「ニシンってどんな魚?」
「ニシン御殿って何?」
「ニシンのおすすめ商品は?」
このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。
ニシンは30cm程度の魚で、春告魚の別名を持ちます。
春になると北海道の日本海沿岸などに大量に押し寄せて産卵しました。
このニシンの漁獲は漁業関係者に大きな富をもたらします。
しかし、乱獲が原因で昭和30年代以降、資源が枯渇してしまいました。
近年、再び漁獲量が回復し、スーパーなどに並ぶようになりました。
今回はニシンがどんな魚か、ニシン御殿がどんな建物か、ニシンのおすすめ商品などについて紹介します。
ニシンってどんな魚?
ニシンは全長30センチ程度でニシン科ニシン目の魚です。
漢字では鰊・鯡・春告魚などと書かれてきました。
その別名の通り、春になると北海道の日本海沿岸などに現れ産卵します。
このとき、ニシンのオスが放つ精子によって海が白濁する「群来(くき)」という現象が起きます。
かつて、現在よりも多くのニシンが生息していたころは、海が盛り上がるほどのニシンが押し寄せ、沿岸を真っ白にしました。
ニシン漁の歴史
江戸時代のニシン漁
和人(日本人)が北海道に定着する以前、北海道各地にアイヌが居住していました。
アイヌたちにとって春にやってくるニシンは貴重な食糧です。
彼らはニシンをヘロキ・エロキとなどと呼びました。
その後、江戸時代になると松前藩が蝦夷地とよばれた北海道を支配します。
松前藩について知りたいかたはこちらの記事もどうぞ!
松前藩は商人たちに「場所」の経営権を与え、利益の一部を藩に献上する仕組みを整えます。
場所の経営権を握った商人たちは、アイヌを労働力として働かせます。
アイヌたちが従事した労働の一つがニシン漁でした。
各地に建てられたニシン御殿
これにより、漁業者は藩の規制に縛られることなくニシン漁を行えるようになりました。
規制の緩和はニシン漁の最盛期を呼び込みました。
明治時代から大正時代にかけて、北海道の日本海側でニシン漁が隆盛を極めます。
ニシン漁で財を成した網元は、漁場の近くに「鰊御殿」とよばれる豪華な建物を建てました。
小樽市にある小樽水族館公社が管理する「小樽市 鰊御殿」などが有名ですね。
興味がある方は、こちらのページをご覧ください。
ニシン漁が盛んになると、たくさんの人出が必要になりました。
大量の求人を聞きつけた東北地方や北陸地方の人々が、数多く漁業労働者として北海道にやってきます。
彼らは「ヤン衆」とよばれました。
北海道の民謡として有名な「ソーラン節」は、隆盛を極めたニシン漁のヤン衆たちが生み出したようです。
ニシンの用途
江戸時代から明治・大正にかけて大量に漁獲されたニシンはどのように使われていたのでしょうか。
古来、ニシンは食用の魚として知られていました。
しかし、小骨が多いことから価格は安く、大衆魚として扱われます。
江戸時代になると、食用魚としてのニシンの価値はさらに低くなり、「貧人の食」とされまた。
また、ニシンは肥料として用いられました。
海水を入れた桶にニシンを1000匹ほど入れ、強い火力で煮ます。
煮あがったニシンを絞り、残った搾りかすを肥料として用いました。
この肥料を「鰊粕」といいます。
魚を食べるよりも、肥料として使っていたというのは、今の感覚からすれば意外ですね。
ニシン漁が衰退した2つの理由とは?
明治時代後半、ニシンの漁獲量は100万トンに迫っていました。
しかし、その後は減少と回復を繰り返しながら長期的には低迷。
1980年代を最後に、ほとんど漁獲されなくなります。
では、なぜニシンの漁獲量が大幅に減ったのでしょうか。
その理由は2つあります。
一つ目は、乱獲。
明治時代に規制がなくなったニシン漁では、とにかく大量のニシンを得ることが優先されました。
漁獲されたニシンの中には魚体が小さいものや稚魚まで含まれており、急速に資源が枯渇します。
もともと安価なニシン漁は漁獲量を増やすことで収益を上げていました。
そのため、漁業者は「とれるだけとる」傾向を強めてしまいます。
二つ目は気候変動。
ニシンは比較的水温が低い海域を好む魚です。
近年の気候変動により、日本周辺の水温は上昇傾向にあります。
そのため、日本周辺からニシンが遠ざかったというのです。
近年、ニシンの漁獲量は回復傾向にあります。
まとめ
北海道人にとって、ニシンはとても身近な魚でした。
しかし、乱獲などが原因で姿を見せない期間が長く続きます。
最近、ニシンの漁獲量が増え、群来も観測されるようになりました。
今度は資源枯渇という同じ失敗を繰り返さず、美味しく食べ続けたいですね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。