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斎藤道三によって国を奪われた美濃の名門「土岐氏」や明智氏などの庶流について、元予備校講師がわかりやすく解説

こんにちは。木彫りグマです。

 

1963年、小説家の司馬遼太郎は『サンデー毎日』の誌上で『国盗り物語』の連載を始めました。

国盗り物語』の前半の主人公は斎藤道三、後半の主人公は織田信長です。

大河ドラマ麒麟が来る』を見ていると、『国盗り物語』の道三を思い出しますね。

道三は土岐氏の内紛に乗じて着々と権力者の座へと昇りつめます。

 

その一方、土岐氏は道三に蚕食され大木が朽ち果てるように、滅び去ってしまいました。今回は国を取られた土岐氏にスポットライトを当ててみたいと思います。

 

なお、室町時代守護大名について知りたい方はこちらを記事を

守護大名と戦国大名、いったい何が違うの? 斎藤道三の下剋上とあわせて、元予備校講師がわかりやすく解説

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同時代の、織田信秀について知りたい方はこちらの記事を

 財テクでのし上がり、天下布武の礎を築いた信長の父、織田信秀

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戦国大名の先駆者となった朝倉氏のことを知りたい方はこちらの記事をお読み下さい。

 斎藤道三・織田信秀に先駆けて戦国大名化した越前朝倉氏について元予備校講師がわかりやすく解説

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/43626">acworks</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

鎌倉時代から室町時代には繁栄した土岐氏とは

土岐氏鎌倉時代から室町時代にかけて繁栄した名門武士です。清和源氏の流れをくみ、美濃国を中心に勢力をはっていました。

土岐氏の血統や土岐氏の台頭、室町時代前期のおきた土岐康行の乱などについてまとめます。

 

土岐氏の血統

土岐氏は先祖をたどると清和源氏

清和源氏清和天皇の第六皇子である貞純親王の子である経基王が源姓を賜ったことに始まります。

清和源氏摂津国で武士団を形成し、摂関家と結びつきながら勢力を拡大しました。

 

清和源氏の一族からは源頼朝が出て、武家の棟梁として鎌倉幕府を開きます。

鎌倉時代の源氏将軍や室町時代足利将軍家なども清和源氏の流れをくみますね。

 

源頼朝鎌倉幕府を開いたころ、美濃土岐氏の事実上の始祖である土岐光衡(みつひら)が鎌倉幕府御家人となりました。

 

鎌倉時代中期の御家人、土岐光貞は鎌倉幕府9代執権北条貞時の娘を妻とするなど、幕府に一目置かれる存在に成長しつつありました。

土岐氏は庶流を美濃国内に住まわせ土着させます。

これにより、土岐氏は強力な武士団を形成するようになっていました。

 

土岐氏の台頭

鎌倉時代後期、美濃国内に多くの庶子を配置することで土岐氏は「桔梗一揆」とよばれる強力な武士団を形成していました。

桔梗は土岐一族の旗印です。

 

鎌倉幕府が滅亡するとき、土岐氏足利尊氏に味方しました。

その後の南北朝の動乱でも土岐氏は尊氏に味方して戦功をあげます。

その結果、土岐氏は美濃守護の地位を手に入れることに成功しました。

 

南北朝時代の活躍により、土岐氏は美濃に加えて伊勢・尾張守護職も得ました。室町幕府の宿老ともなった土岐頼康は川手城を築城し、土岐家の居城とします。

 

土岐康行の乱

14世紀後半、室町幕府3代将軍の足利義満南北朝の争乱を徐々に収束させ、力を強めていました。

義満にとって、強大な力を持つ守護大名は力を削いでおきたい相手です。

 

1387年、室町幕府の宿老として力をふるっていた土岐頼康が70歳で死去しました。

土岐氏を弱体化させたい義満は、美濃と伊勢の守護職土岐氏を相続した土岐康行に与えますが、尾張守護職は康行の弟である満貞に与えてしまいます。

 

義満の決定に怒った尾張守護代の土岐詮直(康行の従兄弟)は、満貞と戦いを交え、満貞を追い返してしまいました。

義満はこの事態をチャンスととらえ、土岐氏を攻撃しました。

戦いは義満の勝利に終わり、土岐氏の勢力は大きく削減されてしまいます。

 

 

内紛による土岐氏の衰退と、斉藤利政(道三)の「国盗り」

 

土岐康行の乱後も、土岐氏は美濃の守護大名として君臨していました。

16世紀前半、土岐氏は嫡男の土岐頼武(政頼ともいいます)と弟の土岐頼芸が跡目をめぐって争います。

 

土岐氏の跡目争いに乗じて力をつけたのが斎藤利政(のちの、斎藤道三)でした。

最終的に道三は土岐頼芸を追放し、美濃一国を手中に収めます。

 

相次ぐ跡目争い

1495年、守護の土岐成頼の後継者をめぐる船田合戦が起きました。

成頼の子である政房と元頼が当主の座をめぐって争います。

このとき、美濃守護代の斎藤家やその下の小守護代長井家も争いに巻き込まれました。

戦いは政房の勝利に終わります。

 

16世紀前半になっても、土岐氏は内紛を繰り返しました。今度は、政房の子である頼武と頼芸が家督をめぐって争いました。

 

斎藤利政(道三)の権力掌握

斎藤道三は、かつて、一代で下克上し美濃国主に上り詰めたと考えられていました。しかし、近年発見された資料などにより、親子二代で「国盗り」を成し遂げたことがわかってきました。

 

道三の父である新左衛門尉は、もともと京都妙覚寺の僧侶でした。はじめ、西村の苗字を名乗っていましたが、のち、小守護代の長井氏に仕え、長井姓を名乗ります。

 

道三は父が築いた地盤を生かして、小守護代長井氏にとってかわり、守護代の斉藤家も手中に収めます。『麒麟が来る』で、道三は斉藤利政と名乗っていることから、斉藤氏をのっとって守護代となった時期と考えられますね。

 

道三が台頭したころ、土岐氏では頼武と頼芸の争いが激しさを増します。道三は頼芸の味方となり、朝倉氏の支援を受けた頼武を退けました。

 

土岐頼芸の追放

道三の力で守護職に就いた土岐頼芸は、道三が弟を毒殺したことがきっかけとなり、道三と不和になったといいます。

道三にとって、美濃の実権を手にした今、守護である土岐頼芸は用済みの存在だったのかもしれません。

 

1542年、頼芸は道三によって尾張に追放されます。

その後、美濃に戻りますが1552年にふたたび追放されました。

こうして、土岐頼芸美濃国を完全に失ってしまいます。

 

ちなみに、土岐頼芸は鷹の絵の名手として知られ、芸術を愛好しました。

平和な時代なら、芸術家として名を遺したかもしれませんね。

 

 

土岐頼芸のその後と代表的な庶流

 土岐頼芸は道三によって追放されてから、各地を転々としたといいます。

美濃土岐氏の本家は滅びましたが、土岐氏の庶流である明智氏から光秀が出ました。

また、別の庶流である浅野氏は豊臣秀吉との結びつきにより出世。

近世大名として命脈をつなぎました。

 

土岐頼芸のその後

道三によって追放された土岐頼芸は、妹の嫁ぎ先である南近江の六角氏のもとに身を寄せました。

その後、頼芸は関東に向かい、実弟が住む常陸国上総国の土岐為頼などを頼ったといいます。

 

最終的に頼芸が身を寄せたのは甲斐の武田氏でした。

武田氏のものとで庇護を受けていた頼芸は、信長の甲州征伐の際に信長軍によって発見されました。

信長の配下となっていた美濃出身の大名稲葉一鉄は、頼芸を美濃に連れ帰ります。

このとき、頼芸は病によって視力を失っていました。頼芸は美濃帰還後、81歳で亡くなります。

 

美濃国に土着した明智氏

麒麟が来る』で主人公となっている明智光秀は、土岐氏の庶流に当たります。

だから、光秀の旗印は土岐一族に受け継がれた桔梗なんですね。

 

岐阜県東部の恵那市付近に土着した明智氏は、本拠地を可児市明智荘に移します。

斉藤道三が美濃の実権を握ってからは、道三との関係を強化して生き残りを図りました。

 

斉藤道三が息子の義龍と対立したとき、明智光安は道三に味方しました。

そのため、義龍に味方する他の豪族に攻められ、滅ぼされます。

光安の甥である明智光秀明智城陥落前に脱出しました。

 

光秀は朝倉義景足利義昭などに仕えつつ、力量を高めたと考えられます。

足利義昭織田信長を頼った時には義昭とともに、信長の傘下に入りました。

以後、信長の武将として目覚しい出世を遂げます。

 

晩年、長宗我部氏に対する外交姿勢の違いなどから信長とギャップが生まれた光秀は、次第に信長から疎まれていったのかもしれません。

 

1582年、光秀は京都本能寺で信長を倒し、一時的に天下人となりました。

しかし、山崎の戦い羽柴秀吉に敗れ、10日あまりで光秀の天下は終わります。

 

秀吉の妻である、ねねの実家である浅野氏

豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎と名乗っていたころ、ねねと結婚しました。ねねの実家が浅野氏です。浅野氏も数多くある土岐氏の庶流のひとつでした。

 

浅野氏は織田家に仕える武士でしたが、ねねが秀吉と結婚することで秀吉との縁が深まります。

秀吉は農民出身だったため、有力な家臣がいませんでした。

そのため、秀吉から浅野長政は近親者の扱いを受け厚遇されました。

秀吉が天下人となった後、甲斐一国を与えられます。

 

秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いでは東軍に味方。

家康から毛利氏の旧領である安芸国を与えられ、幕末まで広島藩主家として存続します。

なお、分家に忠臣蔵切腹を命じられる赤穂藩浅野長矩がいますよ。

 

 

さいごに

土岐氏の本家は、戦国乱世に飲み込まれて滅亡してしまいました。しかし、明智光秀は、本能寺の変の前に、連歌会でこんな歌を読んでいます。

 

 「ときはいま あめがくだしる さつきかな」

 

とき、は「時」と「土岐」の掛詞、あめがくだしる、は天(あめ)が下(くだ)しる(治る)と読めば、天下を治めるとなります。

 

光秀は、一度は滅んだ土岐一族の栄光を自分が復活させると意気込んでいたのかもしれませんね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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