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財テクでのし上がり、天下布武の礎を築いた信長の父、織田信秀

こんにちは。木彫りグマです。

 

先日、大河ドラマの『麒麟が来る』第3回を見ました。

主人公の光秀はまだ若く、老獪な大人たちに振り回されている時代ですね。

第2回で描かれた狩野口の戦いでは、道三の罠にはまり大敗を喫した織田信秀

道三の引き立て役に見えてしまうかもしれませんが、信秀もじつはかなりのやり手としてのし上がった人物でした。

 

今回は、信長の父で信長の天下統一の礎を築いた織田信秀を取り上げます。

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/1147610">HiC</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

戦国前期の尾張織田家

16世紀前半の戦国時代前期、尾張でも守護である斯波氏が没落し、守護代織田家が勢力を増していました。

尾張の場合、守護代のさらに下の奉行の地位にあった織田弾正忠家が力を持つようになります。

この織田弾正忠家こそ、信秀・信長の家でした。

 

守護斯波氏の没落

尾張守護の斯波氏は、室町幕府きっての名門でした。室町幕府の最高職で将軍の補佐役である管領には細川氏・畠山氏・斯波氏しか就任することができません。

斯波氏は越前や尾張遠江の守護を世襲し、室町時代前期には強い力を持っていました。

 

しかし、斯波氏は内部紛争が激しく、勢力を次第に弱めていました。斯波氏の弱体化が決定的となったのは応仁の乱です。

この混乱の渦中で、越前守護代朝倉孝景が斯波氏から独立。遠江駿河の今川氏に奪われます。加えて、尾張でも守護代である織田氏によって地盤が切り崩されてしまいました。 

守護代織田氏の分裂

守護の斯波氏の力が弱体化すると、守護代織田氏の力が強まります。ところが、織田氏の中で主導権をめぐる争いが起きました。

幕府は織田氏の争いに介入。幕府の朝廷の結果、尾張上四郡は織田伊勢守家が、尾張下四郡は大和守家が支配することで一応の決着を見ます。

 

以後、尾張は岩倉城を中心に尾張上四郡を支配する岩倉織田氏(伊勢守家)と、清洲城を中心に尾張下四郡を支配する清洲織田氏(大和守家)の分割統治の時代に入ります。

 

織田信定の台頭と信秀の家督相続

清洲織田氏のもとで、実質的な政治を司っていたのが家老にあたる清洲三奉行でした。

三奉行の家柄の一つが織田弾正忠家です。

 

三奉行の一人に過ぎなかった弾正忠家が強大化するのは信長の祖父である織田信定の時代から。

信定は尾張下四郡のうち、中島郡や海東郡に勢力を伸ばし、織田家の経済力を高めました。

 

信定の子である信秀は10代後半で家督を譲られます。

父である信定の存命中に家督を相続していることから、信秀が高く評価されていた可能性がありますね。

   

流通に目を付け、富を蓄積した織田信定・信秀

室町時代は、日本史の中で貨幣経済が発展した時代として知られています。

武士たちの土地の生産力も「貫高制」という銭に換算して表記していたほどでした。

織田弾正忠家が勢力を張っていた尾張下四郡は、伊勢湾交易の要衝として商業が発達した地域です。

織田信定も信秀も商業に精通していたのかもしれません。

 

勝幡城の築城と津島支配

尾張を支配する清州織田家の奉行の一人だった織田信定は、勝幡城を築城しました。

これにより、信定は商業都市として成長しつつあった津島を支配下に置くことに成功します。

 

津島は、牛頭天王信仰で有名な津島神社門前町でした。

中世、商業活動に寺社が積極的に関与し許認可を与えるのが通例でした。

津島神社や津島の町衆を支配したことで織田信定の経済力は飛躍的に向上したと考えられます。

 

家督を相続した信秀は、信定が築いた経済基盤を生かして更なる勢力拡大を図ります。

 

古渡城の築城と熱田支配

1538年、信秀は那古屋城を支配していた今川氏豊を謀略を持って打ち破り、那古屋城を奪取することに成功しました。

 

信秀の次の狙いは熱田です。

熱田は熱田神宮門前町として尾張でも屈指の繁栄を誇っていました。

1539年、信秀は古渡城を築城し、近隣の熱田の支配を確たるものとします。

 

津島に続いて熱田も支配することに成功した信秀は両地域から税を徴収することで現金収入を得ました。

 

信秀は、この収入を使い朝廷や幕府に献上金を納め、織田弾正忠家の権威を向上させます。

信秀と信長の共通点

1552年、織田信秀は末森城で死去しました。享年42歳。

信秀の後を継いだ信長は、尾張国内の反対勢力や守護代の清州織田家、岩倉織田家を滅ぼし、尾張統一を成し遂げました。

 

信秀の政策をまじかで見ていた信長には、信秀との共通点が見いだせます。

いったい、どのような経典があるのでしょうか。

   

商業を重視した政策

信長の政策といえば、楽市楽座が有名です。

座の特権を排除し、市での営業を自由にすることで商業活動の振興を図りました。

信秀は、津島神社熱田神宮の経済的特権を利用することで活動資金を獲得します。

 

いっけん、真逆のように見えますが、室町時代後期に発展した商業から収入を得ようとする発想は同じです。

 

のちに成立する江戸幕府は、土地からの収入を最重要視し、信秀や信長ほど商業に執着しませんでした。

 

同じ東海地方出身であっても、信秀・信長は商業が盛んで交易が盛んだった尾張南部の出身。

徳川家康は農業中心社会だった西三河出身です。

バックボーンが違うことで、税をどこからとるべきかという着眼点に違いが生まれたとすれば、とても面白話です。

 

ちなみに、江戸時代は町人にかけられる税金は農民よりもはるかに少なく、税負担に耐えかねた農民たちはしばしば江戸などの大都市に流入しました。

 

資金力を生かした権威向上

信秀は、津島や熱田で得た現金収入を使い、伊勢神宮に資金援助を行っています。

また、朝廷にも積極的に献金しました。

この姿勢は信長にも受け継がれます。

 

信長にいたっては、室町幕府に代わる権威として積極的に朝廷を利用しました。

信秀も信長も朝廷に献金して権威を増すことで「お金を生かす投資」をしていたように思います。

 

本拠地の移動

信秀は尾張国内で次々と本拠地を移しました。

最初は津島を抑える勝幡城

次に、今川氏豊から奪った那古屋城

そして、熱田を抑える古渡城や同じころに築城した末森城。

 

多くの大名や国人は父祖伝来の根拠地から簡単には動きません。

武田信玄上杉謙信は領土がどんどん大きくなっても、甲斐の躑躅ケ崎館、越後の春日山城から本拠地を移しませんでした。

それを考えると、信秀の本拠地移動は画期的なことかもしれません。

 

信長も、最初は清州城、次は美濃の岐阜城、最後は近江の安土城と次々と本拠地を移します。

征服地が広がるにつれ、領地全体を統治しやすい交通の要衝に拠点を移すやり方は信秀と同じだったのかもしれません。

 

さいごに

 商業資本に注目し、そこから収入を得ることで活動資金を得た織田信秀

先進的な彼の政策は、息子の信長に少なからず影響を与えたのではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

   

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