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異民族刀伊を撃退せよ!「さがな者」貴族、藤原隆家が挑んだ達成困難なミッションとは!?

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藤原道長の政敵」

「宮中の暴れん坊」

「父の死で没落した有力貴族」

 

藤原隆家について書かれた資料を見ると、このような紹介が並んでいます。

しかし、隆家は日本の国境を守る重要な役割を果たした人物でもありました。

 

地方支配が揺らいでいた朝廷は国境を守る軍団を持っておらず、反乱が起こったらそのつど、地方の有力者に鎮圧を依頼していたような時代にあって、朝鮮半島のすぐ近くにある対馬壱岐は謎の異民族の襲来を受けていました。

 

刀伊」とよばれた異民族は突然海のかなたからやってきて対馬壱岐の老人・子供を皆殺しにし、多くの島民を拉致したのです。

いわゆる「刀伊の入寇」です。

刀伊を迎撃した壱岐守の藤原理忠(ふじわらのまさただ)は守備兵147人で迎撃しますが、3,000人もの刀伊の襲来になすすべなく敗退し戦死しました。

 

この事態に立ち向かったのが宮中で「さがな者」、手に負えない人と評判だった藤原隆家でした。

彼は九州の政治・軍事を指揮する大宰権帥(だざいのごんのそつ)として未曽有の国難に対処します。

 

今回は謎の異民族「刀伊」を追い払った藤原隆家の生涯や刀伊の入寇の内容、隆家に関するエピソードなどを紹介します。

 

藤原隆家のプロフィール

写真AC

藤原隆家平安時代中期の貴族です。

このころ、摂政・関白の地位は藤原北家で独占していました。

藤原北家系図

政権を牛耳った兼家の子はいずれも朝廷で高位高官に就き、道隆道兼道長はのちに関白となりました。

道隆は「中関白」、道兼は「粟田関白」、道長は「御堂関白」とよばれました。

道兼は「花山院の出家」で粟田殿と呼ばれています。

花山院の出家について詳しく知りたい方はこちらをどうぞ

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

道兼や道長が関白になるのは後のことで、隆家が若いころは道隆一家である「中関白家」が宮中の中心でした。

 

しかし、道隆が深酒により亡くなると中関白家の力に陰りが見え、ついには叔父である道長との政争に敗れて一時は出雲守に左遷されました。

その後、目の病を治すために九州の大宰府に赴任して刀伊の入寇に立ち向かい、彼らを追い払うことに成功しました。

 

都に戻った隆家は若いころに任命された中納言から上の官職に任命されることはなく、1023年に中納言を辞任します。

1037年、ふたたび大宰府に赴任して1042年まで勤め上げた後、1044年1月1日で亡くなりました。

隆家の前半生

写真AC

藤原隆家の前半生にもう少し踏み込んでみましょう。

出世街道をひた走った「中関白家」の貴公子

平安時代は「官位相当制」という仕組みがとられていました。

「官」は官職、「位」は位階のことで特定の官職につくには身分ともいえる位階が一定ランクに達していなければなりませんでした。

 

藤原隆家貴族のスタートラインともいえる従五位下の位を与えられたのは元服したての11歳の時です。

12歳で従五位上、13歳で正五位下、14歳で正五位上、15歳で正四位下を経て従三位という上級貴族の位階を授かっています。官職も現在の閣僚クラスに相当する中納言となっていました。

 

学問の神様として知られる菅原道真が貴族である従五位下になったのは29歳の時、紫式部の父である藤原為時(ふじわらのためとき)が従五位下になったのは50代と推定されます。

二人とも学問で朝廷に仕えた官僚ですが、中関白家の御曹司である藤原隆家がいかにスピード出世を遂げていたかがわかるでしょう。

藤原隆家と兄の藤原伊周は中関白家の跡を継ぐ貴公子として急速な出世を遂げていたのです

「さがな者」といわれた隆家の性格

古語で「さがな者」とは、たちが悪い人という意味です。

口が悪い、ろくでなしという意味で使われますが、隆家の場合は乱暴者といった意味合いが含まれていたかもしれません。

 

隆家の従者が最高権力者となった藤原道長の従者と七条大路で大乱闘騒ぎを起こしたり、花山法王に「お前のような奴でも、俺の家の門の前を通ることはできないだろう」という挑発に乗って花山法王の屋敷の前を押し通ろうとしました。

 

このとき、隆家は5~60人程度の人数を集めて花山法王を威圧しようとしましたが、花山法王も僧兵など7~80人ほどあつめて門の周囲を警護します。

結局、隆家は花山法王の屋敷の前を通るの断念しました。

 

隆家は「法王や皇族はすごいな。つまらない強がりをして恥ずかしい思いをした」と笑ったといい、法王も笑って喜んだといいます。

隆家のやんちゃぶりが伝わるエピソードですね。

父、藤原道隆の死

順風満帆だった隆家の人生に影が差すのは中納言になった995年のことです。

隆家の任官後、まもなく父の道隆が病死しました。

道隆の死因は酒の飲みすぎによる糖尿病ではないかといわれています。

 

関白の座は道隆の弟である道兼に移りましたが、関白になった数日後に病で亡くなります。

そのため、道兼は「七日関白」の異名で知られることになりました。

道長と伊周の内覧争い

道兼が亡くなったとき、藤原氏のTOPである「氏長者(うじのちょうじゃ)」の候補は二人に絞られていました。

兼家の子で道兼の弟である道長は従二位大納言・左近衛大将で、道隆の子である伊周は正三位内大臣です。

位階は道長の方がわずかに上で、官職は伊周の方が上でした。

 

一条天皇藤原氏氏長者と内覧をどちらにするか決めなければなりませんでした。

内覧とは天皇に奏上する文書を事前にチェックし、政務を処理する役職で天皇代理といってもよいものです。

関白に任じられなくても、内覧にさえ任命されれば関白と同じ力を持てました。

 

任命する立場の一条天皇は寵愛していた定子の兄である伊周を内覧に任じようと考えていました。

一条天皇は定子の聡明さを愛していたといわれます。

定子の聡明さについて知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

 

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道長を強力に推薦したのが一条天皇の母で道長の姉である東三条院(詮子)でした。

彼女は一条天皇の寝室にまで押しかけ、道長を内覧にするよう迫ります。

母の圧力に負けた一条天皇は、ついに道長を内覧に任命したのです。

長徳の変

内覧宣旨の後も、道長と伊周の権力闘争が続いていました。

閣僚会議ともいえる陣定(じんのさだめ)で道長と伊周が激しく口論したり、道長と隆家の従者が七条大路で集団乱闘に及んだりと争いが続いていました。

情勢不穏な中、都中を驚かせる大事件である長徳の変が勃発し、伊周や隆家らの中関白家を没落させました。

長徳の変は当時の恋愛事情が大きくかかわるため、平安時代の恋愛常識について簡単に触れてから長徳の変の内容を解説します。

平安時代の恋愛常識

平安時代は現代のように男女が自由に会うことはできませんでした。

特に貴族の女性はめったに人前に現れないため、出会いのチャンスがかなり限られています。

うわさ話や何かのきっかけで女性が外に出かけたときにちらっと見る「垣間見」などで女性の情報を集めた男性が、女性に和歌を贈ることで恋愛がスタートします。

 

和歌を受け取った女性側は男性の見極めに入ります。

もし、女性の気に入らない和歌だったり女性側の家でふさわしくないと判断されたら返歌(和歌の返し)はありません。

返歌があれば「脈あり」と判断してよいでしょう。

 

何度か和歌のやり取りをした後で、男性が女性の家を訪れて初対面となります。

男性は夜に人目を忍んでやってきて、朝が来る前に立ち去ります

 

平安時代は一夫一婦制ではありませんでしたので、男性が複数の女性のもとに通うのが一般的でした。

しかも、夫が妻を訪れる「通い婚」だったため、一人の女性を複数の男性が訪れるといったこともありえるため、男性が女性の家の近くで鉢合わせということもありえるのです。

長徳の変による失脚

道長と激しい勢力争いを繰り広げていた兄の伊周ですが、恋愛の面でも道長に負けず劣らずでした。

このころ、伊周が通っていたのはすでに亡くなった藤原為光の娘である三の君です。

ところが、花山法皇藤原為光の娘で同じ屋敷に住んでいた四の君のもとに通い始めたのです。

 

伊周は花山法皇が三の君のもとに通っていると誤解して弟の隆家に相談します。

すると、隆家は「お任せください」といって行動を開始します。

 

隆家は夜間に従者を2~3人ほどで花山法皇待ち伏せし、法皇藤原為光の屋敷を馬で出たところを弓を射かけました。

隆家はちょっと脅かして花山法皇を追い払おうと思ったのですが、矢は花山法皇の服の袖に命中してしまいます。

法皇は恐怖のあまり屋敷に逃げ帰って口を閉ざしていました。

 

この事件を最大限利用したのが藤原道長です。

道長は伊周と隆家が以下の罪状を犯したとして告発したのです。

  • 皇族である花山法皇に弓を射た
  • 東三条院を呪詛した
  • 国だけが行える大元帥法という呪術を勝手に行った

どれひとつをとっても宮中を追放されるのに十分な罪状でした。

伊周は大宰権帥に隆家は出雲守に左遷されました。

 

ところが、伊周や隆家の姿がどこにも見当たりません。

捜索は妊娠中だった定子の屋敷にまで及び、屋敷に潜んでいた隆家がつかまりました

伊周は僧侶の姿になって現れ「父の墓参りをしていた」といいました。

結局、彼らは都を追われ追放先に向かいます。

数年後、伊周も隆家も許されて都に戻りましたが、道長と争う力は残されていませんでした

隆家はなぜ謎の異民族「刀伊」と戦ったのか?

写真AC

若くして中納言となった隆家でしたが、長徳の変の後は中央政界に復帰しますが、かつてのような華々しい立場になることはありませんでした。

1000年(長保2年)に姉の定子を、1010年(寛弘7年)に兄伊周をなくした隆家は、目の病をいやすため九州・大宰府に赴きます。

隆家と九州のかかわりについてみましょう。

眼病を癒すため九州へ

1012年(長和元年)、隆家は先のとがった物で目の周りを傷つけてしまい眼病を患ってしまいました。

隆家の眼病は「交感性眼炎」の可能性が高いといわれています。

片方の目をケガすると、数週間から数ヶ月後にもう片方の目にかすみ目や光のまぶしさ、飛蚊症といった症状が発生します。

治療せずに放置すると視力が極端に低下したり失明することがあります。

 

そこで、隆家は眼病を治すため中国の宋から来た名医がいるという九州・大宰府への赴任を希望しました。

隆家の申し出を受け、同じように目の病気を患っていた三条天皇が隆家に同情したことから隆家は大宰府の責任者である大宰権帥として赴任することが決まりました。

大宰府はどんなところ?

隆家が赴任した大宰府はどのような場所だったのでしょうか。

大宰府筑前国(現在の福岡県)に置かれた政庁で外交使節との交渉や中央との連絡などを行う重要な役所でした。

外交だけではなく軍事も担う役所で、九州で何らかのトラブルが発生した際は大宰府が対応していました。

大宰府のトップは大宰帥(だざいのそち)ですが、皇族が大宰帥のときはナンバー2である大宰権帥(だざいのごんのそち)が大宰府の長官としての役割を果たしました

 

1014年11月、九州に大宰権帥として赴任した隆家は善政を行い、九州の人々の心をつかみます。

隆家が赴任してから5年が過ぎた1019年に大事件が発生します。

それが、正体不明の異民族による侵攻である「刀伊の入寇」です。

刀伊の入寇」~謎の異民族「刀伊」の侵入~

あまり知られていませんが、平安時代前半(9~11世紀)の九州は海賊被害をたびたび受る地域でした。

襲撃していたのは朝鮮半島にあった新羅や高麗などの海賊です。

しかし、1019年(寛仁3年)に襲来したのは新羅や高麗などの海賊ではない謎の異民族「刀伊」でした。

 

刀伊の正体は、中国東北地方に住んでいた女真人の一派はないかと考えられています。

女真人は後に中国を支配して「金」や「清」を建国した民族です。

金や清について知りたい方はこちらの記事をどうぞ。

 

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1019年3月27日、刀伊は海賊船50隻、約3,000人の船団を組んで対馬に襲来し、対馬の各所で殺人や放火、略奪を繰り返しました。

対馬では島民36人が殺害され346人が拉致されたといいます。

 

刀伊の船団は対馬の南にある壱岐も攻撃しました。

壱岐守の藤原理忠は147人の兵を率いて迎撃しましたが3,000人もの刀伊にはかなわず全滅してしまいました。

数もさることながら、刀伊は優れた弓を持っていて日本側の盾を貫いてしまうほどでした。

壱岐では島民148名殺害、女性239人が拉致されました。

 

隆家は彼らの次の標的が貿易港の博多や九州の拠点である大宰府だと考え防衛態勢を整えます。

隆家の選択~「刀伊」を博多周辺で迎撃~

隆家には2つの選択肢がありました。

 

1つが貿易拠点である博多やその周辺の水際で防御する作戦、もう一つが防衛体制が整っている大宰府での迎撃です。

水際作戦は被害を最小限に食い止められる可能性がある一方、刀伊に敗れることがあれば九州北部一帯が大きな打撃をこうむってしまいます。

 

一方、大宰府籠城作戦は主力を温存できるメリットがある代わりに、博多周辺の略奪を手をこまねいてみるしかないというデメリットがありました。

 

隆家の選択はリスクを冒しても水際で刀伊を迎撃し、被害を最小限にする作戦でした。

隆家は4月8日に防衛拠点である警固所に兵士を派遣して防衛態勢を整えます。

4月9日、刀伊側は警固所や近隣の筥崎宮を攻撃しますが、日本側に撃退され能古島に撤退しました。

 

日本側は刀伊の次のターゲットを近隣の船越津ではないかと考え38隻の船を用意して迎撃の準備を整えます。

4月12日、刀伊は日本側の読み通り船越津を攻撃しますが、準備を整えていた日本側の反撃で40人ほどの兵士を失って撤退します。

刀伊は博多周辺の攻撃を断念して松浦郡を攻撃しますが、そこでも日本側の反撃にあい九州沿岸から撤退しました。

 

藤原実資の『小右記』によれば、殺害された人は365人、連行された人は1,289人に及びました。

刀伊の入寇の戦後処理

隆家から4月7日と8日に戦況報告を朝廷に送っています。

報告が京都に届いたのは10日後の4月17日でした。

4月18日、報告を受け取った朝廷はに寺社への降伏祈願を依頼し撃退したときの恩賞の約束を公表します。

しかし、4月18日にはすでに戦闘が終了していました。

 

現地での対応が一段落した6月29日、朝廷内では恩賞を決定したときには戦闘が終わっているため恩賞は不要であるという意見が強まっていました。

 

朝廷の対応が冷淡だった理由の一つに、左大臣の辞任に伴う官職ポストの争いで国境紛争への対応がおざなりになっていたことがあります

 

恩賞不要との意見に強く反対したのが大納言の藤原実資です。

実資は894年に起きた新羅の入寇の例を挙げ、今回恩賞を出さなければ国を守るために戦うものがいなくなってしまうと主張しました。

この主張を受け、活躍した大蔵種材を壱岐守に任じるなどの恩賞を発表しました。

 

隆家は捕虜270人を贈る届けてきた高麗の使者との交渉で自腹で黄金300両を使者に与えてをもてなすなど戦後処理でも活躍します。

刀伊の入寇」後の隆家

写真AC
大宰府政庁跡

1019年12月、隆家は大宰権帥を辞任して今日に帰りましたが、恩賞は与えられませんでした。

翌1020年に都で疱瘡がはやった際は「刀伊が持ち込んだ病気が隆家にとりついて都で流行した」といったいわれなき疑いまでかけられます。

 

1023年(治安3年)、隆家は息子を昇進させることと引き換えに中納言を辞任しました。

1037年(長暦元年)、再び大宰権帥として九州に赴任し1042年(長久3年)まで務めています。

隆家が亡くなったのは1044年(長久5年)のことでした。

まとめ

藤原隆家は国防に関心が低い中央政府の力を頼れず、九州の在地勢力だけで道の異民族である刀伊と戦うという困難なミッションを達成しました。

隆家は1度ならず2度までも大宰権帥として九州に赴いていることから見ても、九州にかなり愛着を持っていたかもしれません。

九州の土豪たちも隆家を特別な存在とみなしました。

たとえば、熊本県南部の名族で南北朝時代に活躍する武士の菊池氏は藤原隆家の子孫を称しています。

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