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「鎌倉時代の農業や商業について知りたい!」「宋銭が日本に与えた影響とは?」わかりやすく解説!

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鎌倉時代の農業について知りたい!

鎌倉時代の商業について知りたい!

宋銭が日本に与えた影響とは?

 

この記事をご覧の方はそんなことをお考えかもしれません。

鎌倉時代二毛作や肥料・鉄製農具の使用により農業生産が盛んになった時代でした。

 

人々は余った農作物を定期市に持ち込み自分が欲しい品物と交換します。

定期市で活躍したのが平清盛が持ち込んだ宋銭でした。

すると、銭の価値が高まり銭の貸し借りに利子をつける「借上」という高利貸しまで出現します。

 

鎌倉時代全体の流れや人物について知りたいかたはこちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

今回は鎌倉時代の農業、商業、宋銭が与えた影響などについてまとめます。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/1900649">もちち</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

鎌倉時代の農業

平安時代末期の源平合戦治承・寿永の乱)が終わると、地方の支配者となった武士は自分たちの領地(所領)を積極的に開拓します。

新しい農法や肥料が取り入れられることで、以前よりも多くの農作物を収穫することができるようになりました。

二毛作の広がり

二毛作とは、同じ土地で一年の間に2種類の異なる作物を栽培すること。

鎌倉時代の中期に畿内から西日本一帯で広まりました。

 

一回目に育てる作物を表作、二回目に育てる作物を裏作といいます。

鎌倉時代、表作の作物はだいたい米でした。

裏作は麦です。

これまで、冬は農地が遊んでいる状態だったのですが、二毛作により冬の小麦生産が行われることで収穫量がアップします。

新しい肥料の使用 

鎌倉時代には、農地に肥料を与えて農作物の生育をよくすることが行われました。

代表的な肥料は、刈敷と草木灰です。

刈敷は、山野の草や木の葉を田畑に敷き詰める肥料

草木灰は、草木を燃やした灰を田畑にまく肥料です。

 

肥料を使うことでこれまで自然任せだった農業生産を人がコントロールしやすくなりました。

もちろん、生産性はアップします。 

牛馬耕

ラクターなどの農業機械がない時代、田畑を耕すのは人間の仕事でした。

しかし、人力では作業効率も悪いです。

そこであみ出されたのが牛馬耕ですね。

 

牛や馬に犂や鍬をつけて田畑を耕させます

〇〇馬力というのは、馬が荷物を引っ張るときのパワーをあらわします。

昔から、牛や馬は人間のかわりに、重たいものを引っ張ってくれていたわけです。

 

牛や馬を飼うことができるということは、それだけ、昔に比べて大規模な農業ができるほど余裕が出てきたともいえるんです。

鉄製農具の使用

鉄製農具が広く普及したのも鎌倉時代の特徴です。

鉄製農具自体は古墳時代から存在していました。

しかし、古代になればなるほど鉄は貴重品。

そう簡単に、みんなが使えるものではりませんでした。

 

それまで主流だった木製の鍬や鋤、鎌などにかわり鉄製の農具がメインになることで、作業はかなりはかどるようになったでしょう。

 

鎌倉時代の商業

商業とは、モノやサービスの売り買いを行うことで人々を結び付ける仕事です。

鎌倉時代定期市宋銭の利用により、商業が発達した時代でした。

貨幣経済が発展すると、お金の貸し借りだけで生計を立てる高利貸しも出現。

年貢も米などの現物だけではなく、銭でおさめることが増えました。

定期市の出現

鎌倉時代、農業生産力がアップすると人々は自分達が食べるもの以上の生産物を手にするようになりました(余剰生産物)。

農作物は、黙ってほったらかしにしていると腐ってしまいます。

それならば、他のものと交換したほうがいいですよね。

 

そこで人々は「定期市」にモノを持ち込み、交換を始めました。

交換で大活躍したのが、平清盛が持ち込んだ宋銭です。

銭は、物々交換よりも簡単に取引を成立させてくれます。 

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人々が集まりやすい交通の便利なところに定期市は作られました

高校の日本史の教科書で岡山県の市場(備前国福岡荘)を描いた『一遍上人絵伝』が扱われますが、絵巻の中には米や魚だけではなく、販売用の壺や甕が描かれていますよ。

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定期市などで得た「現金」を、人々は甕などに入れて地中に埋めることがありました。

元祖「タンス預金」といってもいい、壺・甕貯金ですね。

北海道函館近郊の銭亀沢地区では、鎌倉時代から室町時代までの間に埋められた「甕貯金」が発掘されました。

だから、銭亀(甕)沢という名がついたといいます。

 

基本的に、定期市が開かれたのは交通の便が良い街道沿いや人々が多く集まる寺社の門前でした。

定期市に参加している商人たちは、寺社と結びつき、自分たちだけで商売する独占権を得ます

それが、「座」(同業者組合)の始まりだといってよいでしょう。

 

年貢の銭納と高利貸しの出現

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市場が発達し、銭でいろいろなものが買えるようになると、荘園領主や武士たちは年貢として銭を欲しがるようになりました。

これを、年貢の銭納といいます。

 

農民たちは荘園領主や地頭(武士)に農作物で税を納めます。

荘園領主や地頭たちは市場で農作物を売却し、現金をゲットしました。

この現象は、日本だけではなくヨーロッパでも起きていますよ。

 

鎌倉時代には、お金を高い利子をつけて貸し付ける「借上」という高利貸しが現れます。

利子率は取引によってさまざまだったようですが、年利300%以上という高利も珍しくなかったといいます。

 

鎌倉時代の末期、幕府に仕える武士たち(御家人)の多くが財政難となり、借金で苦しみましたが、その原因の一つが現金欲しさに高利貸しから借り入れしたことです。

今も昔も、お金にまつわる苦労は絶えないということでしょう。

 

まとめ

鎌倉時代は農業生産力が飛躍的にアップした時代でした。

それまでの時代よりもたくさんの農作物を手にした人々は、農作物とほかの品物を交換しようとします。

その交換の場となったのが定期市でした。

 

定期市ではスムーズに取引するため宋銭を使います。

平清盛が持ち込んだ大量の宋銭は鎌倉時代の経済を物々交換から貨幣系経済に移行させるのに役立ちます。

  

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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