹は大いに悩みました。

 

燕と秦の間にあった趙が秦に攻められ滅亡すると、秦は燕をたびたび攻めました。国力では秦にかなわない燕は滅亡の危機に瀕します

 

秦王暗殺計画の準備

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匕首のイラスト

引用:フリー画像(イラストAC)
 

追い詰められた太子丹は、燕の有力者田光に秦王政の暗殺を相談します。田光は最適な人物がいるとして荊軻を推挙しました。この時、太子丹は「くれぐれもご内密に」と田光に余計な念押しをしたため、疑われていると感じた田光はこの話を荊軻に伝えた後で自害します。

 

荊軻から田光の最期を聞いた太子丹は、荊軻に正式に秦王政の暗殺を依頼します。この時、太子丹は荊軻のために大金を出して暗殺用の匕首を入手します。その匕首に毒を塗って死刑囚を試し切りしたところ、全員が毒によって死にました。

 

荊軻は、用心深い性格の秦王政に近づくための方法を考えます。そして、秦王があってもよいと思えるほどの魅力ある手土産を2つ用意しようと考えます。

 

一つは、燕でもっとも豊かな督亢(とくこう)の地を献上すること。もう一つは燕に亡命してきた樊於期(はんおき)将軍の首です。太子丹にそれを告げると、自分を頼ってきた樊於期の首を差し出せないという答えでした。

 

そこで、荊軻は樊於期のところの行き、樊於期に事情を説明します。樊於期は秦に残してきた一族は秦王によって皆殺しにされたため、その恨みを晴らすためならばと自害して荊軻に首を差し出しました。

荊軻の旅立ち

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横山大観作「風蕭々兮易水寒」

引用:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/390141
 

荊軻は秦王暗殺のパートナーとして古くからの友人を呼んでいました。しかし、その友人がなかなか到着しません。すると、太子丹がなかなか出発しようとしない荊軻に対し、怖気づいてしまったのではないかと疑い始めました。

 

やむなく、荊軻は太子丹がつけた秦舞陽を供として秦に向けて旅立ちました。太子丹らは荊軻を易水まで見送ります。この時、見送りの人々は荊軻が生きて還れないと考えていたため喪服である白装束で経過を見送ります

 

この時、荊軻は「易水歌」とのちによばれる別れの詩を詠じます

 

風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず

 

風が物寂しく吹き、易水の水は冷たい。覚悟を持った壮士(勇ましい男)は、一度去ったら(仕事を成し遂げるまで)二度と戻らない。

 

 

秦王政と荊軻の対決と荊軻の死

 

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秦王政を殺害しようと追いかける荊軻

引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d3/Jingkeciqinwang.png

荊軻は秦舞陽をともなって秦の都咸陽にたどり着きます。督亢の地図と樊於期の首を持参した燕の使者がやってきたことを知った秦王政は大いに喜び謁見を許します。

 

秦王政の宮殿に入ると、秦舞陽がガタガタと震えだしてしまいました。不審に思った秦の廷臣が「なぜ、震えている」と尋ねます。すると、荊軻は「田舎者ゆえ、天子の前で恐れおののいているからです」と平然と答えて疑いをかわしました。

 

秦王政のすぐ近くまでやってきた荊軻は、督亢の地図を少しずつ開きます。そして、地図が開き終わると、あの毒を塗った匕首が現れました。荊軻は秦王政の袖をつかんで、一突きにしようとします

 

しかし、秦王政の袖が引きちぎられ、かろうじて秦王政は匕首をかわしました。逃げる秦王、追う荊軻。二人は謁見のまで追いかけっこをします。

 

護衛の兵士たちは武器を持ったまま謁見の場に上がることを許されていなかったので、誰一人荊軻を阻む者はいません。秦王政は長剣を帯びていましたが、慌てていてうまく抜くことができません。

 

その時、侍医の夏無且(かむしょ)が薬箱を荊軻に投げつけました。それに荊軻がひるんだすきに、秦王政が剣を背負って抜くことに成功します。秦王政はすぐに荊軻を斬りつけました。

 

足を斬られもはやこれまでと思った荊軻匕首を秦王政に投げつけます。しかし、これも外れてしまいました。逆上した秦王政は荊軻が動かなくなっても剣で荊軻を斬りつけ続けました

燕の滅亡と高漸離による始皇帝暗殺未遂

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始皇帝について記録した『史記』の「始皇帝本紀」

引用:

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8b/Qin_first_emperor_annals.JPG/1280px-Qin_first_emperor_annals.JPG

事件後、激怒した秦王政は直ちに燕に秦軍を差し向けます。紀元前226年、秦は燕の首都薊(けい)を攻め落とします。

 

事件の首謀者である太子丹は燕王によって殺され、燕王はその首で秦王政の許しを請おうとしました。しかし、秦王政は攻撃の手を緩めず、紀元前222年に燕は完全に滅ぼされました

 

荊軻の友の高漸離は筑の名手だったので、その腕を惜しんだ始皇帝に召し出されます。その際、始皇帝は高漸離の目をつぶして危害を加えられないようにしました。

 

目をつぶされた高漸離は友の敵を討つ機会を執拗に狙います。そして、演奏中に鉛を仕込んだ筑で始皇帝の暗殺を試みました。しかし、目が見えなかったこともあり暗殺は失敗。高漸離は始皇帝の部下に殺されてしまいます。

 

 

まとめ

 荊軻は戦国時代の人で、燕の太子丹の依頼により秦王政(のちの始皇帝)の暗殺をはかりました。太子丹が暗殺を依頼した理由は、秦の強大化で燕が滅ぼされると考えたからです。

 

荊軻は毒を仕込んだ匕首を献上品の地図に隠して秦王政に接近します。間近で地図を開き、秦王政を毒の匕首で一突きにしようとしました。しかし、間一髪のところで暗殺は失敗し、荊軻は殺されてしまいました。

 

たった一本の匕首で、中国最強の王、秦王政に立ち向かった「壮士」荊軻の存在は、司馬遷が書いた『史記』の「刺客列伝」によって今に伝えられています。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

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