「北条泰時って何した人?」
「北条泰時に関する面白い逸話はある?」
「北条泰時のお墓や子孫は?」
このページをご覧の方はそのようなことをお考えかもしれません。
北条泰時は鎌倉幕府の3代執権で、承久の乱での勝利や御成敗式目の制定などで活躍しました。
そして、合議制を確立するなど鎌倉幕府のシステムを整備した人物でもあります。
今回は北条泰時のプロフィールやしたこと、逸話、お墓や子孫などについてまとめます。
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北条泰時のプロフィール
幼名は”金剛”といいます。
歴史書『吾妻鏡』には、幼い時から聡明で源頼朝の寵愛を受けていたと書かれいました。
1194年、頼朝が烏帽子親となり元服し、名を頼時と改めます。
烏帽子親とは
中世武家社会の風習で,成人に達して元服するとき立てられる仮親
元服親ともいう。元服式で烏帽子をかぶらせ,元服名をつけたりする。主君や有力者に依頼し,以後親子に等しい関係が結ばれる。出典:コトバンク
烏帽子親が頼朝ということは、将軍とかなり近しい特別な家柄だったからこそです。
よく知られる泰時を名乗るのは1200年以後のようです。
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1211年、幕府の有力御家人である和田義盛が挙兵しました(和田合戦)。
北条氏との関係が悪化した和田義盛が将軍御所を襲撃したことで始まった合戦です。
このとき、泰時は叔父の時房とともに鎌倉のメインストリートである若宮大路で和田軍と交戦し、将軍御所を守りました。
2日間にわたった合戦は数に勝る北条方の勝利に終わります。
5年後の1218年、泰時は侍所の別当に任じられ、幕府の有力者となりました。
1221年、京都の後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発し、幕府を滅ぼそうとしました。
いわゆる、承久の乱の始まりです。
泰時は幕府軍の総大将に任じられ、御家人たちを率いて上洛しました。
そして、泰時率いる幕府軍は宇治川の防御線を突破し京都を制圧。
戦いの後、幕府は後鳥羽上皇らを京都から追放し、幕府の権威をまざまざと見せつけました。
承久の乱からおよそ10年後の1230~31年、寛喜の大飢饉が発生しました。
泰時は食糧難に苦しむ庶民を救う一方、武家社会の裁判基準である御成敗式目を制定しました。
こうした治績から泰時は名執権として称えられました。
1242年、泰時は出家します。
このとき、50人ほどの家臣が泰時の後を追って出家しました。
同年6月15日、泰時は病のためこの世を去ります。
享年60でした。
北条泰時は何をした人?
鎌倉幕府の合議制を確立
鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝は、幕府政治を独裁で執り行いました。
しかし、2代将軍頼家は御家人たちの信任を失い、独裁権を失います。
かわって、13人の御家人による合議制が成立しました。
13人の合議制について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
その後、北条氏が13人の中で頭一つ抜き出るようになり、他の有力御家人を排除していきます。
それにより北条氏の権力は強まりました。
しかし、それでも北条氏は1御家人にすぎません。
他の御家人とバランスを取り、独裁者として反感を買わないよう注意する必要がありました。
まず、1224年に泰時は叔父の時房を執権とほぼ同格の連署に任じます。
つづいて、1225年に三浦義盛や二階堂行盛らを評定衆に任じ、執権や連署とともに重要事項の決定に参加させました。
こうして、泰時によって導入された合議制は鎌倉幕府の基本システムとなります。
幕府のしくみをもっと詳しく知りたい方にはこちらの本がおすすめです。
御成敗式目を制定
1231年、泰時は「御成敗式目」を制定します。
御成敗は裁判、式目は法律と同じ意味です。
つまり、御成敗式目とは裁判の法律という意味になります。
御成敗式目の基準となったのは源頼朝以来の先例と武家社会の道理です。
朝廷が定める律令や、荘園領主が定める本所法などとはことなり、武士に対して適用される法律でした。
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北条泰時のお墓はどこ?
常楽寺は泰時が開いた寺です。
5代執権時頼の時代に、宋から日本にやってきた高僧蘭渓道隆が常楽寺の住職となり、中国風の禅宗を広めました
北条泰時に関する逸話
主君源頼家に諫言した
『吾妻鏡』には、北条泰時が主君である源頼家に諫言した話が記録されています。
1201年8月、鎌倉を含む関東一帯は台風のため大きな被害を受けていました。
鶴岡八幡宮をはじめとする鎌倉の建物は軒並み傷つき、現在の江戸川河口付近にあたる葛西では高潮で千人余が波にさらわれる被害を出します。
1201年9月7日、京都から蹴鞠の達人である紀内所行景(きないどころゆきかげ)が鎌倉にやってきました。
これは、頼家が後鳥羽上皇にお願いし、実現したことです。
行景を迎えた頼家は、連日のように蹴鞠を楽しみました。
蹴鞠に熱中する頼家を見ていた泰時は
「蹴鞠も結構ですが、台風被害で寺社が破壊され、五穀が不作となっているから蹴鞠を慎むべきです」と諫言しました。
頼家は北条時政や北条義時にならともかく、自分と同年代の泰時に諫言されたことで機嫌を損ねます。
泰時を心配した人たちは彼に伊豆の実家に戻るよう勧めました。
伊豆に戻った泰時は、天候不順による食糧不足で苦しむ人々を救う徳政を行ったと伝えられます。
人工島の和賀江島をつくった
頼朝が鎌倉幕府を開くと、諸国の船が鎌倉に集まるようになりました。
やってくる船は日本国内だけではなく、中国の宋からの船もありました。
しかし、鎌倉の沖合は遠浅の海で荷物の揚げ降ろしが難しく、事故も多いという難点がありました。
そこで、現在の逗子マリーナ近くに人工島の和賀江島をつくり、その周辺を港湾施設として利用しました。
皇位継承に介入した
1242年、四条天皇が12歳で亡くなりました。
九条道家をはじめとする有力公家は順徳天皇の子である忠成王を次の天皇にしようと動きます。
しかし、泰時をはじめとする幕府中枢は承久の乱で幕府と敵対した順徳天皇の子を次の天皇にすることに反対。
かわって、承久の乱に反対した土御門上皇の子を天皇に擁立しました。
これが後嵯峨天皇です。
公家たちは武士が皇位継承に口を出したことに強く反発しました。
しかし、圧倒的な力を持つ幕府に口答えできません。
泰時の死が承久の乱で後鳥羽上皇らが流されたのと同じ6月だったことから、後鳥羽上皇の怨霊が泰時を呪ったという噂が立ちました。
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文豪川端康成は北条泰時の子孫
川端康成は大正から昭和にかけて活躍した文豪で、1968年に日本人ではじめてノーベル文学賞を受賞しました。
代表作は『伊豆の踊子』や『雪国』です。
川端家は地元では名の知れた旧家で資産家でした。
先祖をたどると北条泰時にたどりつきます。
しかし、康成の祖父のころに資産を失いました。
鎌倉幕府は1333年に滅亡しますが、泰時に血筋が現代まで続いていたのは驚くべきことですね。
まとめ
今回は北条泰時を取り上げました。
北条泰時は鎌倉幕府の3代執権で御成敗式目の制定などで活躍しました。
彼が作った幕府の仕組みは、長期間にわたって幕府政治を安定させ、後世から理想的な政治家とみなされます。
北条泰時のやったことや彼についての逸話について、すこしでも疑問が解消されたらうれしいなと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。