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「奥州藤原氏とは?」「奥州藤原氏と藤原氏の違いは?」「世界遺産の町、平泉とは?」わかりやすく解説!

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奥州藤原氏とは?」

奥州藤原氏藤原氏の違いは?」

奥州藤原氏がつくった世界遺産の町、平泉とは?」

 

このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。

奥州藤原氏とは、平安時代中期から後期にかけて、東北地方を支配した豪族です。

 

奥州藤原氏は、平将門を討伐した藤原秀郷(俵藤太)の流れをくむ一族とされ、京都で摂関政治を行っていた藤原氏の遠縁にあたります。

 

前九年の役後三年の役の結果、東北地方の支配者だった安倍氏が衰退し、かわって、奥州藤原氏が東北の支配者になりました。

そして、彼らが京都を模してつくった都が世界遺産の平泉です。

 

今回は奥州藤原氏がどんな一族か、京都の摂関家との違い、奥州藤原氏を発展させた藤原三代、彼らが作り上げた平泉などについてわかりやすくまとめます。

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毛越寺庭園

平泉 - Wikipedia

 

奥州藤原氏とは

奥州藤原氏平安時代中期から後期にかけて、陸奥・出羽といった東北地方を支配した豪族です。

11世紀半ば、陸奥国安倍氏が、出羽国清原氏が支配しました。

1051年、安倍氏が朝廷から派遣された陸奥守と対立したため、朝廷軍と安倍氏が戦う前九年の役が勃発します。

前九年の役は朝廷側の勝利に終わりました。

その後、清原氏陸奥・出羽両国を支配します。

 

ところが、1083年に清原氏の内部で家督争いがおき、それがきっかけとなって後三年の役がはじまりました。

このとき、朝廷の支援を得た清原清衡後三年の役の勝者となります。

そして、清衡は母方の姓である「藤原」を名乗り、奥州を支配しました。

これが、奥州藤原氏の始まりです。

 

清原以後、基衡秀衡泰衡が100年にわたって東北地方を支配しました。

しかし、源平合戦に勝利した源頼朝による奥州合戦(奥州征伐)に敗れ、1189年に滅亡しました。

奥州藤原氏の略年表

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奥州藤原氏の略年表

東北を支配した奥州藤原氏

藤原三代とは

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藤原三代

平泉 - Wikipedia

藤原三代とは、中尊寺金色堂に葬られている清衡・基衡・泰衡の通称です。

奥州藤原氏を作り上げた3人について紹介します。

藤原清衡

清衡は陸奥国の豪族である藤原経清安倍頼時の娘の間に生まれました。

前九年の役がはじまると、経清は安倍軍の一員として朝廷軍と戦います。

しかし、安倍軍は戦いに敗れ、経清は朝廷軍の司令官である源頼義の命令で処刑されてしまいました。

 

経清の妻は朝廷に協力した清原武貞の妻となり、つれ子の清衡も清原姓を名乗ります

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後三年合戦絵詞

出典:後三年の役 - Wikipedia

1083年、清原氏の内部で家督争いが起き、後三年の役がはじまりました。

清衡は陸奥源義家の協力で家督争いに勝利。

東北地方の支配者となり、名を藤原清衡と改めました。

 

清衡は馬を献上するなどして、京都の藤原氏と積極的につながりを持ちます

そうして、朝廷から東北地方の有力者と認められるようになりました。

 

1094年、清衡は本拠地を平泉に移します

平泉は京都を模した大規模な都市でした。

現在残る中尊寺を開いたのも清衡です。

 

さらに、清衡は独自に中国の宋と貿易

一切経を輸入するなど、グローバルな活躍を見せました。

1128年、清衡は73歳の生涯を閉じます。

藤原基衡

1128年に清衡が死去すると、藤原基経は異母兄の藤原惟常と争い、これに勝利します。

内乱をおさめた基経は、信夫佐藤氏の協力を得て家臣団の統制をはかりました。

 

1142年、基経は陸奥藤原守綱と対立します。

その理由は、基経が陸奥国を私物化していると守綱が考えたからでした。

結局、この対立が原因で基経と守綱は合戦に及びます。

しかし、基経が工作した結果なのか、基経が朝敵となる事態は回避されました。

 

その後、基経は後任の国司の娘を子の秀衡の妻に迎えるなどして、懐柔。

さらに、院近臣を通じて院政との結びつきを深めます

 

院政の仕組みについて知りたい方はこちらをどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

また、左大臣藤原頼長と年貢をめぐって争いになりますが、粘り強い交渉で頼長の要求を大幅に取り下げさせることに成功しました。

藤原頼長保元の乱の重要人物として知られています。

保元の乱平治の乱について知りたい方はこちらの記事をどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

こうして、奥州の自治を朝廷に認めさせた基経は平泉に毛越寺を建立。

奥州藤原氏の栄華を形にしました。 

藤原秀衡

1157年、基衡の死後に奥州藤原氏を相続したのが藤原秀衡でした。

秀衡は陸奥・出羽の押領使を兼任し、東北地方の軍事・警察権を握ります。

そのため、秀衡の配下は「奥羽十七万騎」と称され、秀衡は一大軍事勢力の棟梁として一目置かれる存在となりました。

 

そのころ、都では保元の乱平治の乱と立て続けに騒乱がおきます。

秀衡はこうした争いから距離を取りつつ独自性を保ちました。

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源義経

源義経 - Wikipedia

1175年から77年にかけて、平治の乱で敗れた源義朝の子の一人である源義経が秀衡を頼って奥州にやってきました。

秀衡は彼をかくまいます。

 

1180年、以仁王の令旨が出され各地で源氏を中心とする反平氏勢力が挙兵。

すると、義経は兄の源頼朝の 配下に入ることを望みました。

これを知った秀衡は、佐藤兄弟ら数十騎を義経につけ、頼朝のもとへと向かわせます。

 

1180年に始まった治承寿永の乱は、およそ5年にわたって続きますが、秀衡は中立を保ちました。

治承寿永の乱(源平合戦)について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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1185年に平氏が壇の浦で滅ぼされると、頼朝と秀衡の間の緊張が高まります。

頼朝との決戦を意識した秀衡は、頼朝と対立し、奥州に逃れてきた義経を再びかくまいました

義経奥州藤原氏の客将として活躍させようとしたのかもしれません。

義経を迎えた2か月後、秀衡はこの世を去りました。 


奥州藤原氏を支えた”馬”と”金”

奥州藤原氏を支えたのが「」と「」でした。

古来、東北地方は馬や金の産地として知られていました。

朝廷は坂上田村麻呂をはじめ、たびたび、征討軍を送り東北地方を征服しようとします。

その目的もまた、馬と金でした。

前九年の役後三年の役という大戦争を経て、奥州の支配者となった奥州藤原氏は、馬と金を朝廷に献上することで、彼らの関心を買います

朝廷から派遣される国司も受け入れ、彼らを通じて常に朝廷との関係改善をはかりました。

こうした努力の末、奥州藤原氏は東北地方の支配権を守ります。

 

秀衡の時代、奥州藤原氏の勢力は「十七万騎」とも称され、一大軍事勢力となりますが、その力の源も馬と金でした。

こうして、馬と金は奥州藤原氏を象徴するものとなりました。

藤原三代のミイラが眠る中尊寺金色堂

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中尊寺金色堂 - Wikipedia
中尊寺金色堂の覆堂

中尊寺藤原清衡が平泉に建てた寺院です。

平安時代に流行した浄土の教え(浄土教の思想が色濃く反映された寺院でした。

現存する中尊寺金色堂は、当時の技術の粋を集めてつくられたものとして国宝に指定されています。

 

保護用の覆堂の下に、まばゆいばかりの黄金のお堂があります。

金色堂はその名の通り、柱や壁、床、扉に至るまですべてに金箔が施された贅沢な建物でした。

創建から数十年は外気に触れる状態でしたが、鎌倉時代に覆堂が完成。

その後も、覆堂が修復され、現在は1965年にたてられたコンクリート製の覆堂によって守られています。

 

金色堂は創建から1000年近くたっていたため、ネズミの害などにより金箔がはげ落ちるなど痛みがひどくなっていました。

そこで、1962年から1968年にかけて解体・修理され、創建当時の姿に復元されました。

 

金色堂須弥壇には、清衡・基衡・秀衡のミイラと、泰衡の首が祀られています。

3体のミイラのどれが誰のものであるかは意見が分かれています。

 


普段は保護のためかぶせられているガラスケース越しにしか見ることができない金色堂を、あらゆる角度から撮影しました。

64000枚もの金箔や国宝指定された33体の仏像、堂内を埋め尽くす夜光貝など、日常を超越したまさに極楽浄土。

ぜひ、この映像で金色堂の内部を見ていただきたいと思いました。

奥州藤原氏の都”平泉”

平泉は、岩手県南西部の磐井郡にあります。

平泉には奥州藤原氏の遺跡が数多く残され、2011年に世界文化遺産に登録されました。

 

世界遺産を構成するのは、清衡が建てた中尊寺や基衡が建てた毛越寺観自在王院、秀衡が建てた無量光院跡、平泉のシンボルともいえる金鶏山です。

 

奥州藤原氏は平泉を単なる行政上の中心地としてではなく、極楽浄土の再現とも考えていました。

京都に負けない巨大寺院を作り、仏国土を現世に作り出したかったのではないでしょうか。

世界遺産平泉についてもっと詳しく知りたい方は、平泉町のHPで紹介されている「平泉文化遺産センター」を訪れてはいかがでしょうか。

奥州藤原氏の滅亡

頼朝の奥州征伐

頼朝は義経の逮捕を名目に、全国各地に守護・地頭を設置

徐々に、支配を全国に及ぼします。

 

外堀を埋めた頼朝は、藤原泰衡にかくまっている義経を差し出すよう要求しました。

その圧力に屈した泰衡は義経がいた衣川館を攻撃

義経主従を滅ぼしました。

 

義経を滅ぼした泰衡は、頼朝に義経を討伐したと伝えます。

ところが、頼朝は家人である義経を勝手に殺したとして、奥州藤原氏の攻撃を開始します。

この戦いを奥州合戦(奥州征伐)といいます。 

鎌倉幕府軍は畠山重忠を先鋒にして、奥州に攻め込みました。

 

これに対し、泰衡は二万の兵を整え阿武隈川を防衛線として防戦します。

自身は多賀城に本営を置きました。

しかし、この防衛線が畠山重忠によって突破されると、奥州藤原氏の軍は総崩れになりました。

そして、1189年7月に平泉が陥落

泰衡は北へと逃亡しました。

藤原泰衡の最期

戦いに敗れた泰衡は頼朝に降伏を申し出ました。

しかし、頼朝はこれを無視。

泰衡追撃の手をゆるめません。

 

泰衡は北へ北へと逃げ延び、ついに現在の秋田県比内郡まで落ち延びます。

ところが、ここで泰衡は郎党の河田次郎に打ち取られました。

 

泰衡を打ち取った河田次郎は泰衡の首を持って頼朝に投降します。

しかし、頼朝は河田の裏切りを許さず処刑してしまいました。

泰衡が最期を迎えた場所は錦神社となり現在に残っています。

奥州藤原氏と京都の藤原氏の違いとは?

奥州藤原氏も京都の藤原氏も同じく「藤原北家に属します。

しかし、奈良時代後半から平安時代にかけて、二つの家は別々の運命をたどりました。

 

京都の藤原氏藤原冬嗣以降、中央で勢力を強めました。

そして、藤原良房・基経によって基盤が固められ、京都で摂関政治を行う一族となります。

 

一方、奥州藤原氏の祖先は関東に下りました。

なかでも、下野国(栃木県)に定着した藤原秀郷平将門討伐で勲功をあげます。

以後、秀郷の子孫は「藤原北家秀郷流」と称され、奥州藤原氏もこれに連なります

秀郷の子孫は下野だけではなく、東国一帯に広がりました。

 

記録などから、当時の人々は、奥州藤原氏を京都の藤原北家に連なる家柄と考えていたことがわかります。

したがって、京都の藤原氏奥州藤原氏は遠縁ではありますが、別の家だといえるでしょう。

奥州藤原氏を扱ったドラマ『炎立つ

奥州藤原氏を扱ったドラマといえば、大河ドラマ炎立つでしょう。

炎立つ』は、1993年から1994年にかけて放映されました。

清衡の父である経清と奥州藤原氏の4代目泰衡を渡辺謙さんが演じました。

 

大河ドラマは「中央」の視点で語られることがほとんどです。

しかし、この『炎立つ』と、その前に放映された『琉球の風』は地方目線で語られる異色の大河ドラマとして話題となりました。

惜しむらくは二代基衡の時代が丸々カットされていたこと。

個人的には、経清のパートを少し減らして、基経を入れてもよかったのかなと思います。

ロケ地としても有名な歴史公園”えさし藤原の郷”

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えさし藤原の郷にある古代の政庁

えさし藤原の郷 - Wikipedia

炎立つ』のロケ地として作られ、そのまま残されたのが”えさし藤原の郷”です。

場所は岩手県奥州市の江刺。

平安時代の建物を再現した国内でほとんど唯一のテーマパークです。

www.fujiwaranosato.com

 

広大な敷地の中に、古代の政庁や中尊寺金色堂などが再現され、平安時代の街並みの中を歩くこともできます。

炎立つ』のほかにも、『麒麟がくる』やドラマ『陰陽師』、『おんな城主直虎』など数々のドラマのロケ地となりました。

まとめ

今回は「奥州藤原氏」についてまとめました。

奥州藤原氏は、平安時代の中期から後期にかけて東北を支配した一族です。

藤原清衡・基衡・秀衡は「藤原四代」ともいわれました。

彼らは世界遺産となった平泉を本拠地に、朝廷と絶妙な距離をとって100年の自治を守ります。

 

しかし、秀衡が義経をかくまったことに端を発し、源平合戦に勝利した源頼朝に滅ぼされてしまいました。

 

この記事を読んで、「奥州藤原氏」について、すこしでも疑問が解消出来たらありがたいなと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

  

 

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