「御成敗式目ってそもそも何?」
「御成敗式目の目的は?」
「御成敗式目ってどんな内容?」
このページをご覧の方は、こうした疑問を持っていると思います。
御成敗式目とは、1232年に鎌倉幕府3代執権北条泰時が中心になってつくられた武士のための法律です。
貞永式目とも関東式目とも呼ばれました。
御成敗式目は源頼朝以来の先例や道理(武家社会の慣習や道徳)を文章化したもので、
のちに不足を補うため「式目追加」とよばれる追加法が出されました。
御成敗式目の適用範囲は武士たちでした。
しかし、幕府の影響力が拡大すると適用範囲も広がります。
御成敗式目の内容は、守護の権限、土地に関する取り決め、親の「悔返し権」や裁判の基準、手続きなど多岐にわたります。
今回は、御成敗式目制定の背景や目的、内容などについてまとめます。
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引用: <a href="https://www.photo-ac.com/profile/1840121">姫子0510</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真
御成敗式目の背景とは?
引用: <a href="https://www.photo-ac.com/profile/836029"> フランク</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真
御成敗式目が出された背景に承久の乱の勝利による鎌倉幕府の影響力拡大と、地頭の設置範囲が全国に拡大し土地関係の裁判が多発したことがあります。
鎌倉幕府の支配力が強まった承久の乱
源頼朝が鎌倉幕府を開いたころ、幕府の支配権は関東など東日本中心でした。
京都よりも西側の地域では朝廷の支配が続きます。
1221年、朝廷のトップである後鳥羽上皇は鎌倉幕府の2代目執権北条義時を逆賊として討伐する命令を下します。
上皇の命令を受け取った武士たちは大きく動揺しました。
この動揺を抑えたのが頼朝の妻の北条政子です。
政子は御家人たちを館に集め「頼朝の恩は山よりも高く、海よりも深い」と説き、頼朝がつくった幕府と鎌倉を守るよう御家人たちに訴えます。
奮起した御家人たちは義時の息子、北条泰時に率いられ上皇軍を打ち破りました。
これが承久の乱です。
承久の乱の結果、後鳥羽上皇ら中心人物は流刑など処罰され、京都に六波羅探題がおかれました。
承久の乱後、鎌倉幕府の支配力は西日本にも及ぶようになります。
地頭の設置範囲の拡大
鎌倉幕府は承久の乱で後鳥羽上皇に味方した貴族や武士の所領を没収し、幕府方の御家人を地頭に任命します。
地頭は荘園の管理人ですが、荘園からあがる収入を得られる経済的なメリットがある役職です。
例えば、『平家物語』の「敦盛の最期」に登場する熊谷次郎直実の一族は埼玉県の熊谷周辺を支配する御家人でした。
承久の乱後、熊谷氏の一人が安芸国(広島県)の地頭に任じられます。
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こうして承久の乱後に各地に置かれた地頭たちは、荘園領主やもともとの土地の持ち主である荘官たちとトラブルを起こすようになりました。
このようなトラブルでは地頭が腕っぷしで荘園領主を屈服させるケースがみられ、地元の民も地頭のいいなりになるケースがしばしばありました。
とはいえ、トラブルのたびに腕力を誇示されては幕府としても困ります。
鎌倉幕府は御家人たちが引き起こす土地をめぐる裁判の基準作りが求められるようになりました。
御成敗式目の制定目的と適用範囲は?
御成敗式目を出したのは誰?
なぜ、泰時は御成敗式目を制定したのでしょうか?
そして、御成敗式目は誰に適用される法律だったのでしょうか。
北条泰時が京都の六波羅探題だった弟の重時に送った「泰時消息文」に御成敗式目の目的が書かれています。
北条泰時が制定した目的
泰時は「泰時消息文」の中で御成敗式目制定の目的を「かねて御成敗の躰をさだめて、人の高下を論ぜず、偏頗なく裁定せられ候はむ」として、身分に関係なく裁判が行われるよう基準を示すとしています。
泰時率いる鎌倉幕府にとって、御家人間や御家人と荘園領主の紛争を公平に解決することがとても重要でした。
そのため、裁判の当事者が納得いく「基準」を事前に示す必要があったのです。
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御成敗式目の適用範囲
「泰時消息文」では、御成敗式目の適用範囲についても触れています。
この法令はあくまでも「武家の人へのはからひのためばかりに候」として、適用範囲を武士に限っています。
また、「京都の御沙汰、律令のおきて、聊もあらたまるべきにあらず候也」とも述べています。
これは、律令の流れをくむ朝廷の公家法や、荘園領主独自の法である本所法を否定しないという意味です。
しかし、現実には武士の力が強まり御成敗式目を中心とする武家法が広がると公家法や本所法は衰退していきました。
御成敗式目の主な内容
引用:[http:// 松波庄九郎さんによる写真ACからの写真 ]
守護の職務「大犯三箇条」
御成敗式目では諸国に一人ずつ設置された守護の権限について明記されています。
守護の権限は、御家人たちに京都大番役(京都警固)や鎌倉番役(鎌倉警固)を催促する権利である大番催促と謀反人の逮捕、殺害人の逮捕とされました。
また、大田文とよばれる土地台帳や国衙の行政事務を実行させるため、在庁官人とよばれる地方公務員を支配する権利も持ちます。
ただし、室町時代の守護大名とは異なり守護であるだけでは経済的な利益を得られませんでした。
土地に関する取り決め「不易の法」と「知行年紀法」
鎌倉武士にとって土地は命のように大事なものでした。
「一所懸命」というのは、一つの領地に命を懸ける鎌倉武士の在り方を示した言葉だったのです。
それだけに、土地裁判の基準は非常に重要なものでした。
基準の一つが「不易の法」です。
不易の法とは、源頼朝、頼家、実朝、北条政子の時代に幕府から与えられた土地は、元の持ち主が訴訟を起こしても無効とするという法律です。
この時代は、承久の乱などで土地の持ち主が大幅に変化した時代でした。
戦いに勝利した幕府が決定した土地所有者に対し、権利を保障した内容です。
もう一つが「知行年紀法」です。知行とは土地を支配することです。
御成敗式目では20年以上継続して土地を支配した場合、その土地をどのようにして取得したかは問わず、支配している知行主の支配権を認めるとしました。
20年以上前のことは時効とすると宣言したのです。
御成敗式目で定められた土地所有の原則は、鎌倉時代を通じて全国に浸透します。
のちに、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇はこの仕組みを覆そうとしましたが、かえって武士たちの反発を招き、建武の新政崩壊の一因となりました。
親が持っていた「悔返し権」
鎌倉時代の一番の財産は土地です。
遺産相続で一番もめたのも土地に関することでした。
鎌倉時代の土地相続は分割相続が原則です。
しかも、男子だけに限らず女子も相続権を認められていました。
女子が相続上、不利益になるのは江戸時代以降のことです。
相続は親の生存中に決められることもありました。
その時、一度、子に譲った土地を親が取り戻す権利のことを「悔返し権」といいます。
鎌倉時代は、家長である「惣領」に強い力が認められており、子が一族の和を乱したり、惣領のいうことを聞かないときなどは土地をとりあげることができました。
御成敗式目の「すごい」ところ
武士専用の法律をつくったこと
御成敗式目の凄いところは、「武士の、武士による、武士のための法律」を作ったことです。
鎌倉幕府ができる前は、武士たちは京都の朝廷や貴族がつくった「公家法」や「本所法」に従うだけの存在でした。
しかし、御成敗式目という「法律的なよりどころ」を得ることによって武士たちは自分たち独自のルールで生活できるようになります。
鎌倉幕府の誕生から執権政治、元寇と鎌倉時代の大まかな流れをつかみやすいのでとても良かったです。
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300年以上にわたって武士の「基本法」となった
鎌倉時代前半につくられた御成敗式目は、幕府が滅亡してからも効力を持ち続けます。
室町幕府は「建武式目」を出しますが、これは政治方針を示したものであって、御成敗式目を廃止し、新たな式目を作ったわけではありませんでした。
そのため、室町時代も御成敗式目は武士の基本法として生き続けます。
その後、戦国大名が各地の実情に合わせた「分国法」を制定し、各地の分国法や過去の律令、御成敗式目などを参考にし、江戸時代の諸法令がつくりだされます。
まとめ
御成敗式目は1232年に鎌倉幕府3代執権の北条泰時が制定した法律でした。
御成敗式目の内容は頼朝以来の先例と武家社会の慣習・道徳である道理を文章化したものです。
制定の目的は御家人同士の争いや御家人と荘園領主の争いなどを裁く基準をあらかじめ作っておくことです。
適用範囲は武士に限られましたが、武士の力が強まるにつれ適用範囲は全国に拡大します。
御成敗式目で出来上がった土地裁判の基準は、その後の時代も継承されました。
御成敗式目の内容や目的、適用範囲、内容などについて「そうだったのか!」と思っていただけたら幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。