「劉邦の晩年はどうなったの?」
この記事をご覧の方はそんな疑問を持っている持っているかもしれません。
晩年の劉邦はともに戦った仲間たちを次々と粛清しました。
その代表が韓信です。
その一方、蕭何や張良は粛清を免れることができました。
今回は晩年の劉邦の様子と韓信、蕭何、張良のその後についてまとめます。
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劉邦の皇帝即位と論功行賞
垓下の戦いで勝利した劉邦は、紀元前202年に漢の皇帝として即位します(漢の高祖)。皇帝となった劉邦は、それまで従ってきた家臣たちに褒美を与えました。
劉邦は、もっとも功績がある家臣は蕭何であるとして、丞相の地位はそのままに領地を与えます。劉邦は、項羽との戦争を常に支え続けた蕭何を第一の功臣と考えたからでした。
次に、軍師張良は3万戸の領地を与えるといわれましたが固辞し、劉邦と初めて出会った街である留を領地とします。張良は、もしかしたら劉邦の変化を予測していたのかもしれません。
項羽との戦いで総司令官となった韓信は生まれ故郷の楚の王に、彭越は梁の王に、英布は淮南の王に、それぞれ封じられました。
彼ら三人は戦争に強く、劉邦の勝利に大いに貢献したからです。
劉邦に粛清された彭越・英布・韓信
論功行賞で大きな領地を得た彭越・英布・韓信。彼らは王となりましたが、その最期はいずれも悲惨なものでした。
梁王彭越の最期
彭越はもともと漁師で、始皇帝死後の混乱の中盗賊の親分となり自立していました。
項羽が覇王となり論功行賞を行ったとき、項羽から領地をもらえなかった彭越は猛反発。
項羽の領地をゲリラ的に襲撃し、項羽軍の補給路を脅かしました。
彭越は項羽軍の背後を襲撃し続け、劉邦の勝利に貢献。約束通り梁王となりました。
皇帝即位後、劉邦は彭越に北方の反乱軍討伐のため出兵するよう命じました。
彭越がこれに応じなかったため、劉邦は彭越を捕え梁王の地位をはく奪します。
彭越は一般庶民とされ、辺境に流されることになりました。
ところが、劉邦の妻である呂后は、彭越は危険人物であるとして劉邦に粛清を強く進言。劉邦は妻に押し切られて彭越を処刑しました。
ちなみに呂后は中国三大悪女の一人に数え上げられています。非常に気の強い女性で劉邦も押されがちでした。
処刑後、彭越の遺体は塩漬け・切断され、諸侯に配られました。
見せしめのつもりだったのでしょうが、「明日は我が身」と考えたものもいたことでしょう。
淮南王英布の謀反
英布は楚に生まれた人物。
若いころに刑罰として入れ墨を施されました。
そのため、入れ墨が入れられた布という意味で黥布ともよばれます。
項羽が楚軍を率いて秦と戦うと、英布は副将として活躍しました。
英布は、降伏した秦兵20万を生き埋めにせよとの項羽の命令を実行するなど、項羽の忠実な臣下として働きます。
項羽が覇王となると、英布は九江王とされました。
項羽と劉邦が戦うようになると、項羽は英布にも出兵を命じますが、英布は様々な理由をつけて出兵を拒否。
しかし、戦いは項羽の勝利に終わり英布は劉邦のもとに逃亡しました。
残された家族は項羽の命令で皆殺しにされます。
劉邦が皇帝に即位すると、英布は淮南王とされました。
彭越の敗死後、彭越の肉が諸侯に配られます。
淮南王英布のもとにも、彭越の肉が届けられました。
英布は「明日は我が身」とおもったのでしょう。
ひそかに反乱を企てます。
家臣の密告により反乱計画がバレてしまった英布は追い詰められ反乱を起こしました。
はじめは、周辺の軍と戦い勝利するなど勢いがありました。
そのため、劉邦は自ら出陣し英布と対決します。
劉邦が反乱を起こした理由を尋ねると、英布は「皇帝になりたかったからだ」と答えたといいます。
劉邦と英布の戦いはとても激しく、総大将の劉邦に矢が当たり負傷するほどでした。
戦いは劉邦の勝利に終わり、敗れた英布は逃亡中に殺されてしまいます。
名将韓信の最期
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もともと、項羽のもとにいましたが項羽が自分の作戦をとりあげてくれないので愛想をつかして劉邦に寝返ります。
投降者だったにもかかわらず、漢軍の総司令官に抜擢しました。
韓信は劉邦の期待に応え続け、関中や中原での戦いで連戦連勝します。
項羽との最終決戦となった垓下の戦いでも、韓信は漢軍の総司令官となり、項羽を追い詰め、自害させました。
韓信は垓下の戦いの直前、征服した斉の地で王を名乗りました。
劉邦は、韓信の行動に怒りを感じましたが、軍師張良の進言で韓信の斉王就任を了承します。
このあたりから、劉邦は韓信の力を削ぐ必要が出てくると思ったのかもしれませんね。
劉邦の皇帝即位後、項羽の配下にいた鍾離眜をかくまったことから劉邦に疑われるようになります。
追い詰められた韓信は鍾離眜に自害を勧めました。
鍾離眜は、次はあなたの番だという予言を残し自ら首をはねます。
それでも、劉邦の疑いは完全に解けず、領地の多くを没収され淮陰侯に降格されてしまいました。
紀元前196年、韓信は反逆をたくらみます。
しかし、事前に察知した蕭何の策略により韓信は捕らえられ、処刑されてしまいました。
韓信は謀反人とされ、一族皆殺しとなってしまったのです。
粛清を免れた蕭何と張良
多くの功臣が粛清される中、蕭何や張良は粛清を免れました。
彼らはどうやって粛清の嵐から身を守ったのでしょうか。
自ら評判を落とし、粛清を免れた蕭何
劉邦が項羽と戦っていたころ、蕭何は劉邦の領地で政治を預かり、劉邦が必要とする兵士や物資を前線に送っていました。
劉邦からすれば、とても頼もしい重臣であると同時に、非常に恐ろしい存在でした。
蕭何が裏切った場合、劉邦は100%、項羽に負けてしまいます。
劉邦に疑いの目で見られていることを知った蕭何は、戦争に参加できる一族の男を全て戦場に送ります。
また、自分の資産も戦争のために国庫に提供しました。
戦争が終わり、劉邦が皇帝となると、蕭何は評価されると同時に、強い疑いの目で見られていることを悟ります。
後に、彭越や英布、韓信が反乱を起こすと、蕭何も反乱を起こすのではないかと劉邦が心配しました。
そこで、蕭何はわざと私利私欲を追求した悪政をおこないます。
具体的には、田畑を買いあさったり、わいろを受け取ったりしました。
そのせいで、一時的に牢屋に入れられることはありましたが、粛清されることはありません。
蕭何は自分が清廉潔白で、民衆からも慕われていて、皇帝よりも権威があるように見えてしまうと、粛清の対象となると考えたのでしょう。
大きな領地を持たず、劉邦の警戒心を解いた張良
張良は「はかりごとを本営の中でめぐらして、勝利を千里の外で決したのは、子房の功績である。」と劉邦に称された謀臣です。
項羽軍を垓下に追い詰めた時、包囲軍に楚の歌を歌わせ項羽軍の戦意を削いだ(四面楚歌)のは張良の策でした。
劉邦は、自分が即位できたのは張良の策略があってこそと思っていたので大きな領地を与えて報いようとしました。
しかし、張良はその申し出を断り、自分と劉邦が出会った留の町一つだけで満足します。
張良は古今の書物に通じた人物でした。中国の歴史において、強すぎる力を持った家臣は主君によって粛清されるということを学んでいたのでしょう。
春秋時代の范蠡のように、粛清される前に身を引いたと考えるべきでしょうね。
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まとめ
狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶとは、范蠡が残した言葉です。
同じ言葉を、王から侯に降格された韓信が述べたといいます。
韓信は有能すぎる臣下が、主君にとって危険な存在であり、粛清の対象となることを、身をもって感じたのでしょう。
出処進退は今も昔もとても難しい問題だと実感させられますね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。