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駿河・遠江・三河に勢力を拡大した戦国大名今川氏とは 元予備校講師がわかりやすく解説

戦国大名今川氏と聞くと、皆さんはどんな印象を持っていますか?

 

桶狭間の戦い織田信長に討ち取られた、貴族みたいな今川義元の家でしょう?あまり強い印象がないなぁ」という感想をお持ちの人も多いと思います。

 

少し前までの大河ドラマでも、今川氏の当主、今川義元はお歯黒を塗って腰にのった貴族のように描かれていました。

 

しかし、実際の今川氏はもっと強大だったんです。

三河松平氏も、甲斐の武田氏も、相模の北条氏も、今川と境を接する戦国大名たちは今川氏を強大な戦国大名だと認識していました。

 

今回は、東海地方一円に勢力を拡大した戦国大名今川氏について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/537264">あけび</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

今川氏の血筋

 

今川氏は、室町時代有数の名門です。

もともと、今川氏は将軍家一門の吉良家の分家にあたります。

そのため、世間からは足利将軍家が絶えたら吉良家が、吉良家が絶えたら今川家が将軍を継ぐべきだとみられる家柄でした。

 

室町時代、今川氏は駿河国守護職についていていました。

それだけではなく、侍所の長官にも任じられ、室町幕府の宿老として扱われます。

のちに、今川義元が上洛するため大軍を率いますが、血筋を考えると、自分が将軍になって天下に号令する野心を持っていたかもしれませんね。

 

伊勢盛時北条早雲)に助けられて家督を相続した今川氏親

 

1476年、今川義忠は遠江で地元国人衆に襲撃され戦死しました。跡を継ぐ子の龍王丸は幼かったので、今川家の家督をめぐって争いとなりました。

 

この時、龍王丸の母の弟で、駿河に滞在していた伊勢盛時家督争いから龍王丸を守り内紛を収めます。

龍王丸が成人し氏親と名乗ったのち、伊勢盛時は反対派を倒して氏親の権力基盤を固めました。

氏親は伊勢盛時の働きに報いるため、興国寺城を与えます。

 

1526年、今川氏親が病に伏せるようになると、家臣の争いが起きるのを防止するため『今川仮名目録』という分国法を制定しました。

 

 

今川氏を陰から支え続けた「尼御台」こと寿桂尼

 

『今川仮名目録』を制定したのち、今川氏親が亡くなりました。

実は、この法律制定に影響を与えたのが氏親の妻。

氏親が亡くなった後は出家し、寿桂尼と名乗りました。

 

寿桂尼は氏親、氏輝、義元、氏真の四代にわたって今川氏の政治に関わりました。

そのため、「尼御台」とよばれます。

 

寿桂尼は子の氏輝がまだわかかったため、氏輝が16歳になるまでの2年間、今川家の政治を担当しました。

 

独自に政治を行うようになった氏輝は、相模の北条氏(伊勢盛時の子孫が、北条氏を名乗って伊豆と相模を支配)と同盟し、甲斐の武田信虎と戦います。

しかし、氏輝は1536年に24歳で亡くなりました。

 

花倉の乱に勝利した今川義元が今川家の家督を相続

 

氏輝が亡くなると寿桂尼重臣太原雪斎らは出家していた栴岳承芳を還俗(僧侶を辞め、俗人に戻ること)させ、今川氏の家督を継がせようとしました。

 

ところが、これに反対したのが今川氏の重臣である福島氏。

福島氏は氏輝と側室(福島氏の娘)との間に生まれた玄広恵探を当主にしようと動きます。

 

還俗した栴岳承芳は義元と名乗り、今川館に入りました。

義元は北条氏の支援を受け、福島氏や玄広恵探に勝利します。

この戦いが花倉の乱ですね。

 

上洛のため、背後を固めた甲相駿三国同盟

 

家督を相続した義元は、甲斐の武田信虎の娘を迎え、武田氏と同盟します。

これが、武田氏と戦っていた北条氏の怒りを買いました。

北条氏は今川氏との同盟を破棄し、駿河に攻め込みます。

 

1545年、こんどは北条氏がピンチに陥りました。

重要拠点の河越城が8万もの大軍に囲まれたのです。

北条氏康駿河の占領地を今川義元に返し、今川氏と和睦します。

 

河越城に主力を集中させた北条氏康は、10倍の大軍を夜襲で打ち破ります。

北条氏と今川氏の対立関係は、その後も続きました。

 

1554年、武田晴信北条氏康今川義元駿河の善徳寺に集まりました。

彼らは、互いに婚姻関係を結ぶことで背後の安全を確保したいという思惑を持ちます。

これにより、武田は信濃へ、北条は関東へ、今川は遠江三河へと全力で攻め込めるようになりました。

 

 

戦国大名今川氏の滅亡

 

背後の安全を確保した今川義元は、三河松平氏を従わせ、尾張への道を開きました。

1560年、今川義元は総勢25,000ともいわれる大軍を擁して上洛を開始します。

圧倒的大軍の前に、尾張の織田軍の前線部隊は抵抗虚しく、次々と敗退しました。

 

この時、今川義元尾張制圧も近いと考えていたかもしれません。

一方、信長は局地戦でいくら勝利しても兵力差がある今川軍に勝てないことを知っていました。

また、清洲城に籠城しても、援軍が来ない状況ではいずれ今川に降伏するしかなくなることもわかっています。

 

そこで、目標を今川義元の首とし、一気に義元を討ち取る策を建てます。

それが、狭い場所に差し掛かったところで奇襲し義元を討ち取ることでした。

 

信長は今川軍の進路と義元の居場所を探ることに全力を尽くしたことでしょう。

その信長のもとに街に待った報せが届きます。

義元が「田楽狭間」で休憩していると知った信長は、雷雨を突いて義元の本陣を奇襲。

ついに、義元の首を上げることに成功します。

 

義元の死を知った今川軍は戦意を喪失。

雪崩を打って駿河方面へと潰走しました。

 

義元の死後、氏真が跡を継ぎますが松平元康(徳川家康)や同盟を破棄した武田信玄の圧力の前に、名門今川氏は滅亡してしまいました。

 

さいごに

 

戦国大名としてはほろんだ今川氏ですが、氏真が徳川家康の庇護を受けることによって江戸時代にも生き残ります。

氏真の子孫は500石を与えられ、高家という役職で江戸幕府に仕えました。

その後、今川氏は幕末まで存続します。

1887年、最後の当主である今川範叙が死に、跡継ぎがいなかったため今川家は絶家しました。

とはいえ、戦国時代の荒波を生き抜き、江戸時代を通じて家が絶えなかったのは立派なことだと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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