「日本三大奇襲って何?」
「日本三大奇襲は誰が命名した?」
このページをご覧の皆様はそんな疑問を持っているかもしれません。日本三大奇襲とは「桶狭間の戦い」、「河越の戦い」、「厳島の戦い」の3つをまとめた呼び名です。名付け親は江戸時代の歴史家で『日本外史』を著した頼山陽でした。
いずれの戦いも、数的に不利だった「弱者」が数的に有利な「強者」に勝った戦いでした。
今回は、日本三大奇襲それぞれの戦いの内容、共通点などについてまとめます。
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日本三大奇襲とは
日本三大奇襲とされるのは、北条氏康が勝利した河越城の戦い、毛利元就が勝利した厳島の戦い、そして織田信長が勝利した桶狭間の戦いです。
日本三大奇襲の命名者となったのは頼山陽です。彼が著した『日本外史』は歴史書というよりも歴史物語といったほうが適切です。なぜなら、考証が不十分だと指摘されているからです。
それでも、というか、それにより魅力的な「お話」になっていることは確かです。頼山陽の文章は誰でも読みやすい平明な文体です。そのため、彼が著した『日本外史」が三大奇襲を有名したという側面があるでしょう。
1546年 河越城の戦い(北条氏康VS山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・足利晴氏)
戦国時代、関東は鎌倉府の支配が崩壊し、関東管領上杉氏による支配が強まっていました。上杉氏は北関東に拠点を持つ山内上杉氏と南関東に拠点を持つ扇谷上杉氏に分かれます。
そのころ、混乱する伊豆国を制し、関東進出を狙ったのが北条早雲(伊勢宗瑞)でした。
早雲の死後、2代目の北条氏綱は駿河の今川氏との戦いを優位に進め、扇谷上杉氏の領土を確実に削っていき、相模(神奈川県)から武蔵(東京都・埼玉県)方面に進出します。
南関東での戦いの中心は、武蔵国で最も重要といえる河越城周辺で起きます。幾度かの合戦で、河越城を手に入れた北条氏康(3代目当主)は河越城に義理の弟である北条綱成に3,000の兵を預けて守らせました。
1546年、山内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方の三者が連合し北条氏康に奪われた河越城の奪還を目指し、河越城を80,000もの大軍で包囲します。食料をしっかりとため込んでいた北条綱成は半年もの間、包囲に耐えてひたすら氏康の救援を待ちました。
北条氏康は、今川氏に占領していた駿河の東半分を返還し、河越城救援に駆け付けます。しかし、氏康は一向に戦いを仕掛けません。氏康が連れていた兵はわずか8,000で、正面から戦っても勝算が低かったからでしょう。
その間、氏康は連合軍にわび状を出し続け、なんとか兵を引き上げてもらえないかと懇願します。連合軍は申し出を拒否。氏康は、包囲軍との数の差で手も足も出ないと思ったのか、しだいに軍紀が緩んでいきました。
氏康が狙っていたのは、まさにその瞬間。
1546年4月20日、氏康は8,000の兵を四隊に分け、そのうちの一つを後詰めに、それ以外の3隊を動かして敵陣に奇襲攻撃を仕掛けます。
思いもよらない氏康軍の突入に、包囲していた連合軍は慌てふためくばかりでまともに反撃できません。もっとも大きな打撃を受けたのは扇谷上杉軍。なんと、大将の上杉朝定が討ち取られてしまいました。山内上杉軍も古河公方軍も大打撃を受け、それぞれの本拠地に逃げ帰ります。
1555年 厳島の戦い(毛利元就VS陶晴賢)
毛利氏は安芸国(広島県)の一国人領主に過ぎませんでした。毛利元就は、西の大国である大内氏の傘下に入ることで勢力を拡大し、安芸国をほぼ手中に収めます。
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1551年、大内氏で大事件が起きます。当主の大内義隆が重臣の陶晴賢に討ち取られてしまいました。陶晴賢は大内晴英を当主とし、自分は大内氏の実権を握ります。
毛利元就は陶晴賢との対決を決意し、安芸国内の大内方の拠点を占領しました。陶晴賢は家臣を安芸に派遣し、元就を抑え込もうとしますが折敷畑の戦いで敗北してしまいます。
1555年9月、陶晴賢は20,000にも及ぶ大軍で毛利元就を攻撃しました。対する毛利軍は4,000から5,000と推定されます。兵力差は4倍以上ありました。
陶軍は厳島にある宮尾城を包囲します。合戦の直前、戦場周辺は激しい嵐となりました。陶軍は毛利軍の攻撃はないものと考え、油断していたのかもしれません。元就は、嵐を利用して陶軍に気づかれずに厳島に上陸しました。
1555年10月1日、毛利軍は朝の6時ころから陶軍に奇襲攻撃をおこないます。毛利軍は厳島の対岸にいると思っていた陶軍は大混乱しました。
なまじ、大軍だったせいで陶軍は毛利軍の奇襲攻撃に対応することができず、右往左往するばかり。追い詰められた陶晴賢は自刃。陶軍主力は潰滅しました。
1560年 桶狭間の戦い(織田信長vs今川義元)
駿河(静岡県東部)・遠江(静岡県西部)を制する戦国大名今川義元は甲斐(山梨県)の武田晴信、相模の北条氏康と三国同盟を結び、東や北から攻められない状況を作りました。
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その上で、西の三河(愛知県東部)に進出。さらに、西の尾張(愛知県西部)への進出をはかりました。
1560年、今川義元は駿河・遠江・三河の兵を率いて尾張に侵攻します。その数、およそ25,000。対する織田方は総動員したところで5,000程度、兵力差は5倍以上ありました。
織田家の家臣たちは、今川軍と正面から戦っても勝機はないと考え、清洲城での籠城を主張します。しかし、籠城戦は援軍があるときこそ有効な戦法。今川の大軍をものともせず、援軍に来てくれる勢力など誰もいませんでした。
1560年5月18日、今川軍先鋒の松平元康は大高城に兵糧を運び込みます。翌日、今川軍は丸根砦と鷲津砦に攻撃を開始しました。
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丸根・鷲津の両砦が攻撃されていることを知った信長は、明け方の4時であるにもかかわらず、わずかの伴と共に熱田神宮に向かいました。
熱田神宮での戦勝祈願後、信長は前線に近い善照寺砦に入りました。この時、信長のもとに集まったのは2,000から3,000の兵だと考えられます。
今川軍の猛攻で丸根砦・鷲津砦は陥落し、大高城周辺の織田軍は掃討されました。信長は、11時ころに善照寺砦を出発します。
旧暦の5月19日は今の暦だと6月12日で、ちょうど梅雨が始まったころでした。13時ころ、視界を遮るほどの激しい雨が降りました。これにより、今川軍の索敵能力は大きく低下します。
織田軍は今川軍の偵察部隊に見つかることなく、義元本隊が休息していた桶狭間周辺に到着しました。
今川軍は各所に兵力を展開していたため、義元の周辺には5,000程度しかいなかったと考えられます。しかも、悪天候であったことから、隊を整えず、木陰で雨をよけていた可能性も高いでしょう。
篠突く雨の中、織田軍は総大将今川義元めがけて襲い掛かります。不意を突かれた今川軍は大混乱。義元は後退して立て直そうとしましたが、織田軍に追いつかれ討ち取られてしまいます。
三大奇襲の共通点とは
河越の戦い、厳島の戦い、桶狭間の戦いは、いずれも兵力差の不利を補うため奇襲攻撃を行い勝利したという点で共通しています。ほかに共通点はなかったのでしょうか。
共通点その1 入念な情報収集
戦国時代に限らず、戦闘を開始する前には入念な情報収集をおこないます。勝利した側はもちろん、敗北した側もことさら情報を軽視していたとは思いません。しかし、勝利した3者は相手よりきめ細かい情報を集めていたのではないでしょうか。
北条氏康は、連合軍が数は多くても結束が弱いことを知っていました。そのため、最も河越城に執着している扇谷上杉氏(河越城は扇谷上杉氏の城でした)さえ倒せれば連合軍は瓦解すると読んだのではないでしょうか。
毛利元就は陶晴賢の基盤が脆弱であることを理解し、短期決戦を仕掛けてくることを予測していたでしょう。そして、織田信長は今川軍の侵攻ルートを調べ上げ、義元本隊の位置を正確に割り出していました。
勝利した3人は、いずれも自分たちが勝利するために必要な情報を、相手よりも入念に調べていたのではないでしょうか。
共通点 その2 地形や天候、時間帯を巧みに利用
三大奇襲が行われた場所を見てみると、厳島と桶狭間は大軍が展開しにくい地形であることがわかります。毛利元就も織田信長も、大軍の長所が生かせない狭い場所で奇襲を行い、相手を混乱させて勝利しています。
河越城は平野の中の城なので、大軍に有利な地勢でした。しかし、河越城自体が築城の名手といわれる太田道灌がつくった城で、もとの持ち主である扇谷上杉朝定でさえ攻めあぐねてしまうものでした。実際、連合軍は力攻めで河越城を落とせず、半年にわたって包囲しています。
次に天候や時間帯を見てみましょう。厳島の戦いと桶狭間の戦いは悪天候の中行われました。悪天候は相手の視界を奪い、索敵能力を低下させます。
時間帯についてみてみると、河越城の戦いは夜です。他の二つは昼ですが、悪天候などにより視界が悪い状態でした。
奇襲を成功させるポイントの一つは、相手に発見されないこと。三つの戦いで勝利した側は天候や地形、時間帯などを利用し相手に悟られずに兵力移動に成功していました。
共通点 その3 相手の油断を突く
圧倒的な兵力差は、自信にもなりますが、過信にもつながる危険性を持っています。北条氏康は、名門の上杉氏や古河公方(足利氏)に対し、へりくだり、何度も許しを請う書状を出すことで相手の油断を誘いました。
厳島の戦いは悪天候が陶軍を油断させたでしょう。桶狭間の戦いは、緒戦で今川軍が勝利し、今川軍が勢いに乗って兵力を分散した瞬間を狙われます。
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三大奇襲の勝者のその後
北条氏康、毛利元就、織田信長は戦いに勝利した後、どのように勢力を伸ばしたのでしょうか。
まず、北条氏康は河越城を守り抜き、扇谷上杉朝定を討ち取ったことで武蔵の支配を完璧にします。毛利元就は陶晴賢を討ち取った勢いに乗り、大内領の全てを併呑しました。織田信長は、三河の松平元康(のちの徳川家康)と清洲同盟を締結し、北の斎藤氏との戦いに専念し、美濃を攻略します。
いずれも、少数で多数に勝利したのはその時限りで、その後は兵力をしっかり整え戦略レベルで勝利できるよう努めています。一度の敗北ですべてを失ってしまう奇襲攻撃の危険性を認識し、大博打を打たなかったことで勢力拡大に成功したともいえるでしょう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。