「松前藩ってどんな藩?」
「松前藩の場所はどこ?」
このページを訪れた皆さんは、そのようにお考えかもしれません。
松前藩は江戸時代に現在の北海道にあたる蝦夷地を支配した藩でした。
米がとれない松前藩はアイヌとの交易を財源とするとても珍しい藩です。
江戸時代の中頃になると、松前藩はアイヌと交易する場所の経営権を商人たちに委ねる場所請負制度をはじめます。
松前藩の支配が蝦夷地各地に及ぶようになると和人とアイヌの摩擦が起きるようになり、たびたび、戦いとなりました。
今回は、松前藩の歴史やアイヌとの関係、松前藩の蝦夷地支配や松前藩がアイヌを通じて行った山丹交易についてまとめます。
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松前藩とは?
そのため、福山藩とも呼ばれます。
1719年に松前藩は1万石の扱いとなり、大名として格付けされます。
幕末には北方警備の関連もあり3万石の扱いとなります。
松前藩は米を産しない特殊な藩でした。
1593年に豊臣秀吉から船役(交易船から税を取る権利)を、1604年に徳川家康からアイヌ交易の独占権を認められました。
江戸時代の初め、松前藩の支配領域は松前周辺から渡島半島にかけての地域に限られていました。
しかし、徐々に松前藩は支配を強化します。
17世紀後半になると、松前藩による交易独占や不公平な交易、場所請負制度に対するアイヌ側の不満が高まります。
1669年にはアイヌ内部の部族対立などをきっかけに、松前藩とアイヌが武力衝突するシャクシャインの戦いが起きました。
その後、松前藩はアイヌが住む蝦夷地に対する支配を強化します。
アイヌと和人(日本人)との対立はたびたび起きましたが、1789年のクナシリ・メナシの戦いをさいごに大規模な戦いは終わりました。
今回は江戸時代に北海道に成立した松前藩の歴史や松前藩の蝦夷地支配、松前藩とアイヌとの戦い、松前藩がアイヌを通じて行った山丹交易についてまとめます。
松前藩はどこ?
渡島半島に道南十二館が成立
東北地方から蝦夷地に移り住んだ人々は蝦夷地の南西部にあたる渡島半島の沿岸に交易拠点を置きました。
この拠点を道南十二館といいます。
これら道南十二館を支配したのが蝦夷管領ともよばれた津軽の安東氏です。
道南十二館は上之国(現上ノ国町)、松前(現松前町)、下之国(現北斗市)に分けられ、それぞれに守護が置かれました。
当時の交易を物語る遺物が「下之国」の一部にあたる函館市銭亀沢の志海苔地区で見つかりました。
出土したのは室町時代の商人が埋めたと思われる古銭がつまった大きな甕2つです。
室町時代、取引に使われたのは中国から渡ってきた宋銭でした。
銭亀沢から出土した古銭の大半も宋銭です。
銭の重量は5トン、合計374,436枚もの古銭が入っていました。
銭亀沢地区の隣にある志海苔地区には道南十二館の一つである志苔館がありました。
古銭の甕の出土はこの地区で盛んに交易がおこなわれていたことをうかがわせる資料です。
コシャマインの戦いと武田信広
1456年、志苔に住んでいた和人の鍛冶屋と客としてやってきたアイヌの男が製品をめぐって口論になりました。
やがて、口論はエスカレートし、和人の鍛冶屋はアイヌの客を殺してしまいます。
1457年に入ると、渡島半島東部のアイヌの首長コシャマインを中心にアイヌが団結し和人たちと武力衝突しました。
各地から集まったアイヌたちは志苔館をはじめ、道南十二館のうち十を攻め落とします。
劣勢となった和人側は、若狭(現在の福井県西部)武田氏出身と称する武田信広を中心に団結します。
武田信広は武士たちを率いてアイヌに反撃し、七重浜でコシャマイン父子を討ち取りました。
コシャマインの戦いが終結したのち、武田信広は上之国守護で花沢館を支配していた蠣崎氏の養子となり家督を相続します。
のち、蠣崎氏が松前藩をつくるので、武田信広は松前藩の始祖とされます。
蠣崎氏による道南支配
コシャマインの戦いに勝利した武田信広は勝山館を築城し、拠点とします。
信広の跡を継いだ蠣崎光広は本拠地を松前に移しました。
光広の子の蠣崎義広は、アイヌのショヤコウジ兄弟と戦って勝利します。
主君の安東氏は義広に蝦夷地を訪れる交易船から税を取る権利を認めます。
これにより、蠣崎氏は他の道南十二館の館主よりも強い立場となりました。
ショヤコウジ兄弟との戦いの後も、義広とアイヌの戦いは続きます。
義広の跡を継いだ季広は、主君である安東氏の要請でたびたび本州に派兵しました。
安東氏から独立を果たした松前慶広
蠣崎慶広が家督を継いだ1582年は、日本史で重要な年です。
天下統一を目前にした覇王織田信長が本能寺の変で斃れた年だからです。
信長の後継者として頭角を現したのが羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉でした。
1590年、小田原攻めに勝利した豊臣秀吉は奥羽仕置と称して東北地方の支配固めを行いました。
蠣崎慶広は主君である安東実季に従い上洛しました。
上洛後、慶広は前田利家らをつてとして、直接秀吉に会うことに成功します。
そして、秀吉から所領を安堵され、朝廷から従五位下の官位を与えられました。
これで、蠣崎慶広は安東氏から独立した存在として世間に認められました。
慶広は1591年に起きた九戸政実の乱のとき、アイヌを率いて討伐軍に参加します。
また、朝鮮出兵の時にも手勢を連れて参陣しました。
その功績で、秀吉から蝦夷地で徴税する権利を認める朱印状を与えられます。
慶広は秀吉から与えられた朱印状をアイヌに示し、自分に背けば秀吉が10万の大軍を率いて蝦夷地に乗り込んでくるとアイヌを威圧しました。
松前藩による蝦夷地支配
家康の黒印状
1598年、豊臣秀吉がなくなると慶広は徳川家康に蝦夷地の地図を献上し、支配権の継続を図りました。
また、自分の子供たちには「松前」と名乗らせます。
1604年、慶広は家康から蝦夷地交易独占を認める「黒印の制書」を与えられました。
黒印状では、松前氏の許可なく蝦夷地で交易をおこなってはならないことや、日本人が松前氏に無断で蝦夷地にわたることの禁止、アイヌに非道なことを行ってはならないことなどが記されています。
同時に、アイヌについては移動制限を設けず、自由に移動してよいと定められました。
松前藩の参勤交代はどうなっていたのか?
江戸時代、ほとんどの藩に参勤交代が義務付けられていました。
しかし、一般的な1年おきの参勤交代ではありませんでした。
徳川綱吉の時代である元禄年間、松前藩主は3年に1度の割合で江戸に上っていました。
それ以後は5~6年に一度と改められます。
松前藩主は松前街道を伝って津軽半島の三厩から陸奥湾沿いに南下し、青森から奥州街道を経て江戸に向かいました。
和人地と蝦夷地
松前氏が道南の支配を固めていったころ、北海道は日本人が住む和人地とアイヌが住む蝦夷地に分けられていきました。
和人地の西の端である熊石(現八雲町熊石)と東の端である亀田(現函館市)には関所がおかれ、往来を監視します。
アイヌが住む蝦夷地は熊石よりも西(地図上は熊石以北)の西蝦夷地と、亀田より東の東蝦夷地に区分けされます。
西蝦夷地は積丹や石狩方面から宗谷に連なります。東蝦夷地は噴火湾から日高、釧路方面に達しました。
松前藩は上級家臣に交易権を与えた(商場知行制)
江戸時代の初めごろ、アイヌの酋長(乙名:おとな)は毛皮や海産物、アイヌの工芸品などを松前城下に持ち込み、松前藩主にこれらの品物を献上します。
松前藩側からは酒や生活必需品が与えられました。
江戸時代の中頃になると、松前藩主は上級家臣に蝦夷地各地の交易場(商場・場所)の経営権を与えるようになりました。
この仕組みを商場知行制といいます。
この仕組みがはじまると、アイヌは松前城下まで来ず、各地の商場で商場の所有者(知行主)と交易するようになりました。
商場は蝦夷地全体で60カ所以上作られます。
アイヌ側は鮭やニシン、コンブ、オットセイ、クマ皮、ラッコ毛皮などを持ってきました。
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松前藩側は米や古着、酒、生活用具(ナベ、お椀、糸など)、タバコなどの嗜好品を持ち込みます。
場所請負制でアイヌを漁場労働者として支配
18世紀になると、松前藩主や上級家臣は、自ら場所での交易を運営するのではなく商人たちに場所の経営を任せるようになりました。
商人は運上金を藩主や知行主に納め、残りを自分の収入とします。
蝦夷地の場所請負に乗り出したのは、資本力がある近江商人たちでした。
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商人たちは交易をおこなうだけではなく、アイヌを労働力とした漁業を場所で行います。
商人たちが熱心に漁業に取り組んだ背景には、江戸時代に需要が急増した肥料の存在がありました。
場所でとれた大量のニシンを煮て魚油を搾り取る一方、残った搾りかす(鰊粕)を肥料として販売しました。
魚油や鰊粕は昆布やアワビなどの海産物と共に北前船で本州各地に出荷され、近江商人をはじめとする場所請負商人は巨額の利益を上げます。
その陰で、アイヌたちは低賃金労働者として場所で働かされるようになりました。
こうした豊かな海産物を使って作られたのが松前漬けでした。
松前漬けはニシンの卵であるカズノコや昆布、スルメイカなどを醤油で漬け込んだものです。
もともとは塩味でしたが、函館山形屋が昭和12年に売り出すときに醤油漬けに変更。
これがヒットの要因だったのかもしれません。
以来、松前漬けは北海道有数の郷土料理に成長しました。
近年、ニシンの不漁によりカズノコが高級品となってしまいましが、やはり、松前漬けはカズノコが多いのがいいというかたにはこちらをお勧め。
函館の水産加工会社布目が作っている「黄金松前」は、カズノコがびっしり詰まったThe松前漬けという感じの商品です。
醤油が強めなので、味が濃いですが、酒のつまみやご飯のおともに最適です。
気になった方は是非食べてみてください!
「ウイマム」と「オムシャ」
松前藩がアイヌ支配を固めるため行っていた儀礼が2つあります。
一つは「ウイマム」です。
もともと、ウイマムはアイヌと和人との交易そのものを指す言葉でした。
その後、ウイマムはアイヌが松前藩主やその代官である上級家臣、幕府が派遣する巡検使に拝謁するときの儀礼へと変化します。
もう一つは「オムシャ」です。
オムシャは交易相手へのあいさつを意味する言葉だったようです。次第に、交易や漁業を慰労する行事となります。
その際、場所で働くアイヌたちは松前藩からの掟を読み聞かせられます。
松前藩とアイヌの戦い
シャクシャインの戦い
江戸時代初めにあたる17世紀中ごろ、アイヌの中で部族対立が激しくなっていました。
対立していたのは日高から道東の太平洋沿岸にかけての集団であるメナシクルと現在の苫小牧や白老、千歳方面の集団であるシュムクルです。
メナシクルの指導者はシャクシャイン、シュムクルの指導者はオニビシです。
松前藩は両者の対立を仲裁するなどしていました。
1668年、オニビシがシャクシャインによって殺されると両集団の対立は一触即発の状態になります。
シュムクルの首長の一人ウタフが松前を訪れ、支援を要請しましたが松前藩は拒否します。
その帰路でウタフが疱瘡でなくなりました。
ウタフの死は松前藩による毒殺であるといううわさがたちまちアイヌの中で流布し、アイヌの中での反和人感情がたかまります。
もともと、アイヌは交易が自分たちに不利で、年々、対価として支払われる米などが少なくなっていることに強い不満を持っていました。
シャクシャインはメナシクルだけではなく、シュムクルの首長たちにも反松前藩の挙兵を訴えました。
シャクシャインの呼びかけに応じた2000の軍勢が蝦夷地各地で和人を襲撃します。東西蝦夷地で300人以上の和人が殺害されました。
シャクシャインの蜂起を知った松前藩は国縫に出陣しシャクシャインの南下に備えます。
松前藩からの報せを聞いた幕府は弘前藩・南部藩・久保田藩(秋田)に出兵を命じ、旗本の松前泰広(藩主松前矩広の大叔父)を派遣します。
クンヌイでの戦いは一進一退でしたが、鉄砲を装備する松前藩軍が有利で、シャクシャインは一時後退します。
松前藩側はアイヌの中でもシャクシャインと距離がある部族などを切り崩し、シャクシャインの力を弱めます。
不利を悟ったシャクシャインは償いの宝物を差し出し和睦を申し出ます。
シャクシャインは和睦の宴に出向きましたが、その酒宴の場で殺害されます。
その他の有力な首長も謀殺されたり捕らえられたりして各個撃破されました。
シャクシャインの戦いの後、松前藩はアイヌに「七カ条の起請文」を提出させ服従を誓わせます。
クナシリ・メナシの戦い
18世紀になり場所請負制度が本格的に運用されるようになると、アイヌは場所の低賃金労働者として働かされるようになりました。
そればかりか、場所の番人たちはアイヌに暴力や脅迫、婦女暴行などの蛮行を行っていたといいます。
現在の道東にあたるクナシリ・メナシの地域でも、場所請負制度に対するアイヌの不満が高まり、いつ何が起きてもおかしくない状態となります。
1789年、クナシリ島の首長のサンキチが病にかかりました。サンキチが場所の支配人勘兵衛が持ってきた酒を飲んだところ、ほどなく亡くなってしまいます。
同じころ、クナシリの別の首長の妻が和人からもらった飯を食べて亡くなりました。
和人が毒でアイヌを根絶やしにしようとしていると考えたアイヌの人々は場所の支配人や通訳、番人を襲撃します。
また、たまたま忠類に来ていた飛騨屋の船(大通丸)も襲われました。
蜂起したアイヌは130人程度で道東地域にいた和人71人が殺害されます。
松前藩はただちに鎮圧部隊を送り込みました。
以後、アイヌの大規模な抵抗はなくなりました。
松前藩がアイヌを通じて行った山丹交易
江戸時代、松前藩はアイヌを通じてユーラシア大陸の人々(山丹人)と交易をしていました。
これを山丹交易といいます。
山丹人とは、黒竜江流域に住むウリチ族やニヴフ族などのことです。
彼らは中国本土を支配する清朝の産品を樺太や蝦夷地のアイヌと交易しました。
山丹人は清朝に貂皮を上納し、かわりに役人が着る絹の服(官服)や布地、鷲の羽、青玉などを与えられました。
山丹人はこれらの品物を蝦夷地に持ち込みます。
アイヌは和人から得た鉄製品や米、酒などと山丹人が持ち込んだ品物を交換しました。
松前藩や場所請負商人は、山丹交易で得られた品物を江戸・大坂に運び利益を得ます。
特に清朝の官服は「山丹服」・「蝦夷錦」として珍重されました。
まとめ
松前藩は現在の北海道に成立した藩です。
米を算出しない松前藩はアイヌとの交易を収入源とする特殊な藩でした。
松前慶広は豊臣秀吉や徳川家康といった中央の権力者と巧みに結びつくことで安東氏の支配から独立します。
江戸幕府からアイヌ交易独占権を認められた松前藩は、上級家臣たちに各地で交易する権利を分け与える商場知行制を行いました。
やがて、商場知行制は場所の経営そのものを商人に委ねる場所請負制度へと変化します。
和人が蝦夷地に深くかかわるにつれ、和人とアイヌの対立も激しくなりました。
17世紀中ごろのシャクシャインの戦いや18世紀後半のクナシリ・メナシの戦いで、松前藩は武力や謀略を用いてアイヌを屈服させます。
松前藩の歴史や松前藩の蝦夷地支配、松前藩とアイヌの戦い、山丹交易などにつて、「そうだったのか」と思っていただけたら幸いです。
長時間、この記事にお付き合いいただきありがとうございました。