「花山院の出家ってどんな話?」
「花山院の出家の登場人物は誰?」
このページを訪れた人はこのような疑問を持っているかもしれません。
「花山院の出家」は歴史物語の『大鏡』に収録されている物語の一つです。
時の右大臣である藤原兼家が息子の一人である「粟田殿(藤原道兼)」を動かして、花山天皇をだまして出家させるお話です。
この当時、出家してしまえば政治的な力は失われ、「世俗」と切り離された存在になると考えられていました。
そのため、花山天皇も出家後は「花山院」とよばれるようになり、政治の表舞台から退場します。
そして、非常事態が発生した時、陰陽師の安倍晴明は式神から花山天皇が出家したと知らされます。
さりげなく、安倍晴明と式神の話が語られるのも面白いお話です。
高校時代に習っていた時は、品詞分解やら敬語やらで非常に煩雑に感じましが、受験を離れて物語としてみてみると、なかなかに面白いエピソードだと思います。
今回は、「花山院の出家」について、元予備校講師がわかりやすく解説します。
なお、平安時代に興味がある方はこちらの記事もどうぞ
『大鏡』とは
文徳天皇から後一条天皇までの14代176年の歴史を扱います。
主人公は藤原道長ですが、道長以外のことについてもかなり書かれていますよ。
『今鏡』『水鏡』『増鏡』とあわせて四鏡とよばれましたが、『大鏡』は類まれな歴史観によって高く評価されている作品です。
『大鏡』では、登場人物の人物像についても描かれており、「花山院の出家」でも出家に迷い揺れ動く花山天皇の胸の内や、なんとしても父の命令である出家を成功させるべく、弁舌の限りを尽くす粟田殿(藤原道兼)の様子が生々しく描かれています。
他の『大鏡』のエピソードが知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
「花山院の出家」の登場人物
物語を読むうえで、一番大事なのは、「誰」が出ているかという登場人物の把握です。
特に、古典の文章では主語が省略されていることが珍しくないので、登場人物をしっかり把握しておかないと、頭がこんがらかってしまいます。
花山天皇(花山院)
円融天皇の即位と共に皇太子に建てられ、984年に天皇の位につきました。
この時、花山天皇は17歳。
義父である藤原伊尹は既に死去していたため、有力な外戚がいない状態での即位でした。
花山天皇は積極的に政治に取り組み、荘園整理令などの改革を行ったため、関白の藤原頼忠との確執を招きました。
985年、花山天皇が深く寵愛していた藤原忯子が17歳で死去。
忯子の死を深く悲しんだ花山天皇は出家をして菩提を弔いたいと言い出します。
関白や側近たちは花山天皇の出家を思いとどまらせようとしていました。
藤原兼家
藤原兼家は「粟田殿」の父親で当時、右大臣の地位にいました。
かねてから自分の娘である詮子の子である懐仁親王(のちの一条天皇)の即位を実現するため、花山天皇の早急な退位を画策します。
ちなみに、一条天皇の后となるのが彼の孫にあたる定子と彰子で、定子の側近が清少納言、彰子の側近が紫式部です。
清少納言に関する記事はこちらです!
この兼家こそ、「花山院の出家」の筋書きを描き、だましうちのようにして花山天皇を出家させた張本人でした。
粟田殿は父である兼家の意を受け、花山天皇の出家を一生懸命促します。
藤原道兼(粟田殿)
兼家の次男で、この時は天皇の秘書の一人である蔵人として側近に仕えていました。
父の兼家は花山天皇の情緒的な性格を利用して彼を退位させようと画策し、道兼に出家を説得させます。
出家することをためらう花山天皇を強引に説得し、寺まで連れて行ったうえで出家を見届けた道兼は、「出家前に父親に最後の姿を見せてくる」といって、寺から立ち去りました。
花山天皇は道兼に騙されていたと気づきますが後の祭りです。
ここから、道兼の狡猾な人物像を見て取ることができます。
最初は、天皇と共に出家するといっておきながら、最後の瞬間に見事な手のひら返しを見せたといってよいでしょう。
安倍晴明
映画の主人公になったことでも知られていますね。
すると、清明は式神を動かし、天皇出家に対応する指示を大声で出します。
清明の超人的な力を垣間見ることができるエピソードですね。
花山院の出家のあらすじ
花山院、月夜に宮中を出る
悲しみに暮れる花山院に対し、粟田殿は「自分も一緒に出家をするので、出家して愛する人の菩提を弔いましょう」と花山天皇を説得します。
情緒的な花山天皇は粟田殿の説得にのり、出家する決意を固めました。
粟田殿は皇位の証である三種の神器を皇太子に渡して、譲位を既成事実化しようとはかります。
明るい有明の月を見て、「(自分がひそかに宮中を出ようとしているのに)丸見えだな」と花山天皇が躊躇すると、粟田殿は「だからといって出家を取りやめるわけにもいきません。
三種の神器も皇太子に渡してしまったのですから」と花山天皇を急き立てます。
天皇は、弘徽殿の女御からもらった手紙のことを思い出し「少し待て」といって、部屋に戻ったりしたものだから、粟田殿は気が気でなかったことでしょう。
だから、「いまを逃した出家に触りが出る」などとウソ泣きして花山天皇をせかしました。
花山院の出家に安倍晴明が気づく
粟田殿は花山天皇を連れて清明の屋敷がある土御門大路に差し掛かりました。
すると、中から清明の声がして、「帝が退位されるという異変があった。すでに、ことは成ったようだ。宮中に参上して帝にお話し申し上げよう。車の用意をせよ」などと話しています。
清明が式神を先に内裏に派遣しようとすると、式神が「ただいま、ここを通り過ぎて笈気になるようです」と清明に報告しました。
小説や映画などで清明の活躍を目にすることはあるかもしれませんが、古典の原文に登場すると、また違った趣がありますね。
花山院は出家。しかし、粟田殿は出家せず
花山寺に到着すると、花山天皇は剃髪して出家なさいました。
すると、寄り添ってきた粟田殿は「私は、いったん退出して父に今の姿をしっかりと見せ、報告したうえで戻ります」などといいだしました。
この瞬間、花山天皇(出家してしまったので、花山院になりますが)は粟田殿に謀られたことに気づきました。
「さては私をだましたのだな」と花山院はお泣きになったといいます。
策謀を仕掛けた張本人である兼家は、花山天皇の出家に息子である粟田殿(道兼)が巻き込まれやしないかと警戒し、警固の武士までつけていたといいます。
つくづく用心深いことですね。
当時の常識では、いったん出家した人物が俗世に帰る(還俗)ことはとても難しいことでした。
出家=政界引退となるのが常識だったのです。
100年後であれば、白河上皇のように出家してからでも政治を行う人物が現れますが、この当時にはありえないことでした。
さいごに
一条天皇を即位させることに成功した藤原兼家は、権勢を極めました。
兼家の子が藤原道長です。
もし、花山院の出家がなければ、道長の政権掌握はもっと後になったかもしれませんね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。