「土岐氏の末裔とは?」
「土岐氏の城とは?」
このページをご覧の皆さんは、そのような疑問を持っているかもしれません。
土岐氏は鎌倉時代から室町時代にかけて美濃国(岐阜県)で強い力を持った守護大名です。
しかし、内紛を繰り返すことによって弱体化し、最後は斎藤道三によって美濃国を奪われてしまいました。
また、2020年大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公である明智光秀も土岐一族だったことが知られています。
今回は土岐氏とはどんな一族か、明智光秀を始めとする土岐氏の末裔、土岐氏の城、斎藤道三の「国盗り」などについてまとめます。
同時代の、織田信秀について知りたい方はこちらの記事を
戦国大名の先駆者となった朝倉氏のことを知りたい方はこちらの記事をお読み下さい。
土岐氏とは
土岐氏の血統や土岐氏の台頭、室町時代前期のおきた土岐康行の乱などについてまとめます。
土岐氏のはじまり
清和源氏は清和天皇の第六皇子である貞純親王の子である経基王が源姓を賜ったことに始まります。
清和源氏は摂津国で武士団を形成し、摂関家と結びつきながら勢力を拡大しました。
清和源氏の一族からは源頼朝が出て、武家の棟梁として鎌倉幕府を開きます。
鎌倉時代の源氏将軍や室町時代の足利将軍家なども清和源氏の流れをくみますね。
源頼朝が鎌倉幕府を開いたころ、美濃土岐氏の事実上の始祖である土岐光衡(みつひら)が鎌倉幕府の御家人となりました。
鎌倉時代中期の御家人、土岐光貞は鎌倉幕府9代執権北条貞時の娘を妻とするなど、幕府に一目置かれる存在に成長しつつありました。
これにより、土岐氏は美濃国で強力な武士団を形成するようになっていました。
土岐氏の家紋
土岐氏の家紋は「水色桔梗紋」といいます。
水色桔梗紋には、白地に水色の桔梗が描かれたものと、水色地を白抜きした桔梗の二種類があります。
鎌倉時代後期、美濃国内に多くの庶子を配置することで土岐氏は「桔梗一揆」とよばれる強力な武士団を形成していました。
戦場で土岐一族が「水色桔梗紋」をはためかせて布陣する様子は壮観だったでしょうね。
その後の南北朝の動乱でも土岐氏は尊氏に味方して戦功をあげます。
その結果、土岐氏は美濃守護の地位を手に入れることに成功しました。
南北朝時代の活躍により、土岐氏は美濃に加えて伊勢・尾張の守護職も得ました。
室町幕府の宿老ともなった土岐頼康は川手城を築城し、土岐家の居城とします。
土岐氏の主な居城とは?
川手城
川手城は1353年に土岐頼康によって築かれた城です。
土岐氏の内紛によって消失するなどしましたが、基本的に土岐氏の本城として機能しました。
1530年に美濃国の実権を握った斎藤道三が居城を稲葉山城(岐阜城)に移したため、廃城となりました。
大桑城
大桑城は土岐氏最後の居城です。
美濃で守護代の斎藤氏(特に斎藤道三)が勢力を拡大すると、守護の土岐氏は大桑城に本拠地を移します。
その理由は、友好関係にあった越前朝倉氏の支援を受けやすいからでした。
土岐氏の勢力が衰退し、斎藤道三の力が強まると人々は大桑城より道三の居城があった稲葉山城の城下町である井ノ口に移住。
徐々に大桑城は衰退しました。
そして、1547年に斎藤道三に攻められた結果、大桑城は陥落。
土岐氏は美濃を追放されてしまいました。
土岐氏の乱(土岐康行の乱)
土岐康行の乱は、土岐康行と室町幕府3代将軍足利義満の戦いです。
14世紀後半、室町幕府3代将軍の足利義満は南北朝の争乱を徐々に収束させ、力を強めていました。
義満にとって、強大な力を持つ守護大名は力を削いでおきたい相手です。
1387年、室町幕府の宿老として力をふるっていた土岐頼康が70歳で死去しました。
土岐氏を弱体化させたい義満は、美濃と伊勢の守護職は土岐氏を相続した土岐康行に与えますが、尾張の守護職は康行の弟である満貞に与えてしまいます。
義満の決定に怒った尾張守護代の土岐詮直(康行の従兄弟)は、満貞と戦いを交え、満貞を追い返してしまいました。
義満はこの事態をチャンスととらえ、土岐氏を攻撃しました。
戦いは義満の勝利に終わり、土岐氏の勢力は大きく削減されてしまいます。
土岐氏の衰退と斉藤道三「国盗り」
土岐康行の乱後も、土岐氏は美濃の守護大名として君臨していました。
16世紀前半、土岐氏は嫡男の土岐頼武(政頼ともいいます)と弟の土岐頼芸が跡目をめぐって争います。
土岐氏の跡目争いに乗じて力をつけたのが斎藤利政(のちの、斎藤道三)でした。
最終的に道三は土岐頼芸を追放し、美濃一国を手中に収めます。
相次ぐ跡目争い
1495年、守護の土岐成頼の後継者をめぐる船田合戦が起きました。
成頼の子である政房と元頼が当主の座をめぐって争います。
このとき、美濃守護代の斎藤家やその下の小守護代長井家も争いに巻き込まれました。
戦いは政房の勝利に終わります。
16世紀前半になっても、土岐氏は内紛を繰り返しました。
今度は、政房の子である頼武と頼芸が家督をめぐって争いました。
斎藤利政(道三)の権力掌握
斎藤道三は、かつて、一代で下克上し美濃国主に上り詰めたと考えられていました。
しかし、近年発見された資料などにより、親子二代で「国盗り」を成し遂げたことがわかってきました。
道三の父である新左衛門尉は、もともと京都妙覚寺の僧侶でした。
はじめ、西村の苗字を名乗っていましたが、のち、小守護代の長井氏に仕え、長井姓を名乗ります。
道三は父が築いた地盤を生かして、小守護代長井氏にとってかわり、守護代の斉藤家も手中に収めます。
『麒麟が来る』で、道三は斉藤利政と名乗っていることから、斉藤氏をのっとって守護代となった時期と考えられますね。
道三が台頭したころ、土岐氏では頼武と頼芸の争いが激しさを増します。道三は頼芸の味方となり、朝倉氏の支援を受けた頼武を退けました。
土岐頼芸の追放
道三の力で守護職に就いた土岐頼芸は、道三が弟を毒殺したことがきっかけとなり、道三と不和になったといいます。
道三にとって、美濃の実権を手にした今、守護である土岐頼芸は用済みの存在だったのかもしれません。
1542年、頼芸は道三によって尾張に追放されます。
その後、美濃に戻りますが1552年にふたたび追放されました。
ちなみに、土岐頼芸は鷹の絵の名手として知られ、芸術を愛好しました。
平和な時代なら、芸術家として名を遺したかもしれません。
土岐頼芸のその後と土岐氏の末裔
土岐頼芸は道三によって追放されてから、各地を転々としたといいます。
美濃土岐氏の本家は滅びましたが、土岐氏の庶流である明智氏から光秀が出ました。
また、別の庶流である浅野氏は豊臣秀吉との結びつきにより出世し、近世大名として命脈をつなぎました。
土岐頼芸のその後
道三によって追放された土岐頼芸は、妹の嫁ぎ先である南近江の六角氏のもとに身を寄せました。
その後、頼芸は関東に向かい、実弟が住む常陸国や上総国の土岐為頼などを頼ったといいます。
最終的に頼芸が身を寄せたのは甲斐の武田氏でした。
武田氏のものとで庇護を受けていた頼芸は、信長の甲州征伐の際に信長軍によって発見されました。
信長の配下となっていた美濃出身の大名稲葉一鉄は、頼芸を美濃に連れ帰ります。
このとき、頼芸は病によって視力を失っていました。頼芸は美濃帰還後、81歳で亡くなります。
美濃国に土着した明智氏
『麒麟が来る』で主人公となっている明智光秀は、土岐氏の庶流に当たります。
だから、光秀の旗印は土岐一族に受け継がれた桔梗なんですね。
岐阜県東部の恵那市付近に土着した明智氏は、本拠地を可児市の明智荘に移します。
斉藤道三が美濃の実権を握ってからは、道三との関係を強化して生き残りを図りました。
斉藤道三が息子の義龍と対立したとき、明智光安は道三に味方しました。
そのため、義龍に味方する他の豪族に攻められ、滅ぼされます。
光秀は朝倉義景や足利義昭などに仕えつつ、力量を高めたと考えられます。
足利義昭が織田信長を頼った時には義昭とともに、信長の傘下に入りました。
以後、信長の武将として目覚しい出世を遂げます。
晩年、長宗我部氏に対する外交姿勢の違いなどから信長とギャップが生まれた光秀は、次第に信長から疎まれていったのかもしれません。
1582年、光秀は京都本能寺で信長を倒し、一時的に天下人となりました。
しかし、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、10日あまりで光秀の天下は終わります。
秀吉の妻である、ねねの実家である浅野氏
豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎と名乗っていたころ、ねねと結婚しました。
ねねの実家が浅野氏です。浅野氏も数多くある土岐氏の庶流のひとつでした。
浅野氏は織田家に仕える武士でしたが、ねねが秀吉と結婚することで秀吉との縁が深まります。
秀吉は農民出身だったため、有力な家臣がいませんでした。
そのため、秀吉から浅野長政は近親者の扱いを受け厚遇されました。
秀吉が天下人となった後、甲斐一国を与えられます。
秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いでは東軍に味方。
家康から毛利氏の旧領である安芸国を与えられ、幕末まで広島藩主家として存続します。
なお、分家に忠臣蔵で切腹を命じられる赤穂藩主浅野長矩がいますよ。
さいごに
土岐氏の本家は、戦国乱世に飲み込まれて滅亡してしまいました。
しかし、明智光秀は、本能寺の変の前に、連歌会でこんな歌を読んでいます。
「ときはいま あめがくだしる さつきかな」
とき、は「時」と「土岐」の掛詞、あめがくだしる、は天(あめ)が下(くだ)しる(治る)と読めば、天下を治めるとなります。
光秀は、一度は滅んだ土岐一族の栄光を自分が復活させると意気込んでいたのかもしれませんね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。