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「[鴨長明ってどんな人?」「『方丈記』ってどんな本?」「”養和の大飢饉”原文や現代語訳が知りたい!」わかりやすく解説!

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鴨長明ってどんな人?

方丈記』ってどんな本?

養和の大飢饉の原文や現代語訳を知りたい!

 

このページをご覧の方はそのようなことを知りたいとお考えかもしれません。

鴨長明平安時代末期の人物です。

賀茂神社に連なる神職の家に生まれましたが、一族内の出世競争に敗れ、神職として出世する道を絶たれました。

 

出世をあきらめて出家した鴨長明隠居先である「方丈」で書いた随筆が『方丈記です。

方丈記』には記録文学としての側面があります。

今回取り上げる「養和の大飢饉」も実際に起きた出来事を鴨長明が記録したものでした。

 

今回は鴨長明がどんな人か、『方丈記』とはどんな本なのか、「養和の大飢饉」の原文や現代語訳はどうなっているのかなどについてわかりやすくまとめます。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/815470">かいくう</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

鴨長明とは

随筆『方丈記の著者である鴨長明

彼が生まれたのは平安時代末期の院政期のこと。

鴨という名字からわかるように、鴨長明は加茂神社の禰宜の家に生まれました

鴨長明下鴨神社賀茂御祖神社)の禰宜の座に就こうとしましたが、一族内の競争に敗れ、禰宜になることはできませんでした。

 

といっても、鴨長明が無能だったからではありません。

俊恵門下で和歌の腕を磨き、中原有安から琵琶の極意を習うなど一流の教養を身に着けていました。

 

しかし、教養と、会社や組織で上り詰める才能は別物です。

如何に、典雅な振る舞いができる教養人でも、社内闘争に必ず勝てるわけではないのです。

社内闘争に敗れ、神職としての出世に見切りをつけた長明は、近江国大岡寺で出家。京都の東山や大原、日野などで隠遁生活に入りました。

 

方丈記』とは

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鴨長明の直筆と伝えられる『方丈記』の大福寺本

引用:方丈記 - Wikipedia

 

方丈記』は、鴨長明が日野山のふもとに隠遁していた時に住んでいた一丈四方の建物(方丈)で書いた随筆です。

方丈記』は漢字と仮名が混じった和漢混交文で書かれた日記ですね。

古典の中では比較的読みやすい文章だと思います。

 

方丈記』でもっとも有名なのは冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」ではないでしょうか。

 

方丈記』は、災害記録文学としての側面を持ちます。

1177年に京都でおきた安元の大火や1180年の治承の竜巻、1185年の元暦の地震などが記録されています。

今回紹介する「養和の大飢饉」も、鴨長明によって記録された災害でした。

養和の大飢饉とは

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養和の飢饉、もしくは、養和の大飢饉は1181におきた飢饉です。

飢饉とは、自然災害や戦争などにより人々が飢え苦しむこと。

養和の大飢饉の原因は、干ばつや洪水などにより農作物が実らないという自然災害でした。

 

被害の中心地域は西日本でした。

無数の餓死者が発生したため、街中には遺体が放置され疫病が蔓延します。

朝廷は加持祈祷を行い、飢餓が収まるよう願いましたが一向に効果が現れません。

 

あまりに使者が増えすぎ、丁寧な供養ができない状況となったため、仁和寺の僧隆暁は人々の額に阿弥陀仏の「阿」を書いて仏と結縁させて葬りました。

この時、源氏と平氏が戦う治承寿永の乱の真っ最中でしたが、飢饉のあまりのひどさに戦いが中断されたほどです。 

平安末期の平氏政権や『平家物語』について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

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原文と現代語訳

また養和のころとか、久しくなりて覚えず。

二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。

あるいは春・夏日照り、あるいは秋、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごとくならず。

 

養和年間のころだったでしょうか、ずっと前なのであまり覚えていませんが、二年くらい世の中が飢饉に見舞われてあきれるほどひどいことがありました。

ある春や夏は日照りに、秋は大風・洪水などよくないことが続き、食料となる穀物(五穀)が全く実りません。

 

むなしく春かへし、夏植うる営みありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。

これによりて、国々の民、あるひは地を捨てて境を出で、あるひは家を忘れて山に住む。

さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらさらそのしるしなし。

 

無駄に春に耕し、夏に田植えをしても、秋に刈り取り冬に蓄えるということがない。

このため、諸国の人々は土地を捨て、国境を越え、家を放棄し山に住むなどしました。

様々な加持祈祷をしましたが、全く効果がありません。

 

京のならひ、何わざにつけても、みな、もとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。

念じわびつつ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。

たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。

乞食、道のほとりに多く、憂へ悲しむ声耳に満てり。

 

京の都の習わしで、なにかにつけ地方からくる産物を頼っていたのに、そういった物資が何も京都に入ってこないので、体裁を取り繕うことができるでしょうか(いや、できない)。

我慢できずに様々な財物を捨てるようにして(食べ物と交換しようと)しますが、まったく目をくれる人がいません。

交換してくれる人でも、財物より食べ物の価値が高いとしました。

乞食が道のそばに数多くいて、(彼らの)憂い悲しむ声があちこちで充満しています。

 

前の年、かくの如くからうじて暮れぬ。

明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまにあとかたなし。

世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。

はてには、笠うち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。

かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。

築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。

取り捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。

いはんや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。

 

前の年は、このようにして過ぎていき年が暮れました。

来年は立ち直るだろうと思っていたら疫病の流行が加わり、以前の生活の跡形もありません。

世の中の人々が皆、飢えて死んでしまったので、日にちが立つごとに困窮するありさまは、水の少ないところで苦しむ魚のたとえがぴったりだ。

ついには、笠をつけ、足を包むような身なりの良い格好の人ですら物乞いをして歩きます。

つらい目に遭って呆けたような状態の人が、歩くかと思えば倒れ伏してしまう。

築地塀の傍らや道のそばで餓死しているものの数は数え切れません。

道路に散在する遺体の取り扱い方法もわからないので、遺体から発する臭気が街の中に満ち、遺体が腐敗して変化する様子は目も当てられないことが多かった。

まして、(普段は往来がみられる)河原などで馬や車が行きかう様子など全く見られない。

 

あやしき賤、山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。

一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。

あやしき事は、薪の中に、赤き丹つき、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋ぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物具を破り取りて、割り砕けるなりけり。

濁悪世にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。

 

身分の卑しい者たちや山に住む者たちも力尽きたので、山から薪を持ってくるものがいなくなり、頼りにするものがない人々は自分の家を壊して市場で薪として売っています。

一人がもってきた薪の代金は、一日の食費にすらならなかったということです。

不思議なことは、薪の中に赤い丹(寺院仏閣の建物などに使われる赤い塗料)や箔などがついた木があったこと。

そのことについて尋ねると、どうしようもなくなった人々が古寺に入り、仏を盗み、寺の建物や仏具を壊して割くだいた(薪として売っていた)とのこと。

汚れや罪悪の世(濁悪世)に生まれてしまったため、このような情けない有様を見てしまった。

 

またいとあはれなることも侍りき。

去りがたき妻・夫持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。

その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食ひ物をも彼に譲るによりてなり。

されば、親子あるものは定まれることにて、親ぞ先立ちける。

また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳を吸ひつつ、臥せるなどもありけり。

 

また、とてもしみじみと感じ入ることもありました。

離れられない妻や夫を持ったものは、その愛情が強く深いものが必ず先に死んでしまいます。

その理由は、自分のことは後回しにして相手を思いやり、自分の食べ物も相手に与えてしまうからでした。

親子の場合、親が先に死にました。母親が死んでいることを知らずに、あどけない子供が母親の乳を吸って横になっていることもありました。

 

仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬることを悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。

人数を知らんとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、道のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。

いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。

いかにいはんや、七道諸国をや。

 

仁和寺の隆暁法印という人は、このように数え切れないほどの人々が死んでいることを悲しみ、死者の首が見えるごとに、死者の額に「阿」の字を書いて阿弥陀仏と縁を結ぶ(結縁)をさせました。

死者の総数を知ろうと、四・五月に数えてみたところ、京都の内、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の道端にあった(死者の)頭の数は42,300余に登りました。

ましてや、その前後に死んだ者も多く、河原、白河、西の京やもろもろの辺境地域まで加えると死者の数は際限がない。

まして、畿内以外の諸国を加えると(さらに際限が亡くなるでしょう)。

 

さいごに

現代と異なり、医療が未発達で食料給付などのセーフティーネットが不十分だった平安時代末期、飢饉が発生すれば多くの人が餓死してしまったことでしょう。

飢餓はしばしば疫病を引き起こします。

飢餓で抵抗力を失った人々は、感染症の格好の餌食となったことでしょう。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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