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『史記』列伝中、異彩を放つ万能の人「范蠡」の2つの生涯とは

こんにちは。木彫りグマです。

 

司馬遷が書いた『史記』は、紀伝体というスタイルで歴史を記述しています。

紀伝体とは、時系列で歴史を書くのではなく、一人一人の人物にスポットを当てる歴史の書き方のこと。

中国において、後世の歴史書で「伝」をたてられるのは、この上ない名誉でした。

 

史記』には、数々の魅力的な人物が登場します。

今回取り上げるのは「范蠡(はんれい)」。

越王勾践に「会稽の恥」を雪(すす)がせた名軍師ですね。

 

范蠡は、勾践を覇者にした後、第二の人生を歩み、そちらでも成功します。

政治・軍事・投資で成功した、范蠡の人生を読み解いてみましょう。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/2509095">Chris KTHR</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

越王の家臣として活躍した范蠡

 

范蠡は越王允常と、その子である勾践に仕えました。

范蠡はすぐれた作戦で呉軍に勝利。

越が敗れて、勾践が力を失ったときも、勾践を支え続けて越の逆転勝利をもたらします。

越の家臣として活躍した范蠡についてまとめます。

 

奇策をもって、呉王闔閭に勝利

 

中国で、周王朝の力が弱まると各地を支配する諸侯の力が強まりました。

諸侯は、自分の領地を拡張しようと各地で戦いを始めます。

周王朝の力が弱まったこの時代を、孔子が書いた歴史書の名から、春秋時代といいますね。

 

春秋時代、中国南部には楚や呉、越といった国々がありました。

なかでも、呉王闔閭は、将軍である伍子胥と軍師である孫武の助けを得て一気に国力を強めます。

闔閭は国力に勝る楚と戦い勝利し、呉は天下に覇を唱えることができました。

 

呉の南にあったのが越の国です。

王允常は、范蠡の補佐により国力を伸ばしました。

闔閭は、越の国が力を増すことを警戒。

先手を打って、越を滅ぼすチャンスを狙います。

 

紀元前496年、越王允常が死去し太子の勾践が国王になると、闔閭は越の体制が整う前に攻撃するべきだと判断し、越に出兵しました。

 

将軍范蠡は、強力な呉軍に対抗する秘策を考えます。

范蠡は決死隊(一説には、罪人)を最前列に並べ、彼らに敵を見ながら自ら首をはねさせました。

呉軍は目の前で突然起きた出来事に、茫然自失してしまいます。

 

そこで生まれた一瞬のスキを突き、越軍は呉軍に総攻撃。

呉王闔閭は越軍の矢にあたって傷を負い、それが原因で亡くなりました。

 

 

呉王夫差は臥薪して勾践に勝ち、生き延びた勾践は嘗胆して恥を忘れず

傷を負い、余命いくばくもなくなった闔閭は息子の夫差を呼び寄せて、「必ず仇をとれ」と命じ、夫差は「三年のうちに仇を取ります」と誓いました。

呉王闔閭の死後、子の夫差が呉王となります。

 

夫差は、越と戦うべく軍備を増強。

闔閭との誓いを忘れないよう、薪の上に寝たといいます(臥薪)。

 

呉の力が回復するにつれ、越王勾践は先手を打って呉を攻撃するべきだと考えるようになります。

范蠡は、時期尚早と反対しましたが、勾践は進言を退け、呉を攻撃。大敗を喫してしまいました。

会稽山に追い詰められた勾践は、呉王夫差に必死に詫びることで生き延びようとします。

 

夫差が勾践に出した条件は、勾践が夫差の馬小屋の万人になること。

勾践は、この条件を受け入れ屈辱に耐えました。

 

なんとか、越に帰国することを許された勾践は、毎日、苦い胆を嘗めることで会稽の恥を忘れないようにしたといいます(嘗胆)。

夫差と勾践の行いから生まれたのが「臥薪嘗胆」の四字熟語ですね。 

 越王勾践、范蠡と文種の補佐を得て会稽の恥を雪ぐ

 越に戻った勾践は、二人の重臣の助けを借りました。

一人は先代から越を支える重臣である范蠡

もう一人は、政治の才能に恵まれた文種です。

 

文種の活躍により、越は国力を飛躍的に増大させます。

范蠡は、謀略で呉をかく乱しようとしました。

 

呉王夫差を支え、呉の力を強大化させたのは重臣伍子胥の力です。

范蠡は、呉の重臣の一人である伯嚭に賄賂を贈り、伍子胥の悪口を呉王に吹き込みます。

夫差は、先代からの重臣である伍子胥を疎ましく思っていたこともあり、范蠡の策略に乗って伍子胥を殺害してしまいました。

 

呉王夫差は、天下に呉の力を示そうと、軍を引きい北へ向かいました。

呉の国は主力部隊が留守になりもぬけの殻。

勾践が、昔の復讐戦を仕掛けたのはまさにこのタイミングでした。

 

呉を守るわずかな兵は勾践の精鋭の前にもろくも敗れ去り、呉の都は陥落します。

あわてて夫差が戻ってきたとき、呉の都は越軍に荒らされた後でした。

 

四年後、再度来襲した越軍は呉軍に勝利。

呉王夫差は姑蘇山に逃げ込みます。

勾践は、命乞いする夫差を助けようとしましたが、范蠡は、夫差を生かしていてはのちの災いになるとして夫差の殺害を進言。

勾践は、夫差を殺すことにためらい、はるか沖の舟山列島に流そうとしますが、遠島を聞いた夫差が自殺してしまいました。

こうして、夫差は会稽の恥を雪ぐことができたのです。

 

越王のもとを去り、第二の人生でも成功した范蠡

越王勾践は呉王に勝利すると、有頂天になりました。

その様子を見て、「大名(たいめい)のもとには久しくおりがたい」と述べて越を去ります。

范蠡は名をかえ、越から斉に移住しました。

そこから、さらに陶という場所に移り、朱公と称し、商人として大成功します。

  

越を脱出し、斉に向かった范蠡

范蠡は、越王のもとをさって、斉の国に向かいます。

のちに、范蠡は文種に書いた手紙で「越王は苦楽を共にできても、歓楽はともにできない」と評しています。

越に残っていたら、勾践によって粛清されると感じたから脱出したのかもしれません。

 

斉に到着した范蠡は、鴟夷子皮(しいしひ)と名を改め商人となります。

范蠡の商売はシンプルでした。

高値の時に売り、安値の時に買うだけ。

でも、これは今でも商売の王道です。

この法則を実行するため、日ごろから情報収集と分析を欠かさなかったことでしょう。

 

陶に移り、朱公と名乗って商売で大成功 

斉の国で大金持ちになったことで、斉の王が范蠡に注目。

斉の宰相になるよう、スカウトしてきました。

政治の世界に戻る気のない范蠡はスカウトを断って斉をでます。

 

范蠡が目指したのは陶でした。

陶は、定陶のこと。

交通の要衝で、四方から物資が集まる重要地点でした。

物資が集まるところ、人と情報もおのずから集まります。

 

陶に移った范蠡は朱公となのりました。

この地でも范蠡は情報収集に長け、幾度も商売を大成功させたといいます。

このことから、中国では商売で成功した大商人を陶朱公と呼ぶようになりました。

 

今までのキャリアを存分に生かし、巨万の富を築いた范蠡

 

范蠡は越の国で将軍として活躍しました。

優秀な軍人は、相手の虚を突き一瞬の勝利を手にします。

そのためには、情報の収集・分析は欠かせないスキルだったはずです。

 

范蠡が前職で得たスキルは、商人となってからも大いに彼を助けたことでしょう。

若いころの苦労は、買ってでもしろという言葉がありますが、積み重ねたスキルは、キャリアが変わっても応用可能だということがよくわかります。

 

「狡兎死して走狗煮らる」というのは、功績を立てすぎた臣下の末路ですが、越王勾践に疎まれることなどを冷静に分析し、潔く国を去った判断は見事だと思います。

史記』には、現在の私たちにとっても参考になる話がたくさんあるなと、改めて思いました。

家から出られないとき、『史記』で教養を積むのは悪い話ではないと思いますが、いかがでしょうか。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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