「織田信秀ってどんな人?」
「信秀の死因や墓は?」
この記事を読んでいる方はそのような疑問を持っているかもしれません。
織田信秀は織田信長の父で、尾張(愛知県西部)で勢力を伸ばした戦国大名です。
伊勢湾交易の要衝である対馬を支配することで経済力をつけた信秀は、尾張で最強の勢力へと成長しました。
しかし、隣国美濃の「マムシ」こと斎藤道三や西の「海道一の弓取り」こと今川義元が信秀の勢力拡大を阻みます。
今回は信長の父である織田信秀にスポットを当て、彼の生涯や斎藤道三、今川義元との関係、彼の死因や墓所などについて整理します。
織田信秀とは?
織田信定は尾張下四郡守護代の織田大和守家の分家の生まれで、守護や守護代よりも下の身分でした。
古渡城や末森城を築城して熱田や津島といった商業都市への支配権を強め財源を強化しました。
商業を重視する信秀の施策は、のちに信長が実行した商業重視の政策に通じるところがありますね。
1540年、当主の暗殺により混乱していた松平氏を攻め、西三河の重要拠点である安祥城を奪取します。
信秀が勢力を拡大していたころ、北の隣国である美濃では斎藤道三が下剋上を成し遂げ、守護の土岐一族を追放します。
信秀は、たびたび美濃に出兵し領土拡大を果たしましたが、その都度、道三に阻まれうまくいきません。
また、西からは駿河・遠江を支配する今川氏の勢力が三河にも及び、信秀の勢力を脅かしつつありました。
北と東から圧力を受けた信秀は、息子の信長と道三の娘である帰蝶(濃姫)を結婚させ、道三と同盟します。
信秀は道三との同盟を軸に体制立て直しを図りますが、病によって体調が悪化。
1552年に亡くなりました。
織田信秀と斎藤道三の関係とは?
加納口の戦いで大敗(1544年)
1542年、斎藤道三は美濃守護の土岐頼芸を尾張に追放します。
信秀は越前の朝倉孝景と手を組み、土岐氏支援の兵をあげました。
『信長公記』によれば、織田・朝倉連合軍は25,000に及んだといいます。
土岐氏の復権という大義名分を掲げた織田軍は、斎藤道三の居城である稲葉山城の城下町に攻め込み、これを焼き払います。
道三の兵は城に引きこもったまま出てきません。
出撃の可能性が低いと判断した織田軍はいったん引き上げることにしました。
しかし、兵の半ばが撤退したころ、突如として道三が城から打って出ました。
城兵は出撃しないだろうと高をくくっていた織田軍は大混乱し、多数の犠牲者を出して尾張に撤退しました。
この戦いを加納口の戦い、あるいは井ノ口の戦いといいます。
帰蝶を信長の嫁として迎えた(1549年)
痛手を負った信秀は重臣の平手政秀に命じ、道三と和睦の道を探ります。
この平手政秀、なかなかの教養人で信秀の外交担当党として活躍した人物。
のちに、信長の傅役となります。
しかし、信秀の死後の不穏な時期に自刃して果てました。
さて、平手政秀の努力の甲斐あって、信秀と道三は和睦することになりました。
その和睦の証として、美濃から送り込まれたのが道三の娘である帰蝶です。
帰蝶は信秀の嫡男である信長と結婚しするために尾張にやってきました。
美濃からやってきた姫ということで、濃姫とよばれたという説がありますよ。
織田信秀と今川義元の関係とは?
三河に攻め込み岡崎城を攻略(1547年)
信秀が尾張で勢力を拡大していたころ、東の隣国三河では松平清康が版図を拡大していました。
しかし、守山崩れとよばれる事件により清康は暗殺されます。
かわって当主となった松平広忠はまだ若年だったため、松平氏の勢力は急速に瓦解しました。
これに付け込んだのが信秀です。
信秀は西三河の重要拠点である安祥城を攻め落とし、松平氏の本拠地である岡崎城も攻略。
松平広忠を降伏させました。
小豆坂の戦いで敗北(1548年)
1548年、松平広忠は美濃の斎藤道三や駿河の今川義元の支援を受け、信秀と戦いを始めます。
戦いにあたり、広忠は今川氏の援軍を得ていました。
松平・今川連合軍の兵力は10,000に及んだとされます。
このとき、今川軍を率いていたのが今川義元の軍師である太原雪斎です。
一方、信秀が動員できたのは4,000前後と推定されました。
両軍は岡崎城周辺の小豆坂で激突します。
戦いは松平・今川連合軍の勝利に終わりました。
その後、今川軍は安祥城も攻め落とし、織田勢は三河から大きく後退します。
信秀の死(1552年)
信秀の死因は病死
小豆坂の合戦と同じ年、信秀は病にかかったようです。
信秀が病気にかかったことは家臣や周辺の諸勢力の知るところとなっていました。
この間、嫡男の信長が信秀の仕事の一部を肩代わりしていたことが分かる資料が残されています。
そして、1552年に信秀は病でこの世を去りました。享年42歳です。
死因は脳卒中、心筋梗塞、流行病など様々な説が出されていますが、特定されていません。
墓碑はクラウドファンディングで資金調達?
現在、萬松寺にある織田信秀の墓碑費用の一部ははクラウドファンディングに集められました。
信秀の墓碑が萬松寺にあるのは、彼がこの寺に葬られ、葬式などの法要もここで行われたからです。
葬儀の際、嫡男の信長が普段着のまま現れ、位牌に抹香を投げつけたという伝説があります。
葬儀ではなく、一周忌など別な法要での出来事だとする説もあります。
萬松寺には信秀の墓碑などがありましたが、老朽化により2015年に撤去されます。
2019年、萬松寺は 信秀の墓碑を再建するためクラウドファンディングで費用を募りました。
こうした費用の一部を用い、信秀の墓碑は再建されました。
さいごに
商業資本に注目し、そこから収入を得ることで活動資金を得た織田信秀。
斎藤道三や今川義元といった周辺の強敵と戦いながら信長飛躍の礎を築きました。
先進的な彼の政策は、息子の信長に少なからず影響を与えたのではないでしょうか。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。